顔がいいと新聞を読むだけで絵になる
セシルが開いた灰色の紙面を、アオイが後ろから覗き込む。
細かな文字のびっしり並んだそれは所謂新聞で、少年がぱちりと青色の目を瞬かせた。
「セシルさん、新聞読むんですね」
「意外ですか?」
「いえ、これまで見たことがなかったので」
セシルとアオイが行動をともにして、およそひと月が経つ。
アオイから見える範囲のセシルは、騎士団の屯所へ向かい、左耳のピアスで誰かと定期的に連絡を取り、行き当たりばったりで魔物退治を行う人物だった。
特に『定期連絡』はアオイから離れたときに行うため、少年には漠然とした印象しか残らない。
――セシルさんは『本部』というところへ、何かを報告している。
ピアスで離れた人と会話できるなんて、すごいなー。
それがアオイの抱いている、『定期連絡』の印象だった。
テーブルの上に広げられた紙面を、青色の目が滑る。
『ブランドン・モーガン氏、魔術師管理法に物議』――大見出しと顔写真に視点が止まった。セシルが肩越しに振り返る。
「アオイくんは、新聞を読みますか?」
「いえ、過疎地だったので。文字のニュースよりも、口伝ネットワークの方が強かったです」
「なるほど。いつの時代も、井戸端会議に勝る情報源はありませんね」
「セシルさん、ここ、何て書いてあるんです? 並びが見慣れなくて、読めないんです……」
アオイの指先が押さえた欄を、セシルが覗き込む。長い睫毛が瞬いた。
「モーガン氏が、魔術師を『管理』するのではなく、『保護』するよう、法案の名称を変更することを求めています」
「へえ、いい人なんですね」
「どうでしょう。政治家は嘘つきですからね」
「セシルさん……? 仮にも公務員なんですよね……?」
「あはは」
声を立てて笑ったセシルが、新聞を畳む。静かな宿の一室に、紙の弛む大きな音が響いた。
コンパクトに纏められたそれが、無造作にテーブルへ置かれる。
「アストロネシアとヴィントでは、やはり言葉の壁を感じますか?」
「話し言葉では、あまり。単語や見出し程度でしたら読めるんですけど、長い文章になると、並びがわからなくなって、こんがらがる感じです」
「なるほど」
にこりと微笑んだセシルが、畳んだ新聞をアオイへ差し出す。
「どうぞ」と言われたそれを、きょとんと瞬いた少年が受け取った。
「なんですか?」
「これから本部への定期連絡を行います。アオイくんは、ここで大人しく新聞を読んでお待ちください」
「……セシルさん。お仕事がお巡りさんじゃなかったら、確実に危ない人ですよ、その指示」
「そ、そうでしょうか!?」
慌てるセシルへため息をつき、新聞を携えたアオイがベッドに座る。
軋んだスプリングに合わせて、クランドがこてんと転がった。
小さく笑みを漏らした少年が、その白い腹をくすぐる。じたばた、短い四足が空を掻いた。
「お利口にお留守番してますよ。いってらっしゃい、セシルさん」
「何かお土産を買ってきます、ね……っ?」
「セシルさん!?」
立ち上がったセシルがよろめく。片手をテーブルにつき、もう片手で額を押さえた。
焦ったように傍へ駆けたアオイが、彼女の背中を支えた。苦しげに寄せられる眉間の皺に、少年が慌てる。
うっすらと開かれた白金の睫毛が、赤い瞳を覗かせた。
困惑に満ちた顔で、アオイがセシルの額に手を伸ばす。ひやり、低い体温が伝わった。
「セシルさん、大丈夫ですか?」
「……立ち眩みのようです。アオイくん、すみませんが、水をもらってきてくれませんか?」
「わ、わかりました!」
すぐさま手を引いたアオイが、身を翻す。
ぱたぱたと身軽な足音が扉の向こうへ遠退き、セシルが深く息をついた。
黒の手套が腰のポーチを漁り、錠剤のシートを引っ張り出す。
思案気な顔をしたセシルが、手のひらに白い錠剤を二錠押し出した。
ぱたぱた近づく足音が扉を開ける前に、残りのシートをポーチへ押し込む。何事もない顔が錠剤を口に含んだ。
慌てたノックの音が、即座に扉を開く。
「セシルさん、お水です!」
「ありがとうございます、アオイくん」
心配そうな顔つきでグラスを手渡す少年に、セシルが温和な笑みを向ける。
傾げられたグラスを見送り、アオイが眉尻を下げた。
「……セシルさん、大丈夫ですか?」
「意外に心配性なんですね、アオイくん」
「いえ、だって……。普段物理の権化なのに、突然そんな見た目に似合ったか弱さを披露されると、病気を疑ってしまうといいますか……」
「このお口は、結構ずけずけとものを言いますね?」
「むむー!!」
アオイの唇が開かないよう、指先でしっかりと摘み、セシルがにこにこ笑う。
どこか威圧的な笑顔に、少年は冷や汗を掻いた。
手首を掴んだ抵抗が届いたのか、摘まれた口が解放される。
ぷはっ、息をついたアオイが片手で唇を擦った。少年はすっかり涙目だ。
「……セシルさん、大人気ない……」
「アオイくん、ここは素直にごめんなさいと言うところですよ」
「ごめんなさい……」
「よろしい」
仰々しく頷いたセシルが、グラスを片手に部屋を横断する。
はたと瞬いたアオイが、彼女を呼び止めた。振り返った麗人へ歩み寄り、少年が右手を差し出す。
「お見舞いです。途中でしんどくなったら、誰かに助けてもらうんですよ」
右手に現れた橙色の花。規則正しく花びらを並べたディモルフォセカの登場に、セシルの目が見開かれる。
照れたように染まった白皙の頬が、やわりと綻んだ。
「……ありがとうございます」
「髪に差しときますね。……セシルさん金髪だから、あんまり映えないかな? あ、いけますね。セシルさんの髪、淡い色だから結構いけますね!」
「あの、アオイくん。私の髪は、花瓶ですか?」
無造作に編まれたセシルの髪に、宣言通り花が差される。
愛らしい花飾りのようなそれは可憐で、羞恥に震えるセシルが堪らず尋ねた。
きょとん、瞬いたアオイが、気にせず花と髪を整える。
「セシルさん、キルシュ姐さんで爆走するだろうから、手に持つのは不便かと思って」
「あ、はい」
「出来ました。では、気をつけていってらっしゃい」
「アオイくん。ウエディングドレスには生花をふんだんに使いましょう」
「……セシルさんって、ときどき何を考えているのか謎ですよね。喜んでもらえますよ、……多分」
花嫁さん、どなたか知りませんけど。
曖昧な顔でぼんやりとした返答を漏らしたアオイに、セシルが花開くように微笑む。眩しい笑顔に、少年が胡乱の顔をした。
……この人は一体、なにを喜んでいるのだろう……? そんな顔をしている。
生き生きとした麗人を見送り、扉を閉めた少年が、のしのしとシーツの海を進行していたクランドに気がつく。
はらぺこを訴える幼獣を抱き上げ、ひんやりとした体温に頬を寄せた。
ふと、アオイの目が一点に視線を留める。
「あれ?」
クランドを首に巻き、アオイが鏡に近づく。
覗き込んだ鏡面をまじまじと見詰め、彼が自身の下瞼を引っ張った。
離れた指先が、元の通り不可思議そうな表情を作る。少年が首を傾げた。
――僕の目、こんな色だったっけ?
胸中で疑問を述べた少年が、光彩の縁に走った見慣れない色に、眉根を寄せた。