事例報告:ヘビと執念
つくづく自分は平和な世界にいたのだと、アオイは痛感していた。
魔女の庇護下にいたおよそ10年。
人を害する生きものにも、人を害する人にも出会ってこなかった。
ネーヴェの町の人たちは、みな優しく親切だ。
町の外から来る行商人の彼等も、護衛は引き連れているが、そのような込み入った話を子どもへ向けてすることもない。
アオイの家があるアストロネシア公国は、18歳を成人と規定している。
アオイ自身、大人の枠組みに参加したいと背伸びしていた。
けれども、ネーヴェの町は小さいだけあり、人口も少ない。
住人等は分け隔てなく、子どもを『子ども』として扱っていた。
また、年頃であればあるほど故郷を離れるため、アオイほどの年の子どもは、そのほとんどがネーヴェの町を去っていた。
それが余計に、大人たちの庇護を買っていたのだろう。
アオイは平和な世界にいた。
現在のアオイはセシルの馬の手綱を握り、懸命に走っていた。
「……はっ、……は、」
少年の薄い肩が忙しなく上下する。
咽奥から込み上げてくる鉄の味を、彼が懸命に飲み込んだ。
ぜいぜい呼吸を繰り返しながら、落ち着きなく辺りを見回す。
クランドが鞄から顔を出し、心配そうにアオイを見上げた。
「だい、じょ、ぶ……。だいじょう、ぶ。……はっ、セシルさ、だい、じょぶ、かな……?」
弾む呼吸で大丈夫と繰り返し、疲労で震える手がクランドの頭を撫でる。
唐突に馬がいなないた。
茶色の耳を彼方へ向け、ぶるんとくぐもった音を鳴らす。
しきりに蹄で土を掻き、こげ茶色の尻尾が慌しく振られた。
「――ひっ」
アオイが悲鳴を上げる。彼の視線の先には、鬱蒼とした茂みがあった。
木々の隙間から少年を覗く、髪の長い女の顔。
けれどもその位置は遥か下方にあり、人体の骨格を思えば不可能な角度に頭があった。
するすると女が首を伸ばす。
肌色の皮膚が地を滑る。
するすると滑らかに、何処までも。脚を竦ませた少年の元まで迫る、女の笑顔。
恐怖に引きつったアオイを、一層高く鳴いた馬が現実へ引き戻した。
「ッ!!」
我に返った少年が駆け出し、それに合わせるように馬が地を蹴る。
女の首の終着点には男の顔があり、どちらも不気味なまでににこやかな笑みを浮かべていた。
蛇のように身体をくねらせ、双頭がアオイを追う。
馬に乗れない少年は、必死に己の脚を動かしていた。
――何故アオイがセシルとはぐれているのか。
セシルが『地を這う者』と呼んだ、双頭の蛇が彼等を襲った。
セシルは咄嗟に少年へ逃げるよう指示を出し、彼はそれに従い、馬を引き連れて走っている。
しかし敵は弱そうなアオイに目をつけたらしく、こうして逃げても逃げても後をついて来る。
最早アオイには、セシルと別れた地点が何処かさえ、わからなくなっていた。
もつれそうな脚を懸命に叱咤し、忙しない呼吸を繰り返す。
森の中での鬼ごっこは、アオイにとって二度目の経験だった。
どちらも負ければ人生を強制的に終了させるようなもので、アオイは苦しさから生理的な涙を浮かべた。
激しく揺れる鞄から転がり落ちたクランドが、自身の羽で飛行する。
「あぐっ」
足場の悪い地面に爪先が引っ掛かり、アオイが派手に転倒する。
即座に立ち上がろうとするも、膝が笑い、力が入らない。
転倒の弾みで手のひらから手綱が離れ、クランドが先行した距離を慌てて引き返した。
荒い息をつくアオイの頭上で旋廻し、舌なめずりする女の顔に慌てふためく。
尾の先にある男の顔が、横倒しのまま微笑む。
へたり込むアオイを間近から見下ろした女の頭が、一層笑みを深くした。
震える少年は後退りしようと必死で、けれども微々たる抵抗は何の効果にもならない。
アオイの頬に、女の長い髪が触れた。
ねちょり、女の口が耳まで裂ける。
開かれた瞼の下には縦に走った瞳孔が睨み、益々アオイを威圧した。
悲鳴さえも上げられない彼の頭に、クランドがしがみつく。
女の愉悦に歪んだ口許に並んだ牙が、少年へ向けて閉じられた。
「ギャッ」
濁った悲鳴と地鳴りの音が、同時に響く。
駆け戻ってきたセシルの馬が高らかに地団駄を踏み鳴らし、長い首の一部を踏み潰した。
赤黒い液体を吹いた『地を這う者』が、ごろごろと苦痛にのた打ち回る。
尾にいる男の顔が憤怒に染まった。
牙を向いたその顔に、馬の後ろ蹴りが炸裂する。
男の頭が弾み、地面へ打ち付けられた。転がったそれがびくりびくりと痙攣する。
ぶるんっ、鼻を鳴らした馬がタテガミを振る。
薄茶色の、何処にでもいるような普通の馬だった。
特徴的な点を挙げるとするならば、額に白い模様と、足許に白い靴下模様があるくらいだろうか。
厩舎に並べば埋没してしまいそうな、普通の見た目の馬だった。
たあーんっ、脅すように蹄が打ちつけられる。
馬如きに負けるなどと女の顔が歯噛みするが、尾の顔は耳から血を流している。
見開いた目が閉じられない様子に、『地を這う者』がずるずると後退を始めた。
ずるずる、その首がすぱりと切り落とされる。
転がる女の首が、地と空が入り混じる視界の中に、白金の髪の優男を映した。
「アオイくん、大丈夫ですか?」
「セシルさ……っ」
「こわかったですね。もう大丈夫ですよ」
刀をおさめたセシルが、アオイの前で片膝をつく。
息ひとつ乱れのない彼女が、青色の髪を抱き寄せ、自身の肩に置いた。
転がり落ちたクランドが、アオイの膝で仰向けに返る。
宥めるように頭を撫でる仕草に、少年の涙腺が緩む。
未知の生き物との生死をかけた鬼ごっこは、平和な日常を生きていた彼にとって大きな衝撃を与えた。
少年がおずおずと腕を伸ばし、セシルの制服を掴む。
「っ、セシルさん、ああいうの、……慣れて、るんですか……?」
「そうですね。私は職業柄、『人ならざる者』とも相対しますので」
「あんなっ、あんなぁ……ッ」
「ああ、大丈夫ですよ。この辺りのは掃討しましたので」
「馬めちゃくちゃ強いじゃないですかあああッ」
「キルシュは姉御肌ですので」
「うわああああん、キルシュ姐さあああああん」
キルシュと呼ばれた薄茶色の馬が、ぶるんっ、鼻を鳴らす。
よしよしとアオイの頭を撫でていたセシルが、困ったような笑みを浮かべた。
「恐らくアオイくんは魔術師なので、普通より狙われやすいようですね」
「何でですか!?」
「やっぱりスタンダードな人を食べるより、ちょっとでも魔力のある人を食べる方が、『人ならざる者』的にもお得じゃないですか」
「そんなお得勘定で見られているんですか!? やだー!!」
「きっとあちら側から見て、アオイくんはご馳走なんですよ。少し身を守る術を習得しましょうか」
ね? 優しく微笑みかけられ、少年が涙ながらにこくりと頷く。
それからアオイはひとりで馬に乗れるよう、みっちり指導された。