かぶったネコが逃げ出した
(うっわ、もうバレた!?)
クランドを詰めた鞄を抱えた体勢で、アオイが走る。
森という環境に慣れている彼だったが、それでも夜間に走り回る経験は浅かった。
背後から地を這う怒声を浴びせられ、げげっと少年が顔をしかめる。
――無表情で威圧感のある魔女へ対してですら、小生意気な口を利く彼だ。
逃亡の機会を窺うため、大人しくしたついでに、精一杯のかわいこぶりっこを披露してみせたのだった。
結果として見張りの男はころっと騙され、あとはアオイの持久力と足の速さにかかっている。
ぜいぜい、忙しない呼吸のまま、アオイは脚を動かし続けた。
しかし悲しいことに、アオイは余り運動が得意でない。特に走ることは苦手だった。
更には連れ去られた現在地もわからず、土地勘もない。
誘拐犯から逃れ切れるか、少年には勝算はなかった。それでも人身売買されるよりかは、目先の逃亡の方が生還の確立が高く思えた。
男たちは松明を片手にアオイを探している。ちらつく橙色の灯火に身を潜め、上がった呼吸を少年が繰り返す。
時計も見えない暗闇の中で、どれだけ走ったかわからない。
けれども鼓膜にこびりつく怒声は治まることなく、振り返る度に松明は闇夜にちらついている。
膝が震え、上下する肩が苦しさを訴える。アオイが木の幹に手を添え、ふらつく身体を預けた。
鞄越しにクランドを抱き締め、へたり込みそうな脚を懸命に叱咤する。
ひゅうひゅう、暗い森に少年の荒れた呼吸音が響く。果ての見えない行く先に途方に暮れ、アオイが酸欠と疲労で歪む頭を動かした。
よろめく脚を動かし、ふらふらと奥へと進む。
草木の揺れる微かな音にも、少年の肩は過剰に跳ねた。
――タンッ
アオイが離れたばかりの木の幹に、何かが突き刺さる。
振り返った少年の、夜に慣れた目が、幹に刺さる矢を見つけた。
余韻に揺れるそれは、たった今放たれたばかりのものだった。
ひっ、息を呑んだ彼が、飛来した方向へ顔を向ける。木の陰に紛れるように、ぼやりと男の姿が浮かび上がった。
アオイが悲鳴を飲み込み駆け出す。少年を追うように、葉擦れが派手な音を立てた。
「あぐっ」
縺れた脚に石をぶつけられ、アオイが転倒する。
辛うじてクランドを庇うも、強か打ちつけた半身に少年が身悶えした。
がさり、がさり、じゃりっ。
足音が間近まで迫る。はっと振り返った少年の胸倉を、男が無造作に掴み上げた。
「……ガキが、覚悟は出来てんだろうな?」
「いたっ、……離して、ください……っ」
「あ?」
「ッ!! 嫌だ! 離せ!! 人身売買も許可のない生体販売も犯罪なんです! はなせーッ!!」
荒れた呼吸で精一杯叫び、アオイが身を捩る。
怒りの余り、表情のない男の顔が気色ばんだ。突き飛ばされた少年が、悲鳴とともに地面を転がる。
「じゃあここで、もうひとつ犯罪を付け加えてやる……」
ぎらりと鈍く輝くナイフが、少年の頭上に翳される。
はっと顔を上げた彼が、咄嗟にクランドの入った鞄を抱き寄せた。
固く身を縮める少年が、次の衝撃を想定して目を瞑る。風切り音が聴覚を裂いた。
「がッ!?」
少年の頭上で響いた不穏な音。何かが裂かれ、砂が踏まれる。
罵声と怒声が濁って途切れ、肉の塊に包丁を突き立てるような音が、水滴の音とともに響いた。どだんっ、重たいものが倒れる。
震えるアオイが、うすらと視界を広げる。
少年の前にいたのは先程の男ではなく、細身の青年だった。
瞬きを繰り返したアオイの顔を覗き込み、ほっとしたように息をついている。
「きみ、怪我は?」
耳に柔らかい、落ち着いた声音だった。
片膝をついた姿は童話の王子様か騎士を彷彿させるもので、唖然とアオイが瞬きを繰り返す。
徐に頷いた彼へ、青年が穏やかな笑みを浮かべた。
そっと手が差し伸ばされ、おずおずと少年がその手を取る。
「――こちらカーティス。密入国者三名を掃討完了。子ども一名を保護。荷馬車あり、応援よろしくお願いします」
青年が左耳のピアスに手を触れ、淡々とした口調で誰かへ語りかける。
はたはたと瞬くアオイへ一瞥を向け、青年がピアスから手を離した。
再び穏やかな笑みを浮かべ、少年が足許を見ないよう、さり気なく立ち位置を変える。
「近くの町まで案内します。少々お話をお聞かせ願っても、よろしいでしょうか?」
「はあ……」
呆気に取られた調子で、アオイが頷く。
にこりと笑んだ青年に手を引かれるまま、あれほど走り回った森を容易く抜けた。
係留してあった馬の後ろに乗せられ、少年が呆然とする。手綱を取った青年が肩越しに振り返った。
「しっかり掴まっていてくださいね」
「あ、は、ぃうわあああ!?」
弾んだ馬に驚き、アオイが青年の腰にしがみつく。
馬の動きはしなやかだったが、振動は激しく、がくがく上下に揺れる視界に少年は真っ青だった。
喋ると舌を噛みそうなそれに、震えるまま振り落とされないよう、両腕に力を込める。
同乗者が怯えていることを知りながら、手綱を握る青年は馬の速度を緩めることはなかった。
むしろ爽やかな笑顔で、馬の腹をとんと蹴る。
益々駆ける速度の上がったそれに、少年は声なき悲鳴を上げた。