手塚治虫「火の鳥」
故手塚治虫先生の作品「火の鳥」の中で熱核戦争の果てに滅び去った世界にただ一人生き残った主人公マサトが、「こんな世界は嫌だ。無意味だ。ああ、神よ、例えぼくは滅んでも、どうか今一度生命を…他の人たちを…」と願っては涙を眼前の放射能で汚染された湖面にしたたり落とし、すると生じた波紋がみるみるうちに生命の輪となって広がり、一瞬のうちに生命に充たされた世界を再現する…というシーンがありました。あたかも宇宙のビックバンを思わされるような最終場面でしたが、実はこれに関連してある正覚者の言葉で「(たとえこの世が滅んでも)人間一人があれば宇宙は創造される」というものと「神がどれほどあなたがた一人一人(人間)を愛しているか…もしそれを知ることが出来たら、驚きのあまり死んでしまうほどですよ」というものがあります。この死んでしまうような驚きの感覚を奇跡的に実感し得たのが先の臨死体験者たちの述懐なのでしょう。真の人間一個の自覚に立ち得た「俺一人が、俺一人だけが人間やねん、廻りの世界は皆ウソやねん」と、その働きまでに立ち得た「大事だったこの世のことなど消し飛んでしまい、今のこの感覚こそがすべて」ではないのかと思うのです。
さて、この辺りが先学の伊藤氏の論から類考して綴った拙い私の文学論(?)なのですが、しかしこれでは未だ(先の両輪ではありませんが)片手落ちです。「廻りはウソやねん」というそのウソなるものの実態を、ランボーが忌み嫌った世の虚飾や権力層の実態を、それに抗うその必要性を、また異世界に逃げてそこに住む、あるいは憧れる(ならいいですがどうかするとそこからの現世へのリベンジを図る)若者たちの誤った指向性を、これらを論じつつ、その発生理由まで推考せねばなりません。でなければせっかく結ばれた車軸は壊されてしまうからです。今はそれを「カインの末裔」あたりを論拠にして綴り行こうかと考えています(続く)。




