9 神たるや
紅葉の季節が終わり、ニューヨークは凍てついた空気を迎え入れた。
日本人は、『四季がある』ことが祖国の素晴らしい面だと口を揃えて言うが、諸外国にも四季はある。尤も、昨今の地球温暖化による異常気象の影響で、日本だけに留まらず世界中で、風情溢れる四季が二季になってしまっているのは言うまでもない。
ニューヨークの夜は治安が悪いが、だからといってまだ日付を越えていないこの時間帯に人が少ないわけではない。
繁華街は色とりどりの看板や街灯で溢れ、仕事帰りの人間や遊び足りない若者が行き交っている。
その中に、彼女はいた。
アリア・レッドフィールドはグレーの厚手のコートを羽織り、革の手袋をつけた手をポケットに突っ込んで、赤髪を風に揺らしながら歩いていた。黒いピンヒールだというのに安定感があり、彼女の美しい見た目は、通りすがる多くの人々の視線を奪っている。
マンハッタンにあるWHOのニューヨーク支部は、彼女の家から徒歩十五分の所にあった。海岸沿いにあるせいで、冬になると過度に冷え込むが、彼女はその程度で楽しみの徒歩通勤を諦めはしなかった。
歩いて支部と家を行き来するのは日課でもある。多すぎる事務仕事のせいで碌に運動する時間も取れず、タリスのせいでストレスが溜まる日々が続いている。彼女にとって、歩くという行為は良いストレス解消法なのだ。
しかし今日はいつにも増して不機嫌そうで、足も早かった。
その時、コートの内ポケットに入れていたスマホのバイブが鳴った。
彼女はそのまま取り出したが、画面を見て、誰から電話がかかってきているのかを目にすると、笑みを零してピタリと足を止めた。そして近くの外壁の側まで走ると、手袋をとって素早く画面をスライドさせる。寒さのせいで手が赤くかじかんで、液晶は反応を拒んだが、五回目のスライドでようやっと電話に出ることができた。
弾んだ声で第一声を発する。
「はい! レッドフィールドです!」
『こんばんは、ミス。お元気そうで何よりです』
若い男の声だ。
しかしその声を聞くや否や、アリアは美しい顔に恍惚の色を浮かべる。彼女はまるで恋する乙女のように頬を染め、口元が緩むのを抑えるように顔に手をやった。キャリアウーマンの容貌が、可愛らしいスイーツを前にしたハイスクールガールのように、明るく無邪気なものにすっかり切り替わっている。
「どうかされましたか?」
『折り入ってお話がありまして。プラザホテルまで来ていただけますか? 部屋はいつもと同じ場所です』
「はい。はい! 了解です! すぐに向かいます」
電話を切ると、すぐに彼女はタクシーを拾った。この時間帯は混んではいるが、客を拾うためにやってくるタクシーは多い。特にイエローキャブといって、大手会社の運営するタクシーならば安心していつも乗ることができる。
三年前、急ぎのあまり個人タクシーに乗ったことがあったが、本来ならばありえないほど法外な値段でぼったくられそうになったため、それ以来はイエローキャブにしか乗らない。
「5番街のプラザホテルまで」
「はいよ。プラザホテルね」
気怠い返事と共に、青信号を見た運転手は車を発進させた。
やがて、十分も経たない内にタクシーは5番街へ突入した。裕福の権化が集うこの通りはいつ見ても華やかで、アリアの持つ光さえ打ち消されてしまうほどの絢爛な世界が広がっている。
巨大な高級ホテルの前でタクシーが停まると、アリアはすぐに20ドルを運転手の手に押し付けて、「釣りは要らないわ」といって早足で外へ出た。
突然身体を襲う冷気に一瞬身をよじったが、すぐにポケットに手を突っ込んでホテルの中へと駆け込んだ。
プラザホテルはニューヨークでも有数の高級ホテルだ。現在はホテルというより、主に大富豪達のコンドミニアムの役割を果たしていて、入り口に配置されている警備の数も仰々しい。
中へ入ると広がるお城のような細やかで美しい造形を見ると、アリアはいつも心が昂ぶる。それはもしかしたら、自分の愛しい人がこの場所にいるからなのかもしれない。
名高い人々の群れを掻き分けてエレベーターに乗り、いつもの階をエレベーターガールに押してもらう。アリアは階層を指し示す番号の明かりが、徐々に上へと上がっていく光景を心の中で飛び跳ねながら見つめていた。
オレンジ色の明かりが『7』の数字に点灯すると、エレベーターガールの「つきました」の声も待たず、アリアは鞄の紐を握りしめて駆け出した。
オーシャンヴューの見える部屋は、各国の富豪達が買い占めている。彼女の待ち人がいるのはいつも北側の客室だ。広いフロアの廊下を、目隠ししながらでも歩けるほど彼女はこのホテルに何度も足を運んでいる。
やがて金メッキの『706』とかかれたプレートの前に辿り着くと、彼女はすぐにドアをノックしようと手を伸ばした。しかし、すんでの所で迷いが生まれ、ふっと動きが止まる。そしてそのまま奇妙な格好で考え込み始めた。
ーーいつも。
ーーいつもノックして、返事を待って、中に入るだけ。良いのかしら。それで。
それで良い。
しかしアリアは迷っていた。相手は典型的なことを嫌う人ではないが、自分を機械人間のように見られることは避けたかった。優しいあの人のことだ、例え不愉快に思ったとしても口や態度には出すまい。それでも、心の中で嫌悪されるくらいなら、マンハッタンの真ん中で大量殺人を起こして、しばらくメディアを騒がせた方が何倍もましだった。
ーー嫌だわ。もっと私を認識してもらわないと。
ーーでも、でも……。
そうやってまごついていると、中からガチャリとドアが開いた。
「あっ……」
「ああ。やはりいましたか。どうぞ中へ」
顔を出したのは、黒い牧師服を着た若い男だった。平たい顔をしていて、目は線のように細い。しかしその表情からは優しさが溢れていた。手には革表紙の旧約聖書を持っており、後半のページに挟まれた栞の頭がちらりと見える。以前アリアが彼にプレゼントした、赤い布製の栞だ。
ーー使っていてくれたんだ。
アルカイックスマイルを浮かべた彼を見て、アリアは顔を赤くした。
「はっ、はい……牧師様」
「ミス。女性がこんなに寒い中で、廊下に立っているのは身体に良くない。いやはや、このホテルは確かに温かいが、一人でいるのは心にも良くない。でしょう?」
「ええ……そうですわ。失礼します」
”牧師”と。そう呼ばれた男は静かに笑うと、アリアを部屋に招き入れた。
何度も訪れたことのあるこの場所。しかしアリアは、恥ずかしさの余り俯いて顔を上げることができなかった。牧師はその様子を見て何かを察したようで、テーブルの上に並べられた二つのカップに紅茶を注いだ。
「お座りなさい。アールグレイで良いですね」
「はい」
緊張した面持ちのまま、アリアは指された椅子に座る。彼女は、目の前で彼が紅茶を淹れる優雅な姿を、ぼうっとした顔で見つめていた。
「今日は丁度ニューヨークに来る予定があったので、ついでに報告をしてもらおうと思ったんです。急に呼び出してすみませんね。明日の朝のフライトでオレゴンに行かないと」
「いえ。牧師様からのお呼び出しなら、いつ、何時、私はすぐに参りますわ」
「無理はしないでください。私は最優先事項ではありませんから。自分の心と身体、それから立場を大事にしなさい。……ほら、どうぞ」
「ありがとうございます」
一切の反骨の精神も見せぬまま、ただ促されるままにアリアは紅茶を飲む。
香ばしい液体を飲み込んだ途端、冷え切った手足にじわりと熱が戻り、やがて胸の真ん中にもぼんやりと赤い灯のような温かさが湧いてきた。五感が、まるでお酒を飲んだ時のような優しい恍惚感に包まれる。
そんなアリアの様子を確認すると、牧師は話し始めた。
「進捗はどうですか? 『SR細胞』の研究は勿論、遅らせているでしょうね?」
彼は、国連の上層部がひた隠しにしようとしているトップシークレットを口にした。しかしアリアに驚きの色は見えない。『SR細胞』の存在は、下手をすれば、アメリカのエリア51に関する情報や、軍部の秘密兵器の情報よりも極秘で、且つ危険なものなのだ。大統領でも国から信頼された研究者でもないこの男が、その情報を知っているーーだというのにーー。
牧師の言葉を聞くと、アリアは小さく嗚咽を漏らした。それでも、彼女の周囲に漂う幸福感は依然として変わらなかった。
まるで悪戯のばれた子供のように肩をすくめると、彼女はこう言った。
「実は、色々ありまして。直接的に研究者が実験を行うことになって……牧師様?」
彼の、紅茶の入ったカップを握る手が震えていた。
俯いているため、アリアから男の表情は伺えない。しかし長年付き合っている彼女はすぐに気がついた。
牧師は、憤っているのだ。
ちらと見える瞳の向こう側には陰が刺し、歯が強く食いしばられている。
アリアにはこうなることが分かっていた。だから、この話をするのが恐ろしかった。温かくて優しい空気の家から、突然、吹雪の中に放り出されたような気分だ。紅茶の効果が徐々に切れていくのを感じる。
アリアが続きを言うべきか否か迷っていると、牧師は絞り出すような声で話し始めた。
「人間如きが……神に近づいてはならないのです……それは貴女もお分かりでしょう、ミス・レッドフィールド」
「はい。その通りです」
「研究チームに貴女は? 関与はできないのですか?」
「申、し訳ありません。私がねじ込める余裕はなくて……」
彼女の目が泳いだのを、牧師は見逃さなかった。彼は少しだけ眉をひそめたが、何も言わずに続きの言葉を待った。
「で、ですが、研究に参加する同胞に依頼して、情報の横流しと研究の妨害については約束を取り付けています」
「ふうむ……」
牧師は考え込むような素振りを見せる。
もう微笑んでいない。
彼にとっての”神”は、彼の全てだった。
新興宗教『アディンセル教会』の牧師であった両親の元に生まれた彼は、幼い頃から神とは自分にとって何たるかを教育されてきた。
神は下界には降りられない。
しかし神は、自身の使者を地上に遣わすのだという。その使者は神の代弁者であり、神の分身である。使者に従えば、この世の戦争や貧困はなくなり、世界は平和になる、と。
牧師となった彼は、ずっとその使者の存在を探し求めていた。
彼は半年ほど前、熱心な信者であったアリアから報告を受け、不死の力を持った少女の情報を手にいれた。
神の使者は、神の力を持つのだ。
「ーー不老不死は、確かに人間の夢だ。しかしそれは禁忌。聖典は読んだでしょう? 人はいつも傲慢で、それ故に神の裁きを受ける」
「その通りです。……我々も、いずれ……」
「違う! 神は心優しく、平等で、博愛主義で、そして信仰深い者を救ってくださる。我々でノアの箱船を作るのです、ミス・レッドフィールド。その天啓を、我々は佐々木 理沙から得ねばなりません」
「はい」
「行き過ぎた科学はまさに、人間の傲慢そのもの。第二次世界対戦を思い出しなさい。毒ガスで、核兵器で、一体どれほどの罪なき命が奪われたか。……使者を守りなさい、ミス。ゆっくりと、しかし早急に。彼女を助け出す機会を伺うのです」
「ぼ……牧師様、どうか……どうかお許しください」
アリアは椅子から倒れ伏し、牧師の足元にうずくまって縋り付いた。
先ほどまで悠然とした姿で街を歩いていたとは思えないほど、弱々しく、小さな姿に見える。牧師はそんなアリアを見ると、彼女の頭に大きな手を置いて囁いた。
「神は慈悲深い。さあ、懺悔なさい」
牧師の言葉と共に、彼女の口から様々なことが吐き出される。
不満、不安、今まであったこと全て。そして自らの罪を。彼女は牧師の教えではなく、元恋人に会いたくないという気持ちを取ってしまったのだ。しかし牧師は怒りや呆れの言葉を口にすることはなかった。
ただアリアの懺悔を聞き、優しく慰め、そして福音を口にする。
やがて、啜り泣き声だけがスイートルームに反響し始めた。




