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8 思い通りにいかないこと

 既視感(デジャヴュ)という現象は有名だ。

 これは、これまでに一度も見たことのないものや、体験したことのないものが、あたかも以前見たり体験したりしたように感じるというもの。

 この現象の原因は未だ判明していない。フロイトは無意識下に体験したものが蘇ったのだろうというし、オカルト好きは予知夢の覚醒版だという。いずれにせよ、この現象は本人を不思議な感覚に陥らせる。


 佐々木 理沙の味わったデジャヴは、懐かしさを含んだものだった。

 普通に生きていれば、例え精神異常や脳の特殊な病気を患っていなかったとしても、デジャヴュを感じることは珍しくない。



「……どうも」


「どうも」


 互いにコミュニケーションを取るつもりのない二人が対面し、無理に挨拶をしようすると、部屋に冷たい空気が充満するらしい。無を湛えた男女は口を開こうとしなかった。先に喋った方が負け、と言わんばかりの雰囲気だ。


 それに耐えかねたセシル・ローウェンは、乾いた笑いを部屋中に響かせながら割り込んだ。


「ねえほら。人見知りが無理するからこうなるんだよ」



 理沙にとって、自分の小さな箱庭に知らない人間がいるのは、あまり気分の良いものではない。

 数日前から接触型実験があるとのご達しが犬飼より入っており、理沙は大所帯の研究者達がこの部屋に入ってくるのを緊張して待ち構えていた。しかし拍子抜けしたことに、やってきたのは四人の男女。チームは黒人女性と壮年の男性、優しい笑みを浮かべたおじさんーーそして先頭に立つ、仏頂面の日本人男性の四人で結成されていた。


「俺達、は……『SR細胞|特殊機密研究室《Special Confidential Laboratory》』ーー通称『SCL』の研究者で……お、俺は……」


 顎を45度上げて、相手と目を合わせないように喋る。一言一言、言葉を選んでいるようで、日本人は金髪の青年に鼻で笑われた。それを聞いて、彼の頬にかすかな赤が走る。


「要! 大丈夫だよ。僕が紹介しよう。……理沙、彼は坂本 要。僕の友人さ」


「そう……なんだ」


 ーーてっきり友達なんていないかと。

 理沙が胸の裡に驚愕を押し殺していると、壮年の男性が一歩前へ踏み出した。


「ミス・ササキ。お会いできて光栄です。研究者のジェイク・フライドです」


 丁寧に髪や服が整えられており、少し柑橘系の香りがする。好感の持てるさっぱりとした容貌だった。理沙の中で、美形は既に飽和状態となっているので、彼のような一般的な容姿の人間に喜びを覚えた。

 加えて彼は、少し訛りはあるものの、驚くほど流暢な日本語だった。

 ネーティブスピーカーほどではないが、発音も文法もほぼ完璧だ。彼もセシルのようにバイリンガルなのだろうかーーと理沙が考えると、今度は黒人女性が手を差し出してきた。



『すみません、私は日本語は話せなくて……ライム・F・フレッチャーです』


『OK。大丈夫ですよ。日常会話くらいなら英語は話せますから』


 美しいイギリス英語に、理沙は高校英語で答えた。

 テレビとセシルで鍛えた甲斐あり、理沙の英語のリスニング能力は著しく跳ね上がっている。これをまだ学生だった時にやっていれば、もっと英語の成績は伸びていたのだろう。時間さえあれば大方のものが出来てしまうと知った今、人間の秘められた可能性を強く感じる。


 理沙は握手をすると、少しだけ口角を上げた。ライムの手は温かく、そのアルカイックスマイルが安心感を与えてくれた。

 セシルはその様子を興味深そうに眺めていた。彼は、理沙を社交的な人間ではないと思っていたのだ。しかし理沙は最低限の社交辞令と礼儀は持ち合わせている。要と対面して固まったのは、単に驚いていただけ(・・・・・・・)だといえる。

 真の人見知りである要は、いつの間にか壁の花となり、不機嫌そうに腕を組んでいた。


『タリス・アボット。研究室のリーダーだ。申し訳ないが、私も日本語は不自由でね』


『よろしくお願いします』


 やはり自主的に島国の不可解な言語を学ぼうとする者は少ないのだろう。

 ジャパニーズアニメーションをきっかけに日本語を学び始める外国人は決して少なくないが、逆にそのような特殊なきっかけがなければ誰も学ぼうとは思わないだろう。英語圏の人間がアルファベット52字のみを使っているのに対し、日本には平仮名、片仮名、漢字の三つの常用文字がある。三番目に限っては日本人でも知らないものがあるほど、無限に溢れ返っている。


 すると、要が一つため息をついて口を開いた。



「……それで。今日俺達は仲良しになりにきたんじゃないんだ。ーーお、おいお前、被験者」


「佐々木 理沙です」


「名前はどうだって良いだろ。とりあえず、今日はお前の準備のために今後の研究と実験、それから経過の資料を持ってきた。フライド」


「はい。こちらを」


 ジェイクが丁寧に理沙に渡したのは、茶封筒に入った紙の束だった。

 いずれも英語で書かれてはいるが、表紙に赤いスタンプで『TOP SECRET』と左上に押されている。そして数枚めくると、ラットの写真や血液の細かい分析の結果がまとめられていた。

 理沙は数秒黙って見つめた後、


「ありがとうございます。……けど、私が準備することがあるんですか?」


「心の準備だ」


「……」


「い、いやそんな……そんなに、怖い実験でもないから」


 彼は理沙は不安そうに目を細めると、慌ててそう付け加えた。その様子は今までの高圧的な態度とは異なり、一瞬だけ気の弱さが露呈している。

 理沙はその姿にも既視感を感じた。昔、似たような光景を見たことがーー


 彼はすぐ、取り繕うように大声を上げた。


「と、兎に角! 明日また皆で来る。そうだローウェン! お前、この間貸した本を返せ」


「え? あの本、くれるんじゃなかったの?」


「そんな訳ないだろ。図書館のものだ」


「又貸しはダメだよ、要……」


 その後、要率いる科学者集団は、そそくさと部屋を去っていった。

 ライムだけは最後まで理沙に笑顔を向け、手を振ってくれていた。彼女とは仲良くなれそうだと、理沙は少しだけ嬉しくなる。

 セシルとライムは同じ、穏やかで人に好かれる人種だが、根本が違うのだろう。

 若く、纏う空気は春の温かさのようでーー初対面だというのに理沙は彼女を過大評価していた。その色眼鏡は、同性に久しぶりにあった、ということが起因しているのかもしれない。


 大勢いると狭く感じるが、一気に人がいなくなると、いつもより広く感じられるものだ。理沙は部屋をぐるりを見渡すと、機密書類を茶封筒の中にしまった。


「あの坂本って人、犬飼さんにそっくり。もしかして子供だったりするの?」


「そうだよ。義理だけど」


 セシルの返答に理沙はギクリとした。ただの冗談のつもりだったのだ。


「あっ、あの人が……子育てできるっていうの? あの、悪魔みたいな男が?」


「要は孤児でね。昔日本の孤児院にいたらしいんだけど、突然やってきた犬飼さんに引き取られたらしい。子育ての結果は、ご覧の通りだよ」


 肩をすくめる男を見て、理沙は一つため息をつく。

 研究者の集団は、まるで嵐のようだった。簡易な自己紹介は明日でも良かったのに。


「読まないのかい? それは」


 どうやら機密書類のことを指しているようだ。


「英語だった。英和辞書はある?」


「それじゃあ手間だ。僕が訳すよ」


「いい! 自分の身体のことくらい、自分の力で知りたい。大丈夫ーー時間はかかると思うけど、この部屋でずっとぐうたら生活していたわけじゃないんだから」


「……そうかい」


 ーー君は頑固だね。

 理沙が本棚にかけていく姿を見ながら、セシルは昔のことを思い出した。

 要と初めて出会ったのは、ニューヨーク支部に配属された時。既に研究者だった要と同じチームのメンバーとして迎え入れられたセシルは、自分と同い年ーーいやもう少し年下かもしれない男の存在を訝しく思った。

 周りは要を腫れ物のように扱い、犬飼には特別扱いをされている。

 セシルはその様子を見て一瞬で、犬飼と要のただならぬ関係を察した。しかしそれならば近づいておかない手はないと、セシルは要に近づこうと努めた。


「届かないのかい、僕がとってあげるよ」


「あぁ、ありがとう」


 本棚の高い所にある辞書を、セシルは理沙の代わりにとって渡した。理沙と彼の姿が重なる。

 要と親しくなったきっかけもこれだった。生粋の日本人で身長の低い要は、支部の図書館の一番上の段まで手が届かなかったのだ。丁度その様子を見咎めたセシルは、これ幸いとばかりに代わりにとってやったのだ。

 近づくきっかけのできたセシルはその後、要との距離を縮めていった。自分と近い年齢の人間に慣れていない要はあっさりセシルの口車に乗せられ、二人で偽りの友情を築き始めた。しかし今のセシルは、要なら『本当の』友人でも良いと思っていた。


「本当は今日から、臨床実験を始める予定だったんだよ」


「そうなの?」


「うん。要ったら、人見知りだから緊張してたんだよ。きっと他の研究者とも、さして仲は良くないはずだ。理沙、あいつは犬飼さんに似てるけど、根が善人だってことは覚えておいて」


「犬飼さんの根は?」


「あの人は、骨の髄まで真っ黒だよ」


 そう言ってセシルは、理沙のブックコレクションの一つを手に取った。

 彼は日本語のスピーキングは得意だが、リーディングは未だに苦手だっら。そもそもアメリカ在住のため、日本の文章に触れる機会はほとんどなく、その豊富な語彙は母の饒舌さによって養われていた。「骨の髄まで腐ってる」という言葉は、彼の母がしばしば、テレビの向こうの政治家に吐き捨てるものだ。


「犬飼さんってそんなに意地の悪い人なんだね。私にだけだとばかり」


「皆に対しても、あんな調子だよ。精神的サディズムに傾倒してる。でも職員のほとんどが、彼の実情を知らないんだ。実際に話したり謁見したりできるのは、僕や要のような、一部の人間だけだよ」


「セシルは犬飼さんと知り合いなの?」


「要つながりだよ。理沙のお目付役も、直接犬飼さんに命令されたんだ」


「ふうん」


 そこまで聞くと、理沙は少しふて腐れた様子で片眉を上げ、そのままセシルに背を向けたままソファに座り込んでしまった。

 それからしばらく、理沙は翻訳作業、セシルは日本語の文章を読むことにあくせくと時間を費やした。そして、互いに同じ作業に飽きてきた頃合い。理沙が顔を上げて言葉を発した。


「私、坂本さんと何処かで会ったことがあるような気がするの」


「要と? それまた……奇怪な」


「でも坂本さんは話を聞く限り子供の頃に引き取られたっていうし、ただの勘違いだとは思うけどね」


「そっか……まあ、よくいる顔じゃないか。要はずっとアメリカにいたから、ただの他人の空似だよ」


 要は目立つ容姿ではない。

 人混みに紛れたら長年付き合った人間でも見つけられないほどに、特徴のない平淡な顔だ。今は隈やくしゃくしゃの髪のせいで、悪い方面での”個性”こそは溢れているが、平時の状態では全く華はない。

 似顔絵を描く上で一番難易度の高い顔が、要のような特徴のない、まさに”普通”を顕現したようなものだという。いやしかし、量産型の顔というものは存在なく、理沙が自分がデジャヴュを感じるのは、きっと何処かで似たようなものでも見たことがあるからだと確信していた。



「誰なんだろ」


 理沙は静かに辞書を閉じた。


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