6 汝の隣人を愛せよ
世の中、自分の思い通りにことが進むとは限らない。
理沙は自分のことを幸運な人間だと思っていた。血のつながりのある人間はいないが、友人や教師にも恵まれ、充実した日々を過ごしていたのだ。
事故に遭ってから続く軟禁生活ーーこれは転落ではないが、決して昇転でもない。
最近、悪いことは幾度となくあったが、良いことなんて一度もなかった。
唯一の救いといえば、助けた子供が無事だったことくらいだろう。
あの子を助けなければ、彼女は自由でいられただろうか。しかし、それは一人の未来ある子供の命を見捨てたことになる。
勿論、未来があるのは理沙も同じで、どちらの方が価値がある、というのは一概には言えないのだが。理沙は自分の人生まであの子供にかけるべきだったのだろうかと、心の何処かでそう思っていた。
彼女がニューヨークにやってきて、およそ三週間の時が過ぎた。
研究者達は彼女に直接接触こそはしなかったが、奇妙な薬を投与し、髪の毛や体液の採取などを行った。理沙は窮屈さを感じていたが、解剖をされたり内臓を取り出されたり、何処まで痛みに堪えられるかの実験をされたりするよりかは、何百倍も良心的な医療行為だった。
国際機関の研究者達もインフォームド・コンセントという言葉を知らないようなので、理沙の機嫌の悪さは、セシルのごますりによっていつも絆されている。
研究所は『SR細胞』の新天地を切り開こうと躍起になっており、その最中、様々なことが判明した。どうやらこの細胞は、人知の届かない未知のものではないようで、彼等は不老不死への希望を抱き直した。
人類の夢である不老不死。
これは、神に近づくという禁忌だと考える者も少なくはなかった。
スイス、ジュネーブにあるWHOの本部は、白く大きな建物だ。蛇の杖のマークの旗が棚引くポールの横には、世界各国の国旗が陳列されている。
今日は、子供なら飛び跳ねればそのまま飛ばされそうな程に強い風だった。ニューヨークからスイスへと飛んだ男女もまた、その風に顔をしかめさせていた。呼吸することもいささか難しい強風だーー台風でも近づいているのか。
『SR細胞』研究所の主任であるタリスと、責任者であるアリアは、本部へ細胞の報告をしにやってきた。本部にまで赴き、幹部達に論文を発表するという非常に面倒な仕事だ。
アリアは新品の赤いスーツを着ており、スラリとしたスタイルを強調している。タリスは妻も恋人もいないため、彼女の美しい姿を見て心中穏やかではなかった。
「我々は調子に乗ると、再び神によって淘汰されるかもしれませんね」
「言葉を分からないものにされるのかい? それとも、大洪水?」
「さぁ。どちらかというと、私は前者の方が穏便で好きですよ」
かつて人々は、雲の向こう側にいる神に手を伸ばすため、新技術を用いて高い塔を建てようとした。
神はそれを見ると、「人間は言葉が同じだからこのようなことを始めたに違いない。ならばそれを乱し、通じない違う言語を話させよう」と言った。互いに意思疎通の取れなくなった人々は混乱し、塔の建設を止めて各地へと散らばっていった。
ーー『バベルの塔』と呼ばれるこの話は、旧約聖書の創世記に記されている。
『ノアの箱船』は言うまでもないだろう。
アリアは被験者のことを、自分と同じ”人”とは見ていなかった。
科学者としてあるまじき行為かもしれないが、彼女にとって佐々木 理沙の存在は神のようなものだ。無論、彼女自身が神なのではない。しかし、死んでも復活するというこの奇跡は、彼女の信仰する神と一致する。
もしかしたら佐々木 理沙は、神の再来なのかもしれない。
彼女はそのような存在を科学の手で扱うことに、大きな恐怖を感じていた。
彼等は大きな入り口を通って中へ入ると、そのまま顔パスで警備員の横を通り抜け、奥に進んでいった。
内装こそは違うが、広さはニューヨーク支部とそう変わらない。
一つ違うことを挙げるとすれば、一般人がいないということか。本部のすぐ隣に国営の図書館があり、市民は専らそちらに足を運ぶ。
「そういえばミス・レッドフィールドは、被験者と直接会ったことはあるかい?」
「ありません。貴方は?」
「私もないよ。犬飼さんが厳重に警備を敷いているからね。ずっと部屋から出ていないんじゃないかな。でも写真は見たよ。可愛らしい少女だった。……哀れだな」
「哀れーーしかし彼女は人間ではないでしょう。あれが、彼女のあるべき姿なのでは」
「……そういう捉え方も、あるやもしれない」
彼は苦笑を浮かべた。
被験者は神か、天使か、はたまた悪魔か。しかし彼の目には普通の少女としか映らなかった。現代科学の未知の領域に佇む存在ではあるが、決して届かない訳ではあるまいと。
彼はアリアが被験者を神格化していることに薄々感づいていた。研究や実験の許可はアリアが下す。タリスは科学者達が直接被験者の身体を調べたり、解剖したりすることを提案したが、彼女によって全て却下されてしまった。
犬飼は現場監督を彼女に一任しているため、主任であるタリスが何を要求しようが、彼女の意向に沿わなければ全て無駄なのだ。
彼は被験者の身体に興味があった。
解剖をして器官を取り出したり、それぞれの仕組みや働きが常人と同じかそうでないかを確かめたりしてみたい。純粋な探究心と知識欲を、あの娘に強く揺さぶられている。しかし、アリアがそれを許さないのだ。
非人道的な研究でも、犬飼ならば許可するだろう。しかしこの聡明な女は、冷たく見えて倫理を重んじる。
だからこそ彼は、この研究報告にかけていた。
犬飼が世界機関を牛耳っているのは周知の事実だが、アリアはそうでない。彼の命令で現場についているだけの科学者だ。この程度の身分の人間の排除は、上の人間を説得すればそう難しくはない。
「……君は随分と犬飼さんに気に入られているが、馴染みだったりするのかい?」
「あら。もしかして、私がミスター・サカモトのような関係を持っていると思っていらしゃるのかしら」
「違うのかね?」
「違います。実力ですわ」
ーーどうだかな。
タリスは目を細めてアリアの足を見た。彼女の黒い網タイツで覆われた足や豊満な胸、健康的な体型は実に扇情的だ。彼はアリアが、その肉体と美貌をもって今の地位に就いていると思っていた。ーー思いたかった。
タリスにとって何よりも不愉快なのは、自分より遥かに若く、そして女性であるアリアに出世の先を越されたことだ。
その上、自分のしたい研究さえも彼女によって制限される。男として、プライドの高い者として、こんな屈辱があるか。
「……そうか。実力か」
「はい。まぁ、ご機嫌取りくらいはしますけど、貴方の思うようなふしだらな行為は、神に誓って行っていません。主は姦通を禁じています」
「私は別に、そんなことは思っちゃいないよ。気になっただけさ。気分を害してしまってすまないね」
「いえ。よく聞かれることですので、気にしませんよ」
鼻に付く言い方だ、と彼は思った。つまり彼女は、実力で今の地位を賜ったと多くの人間から思われないほどに、出世のスピードが速いのだ。
しかし、彼女が嘘をついていない保証は何処にもなかった。
セシル・ローウェンと一時期恋人だったことをタリスは知っているしーー整った容姿の彼は女性関係の変動が激しいことで有名だーー彼女がついこの間、男と二人で高級ホテルに入っていく姿も偶然見かけた。
相手は若くなく、四十後半といっても良いくらいの容姿だったため、恐らくはWHOか他組織の幹部の人間だろう。同僚には厳しい癖して、上司に取り入るのは得意らしい。
忌々しいことだ。
しばらく歩いて行き、本部の最上階の一番奥にある『C-12会議室』までやってきた。この場所は特別会議室とも呼ばれ、WHO本部内で最も厳重な警備が敷かれている。
主に、重役達の会議や今回のような特別事例にのみ用いられる部屋だ。タリスは何度か本部に訪れたことはあったが、この場所まできたのは初めてだった。それはアリアも同じらしい。
警備員の横をすり抜け入ってきた広い部屋の真ん中で、彼女は執拗に辺りを見回している。
「盗聴対策は、万全なんでしょうか?」
「そうだと信じよう。我々、一科学者にはどうしようもないことだ」
アリアは、細胞の情報が外部に漏れることを恐怖している様子だった。それにはタリスも同意することにする。無知な民衆にそのような情報が行き渡ると、警備にも手間がかかり、実験や定期結果などの情報公開をせざるを得ない。それは現場の人間にとっては、非常に面倒で不都合なことだ。
しかし、盗聴器を仕掛ける一般市民などいるはずがない。そもそも、WHOの仕事は感染症対策が主だ。わざわざ聞く必要も、危険を冒す必要もないだろう。
「では私は報告の準備をしますので」
「何だか、大学の頃を思い出すよ」
「未知の細胞の研究について報告するのに、何だか庶民的ですよね」
アリアはノートパソコンを鞄から取り出し、既に準備されていた電子機器に繋いだ。タリスは自暴自棄な気分になった。電子機器のスキルも、現場監督としての立場もアリアと比べて弱い自分は、この場所にはきっと不適切だろう。
しかし、これは上の人間とネットワークを繋ぐ幸運な機会だと自分を納得させ、喉まで出かかった不満の言葉を飲み込んだ。
やがて、見慣れないWHOの幹部職員や口の堅いお偉いさんが、会議室に雪崩れ込んできた。彼等はタリスになど目もくれず、パソコンを触る赤髪に視線を注いでいる。
横に大きな権力者達は、欲望に忠実だ。
アリアは居心地が悪そうに、執拗に眼鏡を触っている。こういう外回りの仕事は専らセシルが専門のため、彼女はあまり慣れていないのだろう。
タリスは全員分の重要書類と飲み物を配りながら、凝った肩をグルリと回した。こういう時に雑用の人間を入れられないのが面倒だ。
情報漏洩防止とはいえ、少しは信用のおける人間くらい用意できるだろうに。
しかし収穫もあった。
多くの幹部達と挨拶を交わし、何人かの野心溢れる者には、後で話をしたいと約束付けた。発表後はアリアの目もあるだろうが、まだ準備中の騒がしい会議室の中では、タリスの声は雑踏に揉まれる。
時計の針が、三の刻を示していた。
***
「今日は本部の方で、研究の報告がある」
「それは大層なことだね。タイトルを予想しようか……ずばり、『SR細胞のヒミツ』」
「違うけど、似たようなもんだよ」
アメリカの空は雨模様だった。
ニュースキャスターが朝の番組で天気予報を口にしていたのを理沙は覚えている。彼女の願いは遠く高く通じたようで、この広い部屋に最新型のテレビが導入されることが決定した。
ーー悪くない。
理沙はそう思った。
四六時中、金魚のフンのようについてくる男が分からない言葉を訳してくれるし、字幕をつければ英語の勉強もできる。テレビっ子ではないが、本を読んで自堕落に過ごすよりは、ずっと現代的で、有意義な時間が過ごせそうだ。
セシル・ローウェンはどうやら低気圧のせいで頭が痛いらしく、いつもより気怠けな様子でソファに座っていた。
この男は、理沙の前で取り繕う気力さえも偏った痛みに奪われたようで、いつものポーカーフェイスを脱ぎ去って顔をしかめている。
「もうそんなに研究が進んでいるの?」
「いいや。みんな、早く不老不死になりたいだけさ。彼等は現場を知らないんだ。進捗は全く良くないってのに……予算はくれるけど、時間はくれないってのは正直きついよ」
「ふぅん。それで、報告書とかは、私に見せてくれないの?」
「どうだろう」
セシルの返事に、理沙はむっとした顔をした。
「私には、自身の身体、自身の細胞によって行われた研究とその結果を知る権利があります。それに、別に私に見せたからって情報が漏れるわけじゃないでしょ」
「そうだけど……責任者にもらいに行くのが嫌だ」
「何それ」
彼は赤髪の美女の顔を浮かべた。きっと頼めば論文のコピーくらいはくれるだろうが、いかんせん、会いたくない。
理沙はなんとなく、人間関係の軋轢を感じたのかそれ以上は何も言わなかった。人の事情にとやかく口を挟む趣味はない。セシルはたった一ヶ月ほど前に初めて出会った青年で、友人でも何でもないのだし、仮にそうだとしても、話を聞いた所で理沙にはどうしようもできない。
しかし、しかしだ。
聞けば話してくれるだろうと理沙は考えた。
セシルは彼女の心をつかむのに必死なようだしーーこのテレビも各所を走り回って手に入れたものだーー彼は、自分のことを信用しているだろう。
理沙はそう結論付けたが、結局、彼の葛藤に口を挟むことに意味を感じられず、会話はそのまま終わってしまった。
セシルが部屋を出て行ったため、理沙は一人で部屋に取り残された。
テレビに映るコメンテーターは、酷くおどけた表情で不可解な踊りを踊っている。その傍らには、同じ動作をしている巨大な金魚の着ぐるみがあった。海外のテレビもこんなものかと思いながら、理沙はリモコンのボタンを押した。
次に画面に映ったのは、午後のニュース番組だった。
ウィスコンシン州のハイスクールで銃乱射事件が起こったらしい。怪我をした生徒が外へ運び出されるショッキングな映像が流れた後、犯人の顔が映し出された。まだ若い。しかも、このハイスクールの卒業生だというのだから驚きだ。
理沙は銃を見たことも触ったこともなかったし、特に関心があるわけでもない。だから、こういったニュースを見ると、日本に生まれ育って良かったと切実に思ってしまう。OBに殺されて終わる人生なんて、それこそ数奇じゃないか。
続いて流れたのは、現在行われている大統領選挙の経過報告だった。
今名乗りを上げているのは、民主党のスウィフト氏、そして共和党のローウェン氏だ。前者は元官僚のようだが、後者は一族揃って資産家のお金持ちらしい。どちらも上手い具合にスーツを着こなしておりーー金持ちというからもっと成金のような風貌を想像していたがーーまともな様相だった。
ーーん? ローウェン?
思わずテレビを凝視した。
ローウェン氏は確かにセシルと同じ金髪だったが、彼とは似ても似つかない。それに、ローウェンという姓は珍しいわけじゃないだろう。ただの思い過ごしか。
それにしても、理沙はセシルのことを全く知らない。精々、名前と性別と出身校と専門学術くらいだ。しかし、きっと彼は理沙のことを理沙以上に知っているに違いない。
国家権力によって集められた彼女のあらゆるプライヴェートが、彼の脳内に凝縮されているはずだ。
この部屋の生活にも、すっかり順応してしまった。
注射は変わらず恐いが、それ以外は特に何がある訳でもなく、欲しいものは大概手に入る(電子機器を除く)。犬飼から話を聞く限り、この施設に来れば都合の良い実験用ラットに成り果てるものだと彼女は思っていた。
しかし、理沙は未だ、セシル以外の人間を見ていない。
研究所の人間よりも先に、人気バラエティー番組『フィッチーズルーム』の準レギュラーの顔と名前まで覚えてしまうのはどうなのだろうか。
夕方になった。
「僕はあまり、テレビは観なかったな」
「そうなの?」
今日の夕食はカレー。
気を使ってくれたのか、日本産のライスが使われた美味しいものだ。聞くにニューヨーク支部のレストランのカレーは絶品らしく、セシルもよく足を運んで食べているのだとか。
ーー確かに良い。
しかし、皆で孤児院で食べたレトルトカレーの方が、理沙は数倍も美味しく感じた。
「勉強の方が好きでさ。クラブも入らないで、ずっと図書館に入り浸りだった。でも今考えると、凄く損なことをしたなと思うよ」
「それ、現在進行形で青春を奪われてる私に言う?」
学校に行けるだけマシではないか、と言いたげに理沙は眉をひそめる。
またもや少女の機嫌を損ねさせてしまったことを察したセシルは、もはや焦りも感じなくなっていた。嫌悪感が顔に出るのは、相手を信頼している証拠でもあるーーと勝手に考えているのだ。実際、彼女のような人と一定の距離を置く人間は、感情を表に出さない。これも進歩だ。
「どう? アメリカの番組は」
「ニュース……平和ボケした日本人には、衝撃的なものが多いね。心中穏やかじゃないよ」
「心当たりがあるものが一杯だな」
「自由の意味を履き違えてると思わない? 折角何でもできるんだから、もっと有意義なことをすれば良いのに!」
すっかり偏屈になってしまった彼女は、サラダにフォークを突き刺した。柔らかいベビーレタスはその力を皿に受け流し、カン!という擦れる音が耳に障る。
失ってから気づくものは、やはり多い。
理沙は事故後、自由権というものがいかに大切で素晴らしいものかを痛感しているし、友人や保護者に会えないことが何よりも辛い。
「理沙は銃反対派なんだね」
「日本人は大概そうじゃない? 人殺しの道具を常に携帯するなんて、危なっかしいったらありゃしないよ。それに、聖書には『汝の隣人を愛せよ』ってあるんじゃなかった? もっと他人を信用してみたら?」
「君に言われるのは心外だな」
「私は神道だから、関係ないの」
ーー多弁になったな。
セシルは冷淡な笑みを浮かべる。
ーーそろそろ始めても良いだろう。