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3 永劫回帰として

 一週間前。

 セシル・オズワルド・ローウェンは、WHO内での上司である犬飼に呼び出され、彼の執務室まで足を運んでいた。彼は数年前からWHOの研究職員の一人として、主に細菌に関する研究を行っている。


 研究者の中ではまだ未熟な方ではあるが、その整った容姿と嫌味のない賢さから、女性職員には絶大な人気があった。また、彼もそれを自負していた。

 研究者としては不必要な天賦ではあったが、それゆえに研究発表や資金援助の広報など、外の仕事を任されることが多かった。ギフトを利用して上手く立ち回るのも才能だ。



 この日犬飼に呼び出されたのも、そういった仕事を頼まれるからだろうと彼は踏んでいた。



「失礼します」


「ああ、入れ」


 返事があるまで、犬飼の執務室のドアを開けてはならない。

 犬飼自身がそれをしないというのに、周りにやらせるなんていうのはおかしな話だ。それでも誰もWHOのNo.2には口出しをしない。できない。

 彼がどういった功績を残したのかをセシルは知らないが、普段の横暴な言動が許されることから察するに、相応の実績と才能があるということか。

 少なくとも人望と信頼でこの地位まで上がってきたわけではないだろう。



 誰もが彼のことをよく知らない。


 本国籍ーー名前からして日本人だがーー、年齢、経歴、家族構成、血液型、誕生日、何から何まで全て。

 連合内の職員情報一覧を閲覧しても、彼の情報のみ最高位のセキュリティクリアランスがないと閲覧が不可能となっている。国家機密と同じレベルの個人情報を、セシルは知りたいとは思わなかった。

 だからセシルは正直な所、彼とはあまり関わりたくなかった。それでも呼び出しを無視する訳にはいかない。出世に響く。


 ドアの両脇にいるボディガードにチラと目をやって、セシルは部屋に入った。



「犬飼さん。今日はどのようなご用件で」


「あぁ。まあ、一つ頼みたいことがあってな」


 そう言って、大きく座り心地の良さそうな椅子に座る犬飼は、テーブルに置かれたコーヒーをすすった。彼の緑色の瞳がいたずらに光る。

 この部屋は綺麗に片付いていて、書類はなく事務仕事をしているような気配はいつもない。


「何でしょうか」


「お前。子守は得意か?」


「……は?」


「子守だ。とは言っても、高校生らしいから手間はかからんだろうが」


「……それは、研究対象ですか?」


 すると、犬飼は珍しくテーブルに置いてあった書類の束をセシルに手渡す。

 一番初めに目に飛び込んできたのは、『TOP SECRET(機密文書)』という大きな赤文字だった。そこには年端もいかぬ可愛らしい少女の写真と共に、彼女が特殊な細胞の持ち主であるという記述がされていた。

 これは、一端の研究員が軽はずみに目にしてはならないものではない。

 彼は顔を青くして犬飼を睨んだ。一体何をやらせるつもりだろう。


「不老不死の細胞の持ち主ーー厳密に言うと少し違うがな。劣化した細胞、又は死んだ細胞を蘇らせられるんだとか」


「細胞分裂の速さが尋常ではない、ということではなく?」


「俺は専門じゃないからよく分からん。それを読めばお前なら分かるかもしれん。とはいえ、まだしっかりと仕組みは解明されていないようだしな。その小娘の血液中には、普通の人間にはない細胞がある」


「なるほど。それが『SR細胞』と命名された訳ですか」


 セシルが書類のページを捲って小さく笑う。見つけられた細胞や治療法などの命名は、発見者の本名が使われることは少なくない。

 佐々木 理沙ーー被験者のイニシャルをとって、『SR細胞』と。


「話は分かりました。私が今まで知らなかったということは、この情報はWHO内でも極秘なんですね」


「ああ。こいつはとりあえず、施設内で匿うに当たって新しい毒物の耐性持ち、とだけしておく。お前が担当だ。さっき俺は『お願い』と言ったが、これは紛れもなく『組織命令』だ」


「何となくそう思ってました」


「断るなよ。断ったら首がふっ飛ぶぞ。いや、飛ぶのは頭か」


 犬飼が、右手で銃の形を作ってセシルを撃つ動作をした。

 断ればWHOは首になる上、口封じのために国によって抹殺されるらしい。流石のセシルも自分の命は惜しかった。


「勿論、命令とあらばお受けします。ですが、私は必要なのですか? ティーンエイジャーの世話を、しかも男が……」


「まず、職員には日本語を話せる人間が少ない。そして、『SR細胞』の活動は、小娘の精神状態に影響するという実験結果が既に出ている。お前に惚れさせろ。簡単だろう。この施設内の女の半分以上はお前の手つきだって聞いたぞ」


「うーん……アハハ……何か間違いでもあったらどうするんですか」


「小娘は孤児でな。それも、赤ん坊の時に孤児院に捨てられたときた。親族がどのような身体状態なのかが分からないんだ」


「……つまり、上としては、間違いが起きてくれた方が良い、と?」


「小娘の子供が普通の人間か、若しくは同じく『SR細胞』を持つ人間か。もし後者ならば、幾らか無理矢理にでも産んでもらう必要がある。全ては人類の輝かしい未来のためらしいぞ、ローウェン」


「……弱りましたね。まぁ、努めましょう」


「これは優先事項ではない。あわよくば、という話だ。一番は娘の懐柔」


 別にやろうと思えばできないことはないが、子供は守備範囲だ。写真を見たところ、被験者は十代前半だろう。抱くなら精神的にも身体的にも成熟した女が良い。

 彼は気持ちを切り替えて、今度は思わずうっとりしてしまうような微笑をたたえた。


「この理沙ちゃんは、一体何が好きなんでしょうか」


「さあな。会ってから調べろ。年頃の娘が喜ぶものでも考えとけ。お前は母親が日本人だったな。聞けば何か分かるんじゃないか?」


「そうですね。久しぶりに連絡を取ってみます」


「小娘がWHOに来るのは一週間後だ。これをやる」


 そう言って犬飼は、セシルの持っていた書類と交換してカードキーを渡した。黒いプラスチックで出来たそれには、金色の文字で『S』と刻印されている。


「地下の一番奥の研究施設で、『SR細胞』を研究している。そこのカードキーだ。後、指紋と虹彩と声も登録しなきゃならんから、後でタリスに声をかけろ。奴が責任者だ」


「分かりました」


 随分と厳重だ、余程知られたくないらしい。

 ざっと資料を見た程度だが、『SR細胞』を複製して他の人間の身体に入れることができれば、不老不死は不可能ではなくなるだろう。わざわざ大掛かりな研究をするということは、その細胞を他の身体に移すことによる弊害でもあるのか、細胞自体に危険性があるのか。

 カードキーが渡されたということは、セシルも研究に参加出来るということだ。

 ただのお守りならば研究施設に出入りする必要はない。これは研究員として、非常に名誉なことであった。しかし彼がお目付役に選ばれたのは、単なる組織への忠誠心と容姿だけが理由だ。実力ではない。

 そんなことは分かりきったことなのに、セシルの足取りは軽かった。


 *


 一週間という月日は彼にとってあっという間で、且つ、日々が鬱々としたものだった。


 まず彼は犬飼に呼び出されたあの後、自分の家のパソコンにEメールを送った。

 内容は『ティーンエイジャーの女子が一番喜ぶプレゼントは何か』。その一時間後。上司のタリスに声をかけて自身の身体情報をコンピュータに登録している内に、父親から五十件もの電話がかかってきていたことに気がついた。

 どうしたのだろうとセシルからリコールしてみると、スピーカーから飛び出る罵詈雑言。唯一聞き取れた文言は、「お前はついに女学生にも手を出すつもりなのか」という、大変不名誉なものだった。


 セシルはその一言で、両親の並々ならぬ勘違いを察し、こちらの話を聞いてくれない父親を着信拒否した。家族ともっとコミュニケーションをとりたい、という彼の淡い願望は、電話帳の父親の番号と共に消えたのだ。

 任務のことは両親にも話せないので、仕方なく「上司に相談されただけだ。父さんはもう良い」と母親にメッセージを送ると、その後すぐ母親から謝罪のメッセージが届いた。


 どうやらティーンエイジャーは、服やアクセサリーが好きらしい。

 成人女性も似たようなものだ。しかしセシルは佐々木理沙の身長やBWHを知り得ない。よって、アクセサリーを送ることにした。

 被験者は半永久的に軟禁されるため、アクセサリーは不必要といえば不必要なのだが、女性という生き物は光物や可愛いものをみるだけで精気が湧く。

 カラスのようだ、と彼は思っていた。



 ニューヨークは若者の町だが、高級品店が少ない訳ではない。

 セシルはWHOの近くにある用達しの宝石店に足を運び、特注でダイアのネックレスを作ってもらった。全て自費である。

 申請すれば経費でも落とせるだろうが、犬飼のことだ。もしそんなネックレスを被験者がつけているのを見たら、「国からのプレゼントの割には安っぽい」とでも言うだろう。

 そんなことで信頼関係が崩れるのは御免だった。


 見目の良い異性からプレゼントをされて喜ばない人間はそう多くない。

 自分の監視対象とて例外ではないとセシルは自負していた。



 そして一週間。

 新しいスーツを下ろし、セシルは久しぶりに白衣以外で鏡の前に立った。我ながらハリウッド俳優さながらの様相だ、と少しナルシシズムに浸っていると、背後にある白い時計が八時を指していることに気がついた。

 タクシーを使ってWHOのニューヨーク支部まで行き、専用カードキーを使って奥へと入る。

 受付嬢達は彼に熱い視線を向けているが、今構っている暇はない。


 佐々木理沙が犬飼と来るまで、彼女の部屋で待っている必要があるのだ。犬飼は気まぐれだ。佐々木理沙を連れ出すのに、何時間かかるか分からないし、いつ来るのかも分からない。もしかしたらもう部屋にいるかもしれない。

 佐々木理沙の軟禁部屋の呼び名は、『No.S1』。他にも様々な特異体質の被験者がいるが、数字の前に『S』がつくのは、特別待遇の被験者のみにあてがわれる部屋である。数字が1ということは、そのような待遇を受けるのは彼女が初めてだということだーー元よりニューヨーク支部に被験者は少ない。


『No.S1』は、まるで五つ星ホテルのスイートルームさながらの絢爛さを誇っていた。そうはいっても、成金が好むような下品な煌びやかさはない。

 政府が各国の質の良い家具屋に依頼して作らせた品やアンティーク、本棚には日本語の本がずらりと並んでいた。これは被験者への配慮だろう。

 彼女の脳みそが、虹やユニコーンに侵食されていないことを祈るばかりだ。部屋の内装で機嫌を損なうのは勘弁してほしい。



 それから、彼は五時間ほど待ったであろうか。

 母の母国語の本を手に取り、六冊読み終わった辺りで、『No.S1』のドアが開いた。この部屋は、カードキーがないと出入りができない。つまり、漸く待ち人がその姿を現したのだ。



 先陣を切って入ってきたのは犬飼だった。

 彼は部屋に入るや否や不機嫌そうな表情を深め、家具を品定めするような目で見つめた。


 その後についてきたのは、小柄な少女だった。長く黒い髪を一つにまとめ、可愛らしい容姿をしていた。日本人の見た目は実年齢と比例しない、とセシルは母親を見て学んでいる。が、しかし、彼女の容貌は齢十六にしては大人びている。優しくて暗い目をしていた。

 ーーこの子が、佐々木理沙か。

 共に時間を過ごすならば美しい方が良い。少し安心したセシルは優雅にお辞儀をする。


「お疲れ様です」


「あぁ。……おい、小娘。これがお前の世話係のセシル・ローウェンだ。何か困ったことがあったら、俺じゃなく、こいつに言え」


「だ、男性ですか」


「文句を言ったら殴る」


「……分かりました。一体何を企んでるのかは知りませんけど……彼は日本語でも大丈夫なんですか」


 理沙の目から見てみると、セシルの姿は純正の外人だった。ハーフでも海外の血は濃いようで、セシルの顔にはアジア系の面影は見られない。


「うん。僕は母が日本人だから、バイリンガルなんだ。宜しくね、理沙ちゃん」


「……宜しくお願いします」


 互いに笑顔を向け合う。分かりやすい作りものだ。

 犬飼は気味の悪い連中だ、と吐き捨てるように言うと、部下二人を連れて部屋を出て行った。残された初対面同士の二人は、心の中で小さく悪態付いた。


「ごめんね。犬飼さんは乱暴なんだ。あんまり説明も受けていないんじゃないかな」


「えぇ。不慣れた言語で綴られた書類を渡されて、簡潔に私の身体がどうとか言われて、それ以降は質問も許さずすぐさま米国に連行されました」


「怒ってるかい」


「別に。ああいう人もいるでしょうから」


「彼は少し特殊なんだと思うよ、理沙ちゃん」


 馴れ馴れしい人だな。

 理沙は心の中で悪態づくと、手に持っていた本を近くのテーブルに置き、辺りを見回して顔をしかめた。てっきり、もっと研究施設チックな部屋に通されるかと思っていたが、これでは病院の生活とそう変わらなさそうだ。


 セシルは、自分が目の前の少女に酷く警戒されているのを肌で感じた。

 至極当たり前の反応である。異性の世話係を紹介されて、素直に喜ぶのは難しい。捻くれたティーンエイジャーならば尚更だ。

 しかしそれでもセシルには勝算があった。肝心なのは第一印象だ。子供を、しかも日本人を口説いたことはなかったが、辺り触りのない褒め方をしておけば勝手に距離は縮まるだろう。

 今までの女たちと同じように。ちょっと優しくして微笑みかけて、少し好意のあるふりをすれば、あっという間に仕事は終わる。



「ローウェンさん。世話係って、具体的に何をするんですか」


 本棚のサッシを撫でながら理沙が言う。チリ一つ指につかなかったことが不満なのか、ため息をついた。


「何なんだろうね。食事の運搬と話し相手とかかな。一週間前に突然犬飼さんに命令されて、僕も良く分からないよ」


「専門の方じゃないんですね」


「まさか。僕の本職は研究員だよ」


「あぁ、なるほど。私の日常的な生活の監視ですか。まぁ、監視カメラをつけられるよりかは……カメラ……」


 すると理沙は、隅にある観葉植物の隙間や、天井、テーブルの下など、慌ただしく様々な場所の探索を始めた。

 思わずセシルは苦笑を漏らす。


「カメラはないよ。流石に被験者でも、プライバシーの権利はある」


「身体の自由は保障されないみたいですけどね。まぁ、一応はローウェンさんの言葉を信じることにします。探すのも億劫ですから」


 そう言うと、理沙は少し躊躇いながらソファに腰掛けた。反発性の高いクッションに驚き一瞬だけ目を見開いたのを、セシルは見逃さなかった。強がっても子供か。

 微笑ましく思いながら、彼は理沙の向かいのソファに座った。

 すると必然的にテーブルに置かれた本に目がつく。理沙の持っていたものだ。


「君はニーチェが好きなんだね」


「……えぇまぁ」


「君という存在は、永劫回帰の考えからは外れるのかな」


「永劫回帰ーーこの世のあらゆる存在が、何かの意思によって永遠に繰り返す……私は良い考え方だと思ったんですけどね」


 困ったような肩をすくめると、理沙は本を手に取り、滑らかな表紙を撫でた。孤児院にも同じものがある。子供達の大半は倫理などという学問に興味を示さないものだから、孤児院の本棚の一角は理沙しか触れないアカデミックな本が占拠していた。


「私は死なないんですね」


「あぁ。そもそも、老いの原因さえもまだ特定されていないからね。君は、老いない世界初の人間だ。死んだ細胞が蘇るっていうのは、少し考えものだけれど」


「難しいことはよく分からないです」



 それからクエスチョンアンドアンサーを幾らか繰り返していると、そろそろ理沙もうんざりとしてきた。自分のことを聞かれるのは嫌いではないが、あまり深く掘られると、心に土足で踏み込まれそうになるような気分になってしまう。

 確かに目の前の青年は容姿が良く、紳士的で、自分に対して好意を抱いているように見えるが、だからこそ彼女は警戒しなければならなかった。

 適当に良い男を見繕っておけば手篭めに出来るとでも思われているのだろうか。随分と甘く見られたものだ。

 彼の笑顔が、理沙の、後ろ指を指されて笑われるような不愉快な気持ちを引き出す。こんなに軽率に見られているのか。


「理沙ちゃん、もしかして、緊張している?」


「いえ。そんなことは」


「敬語は使わないで良いんだよ。僕達は対等だからね」


「……そう」


 満足そうに頷くと、セシルは心の中で一つため息をついた。

 どうやら随分と距離感が空いてしまった。何が悪かったのだろう。彼はゆっくりと、親切に接したつもりだった。今までもそれで上手くいっていたし、今回もいつも通りで良いと思っていた。

 今まで数え切れないほどに恋人がいたし、今も付き合っている女性が両手じゃ足りないほどいる。彼にとって女性に好意を向けさせる、という行為は息をするようなものだった。それを犬飼も分かっていたのだろう。だからこその人選だ。

 まあ、時間をかければなんとかなるに違いない。



「あぁ、そうだ。君にプレゼントがあるんだ」


 けれど彼は少しだけ焦っていた。

 それを表情に出さないように努めながら、時間が経ってから渡そうと思っていたものを、自分の皮鞄から取り出した。白く硬い箱で、金色の刻印がされていた。一週間前に彼が買ったネックレスだ。

 理沙は怪訝に思いながらも受け取った。


「これは何?」


「これから長い付き合うになると思って。お近づきの証に」


「物で釣るの?」


「そんなつもりじゃないんだけどな」


 そんなつもりだった。

 理沙もそれを分かっていて、当てつけのように口にした。彼は今この状態でプレゼントを渡すべきではなかったのだ。彼女は彼の焦燥を察するとそっと箱を開けた。

 中には金色のネックレスが入っていた。シンプルなダイアの装飾がされており、『R』の文字があった。


「洒落てる。でもローウェンさん、女の子にプレゼントとかしたことないんじゃない?」


「どうして?」


「今時の子は、指輪とかの方が喜ぶよ。それも、飛び切り大きな宝石がついた」


 適当に話を作った。

 意地悪をしてやろうという気持ちが働いただけで、何の意味もない。


「そっか。じゃあ、日を改めてプレゼントし直すよ」


「私はこっちの方が好き。逆にそんなのプレゼントされても困るよね。これ、幾らしたの?」


「値段を聞いたら駄目なんじゃないのかい?」


「ソースは何処なの?」


「母親だよ。プレゼントの値段を聞いてくる女には気をつけろ、ってよく言われる」


「別に年収とか推し量ってる訳じゃないよ。貧乏根性が働いてるだけ。孤児だって知ってるでしょう」


「うん。まあね」


 セシルは、自分が『母親』という言葉を口にしたばかりに、理沙が不愉快な気持ちになるのではと思ったが、見る限り彼女はさほど気にしていないようだった。

 日本語は、英語と違ってニュアンスのギャップが激しいのか。敬語を緩めた途端、一気に距離が縮まったような気がした。


「けど、研究者の年収は少し、気になるな」


「僕達は国に……というか、『WHO』自体が国際機関だから、そうだね。普通の研究者の数倍は貰っているかもしれない。具体的な値段は内緒だよ」


「凄いなぁ……私、理系のローウェンさんとは一生分かり合えないよ」


「僕の専攻は生物だから、もしかしたら分かり合えるかも。理沙ちゃんは頭が良いって聞いたよ? 英語もペラペラ?」


「残念ながら読めるんだけど、リスニングが苦手なの。耳が悪いみたい」


 ふと、理沙は犬飼に言われたことを思い出した。

 彼女なりの冗談なのだろうと、セシルはわざと大袈裟に笑って見せた。外国人はオーバーリアクションだから、これくらいの身振り手振りは普通なのか、と彼女は納得した。


「ローウェンさん、っていう呼び方は、少しむず痒いな。セシルで良いよ。僕も理沙って呼んで良いかな?」


「……良いよ。この年でちゃん呼びは、正直気持ち悪いや」


「あはは、日本の子のことはよく分からないよ」


 理沙も真似して、ふっと唇を解した。


この世界線の地球のWHOは、感染症対策や世界の人々の健康水準の向上だけではなく、世界の利になりえる特別な事案に関する研究行為も行うこととします。

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