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14 迎合と

『おはよう、初めまして。私はアリア・レッドフィールド。『SCL』の責任者よ』


 差し出された手を理沙は少し疲れたような表情のまま握った。

 赤髪の美しい女は笑顔を崩さないが、その目はまるで品定めするかのように理沙のつま先から頭までジロリと見回している。

 理沙はソファに座ったままアリアの顔を見つめた。息をのむほど綺麗な女性だった。その黒縁眼鏡の奥のエメラルドグリーンに目を奪われていると、アリアは理沙の手を空いたもう片方で優しく包み込んだ。そして視線を合わせるためにしゃがむと、突然はあっと賛嘆のため息を漏らした。

『は、初めまして。佐々木理沙です』


『話はよく聞いているわ。貴女に会えて、私とっても嬉しい』


 まるで教科書の定型文のような受け答えだった。

 しかしそれといって冷たさは感じられない。理沙に気を使って簡単な英文で済まそうとしているのかは定かではないが、聞き取りやすい英語だった。

 理沙は手をいつまでも握られていることに気まずさを感じて、セシルに無言の助けを求めた。


『ミス・レッドフィールド。もうよしてやってくれないか』


『貴方にどうこう言われる筋合いなんてないわ』


 ーーおっと、仲悪いな。

 アリアはセシルにそう言われてすぐに手を離したが、なんだか名残惜しそうに自分の両手を見つめなおした。

 理沙は直感的に、この人とは合わないと感じた。



 今朝、アリアは突然『S1』を訪れてきた。

 要達でもアポイントメントなく入ってくることはないためセシルは非常に驚いた。こういう無作法な入室の仕方をするのは犬飼だけだから、てっきり彼が来たのだと思って、セシルは心臓がひっくり返ったような衝撃と緊張に襲われた。

 しかしまさか訪問者が、礼儀とモラルを誰よりも重んじるアリアだとは。

 アリアは部屋に入ってくるや否や、日本の日刊新聞を読む理沙を見て目を輝かせ、冒頭の言葉を口にしたのだ。彼女が入室し理沙に握手を求めるまで、おおよそ十秒の時間もなかった。


 理沙はセシルと目を合わせて互いに首を傾げる。

 アリアのことをよく知っているセシルでさえも、彼女が一体何の目的でここにやってきたのか見当がつかなかった。彼女は腰に手をやって『S1』をグルリと見渡す。


『あら。質素な部屋ね。折角広いんだからもっと好きな家具を注文して良いのよ。イギリス王室御用達のソファでも必要経費で下りるわよ』


『理沙は華美なものが好きじゃないんだ。このくらいで良いんだよ』


『そうなの……覚えておく』


 ざっと目にも止まらぬ早さで振り返ると、アリアは理沙に笑顔を向けた。長い赤髪が揺れてバニラのような甘い香りがした。なんとなくセシルと似た香りだった。


『じゃあ理沙ちゃん。この男に何か変なことされてない? 無理矢理身体を触られたりだとか……キスされそうになったりだとか』


『え?! い、いえ。セシルはいつも優しくて……とっても、紳士的な人です』


『本当? ……まあ良いわ。何か嫌なことがあったら、すぐに教えてね。南極支部に飛ばすから』


 冗談を言っているようには見えなかった。セシルもそう感じたのか、全身からどっと冷や汗が流れ出た。

 WHOは世界各国の主要都市に支部を持っている。アメリカにはニューヨークの他に、ヒューストン、サンディエゴにも支部がある。南極大陸は領域主権の主張が完全に禁じられているため、各国の研究所が置かれていて、その中に南極支部もある。そこへ派遣されている友人曰く、夏のみの移住らしいが、それでも死ぬほど寒いと。

 残念ながらアリアには異動の決定権も少なからず握っている。最終決定者の犬飼が、基本的に彼女の決定に口を出さないのだ。もし『SCL』の国家機密を知る職員が異動させられるとしたら、辺境の地南極の他ないだろう。セシルは改めてこの女には逆らうまいと思った。


 するとアリアは手に持っていた黒い袋を理沙に差し出してきた。すべすべした触感の軽い袋だ。理沙は表紙に書かれた文字を見ると目を見開いた。


「『パティスリー・ジャンヌ』だ……!」


「ああ、フランスのチョコレートブランドか」


 流石、女性を釣るための道具には知識があるのかセシルは理沙の言葉に目ざとく反応した。アリアはそれを見ると、自信ありげに大きく頷く。


『昨日買ってきたの。甘いものが好きだって聞いてたから』


『あっ、ありがとうございます』


『良いのよ。どうせ、パッサパサの健康良品のお菓子しかもらえなかったんでしょ? 我慢しないで良いのよ』


 アリアの言った言葉は真実ではあったが、理沙はその”パッサパサ”のお菓子で満足していた。元々甘味が貴重な生まれなのだ。希望したら何でも好きなものを作ってもらえる環境が、彼女にとってどれほど異常であるか。

 そもそも、理沙はブランドのお菓子を要求して誰かの手を煩わせることはしたくなかった。勿論セシルに「好きなものを〜」と言われ、テレビで見たっきりずっと食べたかったタルトやエクレア、マカロンなどの有名所のスイーツを頼んでみたかった。それでも皆忙しなく働いていると聞いてしまった以上、自分が我慢するしかないと思った。


「嫌だな。もしかして我慢してたの?」


「そ、そんなことないよ」


 理沙はとっさに嘘をついた。しかしそれはセシルには見抜かれていたようで、


「もう。気にしないで良いんだよ。君は理不尽に自由を奪われているんだから、それくらいの我儘が許されるーーいや、もはや我儘でもないね。当然の要求さ」


「そうなの……?」


「ああ! 理沙が喜んでくれるなら、僕にできること(・・・・・・・)は何でもするよ」


 やけに一部だけ強調されているように感じた。

 セシルはよくやってくれている。上から目線のようだが、理沙はいつもそう思っている。アリアは日本語は分からなかったが、二人の間に何か見えない強いものを感じたのか、少し自分がここにいることが恥ずかしくなった。


『わ、私今日はもう帰ります。ミスター・サカモトは今日は9時半に来るそうよ。じゃあ』


 そう言って足早に部屋を出て行った。

 ーーあれは一体何だったんだろう。

 理沙とセシルは再び首を傾げたが、やっぱり分からなかった。ただしブランドもののチョコレートは良い収穫だと言える。理沙は緩む頬を隠すことなく袋を膝に乗せ、そっと中から四角い箱を取り出した。そこには筆記体で何やら色々と書かれているようだったが解読することはできなかった。


「一応……袋とか箱とか。確認させてもらっても良いかな」


 さあ開けようと意気込んだところで、セシルからストップが入った。その言葉に理沙はむっと眉をひそめる。


「セシル、あの女性(ひと)と仲悪いんでしょ?」


「ああ。まあ、一方的に嫌われてるって言った方が正しいけれど。とりあえず、ほら、寄越しなさい」


「先に開けさせて? ね? 良いでしょ?」


「……オーケー」


 自分がもらったものは、自分が一番に開けたかった。

 孤児院では年長者のためずっとこういうことは年下の権限で、かつ、自分だけに買い与えられる菓子というのは誕生日でもそうそうないことだった。

 全くの初対面からのプレゼントでも、信用している組織の偉い人間から渡されたチョコレートは信用できる。いきなり渡されたネックレスよりかは、ずっと。

 それに先に調べてからというのも、セシルの個人的感情のように思えてならなかった。


「ごめんね。でも最近物騒なんだ。『SCL』内でも警戒が強まってる」


「大丈夫でしょ。私、WHOと研究者の人達のこと信用してるし」


 理沙は最近、”信用している”という言葉を多用するようになった。主に、言葉を返すのが面倒な時に使われる。

 何でもかんでもこの言葉で済ませて良い問題ではないが、理沙はこの言葉でセシルが押し黙るということを知っている。ただし今回の件は、セシルの言う通り”信用している”で済ませてはならないような問題だった。


 要経由で流れてきた噂だが、『SCL』内の機密情報が外に漏れているという。

 何やら地下施設内のデータベースに無断アクセスが行われた形跡があったそうだ。しかしこれはあくまでも噂に過ぎず、そもそもデータベース云々の話すら本当かどうか怪しい。セシルが犬飼に直接聞いても濁されるだけだし、警備担当に話を通すほど地位は高くない。

 それに『SCL』に所属する面子は全員幼少から現在に至るまでの経歴、交友関係などの私的な個人情報を全て洗い出されており、外部の危険組織との繋がりが一切なく問題ないと判断された者だけがメンバーになることを許される。


 しかしセシルの大学時代の逮捕された先輩との交流や、違法スレスレの多様な問題行為などが明らかにされていればーー調査で判明しているのは確実だろうーー彼はメンバー候補にすらなりえないだろう。それどころか国際組織の威厳を保つために窓際役職に飛ばされるかもしれない。

 それなのに何故セシルがここにいるのか。

 それはひとえに、要からの絶大な信頼があったからだろう。


 そう。だからこそセシルは『SCL』に所属する人間全員を信用しきることができなかった。ここに、上層部のチェックをすり抜けた自分という例外中の例外がいるのだから。

 同じように上の強い信頼があるだけで入ることのできた人間がいる可能性は高い。


「うわあ、凄い!」


 考え事をしていると、理沙が声を上げた。黒い箱の中には色とりどりのチョコレートが円になって並んでいた。それぞれは小さいが、説明書によると中に入っているクリームやジャムの味が違うようで、また塗装された色は花のように爛々と鮮やかさを主張していた。

 有名なチョコレートだ。セシルはこのチョコレートを女性雑誌の表紙でちらと見たことがあった。


「こういうの、食べるの勿体無いよね」


「僕がまた買ってきてあげるからさ」


「本当? じゃあ、遠慮なく食べる。あっ」


 セシルが半ばひったくって箱、チョコレートや袋ーーその他隅々まで調べたが、盗聴器やそれに準ずるものは見つからなかった。

 杞憂で済んで良かったと思う反面、やはり、アリアを信用しきれない自分がいた。

 三月ほど付き合っていて分かったことだが、彼女は明らかに外部の組織との繋がりを持っている。他にも調査員の話によると、研究者の一人や生物実験室の班長、そして料理人の一人も怪しい行動を取っているという。しかし彼らをスパイと断定するには早計すぎる。セシルのように過去そうだっただけで縁を切っている者だっているだろうし、この間の情報漏洩も噂に過ぎないのだ。

 機密情報を握っているだけ、『SCL』の人間のクビを切るという行為は並大抵のことでは行われまい。

 もしクビを切られてもその後すぐに速やかに暗殺されるだろう。人類の夢と一人の命。お偉い方にとって、後者の価値はとんでもなく軽い。代わりはいくらでもいるのだ。それか、南極支部への移動だろうがーー相当口が固いと上から判断されるような人物ではなければそれも難しいだろう。


「はい。もう良いでしょ?」


「ああ、あとちょっとだけ」


「毒味はしないでよ。どうせ毒が入ってても死なないんだから」


 理沙は笑いながらそう言った。

 彼女が自分に身体に関する冗談を言うのは珍しいことだった。誰よりも自分を忌み嫌っているのは彼女自身なのに。だから意外だった。


「ほら返すよ」


「ハイハイ、オツカレサマー」


「棒読みは止めなさい」




 *




 胸の前で手を組み、頭を垂れて跪く。膝の痛みを気にしてなどいられない。かれこれ二時間半もこうしているせいで、彼女の顔には薄らと苦悶さえ浮かんでいた。


 そこには祭壇があった。

 巨大な十字架を中心に金属製の黒い箱が並べられており、触れると氷のように冷たい。彼女はその前で祈りを捧げていた。

 部屋には蒸せ返るような紅茶と百合の香りが充満していた。真夏の夜のように蒸し暑くこもっていて、光源は祭壇付近に置かれた蝋燭の赤色だけだった。それがどうも虚しかった。



 牧師は椅子に座り、足を組んで彼女の様子を見守っていた。

 薄く細長い目はいつにも増して大きく見開かれており、そこには赤髪の女がとらえられている。


 あの女の髪を見ると牧師はいつも享楽を望む身体の衝動に耐えねばならなかった。牧師らしからぬ点火された欲を持て余していた。

 気を紛らわせるように、牧師は百合を右手で遊ばせた。光に照らされて今はオレンジにも赤にも見えるが、これは紛れもなく黄色の百合だった。


 牧師はため息をついた。するとそれが女にも聞こえたようで、ビクリと肩が揺れるのが見えた。彼女はいつまでああしているつもりだろう。

 久しぶりにホテルに呼び出したら真っ先に懺悔を始め、止めてもずっとあのままなのだ。熱心なのは構わないが限度があると思わないか。

 好い加減暇が昂じてきた。この明るさでは聖書もまともに読めたものではない。牧師は立ち上がると、努めて優しい声でアリアに話しかけた。


「貴女の祈りはもう届きました。神は赦すはずです」


「私は……私は失礼な態度を取ってしまったのです」


 蚊の鳴くような声だった。

 この部屋が防音で、かつ驚くほど静かであったからこそ聞き取れた。

 牧師は流れるように彼女の隣にしゃがみこむと、セラピストのような顔になって尋ねた。


「誰に?」


「理沙です。佐々木理沙。私はローウェンを彼女から離したかった……けれど彼女は、ローウェンのことを強く信頼していた」


「どうして? セシル・ローウェンは人間的な欠陥があるんでしょう?」


「さあ。猫を被っているのか、もしくはーー」


 女は最も嫌な結論の一つに辿り着いた。

 男女がほぼ一日中同じ部屋にいて、互いに容色に優れているし、男は紳士的だーーそうなれば、理沙のような年頃の少女が簡単に恋に落ちるのは何も不自然なことではない。

 ましてや、セシルは誰しもが見惚れる優れた容姿を持っている。これが物語なら、幽閉された少女がさながら悪者に囚われた哀れなプリンセスで、セシルはそれを救いにやってくるプリンスに他ならない。

 そうでなくても、あのような存在が近くにいるだけで人は意識してしまう。アリアもそうだった。

 牧師は彼女と同じことを思い、顔をしかめた。


「そうですか。そうですか……厄介ですね。ならば、我々が自由を餌に手を差し出しても取りはしないでしょう」


「確実に。佐々木理沙ならば」


「ローウェンの買収は? あれでも野心的な男のはずですが」


「ええ。……一年前なら、それで片がついたとは思います。でも今は」


 そこまで言って女ーーアリアは口をつぐんだ。

 彼女はセシルの変わりように驚いていた。アリアは自分を洞察力と感情察知に長けた人間だと自負していた。

 少し前までのセシル・ローウェンならば、金と地位と安全さえ用意すれば大手をふるってすぐさま理沙を売っただろう。合理的で冷淡で、犬飼に遅れをとらない悪徳を胸に秘めていた。あの男は見かけによらず野心的で傲慢な人間だ。

 アリアはそんな彼を心から哀れんでいた。


 だというのに。

 なのに、


「彼は変わってしまいました」


 きっぱりと言い切ったアリアの姿に、牧師はただでさえ薄い目を更に細める。

 ーー人は簡単には変われない。

 牧師はセシルの本質が欲望に囚われた醜さだと確信していた。彼は救いようのない人間を数えきれないほど多く見てきた。セシル・ローウェンはその一人のはずだ。

 しかし牧師はそれよりも、アリアの表情が気になった。善と潔白を好む彼女が、セシルを評する言葉を口にしながらも憮然としていた。子供が大人に自分の大切なものを奪われてしまったような虚しさと、怒りだった。

 ーーこのままこの話題は危うい気がする。


「ミス・レッドフィールド」


 アリアが顔を上げる。


「多くの科学は暴力的だ。分かりますか?」


「はい」


 一瞬でアリアの表情が切り替わった。自分の言葉に素早く反応するのは、数多ある彼女の良いところの一つだ。尤も、先ほどまでは牧師の声など届いてはいなかったのだが。

 表情筋を固く引き締めたアリアはギリシア彫刻のように美しかった。その眼差しは牧師を真っ直ぐとらえていて、愚直ささえも感じられる。彼にはその山水のような純粋さが眩しかった。ふっと笑うと牧師は彼女を直視しないように身体をよじり、視線を爪先に向けた。磨かれた革靴に乾いた泥がついていた。


「……私はね、倫理観のない科学者が大嫌いなんですよ。先日のニュースを見ましたか。某国のクローン実験」


「人工的に双子を作り出そうという?」


「ああ。神を冒涜している」


 怒気に圧されてアリアは後ずさった。

 彼の温厚な性格は表情から仕草まで滲み出ているのが常だ。しかし、慈悲と博愛の牧師もしばしば感情的になる。

 声を荒げる彼は妙な魔力を持ち、見る者の反骨心を根こそぎ奪い取るのだ。

 アリアはそれこそが牧師の”カリスマ”だと信じていた。


「良いですか、ミス。科学は人を豊かにすれど幸せにはしないのです」


 こうなったら誰にも止められない。牧師の反科学説法が始まる。

 研究所の人間が聞いたら憤怒を露わにしそうな偏見に満ちた内容の連続。アリアはそれを聞きながら、かの主の御言葉を直接いただくような夢見心地に陥っていた。

 まともな思考回路な人間ならば辟易としてしまう、断続的で宗教的な説法は、彼女にとって麻薬の一種のようなものだった。牧師の一挙一動、一言二言で脳内からドーパミンが滝のように湧き出てきてーー少なくとも彼女はそう感じているーー恍惚とする。天にも昇る気分だ。五感が鈍くなり、やがて強い紅茶の香りと牧師の声だけを脳が認識するようになる。


 アリアが漸く足を地面から離すことができたのは、それからおよそ一時間半が経ってからだった。牧師はすっかり喉が渇いて、二人とも熱気のせいで半ば脱水症状になっていた。アリアは特に疲れが如実に表れていて、先ほどまであふれていた恍惚は何処へやら、壁にもたれて薄く目を瞑っていた。

 牧師は彼女を紳士的に支えると、今日はもう帰りなさいと命じてすぐに部屋から出した。追い出されるような形だったが、すっかり酩酊したアリアがそれを疑問視するようなことはなかった。


 アリアは覚束ない足取りでエレベーターまで歩いた。部屋に鞄を置きっぱなしにしていることなど気づきもしない。

 ここが例えば普通のホテルだったならば、このまま見知らぬ集団に連れ込まれる可能性を危惧すべきだがーーここは世界有数の五ツ星ホテルだ。唯一懸念するべきは石油王や王族といった規格外の金持ちだろう。ああいった人種に暴行を受けた場合、被害者は事件を表沙汰にできず何があっても金だけで解決される。

 アリアはそのような被害にあったかつての同僚を覚えている。尤も、同僚を傷つけたのは資産家ではなく所属組織の最高幹部の脂ぎった中年男性だったが、その事件が金で解決されたことに変わりはない。



「ミス、大丈夫ですか?!」


 歩くこともままならず壁に手をついてもたれかかっていると、近くを通りがかったボーイに声をかけられた。声をかけられた途端ぼやけていた視界が一気に明瞭になる。彼にはアリアが今まさに死んでしまいそうなほど薄く見えた。実際、彼女は身体に力が入らないだけで何か命の危機に瀕しているというわけではないのだが、容姿が美しいとみると人は余計に情を感じてしまうらしい。

 ボーイはトランシーバを使って仲間を呼ぼうと耳のスイッチに手を伸ばしたがーーそれはアリアによって阻まれた。彼女はボーイの耳を手でそっと塞いだのだ。


「良いの」


 絞り出した声には色気があった。初心なボーイはアリアと同じくらい顔を蒸気させのぼせ上がった。


「……良いのよ。平気」


「で、ですが体調が悪いのでは? では医務室までーー」


「ううん。ちょっとお酒が回っちゃっただけだから。水をくださる?」


 かすれた声に頷き、ボーイはすぐさま走り去るとそれから数十秒も経たない内にミネラルウォーターのペットボトルを抱えて戻って来た。

 彼がおぼつかない手つきで蓋を外すと、アリアは半ば奪い取るようにしてそれを飲んだ。

 ボーイは彼女を呆然と見つめ続けた。水かさが落ちていくのに合わせて、彼女の喉元が小さく上下する。細く長い首は今にも折れそうで弱々しく、思わず触れたいと感じさせた。口から溢れ出た液体が彼女の真っ赤な唇を通り、頬を通り、耳元まで伝ってゆっくりとカーペットに落ちた。世界がスロー再生される。ああそれと、花と紅茶の香りだ。彼女のような美しい女性になんてぴったりなーー



 ーー大丈夫?



「ーーねえ、大丈夫?」



 はっとした。客の前で思わずぼうっとしてしまっていた自分は、ボーイ失格だろうか。

 ペットボトルの中身をすっかり喉に流し込んだ彼女から、先ほどまでの薄幸さはどこぞへと消えてしまっていた。熟れた無花果のような唇が歪むのが見えた。


「も、申し訳ございません。お客様」


「構わないんだけど……貴方こそ休んだ方が良いのではなくて?」


「お気遣いありがとうございます。下までお送りします」


 ボーイの言葉にアリアは良い反応を示さなかった。

 このホテルで誰かに不用意に見られるわけにはいかない。ただでさえ彼女の容貌は目立つし、ここは高級ホテルで、WHOや国連の幹部職員も利用する。外部との繋がりを察知されてしまったが最後、使い捨ての駒のように即座に首を切られるだろう。

 そしてボーイも職業柄、彼女のような訳ありの客には慣れていた。彼女が何かしらの事情を抱えていると察したため、


「分かりました。職員用の出入り口があります。そちらで裏口までご案内しますよ」


「いえ! エレベーターまでで良いわ」


 彼は努めてアリアの役に立とうとした。

 それを察したのか、せめて男の矜持くらいは守らせてやろうと彼女はボーイにエレベーターまで連れて行ってもらうことにした。

 体調はすこぶる悪い。しかし平然を取り繕うことはできるし、一階に降りる頃にはすっかり支えなしで歩けるようになっているだろう。


 ボーイの肩に手を回し、まだかすかに白い視界を凝らして歩く。エレベータの中に入り、ガラス窓から見える夜景を綺麗と感じる余裕もないまま、一階のボタンを壊してしまいそうな勢いで強く押す。

 自動ドアが閉まり、未だ憂慮を浮かべたボーイの顔はもう見えなくなった。


「はあっ……」


 一人になり、彼女はそっと胸に手を当てる。抑えていた感情が煙のようになって彼女の周りに漂っているような気がした。

 それは苦しみや悲しみから漏れ出るため息ではなかった。


 ”懸想”だ。


 この身体の怠ささえも愛。あの人から私への洗礼。

 神は慈悲深い御心と思慮を以ってあの人と私を巡り会わせたのだ。



 だからきっと、私は為さなければならないのだ。


 あの方に応えるために。


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