13 金と権力、それと
カシミア素材が黒の中に鮮やかな光沢を生み出す。
イタリア製のブランドスーツに、磨き上げられたイギリス紳士愛用の革靴。歩くたびに見事な金髪が揺れて、エントランスに芳しく色っぽい香りを充満させる。全身のモノクロと彼の持つ金と青の調和、そしてその容貌はまるで完全に計算しつくされた絵画のように美しく洗練で、すれ違う人々の視線を余すことなく奪っていった。
画面の向こうから出てきたような存在は特別視されるのが常だ。
だからこそ、完璧に振舞わなければならない。彼はそうあるように望まれているのだ。
特に女性からの熱い視線が彼の自尊心を大いに満たした。
自分には何でも揃っている。容姿、学歴、家柄、社会的地位ーーどれを取っても文句の付け所は見当たらない。
ただ欠点を挙げるならば、その女癖の悪さとプライドの高さか。
「やあ、ミスター・ローウェン。叔父さんの大統領就任、おめでとう」
「ありがとう。誇らしいよ」
地下研究施設へ入ると、すぐさま同僚の研究者に声をかけられる。
昨日ついに新たな大統領が決まった。第××代大統領はーー共和党のクラウス・アイザック・ローウェン。新大統領はセシルの叔父だった。
そのニュースを聞いた時、彼はとてつもなく複雑な気分に陥った。
「そういえば今度はフランスの若い女優と付き合い始めたんだって?」
「あぁ……もう知れてるのか」
「まあ火遊びも程々にな」
「良いんだ。どうせすぐ別れる」
何か叔父の汚名にならないかと、久しぶりにーーしかしいつも通りーー適当な女性と交際を始めてみたが、どうやら効果はなかったようだ。そもそも最近逢瀬する時間もない。
ーー何度か遊んで満足したし、そろそろ切るか。
ーー理沙と一緒にいる時の方がずっと楽だし、ずっと心が安らぐ。
大体、有名人と付き合うのは分が悪い。ずっと人目を忍ばねばならないし、パパラッチも面倒、それに相手も時間が取れないことが多い。女優やモデルなどと付き合うのはこれで八回目になるが、やはり身近な女性が一番楽だ。
同僚と別れた後、セシルは地下の食堂に向かった。
時刻は午前七時半すぎ。ここで食事を受け取って、とっくに目覚めて読書をしているであろう理沙の元へ行く。
途中多くの休暇明け派閥に祝いの声をかけられ、その度に面倒な挨拶を返す羽目になった。今朝テレビで見た、あの男の得意そうな顔が頭に浮かぶ。まるで子供がテストで満点を取って、それを友達に自慢する時のような幼い気取った笑みだった。
「おっ、大統領の甥だ」
食事を乗せたカートを引いていると要に絡まれた。
仮眠室睡眠明けらしく白衣にはシワが寄っていて、いつも通り右側の髪が奇妙な方向に捻じ曲がっている。彼の黒髪は常にダイナミックな曲線を描いていて、今日の凸は下向きだった。
要はセシルの運んでいるものに気がつくと、俺もついていく、と言って彼の隣を歩き始めた。
「お前のことだから、もう嫌ってほどおめでとうって言われてるんだろ?」
「その通りさ。勘弁してほしいね」
「だろうな。俺も犬飼さんが大統領になったら……ああ、最悪だな」
「本当だよ。表まで支配されちゃ堪ったもんじゃない」
ただでさえ裏の国連トップとまで言われているのに。
けれど少なくとも悪い方向には進むまい。もし犬飼を大統領に打ち立てたら、きっと世界はもう少し丸く収まると思う。彼は有能で賢く、多くの人々の畏怖の対象だ。もしかしたら世界平和の道はすぐ近くにあるのでは?
そう考えていると、『S1』の前についた。
「理沙がお前になんて声をかけたか、後で教えてくれよ」
「分かったよ。でも多分に普通に『おめでとう』としか言わないと思うな」
「じゃあ後で。今日は11時に一回様子見で来るから」
「OK、待ってるよ」
指紋認証、網膜スキャン、そして専用IDカード。それらを使ってセシルは中へと入った。
この三つをクリアするだけで部屋に入れるのは、セシルと犬飼のたった二人だけだ。他の職員ーー例えば要などもそれらをする必要があるが、中に必ずその二人のどちらかがいなければ入れない仕組みになっている。
『SCL』内でもまだ警戒は強い。最近WHOの幹部に近づく怪しい人間がいるという噂もよく聞く。セシルも気をつけなければいけないが、外部との直接的な繋がりは今付き合っているフランス人女優を最後にしようと先ほど決めたところだ。
「おはよう、理沙」
「おはようセシル。良い朝だね」
『S1』の朝はいつもこの言葉を交わして始まる。
理沙はセシルの姿を捉えるとすぐに本に栞を挟んで傍に起き、目の前のテーブルに食事が置かれるのを座ったまま黙って待つ。
彼女は例え今日が雨でも雪でもハリケーンでも、決まって『良い朝だね』と言う(彼女はニュースで天気を知っているはずだ)。彼女なりのルーティーンなのか、こだわりなのかは分からない。単純に言葉の響きが好きなだけなのかもしれない。セシルはその定型文が嫌いではなかった。
セシルは誰もが見惚れる営業スマイルで食事を運ぶと、全てのクロッシュを取り去って執事のように身を引いた。
今日も五大栄養素がたっぷり詰まった健康的なラインナップだ。
「ニュース見たよ、セシル」
「ああ」
「叔父さんが大統領になったんだね。うん……まあ、ドンマイ」
「……」
ーーそういえば、あの男が嫌いだって話をしたな。
けれど、別に選挙に落ちることを心から願っていたわけじゃない。ただムカついていただけだ。理沙はおめでとうとは言わず、少し決まり悪そうな感じでフォークを手の中で遊ばせていた。なんだ、拍子抜けしたな。
「ありがとう。これからテレビや新聞でひっきりなしにあいつの顔を見ることを考えると、うん、確かに僕は喜ぶべきじゃないかもしれない」
「結構票差があったみたいだね。ええと……マニフェストは核兵器根絶、人種差別完全撤廃、空洞化改善etcって感じだったっけ?」
「高潔すぎる。ああ、そうだ。清廉潔白すぎて笑えるね!」
「うわぁ」
どうやら随分と叔父に対するヘイトを溜め込んでいたようで、セシルは憂さを晴らすためか大きな声を出した。彼はこの苛立ちに驚いた。自分でも知らない所で、自分は彼を憎んでいたのだ。
理沙がセシルにその苛立ちの原因をあえて聞くと、今朝家を出る時に叔父から電話がかかってきて嫌味と自慢を一方的に言われた、という。
セシルはジャケットをハンガーにかけると、素早い手つきでテレビの電線を抜いた。
「今日は、テレビ、禁止!」
「うわぁ……」
「聞いてよ理沙。今日僕が一体どれだけの人に『おめでとう』って言われたと思う? 会う人会う人に祝われて、もうノイローゼになりそうだよ。犬飼さんが大統領になった方がまだマシさ!」
「えっ、犬飼さんの方が良いの?」
「いや……犬飼さんもちょっと……けど、同じくらい嫌だ」
サクッという軽やかな音が部屋に響く。理沙は相手にするだけ時間の無駄だと思った。トーストをひとしきり食べ終えると、今度はベーコンハムエッグに手をつけた。
「セシルの叔父さんが私に会おうとするってことはないよね?」
「ない……とは言い切れない。ここに保護されているってことは聞かされるだろうし、僕が理沙直属じゃなくてもニューヨーク支部で働いていることは知っている。まあ、犬飼さんが間に入るから会えるわけがないけどさ、どうにかして会おうとはしてくるはずさ」
「叔父さんのことだから?」
「そうさ。碌なやつじゃない」
どうやら落ち着かないようで、セシルは忙しなく歩き回って悪口を言い始めた。年が明けてからずっとこんな調子だから、もはや慣れてしまった。理沙はため息をついて空になった食器を重ね、カートの上に乗せた。
するとセシルはむっと顔をしかめる。外に出て、また誰かに声をかけられるのが嫌なのだ。
「今日は何時から?」
「11時に要が来る。よし、もう血を取ってしまおう」
「何で? 血糖値が落ち着いてから採血する方が良いんでしょ?」
「なるべく外に出る回数を減らしたいんだよ。ほら、ベッドに行きなさい」
「チッ」
注射も最初の頃に比べて大分慣れて……くるわけがない。
いつになっても針は恐怖の対象なのだ。理沙は来る日も来る日も冷徹な、たった直径0.5ミリの恐怖に耐えなければならない。
目を閉じて、腕を出して、覚悟を決める。ただしその覚悟はものの一分で崩れ去ってしまうため、セシルは効率よく動かなければならない。
「はい、刺すよ」
「言わないで! 言わないで! あっ、あー! うーさーぎーおーいし! かーのーやーまぁあ!! こーぶーなーつーりし! かーのーかーわ!!」
「はいはい。うるさいうるさい」
「ゆうめーはーいぃまーもー! めえぐーうりーてぇ!」
「なんで『ふるさと』なの? ほら、終わったよ」
セシルは針を抜くと、ガーゼで皮膚を押さえる。すぐに治るから傷が残ることはない。理沙は血液の方向を見ないように身体ごと視線を背けて、そのままベッドに横向きに寝た。
注射中の気をそらす方法の一つとして熱唱することを編み出して、最近は専ら日本の童謡シリーズを大声で叫んでいる。
何故童謡かというと、孤児院でよく子供たちと歌っていたため一番馴染みが深いからである。
理沙は美しい田舎の風景を頭を浮かべて心を落ち着かせていた。
「乙女の柔肌を傷つけることに罪悪感はないんですか」
「どうせすぐ治るんだからさ。良いじゃないか」
「そう言って大人はすぐ自己を正当化する!」
「必要悪さ。諦めてくれよ」
セシルが注射部分を取り外して、厳重な防菌ビニールの中に入れている音を、理沙はさも警戒心丸出しの犬のように唸りながら聞いていた。そこで彼女はあることを思いつく。
「ねえセシル、私の血液って体内に取り込んだら細胞を殺すんだよね?」
「そうだよ。だから体液感染が起こらないように対策されてる」
「の、飲んだらどうなるの?」
「飲むってことはないだろうけど……まあ問題はないよ。『SR細胞』は消化器官から吸収されないようだから。だから殺すなら理沙の血を注射するか、粘膜に付着させるしかない」
「えっとじゃあ……私の血を霧状にして噴射して、目に入ったらその人は死ぬの?」
「ああ。それなら確実に」
セシルはきっぱりと言い切った。理沙は思わず黙り込んだ。まさか自分の血液がここまで殺傷能力の高いものだとは思わなかった。そりゃあテロリストから守る必要があるわけだ。
そう考えると、理沙は『SR細胞』の唯一の適合者と言って良いかもしれない。一度は人間を使った実験もやってみたいところだが、流石に好奇心と倫理感を秤に乗せたら後者の方が重い。そもそも提案しようなんて誰も思わないし、誰も許可しまい。
セシルは理沙の横顔を思い浮かべる。
日本人は欧米人と比べて童顔だから、まだ中学生くらいに見える。あどけなさが残っているが、整った美しい顔だ。瞳に不安が射しているのが余計彼女の薄幸さを際立たせる。触れたらはっと消えてしまいそうに思われるのは、彼女の肌が白いからなのか、それとも心の不安定さが表れているのか。
ーー見れば見るほど綺麗な子だ。
きっと不老不死なんかでなければ、孤児でも幸せに暮らせていけただろう。それに頭も良い。引き取り手は数多あったろうに、どうしてこの歳になってもまだ孤児院にいたのだろう。
最近は理沙に勉強を教えることが多い。
犬飼に頼んで日本の教材を取り寄せてもらいーー残念ながら国語と歴史は教えることができないがーー英語、数学、科学、生物を重点的に教師役としての役目を勤めている。英語は母国語だし、その他理系科目は彼のような科学者の道に進むには必須の科目だ。
セシルは物理が苦手だったが、元々そつなくこなすタイプの成績だったので、理沙が満足のいくまで知識を与えることができた。
無論、理沙に『SR細胞』についての論文も読ませているが、まだ理解が追いついていないようだ。ーーいやもしかしたら、彼女の脳が理解すること拒んでいるのかもしれない。
今でも鮮明に思い出せる。初めて接触実験があった日のことを。
彼女は、怯えていた。
自分の傷がみるみる癒えていくのを見て震えていた。当たり前だ。誰だって自分を普通だと思いたいし、非日常的なことが自身の身体で起きればそりゃあ拒絶したくもなる。
強い子だと思ってた。けど違う。彼女はただ抱え込むのが上手なだけなんだ。
「そ、っか……生物兵器みたいなものか。私は」
憮然とした様子で、理沙は吐息をつくように言う。その言い方にセシルは納得がいかなかった。あんなに物扱いされることを嫌っていたじゃないか。
「理沙。理沙は兵器じゃないよ」
それは自身に言い聞かせるようにも思えた。
「うん。知ってる。だってセシルが守ってくれるんだもんね」
力なく笑う。
それを見て思わず動揺した。視界が微弱に揺れる。まるで稲妻に打たれたかのような衝撃が脳髄に走った。チクリと胸の何処かが痛む。
「……チッ」
「どうしたの、セシル」
「いいや。大丈夫だよ。そうだ、今朝コックが菓子を作ってたんだ。取ってきてあげる。クッキー好きだろう?」
「うん。好きだけど……」
理沙の言葉を待たず、セシルは血液を詰め込んだパックを持って足早に部屋を出た。
*
ーー冷静、冷静になれよ。セシル・ローウェン。
そう自分にも聞こえない声で繰り返して誰もいない廊下を歩く。あまりに強く握るものだから、血液パックは今にも破裂しそうだった。しかしそれには全く気がつかない。彼の足が向いているのは研究室だった。
菓子をもらいにいくという訳の分からない嘘をついて外へ出てきてしまった。ただ血を届けると言えば良かったのに。
苛つきを隠せないまま足元を見ていると、カツ、カツと響く音がした。嫌な予感がする。この足音の正体は、相手の顔を見るまでもなくおおむね予想がついていた。
「あら、あら。ローウェンじゃない」
「……今、君に構っている余裕はなくてね」
アリアは面食らって目を大きく見開いた。今日彼女は赤髪を一つに結っていた。いつものセシルなら間髪入れずに「綺麗だよ、似合ってるね」と歯の浮くようなことを言うのに。
彼女はそれを見て、自分の大嫌いな人間が平常心でないことに一瞬で気がついた。彼女にとってセシル・ローウェンという人間は道の雑草と同じくらい興味のない存在であるが、一時期心を通わせたつもりだっただけに小さじ一杯程度の情はあった。
少し考えを巡らせて、彼女は合点がいった。
「貴方、姦通は罪よ」
「何を言っているんだ、君は」
アリアの瞳には同情と諦観の念が浮かんでいた。彼女が本気で自分を哀れんでいると悟ったセシルは、余計に気分を害して別れの挨拶も交わさずにその場を立ち去った。
一人残されたアリアはため息をつく。
「馬鹿な人。折角忠告してあげたのに」
彼女は胸元の十字架を強く握り、祈るように目を瞑った。