11 クリスマス
自分も試しに、指をナイフで切りつけてみた。
パックリ割れた細胞の隙間から赤い液体が滲み出す。一瞬だけドーム状を作るが、それもすぐに流れて床に溢れた。鋭く冷たい痛みが、末端神経から脊髄を伝って脳と全身に染み渡る。鼻を近づけてみると鉄の匂いがした。
止血して待つ。
ーー消えない、消えない。
「なにしてるんだい」
顔を上げると、そこには同僚の研究者ーージェイク・フライドの姿があった。要はすぐに紙製のウエスで自分の血をふき取ると、
「自分が人間か確かめてた。だってほら、俺の父親は悪魔だろう?」
「違いない。思うに、あの人の血液の色は炭みたいなブラックだね」
「ああ。でも、あの人の言う”化け物”の血は赤いんだ。だからあの人も赤かもな。……あ、もしかしたら青かも。あの人はイカやタコの刺身が好物なんだ」
「あんなゲテモノを食べるのかい? ますます悪魔みたいだな」
ジェイクは苦笑した。
頭の中で、うねうねと蠢く無脊椎の軟体動物の姿を思い浮かべているのだ。あれを口にするなんて、想像するだけで身の毛がよだつ。ジェイクの日本人の幼馴染はアメリカでそんなものは食べなかったし、存在さえも教えてくれたことはなかった。日本人は海鮮類が好きなはずなのに、どうして彼は自分にそれを勧めてくれなかったのか。理由は分かる。何故ならあの少年の好物は、世界的なファーストフードチェーンのビッグバーガーだったからだ。
ジェイクは、犬飼が絵画のような恐ろしい笑みを浮かべながら、イカの足を一本ずつ食べていく姿を想像して寒気を催した。
要の食卓に、生の魚介類、強いては貝類が並ぶことは決して起こり得ないといえるかもしれない。
何故なら、彼は一度海鮮の生物にあたったことがあるからだ。あれは確かーーそう、八歳の誕生日の時の話だ。犬飼が珍しく、日本から新鮮な魚介類を取り寄せてくれたのだ。特に初めて見るカキが、見た目によらず美味しく、犬飼が好きに食べろというものだから手元にある分を全て胃に収めた。
翌日。
要は一日中トイレから出られなくなり、エレメンタリースクールを休む羽目になった。あの時の痛みと、カキへの憎しみは一生忘れることはないだろう。
それが小さなトラウマとなり、事件以来、貝類そのものを忌避するようになってしまったのだ。とりあえずあの腹下し事件は犬飼のせいということで、彼は自分の中で折り合いをつけている。
「そういえば君は、ナイフを日常的に持ち歩いているのかい?」
「ああ、これか?」
要はテーブルに置いた、折りたたみ式ナイフに目をやった。
「護身用。保護者があんなんだと、俺に怒りに矛先を向ける奴はいるだろ」
「まあ、備えるに越したことはない。それで、実際に闇討ちされそうになったことは?」
「幸運なことにまだ一度もない。けどいつか、ローウェンの痴話喧嘩に巻き込まれて、俺がこのナイフを人に向ける機会が来るかもしれない」
「その場合、可哀想な女性とミスター・ローウェン、どちらにナイフを向けるんだい?」
「多分ローウェンに向ける。あいつは一回死んで、人生やり直した方が良い」
ーーちょっと大げさじゃないか?
ジェイクは肩をすくめた。しかし、彼にここまで言わしめるようなことをあの優男はしてしまったのだろう。
セシル・ローウェンの女癖の悪さは有名だ。浮気は当たり前で日々女性をとっかえひっかえしている。そもそも正式なやりとりを経て付き合っているのかさえ怪しい。
”あの”アリア・レッドフィールドでさえもセシルと恋仲になったことがあるのだとか。それを聞いたときジェイクは我が耳を疑ったが、彼女のセシルに対する当たりの強さから鑑みるに、どうやら真実のようだ。
ニューヨーク支部に勤める女性職員の半分は、セシルのお手付きなどという噂が出回っている。あくまで皆の想像だが、あながち間違っちゃいまい。
研究室の横に設置されている休憩所には、要とジェイクの姿しかない。
十数人が寝泊まりできるように設計されており、ドリンクバーや寝台、シャワールームも完備されている。要は出入り禁止を言い渡されていたが、反省の兆しが見えたとして、つい昨日利用を解禁された。
今日はクリスマスイブ。
職員の多くが帰省し、家族や恋人と大切な時を過ごしているはずだ。だから、こんな時まで地下室に残っているのは、家族がニューヨークにいる要と、飛行機のチケットを取り損ねたジェイクくらいだった。
ジェイクは先ほど自販機で買った缶コーヒーを両手で包み込んだ。暖かい。家族は元気にしているだろうか。
「……なあフライド。お前、不老不死になりたいって思うか?」
「私が、かい? ふうむ……」
唐突な質問に、つい黙り込んでしまう。
子供の頃、彼はファンタジーフィクションが大好きで、魔法や特別な力を幾度となく想像して胸を躍らせていた。不老不死だってその類。憧れないわけがない。
しかし大人になったジェイクは、そうなりたいと願うのは短絡的過ぎるのではと考えた。
「皆が不老不死ならば、それも良いかもしれない。……けれど、私は一人で永遠を生き続けるのはごめんだ」
「皆が不老不死の世界か……あまり面白くなさそうだな」
それはきっと幸福とは言えまい。
例えば自分の子供を持つことはできなくなるだろうし、権力者はいつまでもその席に居座って情勢が変わることもないだろう。人が変わらないのだ。今の状態が永遠に続くなんて、ある意味平和ではあるが、平淡だ。
あの少女は一体、何を思って生きているのだろう。
ーー可哀想に。
「でも、人間ってのは元々、死ぬように作られてるからね。逆らっちゃいけないのかもしれないな」
「……レッドフィールドも、似たようなことを言っていた気がする」
「彼女は熱心な信者だから無理ないよ。……君は神を信じているかい? キリストでも、仏陀でもアッラーでも良い」
「残念ながら俺は無宗教だ」
「じゃあ、不老不死に抵抗はないか」
ーー羨ましいことだ。
研究者は知の探求者。いつまでも夢を追い続ける方が良い。ジェイクは自分が酷く乾ききった存在のように感じた。
少なくとも今行っている実験や例の不老不死の少女からは、彼が昔夢見たような、ファンタジックで摩訶不思議な、夢と希望と喜びを抱けるような、そんな美しいものなど感じられない。
そうーー私はそれが欲しくて研究者になったのに。私は、壮大なる未知の探求者になりたかったのに。
「……どうした? 顔色悪いぞ」
「いいや。大丈夫」
生気がない。
自分にも彼女にも。
ジェイクは軽く手を振って休憩室を出た。
その先に見えるのは、無機質で広々とした研究室だ。
ここは手術室と同じような無菌環境に置かれる予定だったらしいが、ただでさえ新しく地下室を秘密裏に作り、口止料から最新の超高性能セキュリティまでーーそもそも水面下で行われる作業であるためーー公的な金を大量に横流しするわけにもいかない。
人類の夢に金を渋るようでは何百年かかっても叶わないぞと言ってやりやいところだが、無菌室がないわけではない。地下研究施設の研究室は一つではなく、いくつか用途によって分けられている。
研究室が合計6つある中で、主に使われているのは無菌室とこの広い部屋。
それぞれ担当が決まっているから、ジェイクはこの二つの部屋しか足を踏み入れたことがない。要はこの部屋と休憩室しか出入りしていないだろう。
「……はあ」
科学に辛抱は付き物だ。
大学の時からそれは痛感していたが、やはり、思うような結果が出ないと苛立ってしまう。タリスや要、その他の涼しい顔をした連中が羨ましい。
最近は上からの圧力も強いようだ。
予算や給料は徐々に増えているが、それでも研究者達の不満は溜まっている。年末も仕事をさせる気満々だったようで、クリスマス休暇だって、アリアが「主の誕生を家族で祝わないおつもりですか?!」と犬飼の執務室に怒鳴り込んでくれなければ取れなかっただろう。
その反面、被験者は以前よりずっと協力的になり始めた。
心を開いてくれたのか、女性であるライム以外とも親しく話すようになり、ジェイクも日々の癒しを彼女からもらっている。
要と彼女は顔を合わせるといつも、互いに威嚇行動をする。仲が良いのか悪いのか。まるで兄妹のようで、なんとも微笑ましい光景だ。
被験者は年齢の割に子供っぽいところがある。ついでに要も。ーーもしかして、精神の幼さは細胞に起因しているのか?
残念なことに心理学は専攻していない。被験者のカウンセリングーータリスにでも提案してみることにしよう。
埃一つない完璧な研究室。
掃除は誰もやっていないはずだが、何故だかいつも綺麗だ。作業台を雑多な状態にしたまま家に帰っても翌朝になれば整頓されているし、薬品を零して床にシミをつけてしまった時だってすぐに元に戻っていた。
業者でも雇っているのか、それとも気の利く(ここまでいくと利きすぎだが)誰かが後始末をしてくれているのだろうか。案外、タリスだったりするのかもしれない。ああ見えてあれは几帳面だし、潔癖性だ。
「ああ、ミスター・ローウェン。君は実家に帰っていると思っていたよ」
「本当はそのつもりだったんだけど、可愛い女の子に一人でクリスマスを過ごさせるわけには、ね」
ジェイクは廊下に出ると、ちょうどカートにいつもより少し大きな食事を乗せたセシルと出会った。二人分のクリスマスディナーで、七面鳥やらケーキやら、えらく豪華なメニューだ。
地下研究施設には簡易的な食堂がある。被験者の食事はいつもそこで作られるのだ(勿論シェフは関係者で、口止料も兼ねた良い給料をもらっているだろう)。
クリスマス。
良い響きだ。
子供の頃を思い出す。
「プレゼントは渡すのかい?」
「準備はしてるけど、昨日いらないって言われたよ。日本人は本当、遠慮と謙虚が大好きな民族だねーー要や犬飼さんは別さ。あれは別の生き物だーーそれは美徳でもあり、欠点でもあると思うんだ。僕は好きだけど」
「そうかい。じゃあ、無理にとは言わないが、私からのプレゼントも渡しておいてくれ」
ジェイクは懐から長方形の箱を取り出し、セシルに渡した。
緑色の包装に包まれたそれを裏表確認してみると、彼は首を傾げてこう言った。
「中身は?」
「万年筆。使い道があるかは分からないがね。良いものを見つけたから」
「それならきっと喜んでくれる」
きっと本人はインターネットに繋がったパソコンかスマホを最も欲しがっているだろうが、こちらから情報・電波発信のできる機械類を持たせるわけにはいかない。
地下研究施設で使われている電子機器は施設内のデータベースとしか繋がっておらず、研究者が持ち込んだり持ち出したりすることはできない。また、ウイルスや侵入対策も万全で、そもそも外部と繋がっていないのだからハッカーに見られる心配もない。
最も警戒すべきは内部による工作と情報漏洩だが、そこは国が職員の個人情報や交友関係などをつぶさに調べた上で、こうやって採用されている。
テレビはインターネット機能を除去した上で、わざわざ専用の回線を繋いで特別に置かれている。
この許可を取るのにアリアを頷かせるのは容易なことではなかったが、あの時は何とか理沙のわがままを通すことができた。
しかし今後は難しくなるに違いない。
「直接渡した方が喜ばれるんじゃ?」
「良いんだ。私みたいなおっさんから手渡しされたって、嬉しくはないだろう。年頃の女の子だからね。君からなら喜ぶはずだ」
「……OK」
自虐されると返事に困る。
確かに、ジェイクは接触型実験メンバーのメンツでいうと二番目に年を取っているわけだが、元々、平均年齢の比較的若い顔ぶれなのだ。
まだおっさんという年ではないだろうし、頭の毛もある(決してはげていないというわけではない)。
その後ジェイクと分かれ、セシルはカートを引き、手の中でプレゼントを弄りながらS1へと向かった。