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「ほら、さっさと手を出せ」


「い、嫌ぁ……」


 可憐で小柄な少女は、小ぶりのナイフを持った目つきの悪い男と対峙していた。

 虐めの一場面のようなこの光景を、周りの四人は微笑ましげに見つめている。しかし慈しみの感情のみを浮かばせているのはライムだけで、残りの男性陣は呆れ半分、といったところだろうか。ベッドの脇に置かれたマテリアルワゴンには、大量の器具が丁寧に並べられていた。

 要はそこから無造作にメスを取り出すと、理沙に見せつけるように高くかざす。


「分かった。見た目が嫌なんだろ? メスでズバッといってやる」


「表面だけ! 表面だけですよ! ちょっと血が出るくらいにしてください!」


「おいローウェン。ちょっとこいつ黙らせろ」


「頑張ってね」


 どうやら研究者の面々は特に手出しするつもりはないようで、黙って事のなり行きを見守っている。研究を進めたがっていたタリスでさえも、何となく、この二人の攻防に柔らかい感情を抱いていた。

 対してセシルは、割と本気で(・・・)嫌そうな反応をしている理沙を見て、嫌われるのは要だけで十分だと密かに思っていた。


「女相手に、力づくでいうことを聞かせるようなことはしたくないんだ。腹くくれ。さあ、手を出せ」


「心の……心の準備を……これ、注射とは毛並みの違う恐怖なんですって……」


 うずくまって深呼吸をし始める理沙を尻目に、ジェイク・フライドは今日の実験の資料をめくっていた。接触型実験の第一弾は、被験者の怪我の観察だ。意図的に軽い傷を作り、その傷の治り方やスピードを記録しなければならない。地味な上、時間のかかるものだが、必要不可欠だ。

 科学は階段式だ。二歩飛ばしはできない。

 基礎を理解していなければ、次のステージに進むことは叶わない。彼らの研究もそうだ。『SR細胞』の役割の全てさえ彼等は把握できないない。ここ数ヶ月で分かったのはせいぜい、『SR細胞』によって細胞がどのように殺されるのか、くらいだ。いかんせん、被験者が人間であるため、諸々の研究は難しいのである。


 理沙は葛藤に襲われていた。

 実験しなければならないことは分かっている。自分が恐怖の余り子供っぽく意固地になっていることも分かっている。

 けれどどうしても。この、傷を作らなければならないという実験方法に、犬飼的措置が取られているように感じてしまうのだ。

 ーー養子と言えど、犬飼ジュニア。

 理沙はそう心の中で呟いて、不機嫌そうに顔を歪める要を見つめる。

 彼は、いたいけな少女の血に興奮を覚える特殊嗜好を持っているに違いない。あの人に育てられたのだ、きっとその類だろう。


 不名誉なレッテルを貼られた要は、今にも怒鳴りだしたいのを何とか堪えていた。ちなみに彼に特殊なフェチシズムはない。強いて言うなら、目の前にいるような研究者精神をそそられる人間が好みだが、いやしかし、この娘は気に食わない。

 彼の義理の父が、彼女のことを気に入っている理由が今分かった。あの男は捻くれた我儘な人間が大好きなのだ。それは勿論、虐げる対象としての話だが。


「よし! はい! 良いですよ! さあ、殺すなら一思いに!」


「お前ほっんと、大袈裟だな。切り傷作るだけって言っただろう、が!」


「あーっ!」


 最後の言葉を発すると同時に、要は理沙の手を切りつけた。

 がしかし、あまりに気合が入りすぎたが故に深く切りすぎて、想像以上に手の平から赤い血液がジワリと溢れ出す。

 理沙は顔面蒼白となり、面々は慌てて彼女に駆け寄って止血を始めた。

 セシルやライムに抑えられている間、理沙は怪我を負っていないもう片方の手で要を指差して叫んだ。


「うっそ……つき! いった! 超いった!」


「あ、いやその……」


「理沙落ち着いて! 興奮すると血が中々止まらなくなるから」


「OKOK。大丈夫でーすよ、理沙サーン」


 傍観者が二人、当事者になった。

 片言の間延びした日本語を発しながら、ライムは理沙の手を白いガーゼで強く圧迫する。

 床には血がパラパラと溢れていて、まるで殺人現場の一部を切り取ったかのような惨状になっていた。要は半分泣いている少女を見ながら、取り乱してタリス達傍観者サイドに詰め寄った。


「お、俺! 俺はどうすれば良いんだ……?」


 段々と声が小さくなり、やがてうなだれていく要の姿にタリスとジェイクは呆れを隠せず、互いに顔を見合わせて短いため息をついた。犬飼の子供とは思えないほどの取り乱し具合に思わず笑みもこぼれる。

 彼が犬飼の養子であることは皆知っているが、まさかここまで根の性格が似ていないとは誰も思うまい。要の口調や考え方は、犬飼に大きく影響されている。それは普段の様子を見れば分かるし、ジェイクは今までに何度、「ああ、この人は犬飼さんの子供なんだな」と痛感したことか。

 しかし今の彼は、格好つけて失敗した、やんちゃな子供のようだ。


 本当は純粋で優しい人なのだろう、と。

 ジェイクは微笑んで語りかけた。


「謝りましょう。彼女が落ち着いたら」


「謝れば……良い、のか?」


「まあそれで許すかどうか決めるのは、彼女ですがね。ところで、ミスター・サカモトは、犬飼さんに謝られたことはありますか?」


「いや……ない。犬飼(あっち)が悪くても、(こっち)が謝る羽目になる。何故かな」


 タリスは陽気な笑い声をあげた。


「あの人は誘導尋問が得意だからね。彼が検察官にならなくて本当に良かった。じゃなきゃ、アメリカの刑務所が冤罪被害者で溢れかえってしまうだろう」


「悪徳検察官ーーうん。素晴らしい二つ名ですね」


 聞かなかったことにしようと要は思った。

 自分の育て親に対する悪口は嫌いじゃない。彼は犬飼に感謝こそはしているが、実際の親子のように愛し合っているわけではないのだ。むしろ常日頃から嫌がらせをされてきた。陰口悪口は大歓迎といっても良いだろう。

 WHOの職員はそれでも恐ろしくて要の前で悪口なんて言えたものじゃないが、タリスやジェイク含めたSCLのメンバーは最近軽口を叩くようになってきた。

 ーー仲が良くなったとは、思わない方が良いか。

 けれど少なくとも、腫れ物扱いはされなくなった。


 要は様子を見計らって、理沙のいる所で戻っていく。

 既に正気を取り戻した彼女に、要は小さく、


「すまん」


 とだけ言った。


「……別に。良いですよ」


「ああ……」


「……」


 閑寂。


 セシルはガーゼを取り、理沙の止血が完全に終わったことを確認するとジェイクに目配せをした。彼は鞄から何やら出してベッドの脇に設置し始める。

 理沙は無理矢理ベッドに寝かされると、まだ痛々しい傷がある手を台の上に乗せられた。


「な、何するの?」


「傷の治癒速度の検証。大丈夫、そんなに時間はかからないんじゃないかな。あの事故で大破した内臓や皮膚も、手術したとはいえ、数時間で治ったんだろう? 切り傷程度、どうってことないからさ」


「私の精神に負担がかかるんですが」


「大いなる利益にために小さな犠牲はつきものなんだ。いつの時代もね。悪いけど、ちょっとだけ我慢してくれ」


「はいはい。公僕様は言うことが違いますわ」


「嫌な言い方は止めてくれよ」


 そうは言ったが涼しい顔でビデオカメラや固定するためのマジックテープを取り出して用意する。ライムが理沙の人差し指に脈拍計を取り付けた。甘受しがたい事態だが、こうなった以上抵抗することは理沙にとって得策ではない。

 これから行われる実験は全て、国際機関からの命令によって行われるものだ。彼らにとって理沙は都合の良い実験動物に過ぎないはずだ。相手が親しいセシルならばまだしも、まだ会って数日の科学者達に反抗的な態度を報告されて、これ以上束縛が厳しくなるのは嫌だ。

 この場所に自分の味方はいない。

 セシルさえも、自分は彼にとっての監視対象に過ぎないのだと。



「理沙、顔青いよ。大丈夫?」


「……ごめん」


 理沙は、自分の左手がセシルに握られているのに気がついて、図らずもビクリと肩を揺らした。しかし皆が怪我に注目している中、誰にも気付かれることはない。

 安堵すると、冬の月光のように澄んだ美しい横顔を見た。彼が輝いて見えるのは、その痺れるほど立派な金髪のせいなのかもしれない。理沙は華奢な身体を更に縮めると同時に唇を歪めた。ほのかな罪悪感を覚えた。

 研究者達が理沙の固定された右手周りに集まり始めた。皆揃って研究者の顔になる。あまりの空気の変わりように、理沙は安心感の行方を失った。気分が悪い。


 ーー機嫌が悪くなると捻くれた性格になるのは、私の悪い癖だ。

 昔からそうだった。元々人を心から信用できない性分で、一度疑心暗鬼になり始めると、相手の言葉の裏の裏さえ勘ぐってしまう。

 そりゃあ、まだセシルは完全に信用しがたいが、地下研究施設という異空間における、自身の唯一の拠り所なのだ。最近はセシルも素を出してきたし、また疑い出すのは失礼じゃないか。もしかしたら、本当にもしかしたら、自分のことを大切に思ってくれているかもしれないしーー


「凄い……こりゃあ凄いぞ」


 誰かが漏らした感嘆の声につられ、理沙はようやく自分の右手を見た。

 切れた皮膚が端の方から、ゆっくりとだが、徐々に、徐々に塞がっていく。まるで細胞運動の早送り映像を見ているようで、理沙は自分の身体のことながら驚き、あっと声を上げた。

 不死だということは耳にたこができるほど聞かされていたし、細胞に関する論文や報告書も読んだ。しかし今まで、それが自分のことだという実感が湧かなかった。


 ーーまだ私は夢見心地だったのか。

 唖然と、愕然として。

 そして、本来ヒトとしてありえない身体の修復能力に、それを見て目を輝かせる研究者達の表情に、理沙は不気味さを禁じ得なかった。

 恐怖を奥歯で噛み殺し、放心したまま傷が完全に塞がる姿を見届ける。



 セシルは自分の手が握り返されたのを感じた。

 震えている。

 ただの少女の冷たい手だ。


 彼は今度はもう片方の手で、彼女のそれを優しく包み込んだ。


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