糸雨
その日は雨が降っていた。
駅の改札とコンコースを抜けた広場から、少し歩くと商店街になっている。
傘をささずに、男は濡れながら商店街へ歩いた。
黒い空から無数の細い糸が、細かく千切られて落ちてくる空。
それは強さではなく、単純な冷たさで、身を切るように染みた。
歩きながら 糸雨 という言葉を連想した男は、感傷的になっている自分を笑った。
普段も人がまばらな商店街は、既に日付は変わって、さらに閑散としていた。
それでも昔は繁盛していたのだろう。
商店街の入り口に立っていた掲示板に、”昔の商店街の様子”と銘打った写真が掲示され、活気のある風景が写されていた。
しかし、時代に埋もれていく。
振り返れば思い出せるが、振り返らなければ思い出すこともない。
感傷に浸っている自分とそっくりだ、と男は思った。
商店街には、24時間やっているスーパーが1軒だけあって、男はそこに立ち寄った。
客は男以外に誰もおらず、酒コーナーで手にとった発泡酒1缶を、男よりは明らかに若い女性がいたレジに出した。
「いらっしゃいませ」
深夜に合わない、発声の良い澄んだ優しい声で対応された。
「143円になります」
声の雰囲気に気圧されて、小銭を探すのに手間取ると、更に店員が話しかけてきた。
「傘は大丈夫ですか?」
一瞬言われた事が理解できなかった男は、小銭を探す手を止めた。
「雨、濡れているので、傘お持ちじゃないですよね」
いや、いいです。 男はそれだけ言うと、また小銭を探した。
無駄に話しかけられたくない、それだけが頭の中を巡る。
お釣りを渡されたら、また無駄な会話を生んでしまうに違いない。
とりあえずお金を渡して、足早に去りたい。
そう思ったら、小銭を探すのも嫌になり、小銭入れを逆さにした。
ありったけの小銭をキャッシュトレイの上に出し、男は発泡酒だけを取って店を出た。
後ろから店員が何かを言ってきたようだったが、何も聞きたくなかったので、聞き取らなかった。
『息が詰まった、あの空間は思い出すな』
男はそう自分に言い聞かせた。
店員の会話が、そして声が、男の心を乱していた。
空から降る糸が身体中にまとわりつく。
その感覚から解放されたくて、商店街を駆け足で抜けた。
もう、駅で感じた感傷は忘れていた。
男は八畳一間の住まいに着くと、濡れたジャケットをすぐ脱いで、タオルで髪を拭いた。
そして、丁寧にドライヤーで髪を乾かした後に、歯を磨いた。
できる限り綺麗にしたい。
生活感のほぼない部屋で、粛々と作業は進みながら、男の頭の中では、ただそれだけが巡っていた。
濡れたジャケットは綺麗にハンガーにかけ、洗い立ての寝衣に着替えて、布団を敷く。
全ての準備が整うと、机の上に置いてあった瓶から白い錠剤を何錠か取り出した。
男は買った発泡酒と一緒に、1粒ずつゆっくりと飲んだ。
飲み終えると発泡酒の空き缶は、台所の流し台の真ん中に置いて、皺がなるべく寄らないように綺麗に布団に入り、天井を見上げた。
見つめていると天井の木目が、人の顔に見えてくる。
しかしそれが誰であろう、自分が会ったことのある人なのかどうか、わからなかった。
次第に瞼が重くなり、なんとも言えない妙な感覚が男を包む。
そして胃のあたりに焼けるような痛みを感じたが、必死に焼けつく呼気を飲み込んだ。
繰り返すうち、痛みが落ち着くように、呼吸と意識が深く暗闇に沈んでいく感覚。
あの糸雨 は止んだろうか。
不意にそう思って、布団から起き上がり窓を開けてみる。
外にはいつまでも降りそうな、無数の細い糸。
風が吹き、顔に糸が当たり、濡れていく感触が心地よい。
柔らかくて、冷たくて、肌に触れれば溶ける糸。
肌に触れた糸は、人の暖かさを知る。
目を瞑れば、この儚さがいつまでも続く。
糸雨 が止んだ空は晴れているだろうか。
その時、儚さは感じられるだろうか。
そう思った時に、男の意識は世界と一緒になった。