弱者の意地
慣れない坂道を走る。
走る。走る。走る。息が切れても、脹脛に痛みを感じようとも、膝が悲鳴を上げようとも、
二人は足を止めなかった。
「はっ、はぁっ......何処まで、逃げればっ......!」
途方も無い逃走劇に、アリアは苦悶の表情を浮かべる。
手にはリリアノの手を取り、満身創痍で駆ける。
街から追い掛けて来ている傭兵団の一人。
宿屋でウェンに蹴り飛ばされた、小太りの男が二人を追う。
怒号を上げながら走る男は、すぐ後ろまで迫っているのが分かる。
恐怖心と絶望。
底を突く体力が、それを嫌と言う程認識させる。
いつしか、アリアの目には涙が浮かんでいた。
殺される。いや、それよりもっと酷い事が待っているのかもしれない。
体力で劣るリリアノを見捨てれば、自分一人は助かるかもしれない。
そう考えるのは普通だが、アリアはそんな事思い付きすらしなかった。
彼女の優しさが、他人を裏切らない慈愛が、リリアノの手を固く掴んでいた。
先に体力が尽きたのは、リリアノ。
木にもたれ、ズルズルと倒れて行く。
「っ! リリアノちゃん......!」
アリアはリリアノの肩を持ち、無理矢理にでも動かそうと奮闘する。
が、非力な上に体格で負けるアリアの努力は、全くの無意味だった。
人は自身でバランスを取っている。
他者が他者を持ち上げる時、担がれる側がバランスを取り、体重を分散させるから楽に持ち上がる。
持ち上げられる側の体の自由が効かない時、同じ体重でもその重さは想像より遥かに上となる。
ましてや、人を持ち上げる方法を知らないアリアなら、その影響を多大に受けるだろう。
遂には地面に倒れ込んでしまうリリアノを見て、苦し紛れに背中を摩る。
「やーっと追い付いたぜ」
悪魔の声が二人に掛かる。
振り向いたアリアの目には、下品に笑いながら、傭兵が短剣を構えて近付く。
恐怖心は振り切り、追い付かれた焦りは動揺となって溢れ出す。
「こ、こっち来るな!」
アリアは、グロッキーのリリアノを庇う為に傭兵の目の前に立ちはだかり、大の字になって睨み、威嚇する。
その手足は震え、恐怖で涙が溢れている。
元々、プレッシャーに強いタイプではない。
そんな彼女がたった数日の、短い縁でしか無いリリアノを命懸けで守っている。
リリアノはそれを見て、驚きで目を見開いた。
「ハハハッ! そんなんで守ってるつもりかガキはガキだな!」
アリアの威嚇など意にも介さず、歩みを止めない。
「覚悟しろ、俺がお前の全部を奪ってやる。奪うってのはな......」
二人の寸前にまで迫る。
アリアの手足は萎み、今にも崩れそうだ。
「強い奴だけが許されてんだよ!」
傭兵の魔の手が、アリアに迫る。
アリアは目を瞑った。
「......じゃあ、俺も許されてるってワケだ」
「はっ?」
めこり、と鈍い音が鳴った。
突然、木の陰から飛び出して来た赤い髪、猛獣のように鋭い目付き、鍛えられた体躯。
ウェンの右拳が、傭兵の頬へ突き刺さった。
「腹は脂肪が邪魔だからな、ちょっとはマシな顔面で。殴り心地はまぁまぁだな」
殴った拳をプラプラと振ると、冗談混じりに言った。
殴られた傭兵の体は吹き飛び、ボールのうに地面を転がると、止まった。
「い、いっはい、にゃにが......? 」
殴られた箇所の歯は抜き落ち、患部を抑えるも、無意味だと言わんばかりに口から血が零れ落ちる。
既に短剣は手放され、傭兵と同じく地面を転がっている。
どうやら幸運な事に、殴ったついでに脳が揺れているようだ。
「てめぇが大声出してくれてたからな、分かり易かったぜ。まぁ、ちょっと行き過ぎてたけどな」
ボキボキと手を鳴らすと、ようやっと傭兵は事態を把握する。
「ほまえ、は......ドレイクは、ろうした......!」
「あー? 何言ってるか分かんねぇぞお前。ちゃんと喋れ」
「やろ......!」
諦めず、ウェンに反撃しようと立ち上がろうとするが、それを許すほど彼は甘く無い。
ギリギリ刺さらない、股の間に剣を突き刺し、牽制する。
さっきアリアが行った威嚇とは比べ物にならない。傭兵の恐怖心を根幹から揺らす。
「お前らの頭、ドレイクなら心臓に穴開けて昼寝してるぜ。見て来るか?」
「うそ、だろ......」
既に形勢は逆転された。
元より、ウェンやドレイクより弱い男だ。自身より圧倒的弱者の者にしか高圧的になれない。
「......見に、行かせてくれるか?」
「助けてくれ」、傭兵はそう暗喩した。
「あぁ、いいぜ」
目には希望が浮かんだ。
怯え切った目の前の人間には、今のウェンの言葉はどれ程暖かいものであったか。
悪魔の言葉は、甘く優しいのに。
戦闘の意思も無く傭兵は立ち上がる。
ようやっと地面を踏んだその震える足は、ウェンの蹴りによって逆に折れ曲がった。
「ッッッ!? あっ、がっ......!」
顔には驚愕を貼り付けて、希望は反転して絶望に。
予期出来ない激痛に表情を歪めて、再び地面に転がった。
「なんっ、何で......?」
「あーあー。その足じゃ見に行けねぇなぁ。仕方ない、俺が連れて行ってやる」
ウェンの耳には敵の言葉等入らない。
情け無用。容赦無し。彼に人を壊す罪悪感など毛頭無い。
言葉と顔付きは優しいが、何処かどす黒い邪悪な雰囲気を放つ。
「見に行かせてやるよ。今からお前も一緒の所へ行くんだからな」
「はっ......!?」
死。鈍いながらも存在する生物としての本能が、それを感じさせた。
曲がった足をズルズルと引き摺って、寸前まで迫る死から逃げる。
「好きなだけ傷でも舐めあってろ」
ウェンの剣が、傭兵の背中を串刺しにした。
傭兵は最期の力で手を伸ばし、口から一つ血を吐いたと思うと、地面へ沈んだ。
「......終わりか」
今日だけで何度この動作を行ったか、剣の血を払い、仕舞う。
「おい、大丈夫か?」
「......」
ウェンは立ちながらも目を開けて固まるアリアに話し掛けるが、返答は無い。
まるで凍ってしまっているかのように、アリアは動かない。
「......おいっ!」
「はっ!?」
ウェンの大声に反応し、固まっていたアリアは尻餅をついた。
虚空と彼の顔を交互に数回見て、自分の両手を見詰める。
「あぁぁぁぁぁ......!」
我慢せずにポロポロと大粒の涙を出して、両手で顔を覆い尽くした。
「......おい、まさか漏らしたか?」
「漏らしてないし!」
ウェンの冗談に過剰な反応を見せる。
どうやら、そこまでのダメージは無いようだ。
「怖かった、怖かったよぉ......!」
普段の気が強い彼女からは考えられない程に弱音を吐き、嗚咽する。
「っ、リリアノ!」
アリアの後ろで倒れているリリアノは、頭を抱えて息を荒らげている。
見ただけで只事ではない。
ウェンはすぐに駆け寄り、身体を起こす。
被害が及ぶ前に助けた筈だ。まさか何かの病気か。その前に怪我をしていた。
様々な思惑がウェンの頭を支配した。
「リリア......」
ウェンが体を抱き起こすと、リリアノは手を振り回して暴れた。
頭を掻き毟り、呼吸は過呼吸気味に荒く、ひたすら苦しんでいる。
「落ち着け、リリアノ。俺だ、落ち着け!」
それでもリリアノは抵抗を止めない。
ウェンの事が分からないかのように、まるで何かに追われているかのように。
刹那、彼は想起した。
彼女を『荷物』として受け取った時の事を。
リリアノは『何か』が起きて声を失った。
その『何か』とは、彼女に対して多大なダメージを与えるに値する事が、あったのではないか。
それはつまり、過去のトラウマ。
リリアノは過去にもこんな、悪意ある者に命を狙われる事があったのではないか。
「っ、リリアノっ!」
振り回す彼女の手が頬に当たり、皮膚が爪で切られて血が垂れる。
顎まで垂れる血を意に介さず、ウェンはリリアノを抱き締めた。
優しく、暖かく、彼の精一杯の慈愛を込めて。
「リリアノ......俺だ、分からないか? リリアノ。落ち着いて、息を吸って、吐いて」
それでも尚暴れるリリアノの耳元で、ウェンは優しく囁く。
時たま頭を撫でたり、抱き締める力を強めたり。
そうするにつれ、徐々にリリアノは落ち着けを取り戻す。
放り出していた腕を沈め、呼吸は落ち着き、顔色は平静に戻りつつある。
「そう。俺は......君の味方だ」
ウェンは腕の中のリリアノを見た。
やや顔色は優れないものの、殆ど元に戻っている。
ボヤけた瞳は目の前の彼を写し、今度はリリアノから彼の体に腕を絡めている。
「......」
「......リリアノ」
リリアノは意識を失った。
気絶する直前、言葉は出ていないが、何かを呟こうとしていた。
口だけを動かして、一部始終を見ていたがアリアには理解出来ていない。だが、ウェンにはそれが手に取るように分かった。
--お父さん、お母さん。
リリアノはウェンの腕の中で安心したように眠っている。
無垢に、無邪気に、まるで子供のように。
ウェンは暫く彼女を離せなかった。
弱々しい彼女の一面を見て、離れれば壊れてしまうのではないか、そんな弱さを、リリアノは見せた。




