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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
背徳の功罪
97/179

<7>

 剣に手をかけようとして、扉に向き直るエドワードがいつもと違うことに気がついた。エドワードは中に敵がいることを知っているはずなのに、剣を意識していない。

 自治領主を人質に取ったメイソンが中にいるというのに、この中に危険はないと知っているかのようだ。

 だがそれを問いただす暇はなく、エドワードはその両開きの扉を押した。歩み寄って一緒にその扉を開く。

 部屋の中に目をやった瞬間に飛び込んできたのは、床一面に広がった真っ赤な血の泉だった。

「……デューイ?」

 声をかけながら、部屋の中に足を踏み入れる。毛足の長い絨毯が湿地のようにぬかるみ、赤い血を滲ませて靴に絡んだ。その感触にぞくりと総毛立つ。

 血の泉を湧かせているのは、白い服を着た看護の女性と、以前この館で見た医者だった。抵抗する暇もなかったのか、医者の手には未だ鞄が握られたままだ。

「なんで……」

 呟きながら目を上げると、目の前の豪華なビロードの天蓋付きベットに眠っているガルシアと、その横に立ち尽くしているメイソンの姿が目に入った。

 メイソンの手は血に塗れていて、手にしていた短剣からは、まだ真新しい赤い血が流れ落ちていた。

「デューイ!」

 詰まりそうになる喉から、絞り出すように、リッツはその名を呼んだ。振り返ったメイソンの表情は、いつも通りに穏やかだ。

「やはり君が来ると思っていたよ」

 いつものように、穏やかで、冷静で、笑顔は何の曇りもなく優しい。だから余計分からなくなる。

「どうして……どうしてあんなことするんだよ!」

「あんなこと?」

「そうだよ! 北部同盟に入ったし、エドがいるじゃん、これから変わるんだよセクアナは! なのにどうしてこんなことすんだよ! 意味ないだろう!」

「意味があるから行うまでだ。アルスター殿、もしも我らセクアナがルーイビルに併合されたら、どうなるか分かるかね?」

 ただ静かなメイソンに、リッツはただ首を振る。何故かを問う、同じ言葉しか出てこないから、他に発すべき言葉が見つからない。

「ここがルーイビル自治領区になれば、ルーイビル自治領主も、難民問題に触れるしかなくなる。自分の自治領区の生産の問題ならば、現セクアナの農民を農地に戻し、自らの自治領区の生産を上げる方が得になる。農民はみな、農地に戻れる」

「そんな……」

「北部同盟に加盟しても、ルーイビルの脅威はなくならない。それならばいっそ、ルーイビルに併合されることが望ましい。革命軍は、滅多なことでは隣の自治領区に攻め込んではこないだろう? これでセクアナは安全で、平和になる。違うかね?」

 言葉がなかった。きっとメイソンは間違っていないのだ。セクアナの地で生き、セクアナの民のことを一番に考えたとき、革命軍もルーイビルも、共に自らの民衆を守るための手段でしかない。

 どちらの味方に付けばより多くの民を助けられるのか、それを考えたとき、彼らは革命軍を切り捨て、ルーイビルを取ることだってあり得た。

 メイソンは、その道を取ったのだ。王太子を呼び、命を狙い、ガルシアに自治領主の座を降りさせることで。

「でもデューイ、ルーイビルの力は長く続かない」

 小さく呟くと、自分の中にその言葉が染みこんできた。そうだ。その通りだ。

「だってエドが王になるんだ。この国を支配するのは、スチュワート偽王なんかじゃない。エドワード・バルディアなんだから!」

 半ば怒鳴るように宣言すると、メイソンの表情が緩んだ。だが彼は何も言わない。反論してくるならしてくればいいのに、言いたいことがあるかもしれないのに、メイソンは黙って微笑んでいる。

「デューイってば! もうこんなの辞めてくれよ!あんたなら、何が理にかなうか分かるじゃんか!」

 叫びながらも祈るような気持ちで、この思いが通じるようにと言葉を綴る。だがメイソンは黙ったままベットの傍に立っている。どうしたらいいのか分からずに、リッツも立ち尽くした。

 その時だった。エドワードが口を開いたのだ。

「メイソン。すまないが、私には全て分かっている」

 いつも以上に淡々と語るエドワードに、リッツは顔をしかめて振り返る。そこには怖いぐらい冷静な水色の瞳があった。

「エド……?」

「リッツが罪悪感を感じぬよう、自分が悪で裏切り者だと思い込ませようとしているようだが、こいつとて馬鹿ではない。すぐに卿の真意は何だったかに気がつく」

「ですからこれが真意だと……」

「この茶番の首謀者は、ガルシア侯か?」

 エドワードの目はリッツを見ない。ただ真っ直ぐにメイソンに向けられている。メイソンは目を見開き、じっとエドワードを見返してから、微かに目を泳がせて、俯いた。

「さて、何のことか……」

「誤魔化すな。先ほどリッツに聞かせた論理は、偽りだらけではないか。ガルシア侯にセクアナ自治領主をハーマンへと移譲させたなら、今までと同じようにルーイビルからセクアナへの搾取は続く。決して平穏になどなりはしない」

「え……そうなの?」

 呟きながら見つめたハーマンの手のひらが、きつく握られた。エドワードはリッツに答えなかった。意味が分からぬままにメイソンを見続けるリッツの耳に、冷酷とも言える、淡々としたエドワードの言葉が入ってきた。

「ルーイビルがセクアナを併呑するならば、国王の許可がいる。だが偽王の証書は私とモーガン侯の処刑の許可をしたものだけだ。まだ併呑の手続きは取られていないはずだ」

「……それは書類が……」

 言い訳をしようとするメイソンを鋭い視線だけで遮り、エドワードは口を挟ませる猶予を与えずに言葉を続ける。

「それにファルコナー公爵は併呑する気は無いはずだ。何故なら併呑し、国に倍額の税を支払うよりも、隣領区として搾取した方が安上がりだからだ。ハーマンにセクアナを支配させ、今まで通りの搾取を続ける方が、ルーイビルにとって格段に利がある。それを分からぬ卿ではあるまい?」

 エドワードの言葉が切れると、途端に沈黙が重苦しいほどに下りてきた。リッツはようやくメイソンから視線を離し、エドワードの顔を見つめた。

「俺は意味が分からないよ、エド」

 メイソン相手には全く逸らすことがなかった目を、エドワードはリッツからそらした。それで分かった。エドワードはあの反乱が起きたときから何かが変だった。リッツの視線を避けているようだった。

 つまりエドワードは、この反乱がメイソンによって仕組まれたものだと知っていたのだ。

「この反乱が起こるって、いつから知ってたの?」

 問い詰めると、エドワードが俯いたまま小さく呟いた。

「……初めてメイソンとあった夜の内に、ジェラルドと相談して、ハウエルの諜報部隊を動かした。そこであの夜、メイソンがハーマンと会っていたこと、時折密会していることを知った」

 リッツは息を呑んだ。エドワードがハウエルの諜報部隊を動かした。それはつまり、最初からメイソンを疑っていたことになる。 

 なのに、リッツには、エドワードは何も言わなかった。メイソンに一緒に街を案内されていた時も、食事に出た時も。

「エド……どうして……」

 リッツの問いかけに答えず、エドワードが苦しげに説明を続けた。

「調査を続けていく内に、メイソンとガルシア侯が、北部同盟と同時にハーマンをセクアナから除き、トラヴァースから反乱の意思を奪おうと考えていることは推測出来た。北部同盟に加盟し、革命軍と共にセクアナを立ち直らせるには、ハーマンが邪魔だからだ。だからハーマンに反乱を起こさせ、取り除くことを考えたのだろう。そしておそらく……メイソンが裏切り者の役割を、ガルシア侯から引き受けた」

「……なんでデューイが……?」

「デューイ・メイソンは、二月ほど前に家族全員を事故で亡くしている。馬車同士の不幸な事故だったそうだ」

「え?」

 予想外の事実に、愕然とする。メイソンはリッツに、よく家族のことを話してくれた。料理が好きな、子爵家出身のよく笑う妻、しっかり者でお調子者の息子、愛らしいまだ幼い娘。家族のことを話しているときのメイソンは、本当に幸せそうだったのだ。

 なのに……死んでいたとは思わなかった。

「見る影もないほど絶望していたのを、誰もが覚えていた。だが先月から突然立ち直ったのだと聞いた。同時にメイソンが親しく付き合い始めたのは、ハーマンだった。家族を失い、希望を失ったメイソンが、反逆者という不名誉な役割を引き受けたのは明らかだ。だがメイソンは、それによって施政者の補佐官という誇りを取り戻したんだ」

 エドワードから、ゆっくりとメイソンに目を向けると、メイソンが肩の力を静かに抜くのが分かった。その姿を見ただけでリッツは、エドワードの語ったことが真実であると、理解する。

 そうだ。リッツもメイソンに聞いたのだ。

 もし北部同盟に加盟しても、ハーマンがいたら駄目ではないかと。そんな分かりきったことの対策をしない、メイソンとガルシアではなかった。

「やはり悟られておりましたか、王太子殿下」

「卿が私に反乱のヒントを与えてくれたからだ。私たちに武装して調印式に望めと、警告をしてくれていたのだろう?」

「……ええ。王太子殿下やモーガン侯に怪我を負わせたくはなかったので」

「ありがとう。おかげで我々は無事だ。間もなくハーマンも討たれるだろう」

「それはよろしゅうございました」

 メイソンは大きく息をつくと、ベッドサイドの椅子に崩れるように腰を下ろした。そのことが、今エドワードが語ったことが真実なのだと物語っている。それでもリッツには、この状況が理解できない。

「じゃあ何で俺たちを呼んだんだよ。俺たちがいない方がことは簡単だったのに……」

 もはやリッツは、エドワードに問いかけているのか、メイソンに問いかけているのか分からなくなってきた。だがメイソンは微かに笑うだけで口を開かず、答えてくれるのはエドワードだけだった。

「王太子を呼び寄せ、それを殺すことを提案した方が、ハーマンにより真実みをもって反逆の意思を固めさせられるだろう。そして王太子がここに居ることで、ハーマンの反逆が失敗に終わり、セクアナの北部同盟加盟を宣言する場合、相手に圧力を与えることができる」

「圧力?」

「王太子はセクアナを重く見ている。もしセクアナに手を出すことがあれば、ルーイビルが次の攻撃目標になりかねないとな」

「……そんな……」

 呟くように漏れた自分の声が、言葉になっていたのか分からない。だがその吐息混じりの声が途切れたとき、部屋の中に沈黙だけが満ちた。

 その中で聞こえるのは、規則正しい人の寝息だった。リッツは初めて、ガルシアが生きていることに気がつく。

「ガルシア侯が主犯なの?」

 ぽつりと聞くと、メイソンが首を振った。

「いや。私とガルシア侯、二人で考えたことだ」

「じゃあなんで、ガルシア侯は寝てるの? 何か役割とかないのかよ?」

 メイソンの顔がゆっくりとガルシアへ向き、それから穏やかに綻びた。

「眠って貰うのが役割だ」

「それってもしかして……」

「そう。私が睡眠薬を盛った。これから起きることを見て欲しくなかったからね。思えばこれも、裏切りかもしれん」

 ガルシアの顔を見つめて淡々と語るメイソンの顔には、何の躊躇いもなかった。幸福そうですらある。

「これから起こること?」

「そう。まずジェレミー様が信用していた人間を殺すところを見せたくなかった」

 メイソンの顔がゆっくりと死んだ男女の方へ向く。その表情には感情などどこにもなく、ただ冷たく死者を見下ろしている。

「そこで死んでいる二人は、ファルコナー公爵から送り込まれた暗殺者だった。毎日少量づつの毒を仕込まれていたらしい。生かさず殺さず、搾取し続けられるようにな。それを知った時、ジェレミー様の元から遠ざけねばと考えていたんだ。ジェレミー様は二人を信用するようにと言ったが、念のために薬を調べたると、やはり毒が混入されていた」

 メイソンはガルシアへと視線を移すと、満足げに頷いた。

「街で腕のいい医者をみつけて契約してきた。明日からジェレミー様に仕えるために、この館に上がるように伝えてある。きっと見違えるように元気になられるだろう」

 それだけいうと、メイソンは何の気負いもない、穏やかな笑みを向けてきた。その表情のどこにも、後悔や、絶望はなかった。ただ彼は満足している。

 そんな幸せそうな彼に、どう言ったらいいか分からない。眉を寄せたまま黙り込んだエドワードを横目に見ながらも、メイソンを見つめる。

 だが沈黙には耐えきれず、頭の中身をめちゃくちゃに並べ立てた。疑問を堰を切ったようにメイソンにぶつける。

「どうしてこんなこと引き受けたんだよ。家族が死んで悲しいから? でもあんなに沢山の街の人が心配してるんだ。あんたのことが好きなんだよ? これじゃあんたは、犯罪者じゃないか。みんなデューイをガルシア侯の大切な腹心だって信じてたのに、それは裏切って平気なのかよ?」

 答えてくれないかと思った。だがメイソンは穏やかに口を開いた。

「私は平凡な男なんだ」

「……平凡?」

「そうだ。あなた方のようにはなれない」

「俺たちのように?」 

「アルスター殿のように、剣を振るうセンスはない。政に秀でたモーガン侯のような思考も持たない。王太子殿下のような上に立つ才能も持たない。おそらく男爵家に生まれ、自治領主補佐の地位を与えられなければ、セクアナの地にあって、何の輝きもなく、ただ埋もれていくだけの存在だっただろう」

 淡々とした言葉だったが、その言葉には何の苦しみも悲しみもなかった。メイソンは事実を事実として受け止めていたのだ。

「世の中には、世界を拓いていける者と、平凡に自らの生涯を終える者がいる。世界を拓いていける人間はほんの一握りに過ぎず、この世のほぼ全ての人々が、ささやかな自分の幸せを祈る平凡な人々だ。私もその中の一人だった。そしてそのまま終わるはずだった」

 メイソンの語る言葉は、まるで自らの罪を懺悔するかのようにただ穏やかだ。だからリッツも言葉を挟めない。だが、噛みしめた唇は痛いほどだった。

 何か言いたいのに、反論したいのに、どう言えば彼の心に届くのか、全く分からなかったのだ。

「だが精霊王が私に輝かしい役割を一つ、お与えになった。歴史の上に私が残ることになったのだ。それは自治領主への反乱であり、動乱の時代おいてはほんの僅かな事柄に過ぎぬだろう。だが私自身はこの平凡な身に、セクアナの民を救う役割を課せられたのだと分かっている」

 メイソンが視線を遠くに向けた。釣られるように見たその先には、高台であるこの屋敷からセクアナの街が一望できた。

 煉瓦造りの建物の数々、行き交う人の流れ、そして溢れる難民。彼の目には何が見えているのだろう。リッツに分かることは、街を眺めるメイソンの視線が、慈しみに満ちているということぐらいだ。

「この平凡な私が、私の愛する街を、人々を救うことができる。それならば何を躊躇うことがある?」

 優しく訊ねられて、リッツは口を開いた。小さく沈んだ声がこぼれ落ちる。

「だってみんなは、デューイが本当はセクアナを救ったなんて知らない。デューイは……悪人として、好きな人たちに憎まれるよ」

「構わないさ。それで人々が救われるなら、私の立場など、さして重要ではない」

 敢えて彼は罪を背負っていく。それは揺るがない決意。平凡なわけがない。メイソンは本当に意志が強い男なのだ。

「ガルシア侯は平気でそうしろって言ったのか?」

 眠ったまま微動だにしない、やせ衰えたガルシアを見据えて低く訊ねる。

「そんなのあまりに身勝手だ。そんな奴のために犠牲になるのかよ」

「ジェレミー様はそんなことをおっしゃられなかった。だが事実すでに死者が出ているのだ。ハーマンを除くためであったとしても、護衛部隊に死者が出たこと、ハーマンが集めた難民に死者が出たことの責任を、誰が負う?」

「それは……」

 正論だった。ハーマンを除くために画策したことで死者が出たのに、画策した人間が誰も責任を取らないのでは、あまりに無責任すぎる。だがガルシアが責任を取るならば、セクアナはなくなってしまう。

「死した人々にも愛する人がいるだろう。彼らだって私と同じ平凡な人間だ。普通に幸せな生活がしたいと望んだ者たちなのだ。だからこそ私は、死んだ者たちを愛する者が、憎めるように反逆者になっておかねばならない」

「だからあんたひとりが罪を背負うのか? ガルシア侯はそれを当たり前だと認めたのか?」

「違う。これは私の意思なのだ」

「反逆者になることが? そんな奴いるかよ!」

 感情的に怒鳴ったリッツの肩に、手が乗った。目の前で微笑むメイソンではなく、後ろに佇んでいたエドワードだった。

「ガルシア侯は、メイソンを逃がす気だったんだ。でもそれを拒絶して、メイソンはガルシアに睡眠薬を盛った」

「……どうしてそんなことが分かるんだよ」

「ガルシア侯にモーガン侯が頼まれたそうだ。革命軍にメイソンをつれて行って欲しいと。セクアナから革命軍へ配属になる一団にその名があった。表向きは人材提供という形だったが」

「じゃあ……なんで……」

「ガルシア侯は、メイソンをここから逃がそうとした。だがメイソンはこの場で反逆者として終えることを決めていた。反逆者となったメイソンが革命軍にいることを感付かれれば、革命軍がルーイビルにつけ込まれかねないからだ」

 エドワードの言葉を裏付けるように、メイソンがガルシアの顔を見た。ガルシアは、病み衰えた顔ながら、安らかな顔をして眠っている。

「メイソン、今から革命軍に下る気は無いか? 名と身分はこちらで用意しよう。政務部にはまだ人が必要だ」

 エドワードの呼びかけは誠実に聞こえた。だがリッツは、その中に諦めがあることを見抜いた。きっと問いかけたエドワードも、問われたメイソンも、回答を知っているのだ。案の定メイソンは深々と頭を下げた。

「私はハーマンと共に反逆者として、終わることを望んでいます。自治領主補佐として、責を負うのが私の最後の役割ですから。お心は暖かく嬉しく思いますが、どうか殿下にはご容赦くださいますよう」

「……そうか……」

 呟くように吐息混じりに答えたエドワードは、微かに顔を伏せた。どうにもならないことを前に、リッツは動くことができず、メイソンを見つめた。メイソンの目もこちらを見ている。

「デューイ……」

「アルスター殿……いや敢えてこう呼ばせて貰おう。反逆者故、ご容赦頂きたい」

 メイソンの顔に、満面の笑みが溢れた。

「リッツ、そしてエド。君たちに出会えて、共にセクアナの街で過ごせて嬉しかった。君たちは歴史を拓ける、ほんの一握りの人々であり、未来を希望へと変える眩い輝きだった。君たちになら、私の愛する人々を託せると思った」

 これは遺言だ。それが分かったから、リッツは唇を噛んで涙を堪える。どうにもならない、どうすることもできないのか。そんな自分が歯がゆい。

 うつむき加減でいると、メイソンが柔らかく名を呼んだ。

「リッツ」

「何だよ!」

 怒鳴り返して顔を上げると、あまりに透き通った何の気負いもない笑顔に胸を打たれた。そのまま視線が外せなくなる。

「この平凡な男である私を、慕ってくれて本当に嬉しかった。君は私の死んだ息子に、よく似ていたよ。まるであの子が私の元に一時帰ってきてくれたようだった」

 メイソンの唇から、一筋の血が流れ落ちた。

「……デューイ?」

「エド。王太子の君は素晴らしい人格だった。だが私は君が路上で甥のふりをして、笑顔で肩を叩いてくれたときのことを忘れない。歴史の上で、偉大な王になる君だが、ひとりの人間としても魅力的な男だ。そんな君と接したことの幸福を、死者の国で妻への自慢とするよ」

 口の端から流れ落ちる血は、じわりじわりと量を増してゆく。毒を飲んでいたのだと、リッツでも分かった。エドワードを見ると、苦しげに眉を寄せ、メイソンを見ているだけで微動だにしない。きっとエドワードは分かっているのだ。

 もう彼を助ける術はないと。

「デューイ……」

「私は幸福だ」

 天を仰ぐように微かに上を向き、メイソンは手を組んだ。その姿は一途に祈りを込める神官のようだった。

 やがてメイソンはゆっくりと、崩れるようにして椅子から落ちた。床の上で幾度か痙攣を繰り返し、完全に動きを止めるまで、リッツは動くことすらできずにいた。

 手から力が抜け、ゆっくりと剣が地面に落ちた。剣は絨毯の上で鈍い音を立てて転がる。

 沈黙が再び部屋を支配する。身動き一つできないリッツの近くで、エドワードが溜息交じりに呟いた。

「……すまない、リッツ」

 その途端、頭のどこかが熱く弾けた。振り返り、エドワードの両肩を強く掴んだ。

「知ってて、どうして止めなかったんだよ!」

「止められなかった。止めたらこの自治領区を救えない」

「ハーマンが自滅するように仕組めば良かったじゃねえか! そういうののためにハウエルを置いてんだろ!」

「時間がなかった」

「時間って何だよ!」

「セクアナの事情は知っていたが、こんなことになっているとは知らなかった。たった五日では、ハウエルとてハーマンだけを陥れられない」

「じゃあ時間掛けろよ! 調印を引き延ばしにしてさ!」

 怒鳴りながら感情的にその肩を揺さぶると、エドワードも初めて怒気を発した。

「掛けられるはずがないだろ! 俺たちがここに来た時点で、もう全てが動き出してるんだ。俺たちがここに着いた日には、すでにスチュワートの書状がハーマンに渡ってたんだ」

「そんなの取り上げちまえばいいじゃねえか!」 

「できるわけないだろう! それにメイソンは反逆者として責任を取ることを、生涯最後の使命だと考えてたんだ」

「だからなんだ!」

「彼はそれだけが生きる支えだった。メイソンから生きがいを取り上げられるか? 責任を負うべき者が消えたなら、この反逆で命を奪われた人はどうすればいいんだ? 誰を恨めばいいんだ!」

 だからメイソンが、罪をかぶったのだ。でもそれを止める権利は、本当にこちらになかったのか。

「だけど!」

「セクアナはこれから幸せになるはずだ。でも死んだ者は帰ってこない! 悲しみは減らない! だからメイソンはセクアナの過去ごと、憎しみと悲しみを背負う、決意を固めていたんだ。俺たちと会う前からな!」

 セクアナの使者として出会った時には、もうすでにメイソンにはこの未来が見えていたのか。だとしたら自分たちは何だったのか。もどかしい思いで、胸がかき乱される。

「じゃあ俺たちは、結局傍観者に過ぎないのか? 俺たちは何もできないのか! セクアナは助けを求めてきたのに!」

「できないんだよ! セクアナを救うためにセクアナの人々が決めたことに、俺が首を挟んでも、何も変えられない! 俺は俺に託されたことをするしかないだろう!」

「託されたことって何だよ!」

「俺は、王太子だ!」

 エドワードの強い口調に、リッツは唇を噛む。エドワードは苦渋に満ちた表情で、吐き捨てるように言い切った。

「だから俺は、彼らの願いを受け止め、この自治領区を守るために算段を付けるしかない。それが俺の役割だ」

 エドワードの言葉は当然だ。それがメイソンが、革命軍の天幕で、土下座をしてでも願った役割なのだ。これでセクアナは、大きな憂いを取り去って、北部同盟に加盟できる。

 そしてメイソンが考えた通り、王太子が足を運ぶだけ重要な自治領区と、全自治領区に認められ、他からの手出しがしづらくなる。

 セクアナは変わる。甦るのだ。

 本当は分かっている。ちゃんと分かっている。自分にとやかく言う権利など無い事を。これはセクアナの自治領主とメイソン、二人のけじめなのだと。

「……メイソンの事情は分かった。納得はできないけど、理解はした……」

 俯いたままリッツは呻く。明らかに安堵したように、肩に入っていたエドワードの力が緩んだ。

 でもリッツには、認められない事が一つあった。そのせいでエドワードを離せない。黙ったまま、それでも両肩を掴んでいるリッツの問いたいことを、きっとエドワードは分かっている。

 だからリッツは絞り出すように問いかけた。

「もう一つだけ、聞いてもいい?」

「何だ?」

「……何で俺に黙ってたの……?」

 エドワードが、再び身体を硬直させた。

 今まで彼が見せてきた全ての躊躇いや苦悩は、メイソンのためにあったのではなかった。それがリッツには分かった。

「俺がしゃべっちゃうから? 俺がメイソンを止めたら、セクアナの将来が危うくなるから? それとも……」

 自分でも口に出したくない言葉だった。でも訊ねずにはいられない。

「……俺を信用してくれてないの?」

 こちらを見上げるエドワードの表情が歪んだ。

「違う!」

「何が、どう違うんだよ!」

 エドワードが口を開く前に、リッツは掴んだ指先に強く力を込める。エドワードが小さく呻いた。痛みが耐えがたかったのか、その両手でリッツの腕を掴み返してくる。それでもリッツは手の力を緩めず、その目を近くからじっとにらみ返す。

「何で、俺に話してくれなかったんだよ! お前、俺に全部話してくれてるって言ってたじゃん!」

 真っ直ぐに見つめたエドワードの瞳は、見た事がないほど感情で揺れている。唇はきつく引き結ばれ、そのくせ微かに震えていた。

 そんなエドワードの心痛が分からず、戸惑いと悲しみが止めどなく溢れてくる。

「確かに俺は頭悪いよ! 話聞いててもよく分かんないから、聞かずに出て行くことも多いよ。つまみ出されることだってあるし! でもそれは全部、お前が俺にとって大事なことは、ちゃんと後から話してくれるって信じてるからだろ! だから俺は待つんだ!」

「話そうと思った」

「じゃあ何で話してくれなかったの? こんな風に後悔しかできない状況で、何で俺に黙ってたの!?」

「お前がメイソンを慕っていたのに、ハウエルに内偵させるなんて知られたら、お前が傷つくと……」

「それは傷つくよ! ハウエルは嫌いだし、メイソンは好きだから! たぶん俺怒るよ! 喧嘩になるかもしんないよ! だけどエドに、隠し事をされてる方が、何十倍も傷つくんだよ!」

「リッツ……」

「俺とお前は、相棒なんだろう! 何でそんなことも分かんないんだよ!」

 もっと早く知っていたら、メイソンを止められたかもしれない。一緒にもっといい方法を考えられたかもしれない。ずるくてもいいから、救う道を考えたかった。

 エドワードと、ジェラルドと、メイソンも一緒に。そうすれば万に一つの確率であっても、か細い一筋の道が見えたかもしれない。

 でも全てが終わってしまってからでは、何もできない。この手には何も残らず、残るのは重たい後悔と、エドワードと自分の間にある、得体の知れない溝だけだ。

「ごめん……リッツ……」

「本当は悪いなんて思ってないんだろ」

 どうせ価値なんて無い男なんだから。そうひねた思いがわき上がってきて、自らの価値をまた見失う。

「! そんなことはない!」

「俺は馬鹿でガキだから、お前は隠し通せると思ったんだろ! 俺なんて、ただの拾いもんだしな。所詮俺は革命軍司令部のお荷物だろ」

「そんなことを言うな!」

「いうよ! 自分でもいつも感じてるよ、役立たずだって」

「リッツ、違うっ!」

「違わない! だからエドは俺の気持ちを裏切ったんだ! 俺がお荷物だから!」

 自分の卑屈な叫びで、また再び、街で出会った少女の言葉が甦る。

『お兄さんは私に近いけど、こっちの人は完全な大人でしょう?』

 その言葉から本当に受けた衝撃に、今更ながら気がついて愕然とする。

 エドワードは、大局を冷静に見極められる大人になっていく。もうすでにそうなりつつある。

 そして自分はきっと、このまま卑屈で感情的で、どうにも手の付けられない子供でいる。

 この差はきっと、永遠に広がり続け、大きな格差となっていく。そうなればきっと、もう共にはいられないのだ。

 途端に手から力が抜けた。

 リッツの感情の揺れに戸惑うエドワードの肩に額を付けて、独り言のように小さく呟く。

「……俺が年を取らなくて、いつまでもガキで……お前は大人になっていくんだ」

「……リッツ……?」

「だからお前はガキの俺を信用できなくなっていく。そして俺たちはどんどん……離れていくのかな」

 リッツは顔を上げた。極限まで見開かれたエドワードの水色の瞳が、目に飛び込んできた。リッツは目をそらし、死んだメイソンへと歩み寄る。その顔はとても満足げで、後悔などどこにもなかった。

 それが余計悲しく、リッツは唇を噛む。感情の持って行き場がなく、死の直前までメイソンが座っていた椅子を、蹴り飛ばした。

 椅子は壁まで飛び、ばらばらに壊れて散らばった。その残骸を見ながら、リッツはやはり自分が子供だと自嘲する。

「感情的で、理性的じゃなくて……ガキでごめん、エド。これじゃ俺、お前の相棒とは言えない……」

 エドワードが何か制止の声を上げたかもしれない。でもその言葉の意味が入ってこなくて、リッツはベッドサイドの窓を開けた。眼下にはメイソンの愛した街が広がっている。

「リッツ?」

「ごめん、エド」

 謝ると同時に、リッツは窓から身を躍らせていた。身軽に地面に着地し、後ろも見ずに駆けだしていた。今この場にいたくなかった。

 自分の名を呼ぶエドワードの声が聞こえた気がしたが、振り返りたくなかった。

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