<6>
北部同盟加盟の調印が行われたのは、王太子一行がセクアナに着いてから五日後のことだった。
初めて出会ったときよりも、格段に調子が良さそうに見えるガルシアが調印の間に現れたとき、リッツは正直これで帰れそうだとホッとしていた。
そろそろパトリシアや、シャスタ、ギルバートに、ダグラス隊の面々が懐かしくなりつつあったのだ。平穏な生活は好きだけれど、おおっぴらに動けないのは、少々窮屈だった。
別に外に出ていないわけじゃない。セクアナに着いてから、五日の間にあちらこちらを回った。そのほとんどがエドワードと一緒で、王太子と精霊族としてではなく、二人で身分を明かさず街を歩き回ったのだ。
全ての時間が楽しかったとは言いがたいが、それでも一般市民として街を隅々まで調査することは楽しいことだった。
その間、エドワードがジェラルドたちと何か相談していたようだが、敢えてその中に入ろうとしなかった。前に質問しすぎて話が進まないと、コネルに怒られていたから遠慮したのだ。
エドワードも聞けと言わなかったから、きっとリッツに関係のあることではないのだろう。
その五日間の中で、数回メイソンに街を案内して貰った。時にはエドワードがおらず、メイソンとリッツだけで外に行くこともあった。
そこでリッツはデューイ・メイソンをよく知るようになった。メイソンという人物は、とても平凡な人物で、剣を扱うことも苦手だし、天才的な政治感覚も持っていない。
本人もそれを自覚しているからこそ、丁寧で親切だった。彼の案内は街の細部にまで細かく及び、彼ほどセクアナの街を愛している人もいないだろうと思うほどだった。
それに彼は、とても街の人々に好かれていた。安居酒屋から、市場まで、人々は皆気軽にメイソンに声をかけるし、メイソンも笑顔で応じる。
彼は決して男爵であるという地位を笠に着て、一般市民を脅かすこともなかった。
そのメイソンが貴族の正装をして、ガルシアの隣に立っている。車椅子から正式な調印の椅子に腰を下ろしたガルシアも、やせ細ってはいても堂々たる侯爵の正装をしていた。
同じく向かい合った席に座っているジェラルドも、堂々たる姿だった。今回は署名する立場にないエドワードも、表情を引き締めてジェラルドの隣に座っている。
かくいうリッツは、そんなエドワードの後ろに立っていた。騎士団の制服によく似た、長めの上衣に、飾りをいくつか付けた騎士団の正装をしているのだが、どうもその服装に馴染めない。いつもの動きやすい制服の方が好きだ。
ジェラルドの後ろには、騎士団長のエリクソンがいて、その後ろにはずらりと騎馬隊が並んでいた。
ガルシアの後ろにも、ガルシアの私兵部隊がずらりとそろい踏みしていた。やはりくたびれた服を着ているが、この場にいる限り立派な戦力には見える。
幾度か覗き見た調印の間は、だだっ広くて寒々しかったが、こうして両陣営全員が立ち並ぶと、荘厳で重々しい空間に変わった。
なるほど、貴族の調印の間には、こうして多くの人々が入ることを前提に作られているらしい。
そしてガルシアのすぐ後ろにはハーマンと、トラヴァースが立っていた。二人とも貴族の正装をしているが、トラヴァースに比べて、ハーマンは前に街で見かけた時のように、きらびやかな姿をしている。
ガルシアと比べると、どちらが領主か分からないほどだ。
じっと見据えていると、ハーマンと目が合ってしまった。濃茶の髪を後ろになでつけ、通った鼻筋に軽く触れたハーマンは、何故かリッツに向かって小馬鹿にするように唇を歪めた。
ハーマンのその目は、この調印に反対しているはずだというのに喜色を浮かべている。やはり何か変だ。この男は何を考えているのだろう。
やがて場が整い、ジェラルドが口を開いた。
「これよりセクアナ自治領区の北部同盟加盟調印式を始める」
ざわめきが一瞬にして消え去り、空間を心地よい沈黙が支配する。その中でジェラルドの口調は、威厳に満ちて穏やかだった。
「北部同盟盟主であるこのジェラルド・モーガンと、セクアナ自治領主たるジェレミー・ガルシア侯爵の調印を持って、セクアナを北部同盟に迎える」
重々しい口調に、リッツも姿勢を正した。これでセクアナも北部同盟に入り、王国の自治領区は、完全に五対五で革命軍側と現王家側に真っ二つになったことになる。
ジェラルドが振り返ると、着いてきていた政務官が一人、恭しく両手で持つに丁度いい大きさの、絹張りの冊子をテーブルに置いた。テーブルの中央には、羽ペンとインク壺が二組置かれている。
ジェラルドが冊子を開くと、そこに調印書が挟み込まれていた。今まで正式な調印式など見た事がないから、リッツにはそれが物珍しい。
高級そうな紙には、流麗な文字が書かれており、この同盟に参加することの意義、盟約内容、そして理念が書かれている。一番上にある紋章は、きっと北部同盟の紋章なのだろう。
かがみ込んだり、目立つことをせぬように、目だけでじっくりと眺めているリッツにお構いなしに、
流れるような動作で、ジェラルドは羽ペンを手にし、インクを浸した。
もしこれが自分だったなら、緊張してインクを垂らしそうだなと、リッツは考えていたが、当然ながらジェラルドがそんな粗相をすることはなかった。
後ろから覗き込んでいると、そこにジェラルドらしい重厚な文字でその名が記された。
リッツの字はローレン譲りでどちらかというと見本のように整った、性別不明の文字だが、ジェラルドは男性的でおおらかな字だ。大人の男の字で格好いいなと素直に羨ましい。
羽ペンが戻されると、恭しく政務官がそれをガルシアの方へと向きを変える。
受け取ったガルシアは、緊張のためか微かに額に汗を浮かべつつ、正面にある北部同盟調印書をじっと見つめる。
大きな決断だから、緊張のあまり体調を崩さないだろうかと、見ている方が心配になった。
そんなガルシアを助けたのは、やはりメイソンだった。メイソンはガルシアの元にかがみ込み、優しく何かを耳元に囁く。ガルシアはメイソンの言葉に安心したのか、弱々しくも笑みを浮かべて頷き、そのか細い手を羽ペンに伸ばした。
いい主従関係だなと、リッツは心から思った。これから先、セクアナで何があるか分からないが、きっとガルシアにメイソンがいる限り、上手くいきそうな、そんな気がする。
再び視線をハーマンに向けると、その頬が完全に緩んでいた。ガルシアがサインするのを、今か今かと待ち構えているようだ。
やっぱりハーマンは何かがおかしい。このまま調印式を続けていいのだろうか。
そんな疑念が浮かんできたが、リッツの一存で調印式を止めることなどできるわけがない。
やがてガルシアは、弱々しい手つきながらも、しっかりと署名を書き入れた。弱った見た目と違い、意志の強そうな癖のある字だった。
なるほど、自分が食うに困っても難民を助けようという、彼の心が如実に表れているようだ。
羽ペンを戻し、緊張した面持ちで頷いたガルシアから、政務官が恭しく調印書を受け取り、ジェラルドへと手渡す。
ジェラルドはそれを自らの手元に置き、席から立ち上がった。席から立つことが困難なガルシアを気遣うように、ジェラルドはガルシアへと歩み寄り、手を伸ばした。
「これよりセクアナは北部同盟に加盟した。ガルシア侯、ユリスラの未来を作るため、共に力を尽くそうではないか」
力強く宣言したジェラルドの手を、ガルシアは感に堪えないといった顔で取った。
「ありがとうございます。モーガン侯」
その手をおし抱いたガルシアは、やがてジェラルドの手を離し、エドワードに向かって、座ったまま最敬礼をとった。
「セクアナはエドワード王太子に、終生の忠誠を誓います」
「歓迎する。共に王国の未来を築こう」
柔らかな笑顔で答えたエドワードに、ガルシアは微かに涙を浮かべた。そしてその目は次に、メイソンに移される。
だがメイソンとガルシアは何も言わず、ただ微かに目配せをしただけだった。
その視線が重苦しそうで、そして意味ありげで、リッツは微かに首をひねる。この調印式には、この二人の中で、何らかの問題があったのかと思ったのだ。
「ではこれで調印の儀式を終了する」
ジェラルドがそう宣言したときだった。
静まりかえっていた中で、おかしくて堪らぬと言った笑い声が起きたのだ。
初めは押さえたような声だったが、それが徐々に大笑へと変わっていく。
「何がおかしいか、ハーマン伯」
冷静に問いかけたジェラルドに、ハーマンは見下すように笑った。
「言うに落ちたり、モーガン侯。御身は自らの手で死刑執行書にサインをしたのだ!」
「死刑執行書だと?」
微かに眉を顰めたジェラルドに、ハーマンは懐に忍ばせた書類を取り出した。書類に大きく描かれた金の紋章は、リッツも見覚えがあった。
駆ける金のユニコーン。ユリスラ王家の紋章だ。
「見よ! スチュワート王より賜った、この書状を!」
ハーマンは書状を堂々と掲げて読み上げた。
「北部同盟は、王家に刃向かう賊軍である。これに加盟するいかなる領主も、極刑を持って処す。つまり私は、ガルシア、モーガン、両自治領主を弑する権利を、今ここに得たというわけだ!」
「……ほう。それに我らが反すると言ったらどうなるのかな?」
静かに、だがいつも通りの鷹揚な態度を崩さずに、ジェラルドが微笑んだ。その貫禄に押されつつも、ハーマンはジェラルドを見据え続けた。
「国王の命だ。死んで貰うほかない」
「我らがここにおられる王太子、エドワード殿下以外は王族と認めぬとしても、その偽王の書状は絶対か?」
「そうだ」
「我々に従う義務はないというのに、何故絶対と言い切れる?」
「国王の存在は絶対だ!」
ジェラルドの圧倒的な存在感に頬を引きつらせつつも、かろうじてハーマンはそう言い切った。だがやはりジェラルドは応じなかった。
「我々をここで殺す気か?」
「そうだ。偽王太子共々死んで貰う」
「そもそも、我々と殿下をここへと招いたのは、それが目的か?」
「そうだ。我が同志、メイソンが手はずを整えた」
一瞬、リッツは自分の耳がおかしくなったのだと思った。
メイソンが手はずを整えた? そんなはずがない。メイソンはこの男を嫌っているし、この街の現状を変えたいと思っていたのに。
だがリッツの混乱などに構うことなく、事態は進行していく。
「メイソン、手はず通りにガルシア侯を奥の間に閉じ込め、自治領主の移譲書を書かせよ」
「了解しました。ジェレミー様、申し訳ないが、移譲書を書いて頂く」
「……メイソン……」
「もはやセクアナは限界です。ルーイビルの完全属国となり、合併するしか道はありませぬ」
冷たく言い切ったメイソンは、ガルシアを車椅子へと誘導する。それを見てリッツは我に返った。
「デューイ! 嘘つくなよ! あんたそんな人じゃないだろ!」
とっさに口からその言葉が、叫び声となって溢れていた。今までジェラルドとエドワードにしか目が行っていなかったハーマンが、ぎょっとしたように動きを止める。
「デューイ!」
「すまんなリッツ。お前を騙すようなことをした」
「デューイ!」
「これしかセクアナを救う手段がない」
そういうと、メイソンは車椅子に手をかけた。ガルシアは衝撃のあまりか、ぐったりと車椅子に座り込んで、動けずにいる。
「皆動くな。動けばジェレミー様の寿命を縮めるだけだ」
決して大きくはない声だったが、ガルシア侯の私兵は誰も動くことができない。メイソンは悠々と人々の間を割って部屋の出口へと歩いて行く。
「デューイ!」
怒りと、困惑と、悲しさが混じり合った叫びで、ただ名を呼ぶことしかできないリッツを無視して、メイソンは微かに振り返った。
「医者と介助の女中を部屋に寄越してくれ。移譲書を書くまでは無事でいて貰わねば成らん」
「待てよ! デューイ!」
叫んで後を多うとしたリッツに、ハーマンの怒鳴り声が届いた。
「勝手に動くな!」
「うるさい! 俺はデューイに話があるんだ!」
感情的に一喝すると、ハーマンは頬を引きつらせた。だが瞬く間に立ち直ってせせら笑う。
「お前には何もできぬわ!」
「なんだと?」
「お前らは全員、ここで死ぬのだからな!」
ハーマンの言葉と同時に、ガルシアの私兵たちの中で斬り合いが起きた。兵士たちが幾人も血に沈み、
その混乱は乱闘になる。
「ガルシアの私兵とて一枚岩ではない。この状況を抜け出し、自らの生活を守ろうとする物もおるのだ。お前が話そうとしているメイソンとて、それを選んだ」
「何?」
「所詮人は、自らの貧しい境遇に耐えられぬ。抜け出せるなら、人を売るぐらいのことはする」
「てめぇ!」
叫んで飛び出そうとしたリッツは、きつく肩を掴まれて止まった。振り返ると、冷静にこちらを見る水色の瞳があった。
「離せ、エド!」
「落ち着いて状況を見ろ。俺たちはどうやら完全に包囲されているようだ」
エドワードに軽く顎をしゃくられてそちらを見ると、調印式の会場全ての扉が開け放たれていた。そこにはハーマンの私兵とおぼしき者たちが溢れている。
「……くっ!」
唇を噛みしめたリッツの耳に、トラヴァースの声が飛び込んできた。
「ハーマン! 何をしでかしたのだ!」
今まであまりのことに呆然としていたトラヴァースが、ようやく我に返ったらしかった。だが掴みかかったトラヴァースに、ハーマンは表情一つ変えない。
「私が、この自治領区を救う救い主となるのだ。分からんか?」
「分からぬ! これではガルシア侯に対する謀反ではないか!」
更に締め上げるトラヴァースを殴り倒して、ハーマンは足下に倒れたトラヴァースを見下した。
「やかましいわ。おぬしだって自分の街だけを守ろうと画策しおったではないか。私はそのように小さなことで満足はせぬ」
「小さなことだと?」
「そうだ。おぬしごときの戦力でおぬしの街一つを守ったところで何ができる!」
「貴様……っ!」
「小さな男よ。自治領区を救うぐらいの頭を持たずしてどうするのか」
「何……?」
「我らが知らぬとでも思ったか? おぬしは自らの街を守るため、ルーイビルへの供物を誤魔化しておるであろう? その上に砦を作ろうと画策しておったな?」
ますますトラヴァースをあざけるハーマンに、トラヴァースの顔が悔しさに歪んだ。やがてギリと唇を噛んで、トラヴァースが顔を上げた。
「私の街の民を守ろうとして何が悪い! 故郷を愛し、守って、何が悪いか!」
「大局が見えぬと申しておるのだ。そのような些事に必死になりよって、愚か者め。ガルシアの後は、お前の街だ、トラヴァース」
「それだけは……許さぬ!」
剣を抜いたトラヴァースが、叫び声を上げてハーマンに斬りかかった。ハーマンも剣を抜いて応戦した。
「お前には、お前にだけは私の街を好きにはさせぬ!」
「愚かな。セクアナが私の物になれば、お前の街とてこの手の中だ!」
「させぬ!」
幾度も打ち合いながら、ハーマンは未だ室外にいる戦力に向かって叫んだ。
「全員、偽王太子と、逆賊、ジェラルド・モーガンと、精霊族を語る偽王太子の犬を切り捨てよ! 王より賜った、正式な王命である!」
その声に応じるように、男たちが雪崩れ込んできた。ハーマンの私兵だけではない、数多くの難民もいる。
「エド!」
エドワードを背に庇い、リッツは剣を抜いた。正面から飛び込んできた数人を、ひと思いに切り捨てる。生ぬるく、金臭い血飛沫が降りかかった。
「……貴族は……指揮してるのは誰だ?」
人を斬りながら呻く。いつもなら指揮を執る貴族を斬れば事足りたからだ。それに大してかえってきたエドワードの言葉は無情だった。
「扇動している者はいても、指揮している者はいないようだな」
「……それってどういうこと?」
「おそらく彼らは金で雇われただけだ。俺たちの首で給料が出る仕組みだろう」
「……じゃあ……」
「ああ。彼らが戦意を失うまで、戦いは止まらない」
斬っても斬っても、向かってくる者たちは歩を止めない。エドワードとリッツの命など、彼らにとって生活するための金でしかない。
「くそっ!」
難民であるならば、斬らずに切り抜けたいが、それは無理だった。エドワードも剣を抜き、敵に向きあう。
金のためだとしたら、彼らはどれぐらいの食物を買うための金で、命を売ったのだろうと思うと、もの悲しい。
畑があるのに。
豊かな土壌もあるのに。
生活していける、皆に平等な決まり事だけがない。
「何で……なんでだ……何で……」
呻きながらも振り抜いた剣は、無数に取り囲む目の前の人々を切り裂いていく。不意に裏路地で出会った少女を思い出した。
あの子と同じで、彼らも自らで生を育む喜びを知らず、ここまで生きてきてしまったのか。それではあまりに悲しい。
救われたいのに、救いたいのに。利害は一致しているのに何故戦いが起きる?
リッツたちと共に来た部隊も、元々は騎士団であり武芸で成らしている。久しぶりに見たジェラルドの剣を振るう様は、相変わらず安定感があり、そちらに気を配る必要などなさそうだ。
実力ある剣士と、生活のために命を投げだす難民。この戦いは本来あってはいけないものだ。このままでは剣を扱い慣れた仲間たちが大量に人々を斬ることしかできない。
リッツの考え通り、瞬く間に調印式場は血に染まっていった。
「八方塞がりだな」
不意にエドワードの声が耳に届いた。
「何が?」
「この状況だ。このままでは俺たちの大虐殺で終わる」
すでにリッツと同じように血に染まっていたエドワードが、軽くそういった。この口調の時には、エドワードに余裕があるから、まだ大丈夫だ。何らかの手段が残されている。
「どうにかしてくれよ。メイソンも止めたいし!」
時間がない。焦りで苛立ちながら会話しながらも、飛びかかってくる人を切り伏せる。それはエドワードも同じだ。
お互いに背を合わせているから、敵に対して死角はない。混戦状態の中で、ジェラルドとエリクソンも同じように戦っているだろう。
「とりあえず、ここを突破することだろうな。なぁリッツ」
微かにエドワードの声が小さく沈んだ。
「何?」
不安になってきつく聞き返すと、エドワードが小さく呟く。
「……何でもない」
口調を戻したエドワードに、リッツは不審感を抱きつつも頷く。
「そっか」
「取れる手は二つだ。一つはハーマンを切り捨てること」
エドワードの言葉に視線をハーマンの方へ向ける。残念なことに、ここからハーマンへと向かうには、あまりに人の壁が厚すぎる。どちらかと言えばジェラルドの方が近いだろう。
それに今ハーマンは、トラヴァースと、ガルシアの私兵で、ガルシアに着いている人々と戦っていた。トラヴァース一人ならまだしも、これなら時間の問題かもしれない。
「もう一つは?」
「ガルシア侯を救出し、セクアナの街に北部同盟加盟を大々的に公表してしまうこと。そうすれば民衆を味方に付けられる」
「そっちに乗った!」
とにかくメイソンを追いたい。彼の真意を確かめたい。
「とりあえず人の壁を突破して、メイソンを追うか?」
「俺はそうしたい!」
「よし。じゃあ、あっちの扉だ」
エドワードが全身で向きを変え、剣を振るって駆け出す。リッツも一瞬の遅れもなく後に続いた。
「偽王太子が逃げるぞ!」
誰かの叫びに、人々の注目が集まるが、エドワードはお構いなしに剣を振るって、自分の道を切り拓いていく。
リッツも並んで走りながら共に剣を振るう。
「死にたくない奴、敵じゃない奴はどけ! かかってきたらみんな斬る!」
叫びながら振り回した剣は、丁度剣を振り上げていたハーマンの臣下に当たり、血飛沫が舞う。
「貴様よくも!」
その反撃に出た兵士たちと斬り合いになると、横から絶妙のタイミングで、エドワードの剣が突き出る。
「こいつは斬ると言ったら斬るぞ。しかもギルバート・ダグラスの弟子だ」
剣を構えたまま余裕の表情で笑ったエドワードの言葉に、兵士たちが怯んだ。その一瞬を狙ってリッツはメイソンが消えた扉に向かって活路を開く。
「エド!」
名を呼んだだけで、エドワードはその出口に向かって駆け込んでくる。リッツは体当たりしてその扉を無理矢理に開けた。
鍵はかかっていなかったから、派手に扉が弾け飛んだ。
「偽王太子と犬が逃げたぞ!」
叫び声を背に聞きながら、リッツは思い切り彼らに向かって舌を出した。
「犬じゃねえよ~だ!」
「リッツ!」
扉に手をかけたエドワードに頷き、リッツも扉を閉める。重たい扉を二人で閉めると、大きな取っ手に二人分の剣のさやを刺して、かんぬきにした。動かぬようにリッツは素早く制服の上着を脱ぎ捨て、さやをノブに縛り付けて固定する。
かなりきつめに縛ったから、しばらく持つだろう。
「おっさんたち大丈夫かな?」
呟くと扉の向こうの気配を伺う。かんぬきをした扉が、激しく物音を立てていた。
「大丈夫だろう。なにせ天下のジェラルド・モーガンだ。それにこんなことを想定して、騎馬隊全員が完全武装してるしな」
「そっか。じゃあ安心だな」
リッツは再び閉ざされた扉の向こうの気配を探った。多くの人々の怒号が飛び交っている。
「行こうエド。デューイを止めないと」
敵の気配がないことを確認して、エドワードを促す。
「そうだな」
そこは廊下と言うよりも、奥まった部屋へと続く、私的な通路のようだった。扉の大きさに対して通路が狭い気がする。もしかすると、身体の弱いガルシアの部屋に直接通じる道だろうか。
調印式場を囲む廊下と繋がっていたなら、後方から来る敵を警戒せねばならないが、これならば時間が稼げそうだった。
道は一方向にしか向かっておらず、それはつまりこの先には、ガルシア侯とメイソンがいる部屋があるだけだということになる。
「急ごうぜ」
「ああ」
返事は返ってきたものの、エドワードは何となく気が重そうだった。やはりメイソンに裏切られた気持ちが強いからだろうか。それとも何か別の懸念があるのだろうか?
「どうかしたの、エド?」
「いや。急ごう」
リッツの横を通り過ぎ、エドワードが前に立った。すれ違いざまの表情が何故だかとても硬い。やはりエドワードは何か変だ。だがここでそれを追求するのは違う気がした。今すぐに行かねばならないのはメイソンとガルシアの元だ。エドワードと話すことは、いつだってできる。
石壁に囲まれた古い木の廊下には、妙に足音が高く響く。もしかしたらこの先のガルシアの部屋に敵がいるかもしれないと言う緊張感と、メイソンの行動への戸惑いが、不安となり、足音と共に自分の中に響いているような気がして、緊張が高まる。
黙ったまま先を行くエドワードの背を見つめた。微かな緊張感を持ちつつも、堂々と背筋の伸びたその姿は、やはり風格が漂っている。
こんな状況にでも、リッツのように心が揺れたりしないのだろうかと思うと、その落ち着いた姿に、また微かに心がざわめく。
不意に、あの少女の言葉を思い出した。
『お兄さんは私に近いけど、こっちの人は完全な大人でしょう?』
あれはどういう意味だったのだろう。やはりリッツの落ち着きのなさが、並んだ時に佇まいで現れてしまったのだろうか。
それともまだ数年なのに、もうエドワードとリッツの見た目の年齢が、離れてきてしまっているのだろうか。
ぞくりと、背筋を冷たいものが走った。認めたくない現実が、じわじわと這い上ってくる。
エドワードはこれから更に年を取る。それは分かっている。だからエドワードが死ぬまで一緒にいて、死んだ時に殺して貰う約束をした。
だが一緒にいると、エドワードが大人になり、自分はそのままで居る現実を、見続けるしかない。
エドワードの名を呼び、いつものようにじゃれついたリッツに振り返るエドワードが、完全に成熟した大人だった時、今まで通りにエドワードとふざけることができるんだろうか。
大人になり、歳を重ねたエドワードに、自分は今まで通り友として接することができるのか。それにエドワードが、若いままいるリッツと、友として接してくれるのだろうか。
エドワードは友だ。でも年の開きが二人の間を遠ざける。パトリシアも、シャスタもだ。今は同じ年代に見えて仲間として接してくれる彼らも、大人になり、老人になる。
そうなったら、リッツはどうなるのだろう。彼らは今までのように、仲間として共に笑ってくれるのだろうか。それともたったひとり若いままでいることで、彼らの中で孤立していくのだろうか。
それは心が疼くほどの恐れだった。
「リッツ?」
耳に飛び込んできたエドワードの声で我に返った。顔を上げるとエドワードが扉の前に立ち、こちらへと心配そうな表情を向けている。
「大丈夫か?」
「え? 何で?」
「黙りこくってたからさ。メイソンとお前は親しかったからな」
リッツの無言の時間を、エドワードは都合良く解釈してくれたようだ。まさかエドワードとの年の差が開く恐怖に、潰されそうになっていたとは思わないだろう。
「あ……うん。信じられないんだ」
「そうだろうな」
何故かまた、エドワードは微かに眉を寄せる。やはりいつも以上に硬い表情だ。だがその理由を問いかける前に、エドワードは扉に手をかけていた。
「ここがガルシア侯の部屋だろう。開けるが構わないな?」
「え、ああ、うん。いいよ」




