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八月に入ってから、本営をアーケル高原に移した革命軍は、大混乱の中にいた。理由は大量の志願兵と、難民の存在である。
アーケルの戦い以後、一定数増えることを考慮に入れていたが、それにしても人数が多い。そのほとんどが、想定外のシアーズ直轄区から出ているのだ。
一月前のアーケル草原の戦いは、あっという間に風に乗り、噂となってユリスラ国内に波及した。サラディオからは新聞記者がやってきて、活版印刷の記事にすべく、あちらこちらをスケッチして回り、兵士たちを質問攻めにしていった。
その新聞が北部同盟だけではなく、全自治領区に出回ると、更に志願兵が増えた。中には元軍人など、腕に覚えのあるものもいたが、ほとんどは迫害に遭っている民衆か、迫害から逃れ正義のために参加する民衆たちであり、素人だった。
そんな彼らを割り振るために、まず作られたのは事務処理専門の部署だった。この部署は志願者の中にいた、戦闘には不慣れだが書類には自信があるものや、戦うには年を取り過ぎた経験者によって成り立っている。
彼らは志願者を、経験者と未経験者に振り分け、更に専門分野に振り分けて書類を作成した。その書類を元に、カークランド率いる後方支援部隊の事務方が仕分けるのだ。そんな理由から、彼らは自然と後方支援部隊所属の事務方となった。
同時に本営に作られた難民たちの事務所も、大盛況となっていた。
こちらもやはり事務処理専門部署が作られた。だが後方支援部隊と違い、こちらの割り振りをする者たちは、元々政務や事務の経験がある者に限られた。エドワードが王となる近い将来、減ってしまった政務官を補うための処置である。
トップは当然ながら、グラント・サウスフォードである。グラントに曰く『腐敗している王城の政務部を一掃した場合、人材が足りなくなることは確実であり、火急に必要な人材を今のうちに育てておきたい』ということらしい。
当然ながら、不正な仕事をした者たちは、元々グラントの元で修行を積んでいるシャスタを含めた、秘書官たちによってその資格を失う。仮と言いつつも将来を見越しているため厳しい。
難民が増え、政務部を希望する人々が増える中で、仮の政務部は確実に充実しつつある。
所属する部署が異なる二つの事務方は、隣接する天幕でせっせと事務仕事に励んでいる。あの戦い以後、それが革命軍の活動の主たる物であると言ってもいいだろう。
つまりは現在の革命軍で、最も繁忙な部署は巨大化してきた事務方の人々の仕事であり、今後大規模戦闘を控え、作戦立案と情報収集に余念のない革命軍司令部ではなかった。
かといって司令部が暇なわけではない。詳細な情報収集、分析、作戦立案は、まだ寄せ集めである革命軍にとって生命線とも呼べる。司令部全員がそれに追われているのもまた事実である。
ギルバートとコネルを中心とした実戦部隊は、膨大な数に増えつつある義勇兵の訓練に忙しい。経験不足の戦力でも効果的に事を運ぶ作戦を練ることに、時間があれば頭をひねっている。
エドワードとジェラルドは、革命軍全体の作戦立案に関わりつつ、政治宣伝や、民衆への影響力を計算し、王太子の軍として、立ち回りを考えることに余念が無い。勝つだけの作戦なら簡単だろうが、それだけでは革命は成功しない。
今後、シアーズに攻め上るに当たり、王太子らしい決断や、国主にふさわしい選択をつねに考慮して選択していかねばならないのだ。
その上ジェラルドには、自治領主としての仕事と、北部同盟盟主としての仕事もある。こちらはパトリシアが半分補佐しているとは言え、最終的に決断するのはジェラルドだ。
パトリシアだって、ジェラルドの補佐の傍らで、精霊部隊の訓練に参加し、腕を磨き続けている。
そんな中において、ひたすらに自分をもてあまし続けていたのは、人間社会をよく分かっていないリッツだった。
剣術の稽古をしようにも、ダグラス隊は新兵訓練に狩り出されていて、構ってくれる暇などない。行く場所もないからエドワードの隣で、作戦立案をする司令部の会議を見ていたのだが、コネルにつまみ出されてしまった。
考えるよりも尋ねることが多すぎて、子供のように『何故?』を連発し、答えるエドワードとジェラルドが、いちいち時間を取られて効率が悪いと言うのがその理由だ。
仕方なくリッツは、たったひとりで人目に付かない森の中に入り、剣を振るっていた。
高原を抜ける風は、八月でもそれほど暑くはないのだが、日の光が当たると全身に汗が滲む。森の中はその点、涼しくて快適だった。そもそも精霊族であるリッツは、森の中が好きだ。
「あっつぅ……」
身体を動かせば、やはり暑さはじわじわとしみいってくる。リッツは剣を振るうことを辞めて、木陰で転がった。
「……何やってんのかなぁ、俺」
革命軍において、何らかの役に立っているのだろうかと、ふと思うと心がざわめく。英雄になれと言われて英雄になり、戦場で剣を振るってきた。でもこうしてひとりでいると、本当に自分が存在していることでエドワードの手助けになるのか、さっぱり分からなくなる。
考えれば考えるほど、自分の無力さにがっくりくる。だから考えることを辞めて、身体を大きく開いて投げ出して仰向けになり、背中で森の気配に心を浸す。
木々の下から見上げると、夏の眩い日差しが、緑に輝く無数の欠片となって降り注いできた。薄暗さに目が慣れていたせいか、それが妙に眩しくて、光の破片が目に刺さるようだ。
小さく息をつくと、片手を目に載せて光を遮った。目からの情報が遮断されると、途端に森の息づく香りが満ちてきた。しっとりと湿り気を帯びた、土の香りと、下草の青臭い香りが混じり合い、心地よい冷たさに身体が包まれた。
髪をなびかせる風は、生き物の気配を運んでくる。リッツの人間よりもよく聞こえる耳は、そんな微かな音を拾う。
鳥たちの声、遠くから微かに聞こえる獣たちの唸り、訓練している少し遠い革命軍の人々の声。森の中を通る、しっとりと湿った風が汗ばんだ身体に心地いい。
最近エドワードが根を詰めているから、今度ここに連れてきてやろう、とふと思った。こうして寝転がるだけで、少しだけ重圧から解放された気分になれるかもしれない。
グレイグの事件以後、何かを吹っ切ったように堂々と前を向くエドワードだが、隣にいるリッツから見れば疲れていることが丸分かりだった。
王太子ともなれば、自由に遊び回ることなど不可能だと分かっているから、リッツはこうしてちょっとした気分転換ができそうな場所を探すのが、習い性のようになっていた。
水辺、森の中、高原の高台。一般の兵士があまりこないだろう所を、リッツはいくつも知っている。だが忙しいエドワードに教える間もなく、大抵そこはリッツの隠れ場所になってしまう。
でもそろそろエドワードの疲れも頂点を迎えるだろう。何しろパトリシアの事まであるのだから。
それを考えると、リッツまで胸が痛い。自分のせいで、あの二人の仲がこじれることになったりしたら、後悔してもしたりない。
今の所二人の間にそんな空気は流れていない。おそらく二人とも、リッツが気に病むことを知っていて何もなかった顔をしてくれているのだろう。それを考えると、余計気が重くなる。
何故、二人の助けになりたいのに、二人の重荷になるようなことをしでかしたのか、あの日の自分を蹴り飛ばしてやりたい気分だ。
そんなことを考えて頭をかきむしったその時、微かな気配を感じた。気配はまだ遠く、おそらくリッツ以外ならその足音さえも感じ取ることはできなかっただろう。
とっさに身を起こし、剣の柄に手を添える。リッツが起き上がったことに気がついたはずだが、相手は足を止めない。
気配の主は、微かに身体を木の陰に隠しつつ、こちらに近づいてきた。こちらから見えない影を選びつつも、堂々たる足運びに、こちらに対する遠慮や配慮は全く感じられない。
薄暗い森の中に、茶金色の髪が微かに揺れている。
着ているのは王国軍服だ。革命軍で王国軍服を着ている者は、コネルが指揮する歩兵部隊の指揮官クラス、つまり元王国軍人たちだけだ。数はかなり多くても、もうかなり長い間共に戦っているから、身内かそうでないかぐらいは雰囲気で分かる。だが近づきつつある男から感じる雰囲気は、決して身内ではない。
やがて男が、いつでも斬れるように身をかがめるリッツの前に姿を現した。
「これはこれは、精霊族の戦士リッツ・アルスター殿ではありませんか」
響きのいい低音で話しかけられたリッツは、眉をひそめてその男をじっと観察した。まったく見覚えのない男だった。こんな男が居れば、きっと嫌でも目に付くだろう。
「お前は、誰だ?」
「あなたほどの大物ではない。ほんの小物ですよ」
名乗るでもなく、男はしゃれた口調でそういうと、女なら黄色い歓声を上げそうなほど見事に片眼を閉じ、形のいい唇を綻ばせた。
客観的に見ると、革命軍には居ない、癖のある美男子だ。年齢は四十代前半といったところだろう。だがリッツからすれば眉をひそめたくなる程、全体から漂う雰囲気がきざな男だった。
くたびれた軍服に身を包んだその男は、それでも十分高貴に見えた。立ち居振る舞い、その雰囲気、全てが今まで出会った貴族のように大仰だ。長身で金茶色の髪を長めに流していて、微かに掻き上げる仕草も役者のようだった。
「こちらに来て早々、あなたに出会えるとは幸運だった。噂に違わず、精霊族は美しい」
あまりに予想外の言葉に、リッツは愕然と男を見返していた。
「は!?」
「その手を取って、甲に口づけをしたいところではありますが、何しろあなたは剣技の名手。斬られてはかなわない」
「俺は男だぞ。何を気色悪いことを……」
微かに後ずさると、男は再び女性なら喜びそうなきざな笑みを満面に浮かべた。
「美しければ美しい、それを讃えることに男女の性差など些細なことだ。それにあなたのその佇まい。美しい上に強靱な肉体をお持ちだ。まさに理想の姿と言わざるを得ない」
陶酔したかのようにそう語った男だったが、その目を見てリッツは警戒心を更に高めた。その目は、貴族とは全く違っている。
微かに青みがかってはいるが、灰色の瞳は、酷薄な印象を受ける。こんな妙な会話をしているというのに、全く笑っていないのだ。それどころかその目は、ただただリッツを値踏みしていた。
こんな表情で見られるのは、英雄を演じるようになってから初めてだった。コネルのような不信感でもなければ、リックのような憎しみでもない。
男はただリッツを観察していたのだ。リッツという男が困惑するような、気持ちの悪いことを持ち出しても、警戒心を解かないのか、それともこの程度の会話で油断してしまう馬鹿なのか、と。
しばらく見つめ合った後で、男は今までとは違う、うっすらとした笑みを浮かべた。
「話に聞くほど、馬鹿でもないらしい」
やはり今までの会話は、偽りだったようだ。男を見据えつつ、リッツは低く答える。
「あんたに警戒心を、ちゃんと持つぐらいにはな」
「そうだな。王太子殿下が君を手名付けたと聞いたから、試してみようと思ったが、簡単に懐きそうにないらしい。それとも私が穏やかに近づいたなら、懐いたかな?」
灰色の瞳が、ひたとリッツを見据えた。その目をにらみ返しながら答える。
「その目をして穏やかだなんて、鏡を見たことねえんだろ? それに俺は気色悪い褒め言葉に乗るほど、馬鹿じゃねえ」
元々褒められることが苦手だ。身内に褒められると身の置き場に困り、見知らぬ人に褒められれば警戒する。のぼせ上がることはまずない。
警戒を解くことなく、いつでも剣を抜けるように構えながら見据えると、男はせせら笑うような笑みを浮かべた。こちらが男本来の笑みらしかった。
「噂だけを信じてはいけませんな」
「……噂……?」
「簡単に騙される従順な、革命軍の飼い犬というわけでもないらしい」
「飼い犬……」
エドワードの犬扱いされるのはもう慣れたが、噂とはいえ、革命軍の飼い犬扱いされているとは面白くない。信念を持ってこの場にいるというのに。
「革命軍の司令部に行きたいので、案内してくれませんかアルスター殿?」
「司令部……?」
「ダグラス中将とサウスフォード中将に面会をお願いしたい」
未だ薄ら笑いを解かない男を前に、リッツは警戒心を解かぬまま、全身で相手の気配を感じつつ立ち上がった。
「ギルはもう中将じゃない」
「おっとそうでした。モーガン侯と同等の元帥扱いでしたっけ。モーガン侯は大臣閣下でしたな?」
「……革命軍においてだけどな」
知っていたのに男は惚けていたようだ。何をどこまで知っているのか、リッツはこの男が妙に気味悪くなってきていた。
ギルバートが元帥扱いとなったのは、アーケルの戦い以後のことで、まだ一月と経っていない。しかもそれは、革命軍内部だけの話なのである。
それに伴い、ギルバートの勧めにより、エドワードの後見人であるジェラルドは同じ肩書きでありつつ、臨時職として大臣に任命された。同様にして、グラントは臨時宰相である。エドワードが王となればこれが正式な地位になるだろう。
暗殺者であるなら、独特の闇の気配を感じるが、この男が纏った雰囲気はそんな物ではない。どこまでも靄がかかったような、そんな薄闇が男の回りを取り巻いている。その靄は濃く、中までで見通すことはとてもできない。そんな気がした。
「……案内する。でもあんたが何者か分からない限り、いつでも斬れるように俺は後ろにいる」
「それがいいでしょう。初めて会った人間を司令部に連れて行こうというのだから、当然の処置だ」
当たり前のように、男はリッツの前に立って歩き出した。背後にリッツがいる事を理解しつつ、あまりに躊躇いがないその行動に、リッツは更に戸惑いを深めながら一歩下がって歩く。
「そうそう、一つ言っておきましょう」
「何だよ?」
「あなたは美しい。私の言葉に一つだけ真実があるとしたら、これだけが本当です」
さらりとそういった男の顔は見えない。前を向いたまま、こちらを振り返ることもしないし、歩調を緩めることもなかったからだ。言葉と行動のあまりにかけ離れた行動と、その薄気味悪さに、リッツは吐き捨てる。
「だとしたら、気持ち悪い奴だ」
「これは手厳しい」
案内して欲しいといった割に、男は人混みの中を、勝手知ったる場所のように歩いて行く。時折リッツが場所を指示すると、分かっていたかのように方向を変えた。
一体何者なのか、敵か味方かも分からないうちに、司令部の天幕に着いたリッツは、警戒心を高めながら男と同時に天幕に入った。
「ギル、コネル、客」
端的に、だが警戒心を込めて呼びかけると、その場にいた全員がリッツの感情に呼応するように鋭く振り返った。
そんな彼らの前に、男はスッと膝を突いた。
「お呼び頂き、ありがとうございます。モーガン閣下、ダグラス閣下、サウスフォード中将」
「え?」
「そして麗しの、王太子エドワード殿下」
男の行動に目を丸くすると、ギルバートが肩をすくめて笑った。
「久しぶりだな、ピーター」
「ご無沙汰をしております。手土産に王国軍の詳しい内情を持って参りましたので、吟味ください」
顔を上げた男が、満面の笑みを浮かべて軍服の胸元から折りたたんだ紙を取り出した。受け取ったのはギルバートではなく、乱暴な足取りで近づいたコネルだった。取り上げるように書面をむしり取り、コネルは男を見下ろす。
「元気そうじゃないかハウエル」
「そちらも変わりないようだなサウスフォード。麗しのイライザは、相変わらずしょぼくれた君に不釣り合いに美しいかい?」
「ああ美しいさ。この俺にふさわしいぐらいにな」
「それは良かった。シアーズには、麗しいご婦人が減ってしまってね。見目だけなら十分に麗しくおられるが、中身は欲に塗れて泥が詰まったようさ。泥袋にいくら香水を振りかけても、かぐわしき香りを味わうことができない」
「……お前の女性観など聞いてない」
視線を紙に走らせながら、コネルはあっさりと男の一言を切り捨てる。男の言葉に興味は無いようだ。だが男は、お構いなしに言葉を続けた。
「だがこちらには生命に溢れた麗しいご婦人がおられる。当分は萎れたこの心を癒して貰えそうだ」
そういうと、男は役者のように整った顔立ちで、魅惑的な笑みを浮かべて、その場にいたパトリシアに片眼を閉じて見せた。思い切りパトリシアが硬直し、椅子ごと後ずさる。
何だかそんなパトリシアにホッとしてしまった。こんな男にうっとりされたら、心がざわめいて、自分の自信を喪失してしまう。男は他にもコネルの部下の女性に笑みを浮かべて見せたりしたが、あっさりと無視されている。
それでも男は口を閉じたりせず、パトリシアを見つめてその整った顔に甘い笑みを浮かべた。
「さすがに心美しき女性たちは、一目で私を気に入ってはくれぬようだ。いかがかな? 今宵は共に食事でも?」
「前戦でか? お前の好きな洒落た店なんぞないぞ」
書類を読みながら混ぜっ返すコネルに、やれやれと男は大きく溜息をついた。
「相変わらずの朴念仁だな、サウスフォード。鍵のかかる個室があれば、誰でも目眩く夜を過ごす特別な場所になるさ。いかがですかな、パトリシア様。今宵は私と、夢のような一夜を過ごしてみては?」
堂々とそう言い放った男に、パトリシアが顔を赤くした。もしかして照れて嬉しいのかと思うと、不安に押しつぶされそうになる。
だが次の瞬間に、パトリシアの口から出てきた言葉は違っていた。
「申し訳ございませんけど、わたくし、エドワード王太子殿下に、この命をかけて忠誠を誓っておりますの」
「忠誠を誓うのと、恋はまた違いますよ? 恋は色とりどりの華のように、あなたの人生を彩るもの。人生に必要なエッセンスです」
「いいえ。私にとってはこの身も、心も殿下のもの。私ではなく、他の麗しき方々にお声をおかけくださいませ」
心からパトリシアの言葉にホッとする。確かに心も体もエドワードに捧げているのだろう。それはリッツも知っている。
少し痛む心に気がつかぬふりをして、リッツは胸をなで下ろした。
「それは残念。でもいつか大人の魅力を知った時は、どうぞこの胸にいらしてください。あなたのように美しい女性は、私の夢、そして理想です」
怒濤のようにまくし立てた男に、コネルは小さく息をついた。
「相変わらず口の達者な男だ」
「これが私の武器だ。普段から磨かねば仕方なかろう?」
あっさりとそう言い切った男に、パトリシアは憮然とした。
「わたくしは砥石じゃありませんわ」
どこ吹く風の本人に変わり、コネルは申し訳なさそうに頭を掻く。
「すまないねパトリシア。天幕から放り出したいのは山々だが、そういうわけにもいかなくて」
この男の古くからの知り合いらしいコネルに、リッツは遠慮なく尋ねる。
「こいつ味方なの? 敵じゃないのか?」
「俺の天敵ではあるが、残念ながら敵じゃない。今後のために呼び寄せた」
「味方……?」
不信感を込めてまだ、すぐ隣で未だ膝を突いたままの男を見下ろすと、男は視線に気がついて顔を上げ、こちらを見上げた。
「私はピーター・ハウエル。王国軍諜報局長で、軍の階級は中将、貴族階級は男爵。貴族たちの間では有名無実なお飾り職さ」
おどけたように言ったピーター・ハウエルに変わって、書類をギルバートに渡したコネルが続ける。
「その実、完全に国民のために機能している集団だ。現在まで王都シアーズで数十人、各自治領区に十人単位で潜入し、諜報活動をしている、革命軍にも数人居るだろうな」
「……うそだろ?」
仲間内で諜報活動をする。それはすなわち、仲間を疑い、懐を探ろうとすることだ。リッツの常識からは考えられない。
だがリッツ以外の誰もが、当然だと思っているのか、異を唱えないかった。
戸惑うリッツに、ハウエルは楽しげな笑みを浮かべて、微かに視線を向けつつ答えた。
「五人だ。サウスフォードが最初に革命軍に身を投じた中にいる。誰かは聞くな。彼らはそれが仕事だ」
「分かってる。そっちの仕事に口出ししない。で、その五人からの情報で判断したか?」
「ああ。ユリスラ国民のために、我がユリスラ王国軍諜報局は、エドワード王太子殿下に付く」
それは初めて聞いた、男の心からの言葉だった。それに気がつき、ハウエルを見たが、すでにその顔は、今まで通りのにやけた色男に戻っていた。
「私は私の楽しみのために生きているし、そのために力を尽くす覚悟もある。だが現王では何も楽しめない。残念ながら、スチュワートの美しさは顔だけだ。中身は腐ったトマトよりも更に悪い。だが諜報活動だけで彼を破滅に追いやることはできそうにない。ならば協力を惜しまない」
「……相変わらず人を食った言い方をする。国民の幸福のために、自らの付く側を選ぶと、どうして言えない?」
あきれかえったコネルに、ハウエルは小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「何を宗教がかったことを。人は自らの欲望を昇華させてこそ理想に近づくのだろう? 私は美しいと感じるものを手中にするために労を惜しまない。それだけだ。人にしろ、国家にしろな。現にこちらに呼んでいただき、もうすでに収穫があった」
不意にハウエルに手を取られて、手の甲に口づけられた。その生暖かな感触に、全身に鳥肌が走る。
「何すんだよ!」
思い切り振り払うと、ハウエルが口の端を持ち上げ、余裕の笑み浮かべた。
「精霊族は素晴らしい。人間よりも長い寿命を持ち、それ故にか老化が遅く、肌のきめも細かい。剣を手にして堅くなったであろうが、その肌は絹のようじゃないか」
「……は?」
「私に敵意を向けてきた時の表情と、瞳の美しさも素晴らしい。その切れ長なダークブラウンの瞳は、闇に輝く一粒の宝石だ」
「……気持ち悪っ……!」
無意識に口からそんな言葉が漏れた。だが男は全く意に関しない。
「男でさえもこれほどなのだから、さぞかし女性は美しいのだろう。だが精霊族で森の外にいるのは君ひとりだそうだな。ならば君でもいい。私と一緒に食事でもどうかな? その後、一晩あれば私のすばらしさを理解させて見せるよ」
あまりの言葉に、リッツは後ずさりをした。これに正面切って答えたパトリシアを尊敬する。
「だから俺は男だろうが!」
「私は性別を気にはしない。それに君はずいぶんとシアーズでは遊んでいたそうじゃないか。それならば新しい遊びを覚えるまでだ。そう思わないかい?」
あまりの言葉に、天幕の奥に居るエドワードの元に背に隠れた。ここがいちばん視線を避けられるような気がしたのだ。当然エドワードよりも大きいから、隠れようもないが、とにかくハウエルから離れたかった。
それにギルバートもコネルもジェラルドさえも苦笑する中で、唯一まともそうな反応をしているのが、エドワードだけな気がしたのである。
「あいつ気持ち悪い!」
半ば悲鳴を上げると、コネルが溜息交じりに頭を掻き、ギルバートが爆笑した。笑いが収まると、ギルバートが口を開く。
「すまんなリッツ。ピーターは、自分が気に入れば男女見境なく口説くことで有名だ。それでのし上がったところもある。しかも精霊族コレクターだ」
「精霊族コレクター?」
そういえばシーデナの森から、精霊族の工芸品を食物や生活品に変えるために、しばしばサラディオに訪れていた頃、父親に聞いたことがある。
精霊族が作った工芸品は、人間たちに、特に精霊族を神聖視する人々にはとてつもなく高く売れる。どうやらシーデナの精霊族の暮らしを支える一端を担っている人間の中に、この男が居るらしい。
そんな彼らを世間では精霊族コレクターと呼ぶ。
リッツは幼い頃、よく父親に『精霊族だとばれるな。連れ去られても知らないぞ』と注意されたものだった。当時、森から出て生活している幼い精霊族は、リッツただひとりだった。父親もそれを分かっていたのだ。
精霊族コレクターにとって、精霊族の幼子は魅力的な存在なのだろう。もし精霊族の子だと分かって誘拐されでもしたら、一体どんな目に遭わされるのか、想像するだにぞっとする。おそらく死んだ方がましな目に遭うのだろう。
そして、今目の前にいるこういう男が、幼い精霊族をみつけたら危険な目に遭わせるに違いない。
「精霊族が描かれた絵画、シーデナの森からでた精霊族のタペストリー、精霊族の工芸品であるといわれる彫刻。どれもこれも素晴らしい。本物の精霊族であるあなたも、コレクションに加えたい」
陶酔しきったような言葉を口にしているのに、やはりその目は油断なくリッツを見ている。ギルバートもそういうのだから、精霊族コレクターであることは事実だろう。
だがそれ以上にその瞳は冷静かつ酷薄で、人としての温度を感じられない。リッツにとってこの男は、警戒すべき対象であることに変わりはなかった。
軽薄に話し、精霊族を褒め称えつつも、その手のひらに、薄い刃物を忍ばせているような気がして、薄気味悪かった。それが自分個人に向けられる欲望ならまだ気持ち悪いだけですむ。
でもそれ以上にこの男の、静かな冷酷さが気持ち悪かった。コネルと見る目が、ギルバートとジェラルドを見る目が、そしてエドワードを見る目が、完全に暖かみを持ってなどいない。
リッツから見れば、彼がリッツの大切な仲間を、信頼しているようには全く思えないのだ。
諜報活動ってなんだ。仲間すら窺うような人間を、どうして信頼できるんだ? それが今後に必要な要素だとしても、彼を信用することなんてできるのか? リッツにはそれが理解できない。
「こいつおかしいよ。信頼しない方がいい」
真剣にエドワードを見つめると、困ったようにエドワードは肩をすくめたが、言葉を発しない。苛立ち紛れに顔を覗き込んで、噛んで含めるようにエドワードに言いつのる。
「腹の底はきっと真っ黒だ。何を考えてるのか全く読めねえし、そんな奴を信頼できるもんか」
リッツの中にある警戒心を感じ取ったのか、エドワードの手は強くリッツの肩を掴んだ。頷いたその目もリッツの言葉を理解してくれていて安堵する。でも口から出たのは正反対の言葉だった。
「と言われても、彼のおかげで難民と志願兵が大量に集まったから、無碍にもできない」
「え?」
「シアーズで近く強制的に国民を徴兵し始める。それを感じ取ったチノたちが、ギルバートに報告をし、彼をこちらに寄越すと同時に、無事に彼らをここまで逃がした」
「それって、チノの功績じゃん?」
「それだけじゃない。革命軍が街道沿いに隠れていて、難民に襲いかかると逆襲されるという、まことしやかに囁かれる噂をばらまき、通り沿いの貴族に警戒心を抱かせ、民衆への無差別攻撃を回避させた。彼の功績はもうすでに大きい。民衆に対しての安全保障の手腕は見事だった。讃えることはあっても忌避する必要はない」
堅苦しいエドワードの言葉に怯みつつ、それでも口を尖らせて反論する。
「……でも……」
「功績あるものを避ける必要はない」
きっぱりと告げたエドワードに、リッツは唇を噛んで一歩下がる。エドワードが決めたことに逆らう気は毛頭ない。それに今のエドワードは、王太子としてここに居て、リッツの友としてここに居るのではないことが分かったから、言葉も出なかった。
微かに萎縮したリッツに気がついたのか、エドワードは冗談めいた笑みを浮かべた。
「精霊族が美しいと言っただけで、気色悪いと言わないでやれ。人間は大体そんなものだ。精霊族を、この国に住まう精霊のように美しい種族だと信じて疑わないのだからな」
「……でも俺だぜ?」
「それを言われると厳しいな。私も一度だけとはいえ、お前を美しいと思ったことがある」
「エド!」
予想外の言葉に声を上げると、エドワードはいつもの通りすました顔でハウエルに微笑みかけた。
「というわけで、リッツは私の所有物で、パトリシアも私の大切な存在だ。まさか王太子たる私のものを奪うようなことはしまいな、ハウエル?」
軽くいなすようなエドワードの冗談に、ハウエルは堪えきれないように肩をふるわせて笑った。
「いたしませんとも。不敬罪で処罰されるのは趣味ではありません」
「それは良かった」
「俺は物じゃない」
むくれて抗議をすると、微かにエドワードは、肩を軽く叩いてくれた。後で聞くから、とりあえずこの場はこれで終わりだと言っているのが分かる。
エドワードもこの男を警戒し、本心を語りたくないのだと分かった。よくよく考えると、今までの口調も物言いも、全て外向きのものだったことに気がついて安堵した。
後ろに控えているから、エドワードの表情は見えない。でも声であの自信に満ちた、いつもの水色の瞳で相手を見ているのだろうことが分かる。
「ピーター・ハウエルに、王国軍と同じ中将の位を与え、今後の作戦行動に加わるように命じる」
威厳に満ちた言葉に、ハウエルが自らの胸に拳を当て、王族への最敬礼をした。
「あなたはとても美しい人だ、エドワード王太子殿下。きっとあなたの作る新たなるユリスラは、私の願うような美しい国になるだろう。それを信じ、このピーター・ハウエルは、エドワード王太子殿下に、忠誠を誓います」
跪き、頭を垂れたハウエルに、エドワードは静かに微笑んで告げた。
「ユリスラのためにその力を借りる」
「はっ」
「作戦の内容はギルバートとコネルに任せてある。今後は諜報部を再構成し、情報収集と諜報活動に力を尽くせ」
「御心のままに」
頭を垂れるハウエルに、リッツは遠慮なく視線を向けていた。ふと顔を上げたハウエルの瞳が、エドワードを一瞬じっと見つめた。その瞳にあるのは、リッツを見ていたのと同じように、ただエドワードを値踏みするような冷たいものだった。
本心からの忠誠を誓っているわけではないのか。そう思うと心の中の闇が、ゆっくりと首をもたげた。
もしこいつが裏切ったら、自分が斬ればいい。エドワードや仲間たちが傷つかないように。
その暗い決意は、自らの奥深くに深く沈めた。




