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燎原の覇者6「背徳の功罪」スタートです。
裏切り、諜報、情報戦。
リッツの苦手とするこれらが何のために必要で、何故存在するのか。人と出会いそれを知ることが、リッツ自身を強くしていく。
そんな物語になっていればと思います。
てなわけで、背徳の功罪、始まるよ~ヽ(^0^)ノ
開け放たれたままの窓から、強めの風が薄い木綿のカーテンをはためかせる。ふと陰った日の光を追うように、男は視線を窓の外に向けた。低く垂れ込める雲が水平線上にわき上がり、眩く輝く空と海の蒼に微かな影を落としていた。
頬を撫でる少し冷たさを含んだ風は、湿った埃っぽい香りを乗せてまとわりつく。王都の夏特有の、あの潮の香りの強い夕立が来るのかもしれない。
「夕立ですかね」
目の前で地図に見入っていた小柄な年配の男が、微かに外に視線を向けながら呟いた。答えを求めても居ないのだろうが、微かに口元を綻ばせて男は答えていた。
「ああ。この分では、路上で内偵をしている同志が濡れるだろうな」
「そんなことを気に掛けていたら、我々の仕事は成り立ちませんぜ。あんたはどんと構えて、我々に指示をしてくれればいいんだ。大将」
多少不機嫌そうな小男に、男は苦笑する。大将と持ち上げてはくれるが、こちらはまだこの立場に立って日が浅い。むしろ専門職である彼からみれば、自分など取るに足りぬ存在に違いない。
それでもなお、こうして力を貸してくれることを、ありがたいと思わねばならないだろう。何しろ男は最近まで敵であったのだから。
「チノ」
「何です、大将?」
「大将は辞めてくれ。グレイグでいい。今まで敵だった男をそれほど持ち上げても仕方あるまい?」
苦笑交じりのグレイグの提案に、ダグラス隊諜報担当のチノは肩をすくめた。
「冗談でしょう、大将。あんたが飾りだろうと何だろうと、組織は走り出してんだ。あんたは最高の肩書きをお持ちだ。それを利用せず何を利用する? まさか敗残の暗殺者たるあんたに、個人としての利用価値があるとでも?」
蔑むでも馬鹿にするでもなく、淡々と言いきったチノの言葉は真実だった。
男の名はグレイグ・バルディア。イーディスに殺された国王の愛妾ルイーズの兄であり、革命軍指導者エドワード王太子の叔父。現在のユリスラ王国で現王政を倒すためには、これ以上に価値のある立場はないだろう。
だが肩書きに比べ、真実のなんと愚かしく、惨めなことか。
グレイグは長めに伸ばしていた顔面の半分を手のひらで辿った。ざらりと焼けただれ、引き攣れた皮膚の感触が伝わってくる。エドワード、リッツ、パトリシア。三人にティルスで付けられた火傷だ。
この火傷の痕が決して消えることがないように、グレイグが犯した罪が消えることはない。
愛する妹を見殺しにし、親友の妻となっていた、愛する女を焼き殺した。再び親友の愛する人を奪ってしまったのは、他ならぬグレイグ自身だった。
消えぬ罪故に死を望んだが、グレタの言葉で気が変わった。
死ぬのならば、妹を殺し、自分を狂わせたシュヴァリエ家を破滅させなくては、この世に生を受けた意味などない。それがこの国を救うことであるのならば、この命など惜しくない。
ユリスラを救おうと戦う、自分を憎む甥、唯一の血縁者たるエドワードのために、この命くれてやる。
それが今のグレイグを動かす、ただ一つの力だった。強くなったリッツの前に跪いてから、まだ一月しか経っていないというのに、この状況の変化は驚くほどだ。
微かに微笑みながらチノを見返す。
「確かにそうだ。シュヴァリエ家の奴隷の俺に価値は無い。ならば大将は尊敬ではなく蔑称か?」
「人聞きが悪い。それじゃ俺がいじめっ子だろうよう。せめて愛称と言ってくれ」
「愛称か……」
蔑称と言うほど、彼らから遠く離れたところにいるわけではないらしい。蔑まれてもいいはずなのに、こうして受け入れてくれた偵察部隊に感謝してもしきれない。
彼らがいなければ、暗殺者でしかなかったグレイグは、正統な報復の手段すら持てず、その身を絶望の中でもてあますところだった。
黙り込むと、チノの微かに窺うような視線を感じる。顔を上げたグレイグの目に、チノの口元が軽く緩むのが見えた。
「俺が本当にあんたを認めた時、愛称ではなくあんたを心から大将と呼びましょう。今の所、俺の大将は、ギルバート・ダグラスですな」
チノの細められた目の奥で、鋭く人の内面を見据えるかのような輝きが放たれた。彼はギルバートの信頼も厚い、上級の諜報員であることは、すでにジェラルドからの書状で知った。
「心しておくよ」
「賢明です」
再び地図に目を落としたチノを見て、初めて出会った時のことを思い出す。
シアーズに戻ったものの、グレイグとグレタには、隠れ家に住み、街を眺めることしかできないでいた。すでに死んだとの話は、シュバリエ家に伝わっていて、それが不思議ではあったが、追求する手段を持たなかったのだ。
そんな日が続いた数週間後、二人の元に男が尋ねてきた。人のいい農夫のような顔をした小男は、人好きのする笑顔で手紙を差し出し、返事を戸外で待つから、早くくれといったのだ。
戸惑いながらも受け取ったグレイグが広げた手紙には、流麗な懐かしいジェラルド・モーガンの文字が並んでいた。面食らいながらも読み進むと、グレイグは決意を決めて小男を隠れ家に招き入れた。
未だ農夫の顔で笑う男に、グレイグは決意を込めて頭を下げた。
「王太子殿下と、ジェラルド様に忠誠を。グレイン騎士団第一隊グレイグ・バルディアは、ジェラルド様の命に従い、ダグラス隊と共闘させて頂く」
とたんに農夫の男は人のいい表情から、鋭い目つきをした諜報員に変わっていた。
「では大将、まず我々のアジトへ来てもらいましょうか」
「……君は……?」
「俺はダグラス隊偵察隊長チノ。あんたの作り上げる予定のレジスタンスの副官です」
そう告げたチノは、淡々と事を進めた。グレイグとグレタを連れて行ったアジトは、マレーネの館という娼館だった。以前、グレタが忍び込んでリッツと関係を持った、あの娼館だ。そこがギルバートがグレインに旅立った後も、ダグラス隊の隠れ蓑になっていたことを知った。
いつの間にか作られた抜け道と地下会議室には、様々な情報があふれかえっており、チノの情報収集能力の高さを物語っていた。
グレタが持っていたいくつもの隠れ家は、全て売却された。元々、三月戻らねば売却されるようにと、グレタが手配した物だったからだ。それは自然と持ち主の死を物語り、二人の死を確信できないシュヴァリエ家も安堵と共にそれを受け入れるだろう。
全ての隠れ家は、シュヴァリエ家に知られおり、全てが売却された時、暗殺者が死んだことになる。情報収集する必要も無く、簡単に彼らの死を知ることができるこの方法は、シュヴァリエ家が考え出した、手軽な暗殺者の生存確認法だった。今回はこれを上手く利用した形になった。
グレタが内偵の専門職だとしたら、彼らは情報操作の専門家だった。気がつくと彼らは、いつの間にやら存在を抹消され、シアーズの住民としての居住許可証を別名義で手に入れていたのである。
その早さは目を瞠るほどで、専門職のグレタですら舌を巻いた。『相当数の工作員がこの王都に紛れ込んでいるわ』と呟いたぐらいだ。
だがいまだこのチノ部隊がどれだけの規模なのか知らずにいる。不安はないかと問われたら、そんな物は存在しないと答えるだろう。復讐することのみが生きる希望であるグレイグは、自らを省みる必要性を感じない。
吹き込んだ風が金の髪を踊らせた。更に冷たさを増してきた風と同じように、先ほどまでは青く輝いていた空も、今は鈍色の重く垂れ込める雲に覆われつつある。これは間もなく降り始めるだろう。
チノの思考を邪魔せぬように、音を立てずに立ち上がって窓を閉める。
それとほぼ同時に部屋の扉が開いた。反射的に短剣の柄に手が行ったが、入ってきた人物を見てその手を緩める。
「戻ったわ」
そこにはきつく引き結び、一房の乱れすらないよう前髪まで固められた黒髪に、生真面目そうな眼鏡を掛け、黒いメイド服に身を包んだ女が立っていた。
冷たく冷静に吐き出された口調に暖かみはない。ピンと張り詰めたように真っ直ぐな背筋に、微妙な近寄りがたさが漂う様はさすがだった。
「ご苦労だったな、グレタ」
声を掛けると、グレタは髪を一気にほどいた。いつもは豊かに広がる明るい茶色の髪だが、さらりとほどけた真っ直ぐな黒髪は違和感がある。だが彼女はその雰囲気で前からこんな髪だったように見せかけることができる。これが査察官なのだろう。
「貴族のパーティほど、馬鹿馬鹿しい物はないわ」
外した眼鏡を手の中で弄びつつ、グレタは溜息交じりに苦笑する。このどこか達観したような表情が、グレタ・ジレットの本来の表情だと、最近知った。
本来の彼女は、深く前国王ハロルドを敬愛し、彼の妹ルイーズを敬愛していた。国王とグレタの繋がりをグレイグは知らない。だが彼女は何よりも前国王の信頼を大切に胸に抱えていたのだ。
それ故に、彼らを貶める者を決して許しはしない厳しさを持っている。彼女にとっての敵は、シュヴァリエ公爵であり、この世で最も憎む者もまた、公爵だった。
だがグレイグは彼女が、そんなシュヴァリエの愛人であったことを、この目で見て知っていた。伯爵に求められれば、どんな醜態も歓喜の表情で演じて見せた。あれほど憎んでいる男に身を任せていられるグレタのその精神力は、まさに鋼の意志と呼ぶのにふさわしいだろう。
「どうでした、中佐」
地図から顔を上げて、微かな笑みを浮かべて尋ねたチノに、グレタは肩をすくめた。
「最悪。最も残虐趣味を持つ貴族にとっては最高かもしれないけど。少なくとも王宮で催されてよいものではない」
瞳に怒りを浮かび上がらせて、グレタが吐き捨てた。メイド服を、男たちの前だというのに、躊躇いもなく脱ぎ捨てる。
「ルイーズ様の庭園が穢された。あれほど丹精を込められていたというのに」
当然ながらその肢体には、いつでも戦えるように、暗殺者特有の、身体に密着した動きやすい黒服を纏っている。以前と違い、露出は格段に減った。演じる要素が少なくなれば、着る物だって変わると、彼女はいう。
「外でのパーティだから人出が必要ってんで潜り込めたんだ、感謝しねえと行けませんぜ、中佐」
「分かってるけど、ルイーズ様のバラ園は、裸の平民たちを追い立てて皮膚を裂かせるためにあるのでも、拷問するためにあるのでもない」
グレタは、微かに微笑むと、チノの広げていた地図の上に、数本の針を転がした。それはまるでバラ園から取ってきたみずみずしい棘のように、青く冴えた輝きを放つ。明らかに、暗殺用の毒針だった。
「殺してきたのか、グレタ?」
毒針に触れながら、彼女を見るでもなく問いかけると、グレタは表情を変えずに頷く。
「ええ」
「貴族を?」
「いいえ。慈悲を求める平民を。棘の上で血に塗れ、幾人もの貴族に犯されて、泣き叫びながら、殺してくれと叫んだ女を。そして助けようと深手を負い、裂かれた喉から空気を漏らすだけの恋人をね」
疲れたようにグレタは溜息をついた。
「私は無力よ、グレイグ。この戦いで責を負わされた、平民出身の軍人たち幾人かを、苦しみ抜いて死ぬことから、すぐに楽になれるように手を下すことでしか救えない」
この無力感を、彼女はグレイグの護衛を始めた頃からずっと味わってきたのだろう。それを常に一人で抱え、ハロルド国王のために忠義を尽くしてきた。記憶を取り戻し、同志となったグレイグがいる事で、少しは彼女の負担が軽くなったのだろうか。
未だそれを問えずにいる。おそらく永遠に問えないのだろう。弱みをさらけ出すには、お互いの影が濃すぎる。
「すぐだ、グレタ。この最悪の時期は長くは続かない。俺はジェラルド様とギルバート様も知っている。そしてエドワードとリッツを知った。彼らならば、この現状を長引かせずに打破し得る」
目の前に彼らの姿が浮かんだ。彼らの目には、揺るぎない信念があった。それはこの国を救おうとする、とてつもなく大きな決意だ。
「エドワード様は、あなたを殺そうとしたのに、信じるのね?」
「信じるさ。あれほどルイーズに似ているんだ。姿だけじゃない。芯の強そうな所も、確固たる意思も」
ルイーズは彼を愛したろう。ローレンも彼を愛した。アルバートも彼を大切に育てた。もはや裏切り者でしかないグレイグは、愛した者たちが愛し、信じた者を信じるしかない。
「グレイグ……」
「それだけが、俺にできる償いだ」
エドワードの覇道を助けるために、できる限りのことをする。彼のために、道を開けと言うのなら、ここシアーズで人を守るために命を賭ける。視線をグレタに向けると、グレタは静かに微笑んでいた。
「償いと復讐か……。どうも前向きではないけど、私とグレイグではそれが合っているようね」
「ああ」
死者の思いを背負うことでしか生きられない、そんな二人の行く先になど、光のあろうはずがない。
「それでグレタ、貴族の今後の動きは?」
グレイグはチノの地図に手をついた。そこにあるのはここ、シアーズの詳細な地図である。当然ながら、スラム街の細かな道までもが書き込まれている。
「戦死者が王国軍だけで二万五千人、戦列に復帰できない傷病兵が五千。不足の三万人と、今後を考えて二万、計五万を、シアーズ直轄区で強制徴兵制度を使って集めるようね。合計してまあ、少なく見積もっても、王国軍は十万って所になると思うわ」
「十万か……」
革命軍は現在二万。戦上手で知られるジェラルドとギルバートとて、五倍の敵とやり合っては無事では済まないだろう。敵との戦力差が大きければ大きいほど、戦いで物を言うのは数の論理だ。
「それから来週には各地の自治領主たちに、シアーズへの参集をかけるつもりらしいわ」
「自治領主手飼いの軍を動かすか……」
「ええ。自治領主たちは渋るでしょうね。何しろ背後には革命軍だし。それでも相手はスチュワードよ。断ったら何をされるか分からない。従うしかないわ」
逆らったならば、いくら侯爵レベルの自治領主たちであっても、立場を剥奪され、バラ園の惨事のように、悲劇的な最後を迎えることは免れない。
「スチュワートも、まあ大貴族に配慮して渋る時間は与えると思うの。それに自治領主たちにも面子というものがあるわ。できるだけ他の自治領主より、人を多く集めたいでしょうしね。それを考えれば、参集日時は、年明けになるでしょうね」
壁に掛けられたカレンダーを見つめつつ、グレイグは思案する。今年はもう半分を等に過ぎている。年明けまでに残された時間は、四ヶ月しかない。
「ですがねぇ、中佐。スチュワート偽王は血の気が多いってのに、そこまで我慢しますかねぇ?」
噂ではリチャードの怒りは深く、兄で偽王であるスチュワートの怒りは更に深く、苛烈であるという。噂の通りならば、今すぐにでも戦端を開きそうな勢いだ。
同じようにカレンダーを眺めていたらしいチノの問いかけに、肩をすくめつつグレタが頷く。
「するわ。王の立場を使っても、大貴族だけはどうにもならないことを知ってるでしょうし。王といえども大貴族に逆らわれては生きていけないわ」
「……まあ、そうでしょうなぁ」
「新年の演説で、大々的な戦端を開く気ね。おそらく王国軍はシアーズを前に、十五万ほどの戦力を置くことになる」
「十五万か……」
それだけ集められるのだろうか。あの信頼なき国王の下に。それに本当に戦端が開かれるの来年と決めてしまって大丈夫だろうか。グレイグの疑問を感じ取ったのか、グレタは余裕の笑みを浮かべた。
「集まるわ。国王の権力はそれぐらい大きい物よ」
「だが……」
まだスチュワートの考えが読めずに渋ると、唇にふと柔らかな指先が触れた。それは蠱惑的な美女を演じていた時のいたずらっぽい笑みを浮かべたグレタの指だった。
「自らの損得に関することに対しては、あの王もそれほど馬鹿じゃないわ。今打って出る意味のなさぐらい、分かっているわよ」
「何のことだ?」
「ここが王国軍にとっても泣き所ってこと」
整ったグレタの指は、地図上をゆっくりと滑った。その先がある一点でぴたりと止まった。
「ほぉ……」
チノが顎をさすりながら、納得したように声を漏らす。
それは王国海軍と王宮の間にあり、扉と多数の軍人で守られた、巨大な倉庫地帯だった。ここがシアーズの……いや、王族と大貴族たち、及びユリスラ軍の全ての物資保管場所だ。
どれほど国民が飢えようとも、この倉庫地帯から国民のために、食料が持ち出されることは決してない。たとえ王宮のパーティで、捨てられると分かっているような食料だとしてもだ。
「食料が足りていない?」
「いいえ。シアーズの民が慎ましく食せば、一年は持つ量はある。でもグレインが支配下から抜けて、小麦がもう不足しつつあるから、収穫期を終えてこの倉庫を満たしてから、という分別はあるようだわ。彼らも民衆が飢えて死んでも構わなくても、自分が飢えるのは嫌でしょうよ」
「なるほど……」
頷きつつ、シアーズの地図を指で軽く叩く。
「チノ」
「何です、大将」
「流言を流して、シアーズから民衆を逃がそう。直轄区にも行き渡るようにだ」
決断の言葉を発したグレイグに、チノは軽く片眉を上げた。その表情に微かに不信感が滲む。
「へぇ。お優しいことで」
「優しくはない。残った民衆には、ここで暮らすことが厳しくなる」
「では何故?」
「彼らがここから逃げ出せば、自分の生活を守るために、革命軍に志願する者も少なくないだろう? 十五万に対するための一つの布石にはなる」
自らの生活を取り戻すため、失った者を再び得ようとする人の力は、とてつもなく強いものだ。侵略した土地を守るよりも、その力は得がたい。
「志願兵であっても、戦力は戦力ですかな?」
「そこまで冷徹にはなれないさ。だが王国軍も、革命軍も、平民は皆、同じ希望を持っている」
「なるほど、投降を呼びかける布石にでもしますか」
「そうだ。今軍に残っている者の家族や親類は、圧倒的数がシアーズに住んでいる。彼らが逃げれば、王国軍内に大きな不安が生じる」
内部が朽ちていれば、大木だってたやすく倒せる。軍をその状態にするには、軍内部の士気が上がらない状態にしてしまえばいい。
「それにシアーズが苦しくなればなるほど、我々が地下組織として行動する、協力者を募りやすい。味方に益があるならば行動すべきだろう?」
「その間、シアーズの民には苦しめと?」
「俺は元々感情的な男だった。じっと見ていられるわけはない。何か手を打つさ」
「ほう……」
方向を示してやれば、素人たちで溢れる地下組織としての行動は、より大きく広がっていくだろう。それがグレイグとチノの最終目標だ。門の中と外、両側からの反乱。これ以外に城壁で守られた鉄壁の都市シアーズを落とす術はない。
「了解。では早速、噂の布石を置き始めますかね」
「ああ。頼む」
「ちょっと出てきますよ。他に外に出る用事は?」
いつもの労働者風の帽子をかぶったチノに尋ねられて、グレイグはようやくポケットの中に入っていた密書を取り出した。
「逃がしたい人物がひとり居るそうだ。ジェラルド様によれば、彼を民衆と共に逃避行させれば、噂はより大きく、民衆を動かすだろうということだ。そうなれば、民衆は安全に革命軍まで逃れてくる確率が高くなる」
本日受け取った密書をチノに差し出すと、チノは素早く内容に目を通してから頷いた。
「なるほど。シアーズにふたりも諜報の大物はいらないということらしい」
「チノは革命軍、その男は王国軍よ。役割は違うでしょう?」
事情を知っているグレタが、からかい混じりの口調で言うと、チノは平然と笑った。
「一度どちらが優れているか騙し合ってみたかったが、残念だ」
「平和になってから、存分に化かし合ってくれ。チノ、すぐに彼に連絡を取ってくれ」
「了解」
「それから、決して俺の名は出すな」
「……そりゃまた何故?」
「ジェラルド様とギルバート様は俺のことを知って指示をしてくれている。だがエドワードに知られたくない」
親を殺した償いに、地下組織を作るさもしい男だと思われるのが怖いのか、それとも恩着せがましいことをして許しを請うていると思われたくないのか、自分でも分からない。
それでもエドワードには、できる限り自分の行動を知られたくなかった。ジェラルドたちはその条件を呑んでくれている。
「では流す流言は?」
「あの男とチノで決めてくれ。チノが思う以上に俺はチノを尊敬してるんだ」
軽く肩をすくめて見せると、チノは呆れたように小さく息をつき、帽子を目深にかぶり直した。
「おやおや、褒めても何もでませんぜ。ま、そういうことでしたらユリスラ軍一の好色男の顔を、いっちょ拝んできますかね」
立ち上がったチノは、まるで買い物にでも行くように、何も持たず、飄々と部屋を出て行った。残されたグレイグは、グレタに微笑みかける。
「まさか彼に協力を仰ぐことになるとはね」
「そうね。女はもちろん、必要とあれば男の前でも服を脱ぐ、あの究極のタラシ男に」
「酷い言いようだ」
「あら、嘘は言ってないでしょう?」
彼は実際に、得体の知れない男だった。貴族の間を行き来し、彼らの手駒になるかと思えば、上手にのらりくらりと身を躱す。その上平民上がりの兵士たちの間で、変人扱いされつつも、安居酒屋で酒に酔い、共に笑ってみせたりもする。
普通ならば貴族よりか、平民よりに分かれるだろうが、彼にはその区別がなく見える。
もちろん改革派に所属しているわけではない。そのくせどっち付かずを責められることもなく、貴族にも平民にも、煙たがれても、仕方のない人だと嫌われることのない、妙な魅力を持ってるのである。
そのために男爵の地位でありながらも決して見下されることもなく、飄々と公爵、侯爵、伯爵などの大物の間を、すいすいと泳ぎ回っていたのだ。
今の彼の地位は王国軍諜報局長である。この地位ですら、人脈を自らの利益のために利用したからであるかのように、人々は思い込んでいた。
だが実際の所、誰よりも冷徹で、誰よりも深い洞察力で、人々を見つめているのがあの男だ。
グレイグも、あの男にだけは気をつけるよう、出会ったときからずっとグレタに忠告を受けていた。実際に彼は、幾度もグレイグとの接触を図ってきた。もしかしたら彼はグレイグが何であるのか、知っていたのかもしれない。
「君たち査察部の敵かい?」
「いいえ。ライバルと言ったところね。私たちが国王直属だとしたら、彼らは王国軍総司令官の直属だもの。といっても、今は総司令官があの通りの屑だから、彼が認めた最後の直属の総司令官は、ジェラルド・モーガン侯でしょうね」
「なるほど。それならジェラルド様が信用するのは分かる。少数の戦力で勝つには、諜報戦で優位に立たねばならないからな」
「そういうこと。だってどう見たって、エドワード様の可愛いリッツは、人を欺けるタイプじゃないわ」
グレイグの脳裏に、あの深く澄んだダークブラウンの瞳が甦る。確かに彼は、人を騙して優位に立つことなど、できそうにない。
「人を騙すなら、騙しの専門家か」
呟きに重なるように、激しい雨音が室内を包み込んだ。ついにあの重たい雲が、堪えきれずに泣き出したようだ。
叩き付けるような雨粒に、雷が重なる。自らの影が、過去という名の巨大な化け物のように壁に映り、グレイグは背負った罪をまた自覚する。
罪を濯げるならば、何だってする。それがこの街を壊すことであったとしても、その先に希望が見えるのならば躊躇う必要などない。
まるでこの先、混沌としていくシアーズを象徴しているような激しい夕立に、自らの過ちを重ねるように黙ったまま、グレイグはただ窓の外を見つめていた。




