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「肩こったなー」
街道端を流れる川にかがみ込み、流れる水で顔を洗いながら、シャスタは一人呟いた。
夏になり気温は徐々に高くなってきているが、遙か北の森を源流にするというこの川の水は、まだとても冷たい。小さく息をついて再び夏の光を照り返す水面に顔を突っ込んだ。
清冽な水の冷たさで目が冷めるようだ。澄んだ流れに目を開けると、近くを小さな川魚が、鱗を輝かせて通ったのが分かった。微かに揺らめく川底には水草が生い茂り、小さく可憐な花を咲かせている。
水の中で大きく振るうと、一気に顔を上げた。水しぶきが、夏の太陽を反射して水面に散った。
顔を布で拭き取ってから、その場に座り込み、川の水面を眺める。時折、小さな魚が、光をはじきとばして飛び跳ねる。
夏の光に輝く水面は、生命力に溢れていて、見ているだけで、心に溜まった重苦しい疲れをサラサラと流していく。
戦場にいるわけでもなく、革命軍に関わるでもないのに、毎日目が回るぐらいに忙しい。これも全て、シャスタがグラントの後継者にと、正式に指名されたせいだ。
「こんなの、リッツさんに務まるわけないよ」
本当に立場を変わっていたら大変だった。戦場でシャスタは命を落とし、リッツは事務作業の辛さに逃げ出していただろう。自分で言ったことだが、適材適所はやはりある。
やってみると、シャスタは確かにグラントの仕事をすることに向いていた。覚えることも沢山あるし、秘書の立場として書類をまとめることも必要だし、資料集めをする必要もある。
大変だけれど、悲しいかな、シャスタはそれを楽しいと感じてしまうこともあるのだ。
さすがはグラントだ。完全にそれを見抜いていたらしい。
「すっきりしたーっ!」
誰もいないことを前提に大きく独り言を言うと、両足を前に投げ出し、両手を後ろについて空を見上げた。川岸に広がる森から、鳥の鳴き声に混じって、虫の声も聞こえてくる。
本当に季節が変わっている。何だか色々ありすぎて、自分がどこに来ていて何をしているのか分からないうちに、気がつくととんでもない状況になっているな、と溜息をつく。
去年の今頃は何をしていただろう、と思い返して驚いた。ちょうど母親ローレンが死んでから今日で一年が経っていた。
火傷を負った母の、それでも満足そうな死に際、廃人のように身動き一つ出来なくなったリッツ、死にたいとしか言わなくなってしまったサリー、そしてそんなリッツを思い、ローレンの死を抱え込んでしまったエドワード。
もう一年になるのか。まるで昨日の事みたいに鮮明に覚えているのに。
シャスタは再び、空を振り仰いだ。
最初の頃は復讐しか頭になくて、騎士団に入ってオフェリル貴族を殺してやろうと思った。それは復讐を呼ぶだけだとジェラルドに諭されて、でも悔しくて泣くことしか出来なかった。
それからすぐに、父アルバートに、エドワードの本当の身分を聞いた。父や母が装ってきたように、エドワードをジェラルドの隠し子だと思い込んでいたシャスタは心底驚いたのだが、ようやく死に際の母が残したリッツへの言葉の意味をつかみ取ったような気がした。
エドワードはこの国を救う人だ。でもきっと一人で抱え込むには、国一つは大きすぎる。だからそれを支えるために、リッツの存在が不可欠なのだ。そのためにローレンは、自らを犠牲にしつつも笑ったのだ。
それを知ったシャスタは、アルバートに騎士団に入りたいと申し出て、騎士団見習いになった。微力ながらも出来ることを、兄のように育ったエドワードの近くで支えられたらと思ったからだ。
でも残念ながら、剣の才能が皆無だった。自分でもこれは駄目だなと分かっていたのに、諦めきれずに意地を張り剣を振った。
だけど結局、エドワードと離され、リッツとも離され、こうして本営で事務仕事をしている。最初はがっかりしたけれど、自分でも分かった。
剣を振るよりも、ずっとずっとこちらの方が向いていた。理解できるとこの仕事は面白そうだ。
それでも忸怩たる思いはある。
セロシア家の三兄弟と親しみを込めて呼ばれているのに、一番末っ子のシャスタは、本営で兄たちの活躍と無事を祈りながら、じりじりと待っているしかない。
何となく立ち去りがたくて、シャスタは再び目の前を流れる川を見つめた。そういえばこの川は、蛇行しながら戦場となった場所の外れを通っているのだなと思った。
幅はたった三メートルしかないような小さな川だが、ここから下流までずっと途切れずに続き、やがて海へ出るのだと聞いたことがある。
街道をつかず離れず流れるこの川のおかげで、シアーズ街道が発展したのだと、そういえば数日前にグラントに聞いた。旅人たちに水を提供できる道だからこそ、例え旅の初心者であってもこのシアーズ街道から王都への道をたどれるのだという。
その代わり、ここを死守しなければ、敵に易々王都を明け渡すことになるそうだ。
全ての事には理由がある。それを知ることが道を知ることだ。とは、グラントの言葉である。
この川を更に北へとさかのぼっていけば、ファルディナと隣の自治領区セクアナを分ける、大きな川になる。そして更に源流に向けて川をたどると、トゥシルでもう一本の川との分岐点にたどり着く。
その分岐点から、南東に流れる川はファルディナとオフェリルの間を流れ、急流となってランディアへと抜けていく。南西に流れる川は、幾筋もの支流を従えて、やがて南部穀物地帯を潤す流れの緩やかで、とても広い耕作地を持つ大河となる。
ユリスラを代表する二本の大河の源流は同じで、中央山脈の麓のいずこかだと言われている。
だが人間で源流を見たものは誰もいない。そこは精霊族の住むシーデナの森の奥だからだ。
もしかしたらリッツはそれを知っているかもしれないなと、ふと思った。あまりの人間っぽさに時々忘れそうになるが、リッツは精霊族だ。
また再びリッツを思い出すと、ついついため息をついた。思い出したくなくても、自分の短慮を思い出してしまう。あの時に庇ってもらわなかったら、エドワードと本当に、兄弟の絆が切れてしまうところだった。
いつもどことなくぼんやりしていて、ちゃんと考えているのかなというほど、笑いながら軽はずみなことをしているリッツだが、ああいう所は細かく見ている。そんなことに気がついた。
最初はリッツを含めて三兄弟と呼ばれることに違和感があったが、こんな事があると三兄弟で良かったと思う。頼りないリッツだが、やはりシャスタよりも兄貴らしい。
シャスタはポケットから、真新しい懐中時計を取り出した。今まで時計と言えば巨大なねじ巻き式しかなかったのに、最近こんな小さい物が作られるようになったのだそうだ。
あんなに大きくて重いものをこんなに小さく出来るなんて、凄い技術だ。
ティルスでは見た事がなかったが、この懐中時計は革命軍の指揮官に配られているらしい。エドワードとリッツが持っているのは見た事があったが、まさか自分が、こんな高価な物を持つようになるなんて思わなかった。
これも全て時間を管理する必要がある、グラントの秘書だから与えられた特権だ。特権持つからには、それに見合うだけの働きをしなくては。
「休憩は終わりだ」
呟いてから時間を眺める。
七月七日、陽の日午後一時だ。数時間後には王国軍に勝利した革命軍が帰還する。
シャスタは、革命軍勝利の方を受け取った瞬間の本営の歓喜の瞬間を目の当たりにした。たった二千人の本営詰め後方支援部隊は、祭りが始まったかのように、鬨の声を上げ、歓喜に声を震わせていた。
まだ戦いは始まったばかりだから、喜び勇んで気を抜くなとマディラに叱られて、ようやく黙り込んだぐらいだ。
勿論シャスタもめざましい活躍をしたエドワードとリッツの話を聞いた時には、本当に嬉しかったし、本当に凄いと思った。奇襲の話を聞いて、やはりリッツには敵わないなと思ったし、先陣を切って騎兵隊を率いたというエドワードの話を聞いて、格好いいよな、やっぱりと憧れ、誇りに思った。
だがちょっと心が痛かったのも本当だ。
シャスタにもう少し剣技の才能があれば、もっと上手に馬に乗って、弓を射ることが出来れば二人の力になれたのだろうかと、思わずにいられない。
きっとこの痛みは、時間が経つにつれて和らいでいくのだろう。その頃にはもう少し役に立つ、政務官になっているのだろうか。
そんなことを思いながら水面を眺めていて、時間があまりなかったのだと気がつく。本隊帰還までに色々しておかねばならないことがあるのだ。
冷たい水と涼しい水辺に、何となく名残惜しい気もしたが、心を決めて立ち上がり、グラントの天幕へと急ぐ。
とりあえず、ファルディナとオフェリルに関する、税収計算と、分配金による農地補修の報告書を作らねばならない。農地に戻った農民が再び流民とならないように暮らせる税収と、収入をバランス良く整えねば、革命は失敗に終わってしまう。
それを整えるのが、グラントの仕事であり、シャスタの唯一手を出せる戦いである。
かといって、それが分かっていても、まだグラントに弟子入りして二週間半だ。それなのに、こんな仕事が回ってくるなんて、あり得なすぎる。
でもグラントに見込まれて引き込まれた、更に数人のアデルフィ護衛団の男たちに比べれば、これぐらいはまだましだろう。
さすがのシャスタも、一日中、計算だけをひたすらやらされるのは嫌だ。
それも必要なのだと分かっているし、最初の一週間はシャスタもそれをやらされたから、その大変さはよく分かっている。計算を専門でやってくれる人々がいないと、全ての書類の書式が整わない。
川から木が点在する草原を抜けて本営に戻ると、先ほどとは変わった明るい雰囲気が満ちていた。
不思議に思いながら本営に戻ると、本営が珍しく明るい賑わいを見せている。賑わいの近くに立っている、マディラが目に入った。
「マディラ様!」
伯爵夫人である彼女に声を掛けると、護衛団の制服姿のマディラが片手を上げて笑った。
「あら宰相秘書官殿。仕事はどう?」
「……そのたいそうな肩書きは辞めてください」
「いや? でもねシャスタ。みんなが君を、とても信頼しているのよ」
「だけど、何だか部不相応な気がします」
そう、仕事上シャスタの肩書きは『宰相秘書官・見習』なのである。だが秘書官が他にいないから、みんなは見習い部分を取って、秘書官殿と呼ぶ。グラントに直接持ち込めない事は、こうしてシャスタの元にやってくるのだ。
当然その話は全て書類にしてグラントに出すように命じられている。だから最近は『秘書官殿』と呼びかけられると、またか、と疲れる。
この間まで一介の騎士団見習いが、宰相秘書官なんて、あまりにもあり得なすぎて溜息が出る。
それを出撃前夜にリッツに愚痴ったら、リッツは平然と『将来はセロシア宰相閣下になるんだろ?』という。
そんなの恐れ多くてとんでもないことだ。グラントの後に座る宰相の、秘書官としてやっていけたらいいな、というのが目下のシャスタの願いである。
「ところで何の騒ぎです、これは?」
「露天商人よ。時折物売りに来るでしょう?」
「ええ」
頷きつつ、人垣の中に目をやる。
そこには本営入場の手続きを進める一台の馬車と、数人の男女がいた。その中で唯一の女性が楽しげに、果物を手に乗せて身振り手振りで話をしていた。
この街道近くに本営を構えていると、こんな風に露天商人が時々現れる。楽しみがあまりない本営詰めの革命軍後方部隊や事務方は、これを楽しみにしているのである。
「今日は何ですか?」
「果実のようね。セクアナ南部で作られた西瓜と、メロンが時期なんですって。ここ数日、暑いから人気だわ」
「なるほど」
シャスタの出身である高原の土地グレインでは、夏になる果物は少ない。なっても杏や李といった酸味のある果物だけで、甘く喉を潤す夏の風物詩は、セクアナか、シアーズから入ってくるのが普通だ。でもとても高価な物で、本当に何かめでたいことがなければ、ローレンが買ってくれることはなかった。
「西瓜かぁ。川で冷やして食べたら美味しいんでしょうね」
「そうね。暑い時には一番ね。シャスタもどう?」
「僕はいいです。今川で水を浴びてきましたから」
「そう。実は私もなの」
マディラとこっそり笑い合う。一般の兵士たちに比べれば、幹部クラスの待遇を受けているシャスタやマディラは、意外にも好きに動ける身分なのである。革命軍は正式な軍隊と違って、いまだかなり自由だ。
ほぼ規則に縛られている兵士たちにも、楽しみは必要だ。休憩時間なのだから、露天商人ぐらい、入れても問題ないのだろう。
何しろ、露天商の売る物を兵士たちが買う場合は、ほとんどが自分の手持ちの金だ。革命軍資金ではない。今までは、露天商人がトラブルを起こしたことはなかったし、シャスタも露天商人の存在に慣れっこになっている。
気がつくと露天商に気がついた兵士たちが、次から次へと果物を買い求めに出ていた。彼らは本営詰めで、シャスタのように川で涼むことも出来ないのだから、嬉しいだろう。
「じゃあ僕はこれで」
「ええ。殿下が戻られた後でまた」
「はい」
マディラと別れ、グラントの天幕に戻りながら、何となく不安を覚えて、シャスタは振り返った。
商人たちの陽気な呼び声の、どこに不安があるのか分からない。だけど、何となく、何かがおかしいと、そう思ったのだ。
この時、シャスタは何もしなかった。後々考えればそれが正しかったのだが、怪しんでいればと思うことも多々あった。
そう、誰にも知られることなく、事件の幕が開こうとしていた。
同日二時半、最初に異変に気がついたのは、暇をもてあまして、居残り兵士たちをからかいに行こうとしていたヴェラだった。
外見が砂糖菓子のようにふわふわな美少女であるヴェラだが、彼女がどんな生活をしていたのかを知っている者は多い。そのため、彼女にちょっかいを出そうという男は皆無だった。
それでもヴェラに騙されてのぼせ上がる男は少なくない。結局、軽くあしらわれて、露天で何かを買わされておしまいということになる。どうしてだか、彼女が兵士に恨まれたりはしないようだ。
シャスタはといえば、まだ十六歳で、それなのに婚約者がいるから、さすがのヴェラにも絡まれたことがない。リッツは彼女と親しいようだが、シャスタには遠い存在だ。
そんな彼女が、珍しく後方支援部隊の天幕にやってきたのである。
「ねぇ、今ここにいる中で一番偉いのは、サウスフォード伯よね?」
唐突に声を掛けられて顔を上げると、そこにヴェラが立っていた。菫色の瞳を珍しく曇らせて、何かに気を配りながら、ヴェラは小首を傾げる。
「それともカークランド伯?」
直接会話をしたことがなかったシャスタは、慌てて彼女を出迎えた。
「何かあったんですか、ヴェラさん?」
「あら、リッツの弟ね?」
「はい。血の繋がりはありませんけど」
「リッツは精霊族だもの、当たり前じゃない」
あっさりと返されてしまった。
「何かあったのかい、ヴェラ」
ヴェラに語りかけながら立ち上がったのは、フレイザー・カークランドだった。革命軍の後方支援部隊であるから、遊撃隊に所属する彼女の上にいるのは、グラントではなくフレイザーなのだ。
遊撃隊であっても傭兵で、特殊な状況でしか働かない彼女だから、遠慮なくフレイザーの折りたたみ式デスクにもたれかかる。
「あのねぇ、何だか妙に外が静かだと思わない?」
言われてみて、シャスタは初めて気がついた。いつもはこの時間、後方支援部隊の訓練や、実務の声がここ本営に響いているのに、彼らの声が一切聞こえないのだ。
「……確かにそうだな」
フレイザーもグラントも、そして後方支援部隊の事務官全員がこの異様な事態に息を呑む。
「私ね、いつも通りに散歩に歩いていたのよ。兵隊の若い子をからかうのが趣味だから。でも、みんな眠ってるの」
「居眠りか?」
「いいえ。とっても深い眠り。全員何らかの薬物で眠らされているわ。でも命に別状はないみたいよ。今のところは」
「今のところ?」
「そう。睡眠薬でも、解毒しないと永遠の眠りについちゃう危険なものもあるのよ。それではないとは言い切れない。まあ、敵が侵入しているとみて間違いないでしょうね」
何気ない言葉だったが、その重さに唾を飲み込んだ。つまりこの天幕が唯一無事なのだろうか?
「哨戒に出ている二中隊は見かけなかったから、きっと本営の外ね。マディラの姿もなかったから、哨戒に行ったと思うわ」
どうやら彼女は本当にあちらこちら本営を見て回ったらしい。
「敵とは遭遇したかい?」
「いいえ。影も形もないわ。きっと眠ってる兵士に紛れていると思うの。ねえ、こうなる前に何か変わったことはなかった?」
「変わったこと?」
「ええ。これだけの兵士に、同じ薬を盛るのはとても大変よ。私も毒使いだから分かるわ。だとしたら兵士みんなが食べてしまったものの中に、薬が混入していたとみて間違いないじゃない」
毒使いらしい言葉に、シャスタは思い当たった。先ほどマディラを一緒に見ていた、あの露天商人だ。
「ヴェラさん、さっき露天商人が来て、果物を売ってました。この暑さだし、兵士たちが競って買っていましたよ!」
思い起こしてみれば、あの商人たちは妙だった。この暑いのに、何故か全員長袖を着用していたのだ。兵士であればそれは分かる。騎士団の制服だって長袖だ。
でも庶民であるはずの商人が、この時期に長袖をしっかり着込んでいるのは奇妙だ。それを口に出すと、ヴェラは肩をすくめた。
「じゃあそれが原因ね。すぐに分析してみましょう」
「分析?」
「ええ。どんな薬物を使ったのか、元の果実を探して調べるのよ」
「そんなことが出来るんですか?」
「出来るわよ。毒使いは最高の薬草調合師だって知ってる?」
「薬草調合師? 薬屋ですか?」
「当たり。私って医者と並んで意外と重宝されるのよ。身体だけじゃなくてね」
軽く片眼を閉じられて動揺した。尋常じゃない色気だ。サリーにはこんなの絶対にない。うろたえるシャスタなど目に入らないように、ヴェラは軽く爪を噛む。
「原因になった毒物の正体が分かれば、目覚めさせることは簡単よ」
さも当たり前にヴェラはそういった。その自信、絶対に彼女なら出来そうな気がしてきた。それにダグラス隊の医者エンは、サリーの命の恩人だ。きっと彼女もそれぐらい朝飯前なのだろう。
「凄いですね」
尊敬の声を上げるシャスタを無視して、波打つ豊かな長い髪を翻し、ヴェラは天幕の出口に向かう。
するとそこに、マディラが戻って来た。
「フレイ、何か変よ?」
「ああ、マディラ。無事だったかい?」
「ええ。でも支援部隊はほぼ全滅。動けるのは哨戒に出ていた私たち百人足らずよ」
困惑しているマディラに、ヴェラは手早く説明すると、シャスタを振り返った。
「この天幕の護衛はマディラさんに任せて、私たちは原因を探りましょう」
「え……僕?」
「そうよリッツの弟。兵士たちが買った果物がどんな物か見ているでしょう?」
「はい」
「じゃあ、あなたが適任」
そう言い切られてしまうと、頷くしかない。押しの強いヴェラに困惑しつつ、上官であるグラントを見ると、ヴェラがシャスタの思考を先回りする。
「サウスフォード伯、リッツの弟を借りるわ」
「貸そう。原因究明を頼む」
難しい顔のまま答えたグラントに、ヴェラはにっこりと絶世の美少女の笑みを浮かべた。
「は~い」
何だろ。凄く綺麗で可愛いのに、何かが怖い。
「行くわよ、シェ、ショ……ええっとぉ……」
名前を覚えてくれていないらしい。うろ覚えにいくつか近い言葉を発音してから、ヴェラはにっこりと笑う。
「まあいいわ、名前ぐらい。行くわよ、リッツの弟」
さっさと天幕を後にするヴェラを、シャスタは必死で追う。
「僕はシャスタです! シャスタ・セロシアです!」
天幕出口でグラントとフレイザーとマディラを振り返ると、三人とも生真面目な顔で頷く。そうだった。アデルフィー護衛団二千人の命が、ヴェラの手にかかっているかもしれないのだ。
「行ってきます」
先を行くヴェラが気に掛かったが、頭を下げると、三人ともが再び頷いてくれた。これは大きな任務になりそうだ。
小柄なくせに妙に足が速いヴェラには、少し先の天幕で追いついた。ヴェラは兵士が十人以上一緒に寝起きしている天幕の中を、何の遠慮もなく荒らし回っている。近くで兵士たちが寝こけているというのに、何とも大胆だ。
「ヴェラさん、勝手に荷物見たら、泥棒ですよ」
ついつい、いつもリッツに注意するようにいうと、ヴェラは肩をすくめて大きく溜息をついた。
「兄貴と同じで、ばっかねぇ」
「馬鹿って……」
「リッツの方よ? エドワードじゃないわよ?」
「それぐらい分かります!」
「死ぬのと荷物を見られるの、どっちがいいって聞いたら、生きてる方がいいってみんな言うに決まってるじゃない」
「ええ、まあ……」
中には見られるなら死んだ方がましだ、というものを持っている者もいるかもしれないが、それは言わずが花なのだろう。
「全くないわ! もう、食い意地張ってるんだから。毒を盛られることを考えて買い物しなきゃ、駄目じゃない!」
「そんな無茶を……」
「生きるのに必要な知識じゃない?」
「……」
毒使いである彼女の常識は、全く理解できない。でもこんな事件が起こるのだから、一部は正しいのかもしれない。
思うままに荷物を荒らすヴェラと共に、あちらこちらの本営天幕や、簡易的な木組みの倉庫を見て回るうちに、兵士たちが買ったと思われる果物がいくつか見つかった。
外見から見れば、何の変哲もない果物だ。でもヴェラは果物を手にする度に、クルクルと器用に手の中で転がしていた。何をしているのかの説明は、一言もない。
「あの」
「何?」
「何してるんですか?」
「毒液の差し込み口を探しているに決まってるじゃない。それぐらい分からないの?」
「……」
分かるわけがない。ティルスの小さな学校教師の息子が、それを知っていたら、かえっておかしいだろう。
「次行くわよ、次!」
ヴェラは軽く果物を放った。慌ててそれを受け止める。当然ながら荷物持ちはシャスタで、見つけた果物をヴェラは無造作にシャスタの腕に載せていた。果物の形状を聞きたいといったくせに、聞きもしないし、確認もしないところを見ると、シャスタは最初から荷物持ちに選ばれたのかもしれない。
「ヴェラさん。これ以上持てませんよ」
「男がぐだぐだ言わない!」
「せめて篭を取りに行く時間ぐらい……」
「そんな時間ないの! さ、それを全部遊撃隊の幹部天幕へ運んでちょうだい」
さっさと前を行くヴェラに、心の中で軽く悪態をつく。見た目は美少女なのに、中身はまるでティルスの農家のおばさんだ。
「何か言った?」
「何も言ってないです!」
口に出していないのに、恐ろしくヴェラは鋭い。
ヴェラに言われるままに遊撃隊の天幕へと荷物を運んでいると、天幕の前に男が一人立っていることに気がついた。
サラサラと流れる茶金の髪に、青い瞳、童顔だから下手をすると、シャスタと同じぐらいに見えてしまいそうな青年だ。
「あら、あなたは誰?」
にこやかに笑いながら、でもすみれ色の瞳は鋭く輝いた。
「こんにちは、菫の乙女。お会いしたいと常々思っておりました」
男はまるで手慣れた貴族のように、右手を胸に当てて上品にお辞儀する。
「社交界でお会いしたかったのに、あなたはいつの間にかタルニエンの遠い空。どれだけ焦がれたことでしょう」
じっと男を見据えていたヴェラは、やがてバラ色の唇を綻ばせた。
「あ~ら、こちらこそ一度お会いしたいと思っていたのよ、死神ジャックにね」
「死神ジャック……?」
ぽつりと呟くと、ヴェラがにっこりと微笑んだ。
「私のいなくなったユリスラ社交界の暗殺者。カードが得意だから死神ジャックってわけ」
「この人が暗殺者!? 見えません!」
穏やかな微笑みに、整った身なり、すらりと立つ綺麗な佇まい。どこを取ってみても、裕福な貴族の子息という雰囲気だ。
「それが武器。私が可愛いのと同じよ」
「あ……」
ヴェラの最大の武器は、その姿形だと、リッツに聞いて知っている。美少女に見えるため、誰もが皆、油断をして殺される。どうやらカードの死神も同様らしい。
「本当に可愛い顔して、どれだけの人をその手に掛けたの?」
「憧れの先輩である、菫の乙女には敵いません」
「そうね。私は一流だもの」
自信と色気に満ちたヴェラの微笑みが弾ける。本当に綺麗な人なんだなと改めて思った。
「俺も、一流ですよ」
「そう?」
「もちろん。一流のあなたを倒すのは、一流の俺、このヴィンスがふさわしい」
「まあ。自信家ね」
「自信家ですとも。ですから今日は真っ向勝負でいかがでしょう?」
そういうと男、ヴィンスは、ガラス瓶を取り出してかざした。中に入っている液体が、チャポンと軽い音を立てる。
「『女神の誘い』ご存じでしょう、菫の乙女」
「なるほどねぇ~。それで私の可愛い信奉者の坊ちゃまたちをおねんねさせたってわけ?」
「その通り。これは全員分の解毒剤です。あなたが調合するよりも早いですよ。調合しても構いませんが、そうすると兵士、何人死んじゃうかなぁ」
また瓶の中の水が、軽い音を立てた。軽いやりとりなのに、その間に二千の命がかかっている。二千人の命は、この二人の手の上にあるといえるのだ。
暑さとは違う汗が、額と背中に流れ落ちるのをお感じた。緊迫したやりとりに、めまいがしそうだ。
「私の手に兵士の命がかかっているとでも?」
「いけませんか? 僕が勝てば二千の後方支援部隊の命を頂く。それからギルバート・ダグラスの命も頂きたいな」
「あ~ら、ギルの命なんて簡単にはあげられないわ。私を抱いても平気でいる最上級の男なんて、彼しかいないもの」
笑いながらヴェラは微かにこちらを見た。逃げなさいといわれている。果物を放り出して逃げようとした瞬間、ヴィンスがにっこり笑った。
「彼に判定してもらおう。悪いけど、逃がさないよ」
体中が硬直した。どうしていいのか分からず、身の危険で頭が混乱状態だ。目の前にいるのはユリスラ随一の暗殺者だ。もしヴェラが負けてしまえば、兵士たちだけじゃない。この場に残るように言われているシャスタだって、殺されてしまうに違いない。
手が、膝が、微かに震えている。戦場に実際立った事なんてほとんどない。戦いが終わった後の戦場で、見習いとして救護をした経験があるぐらいだ。なのにこの安全なはずの本営で、今シャスタは初めて命を失う恐怖に震えていた。
エドワードが、リッツが、いつの戦いの中に身を置いているのに、あんな風に笑っていられたのは、とても強かったからなのだと、今更ながらに気がつく。やはり適材適所だ。シャスタにはこんなやりとりは向かない。
怖さが、背筋を這い上ってくる。
戦いが終わって平和になったらサリーと結婚するのに。こんなところで死ぬわけにはいかないのに。ちゃんと迎えに行くって約束したのに。
震える手で、それでも落とすまいと果物を手に立ち尽くすシャスタだったが、不意に名前を呼ばれ、背中が温かくなって我に返った。
「シャ~スタくん」
甘えた声で甘く囁かれた。最近背の伸びたシャスタよりも、少し小さなヴェラが後ろから抱きついているのだと気がついて、別の意味で慌てる。
「ヴェラさん……?」
身動き出来ないでいるシャスタの身体をヴェラが艶めかしく撫でた。全身がカッと熱くなり、頭が混乱した。
「な、何を!」
焦るシャスタに構わず、首筋をゆっくりと暖かなヴェラの唇が這う。動揺したシャスタの手から果物が転げ落ち、あるものは割れ、あるものは転がっていく。果物はヴィンスの元へも転がり、男は肩をすくめて果物を避ける。
「何です、菫の乙女。最後に年下の少年を、色気で迷わすつもりですか?」
注意がこちらから逸れた。
「あ、あのっ!?」
シャスタが、焦って振り返った瞬間を狙ったのか、ヴェラが耳元で、熱い吐息と共に囁く。
「安心なさい。女も知らない十六歳の男の子を、みすみす殺させたりしないわ」
「ヴェラさん……」
「私は勝つ。ダグラス隊の名にかけて」
聞いたことのない決意の言葉に、シャスタは力を抜いた。
この状況では逃げることも怯えていることも意味がないのかもしれない。だったらギルバートの愛人で毒使いの彼女を信じるしかない。
「信じます。勝ってください、ヴェラさん」
抱きつかれたまま頷くと、ヴェラは正面に回り込んでにっこりと笑った。笑い返そうとしたら、背伸びをして唇を塞がれてしまう。その柔らかさと、吸い付くような暖かい感触の気持ちよさに、一瞬惑わされそうになり、ハッとした。
サリー以外としたキスするなんて、これ浮気?
シャスタの動揺に気がつきつつ、ヴェラがクスクスと笑う。
「兄弟揃って浮気者ね。あ、リッツの方よ、エドワードじゃなくて」
「分かってます! っていうか、浮気者じゃありません!」
「リッツは、毒を盛らない限り色々させてくれるわよ?」
「一緒にしないでください!」
娼館で半年遊び暮らすリッツの性癖は、全く理解できない。
「あ~ら残念。シャスタは可愛いから、色々教えてあげたいのに」
からかうようにシャスタにそう告げたヴェラに、シャスタは言葉も無い。やっぱりダグラス隊の面々は理解できない。
言葉も無いシャスタを無視して、ヴェラは真っ直ぐにヴィンスを見つめた。
「さ、この子は判定に貸すわ。何の勝負?」
「では毒使いらしく、ファイブグラスはいかがでしょう? 準備時間は三十分」
ファイブグラス? 聞き慣れない言葉だ。だがヴェラはにっこりと頷いた。
「いいわ。ではこちらへどうぞ」
カードの死神と菫の乙女、二人の暗殺者に連れられて、シャスタはダグラス隊の天幕へと足を踏み入れた。




