<8>
夕闇の中で、エドワードはパトリシアを探した。子供の頃にパトリシアとはよくかくれんぼをしたから、彼女が隠れそうな所は知っている。彼女はいつも、建物や家具の死角に、膝を抱えてこっそりと身を潜めるのだ。
おそらく兵士たちの天幕の方へは行かないだろうから、ジェラルドとパトリシアが寝起きしている天幕だろうと見当を付けてそちらへと急ぐ。
みんな酔っているし、騎士団時代の普段着を着ているから、誰もエドワードが王太子だと気がつかない。だから物音をことさら立てられることもなく、天幕に着いた。
探されることは承知しているから隠れているだろうと、天幕の裏に回ると、やはりそこにパトリシアが膝を抱え込んでしゃがみ込んでいた。昔と同じく、木箱の物陰に、これでもかと言うほど身体を小さく押し込んでいる。
「パティ」
優しく声を掛けると、パトリシアは顔を膝に埋めたまま答えた。
「こないでエディ。今最高に不細工だから」
「君がどんな顔をしようと、不細工だと思ったことはないよ。生まれた時からずっと、君を知っているからね」
生まれたばかりのパトリシアを、アルバートと共に見に行ったことは、今もちゃんと覚えている。アルバートに『可愛いだろう? エディには兄弟がいないから、妹のように大切に可愛がってあげるんだぞ』といわれて自分は、こう答えたのだ。
『うん! 僕がこの子のお兄さんになってあげる!』
あの日からもう、二十年もの月日が流れていた。
「話をしよう、パティ。俺と、君について」
そう言いながら木箱を少し横に押しやり、パトリシアの横に座った。二人でこの隙間がぴったりと埋まってしまう。まるでジェラルドに怒られて泣いていたパトリシアと一緒に、彼女が泣き止むまで頭を撫でていた子供の頃のようだ。
パトリシアは顔も上げず、鼻をすすりながら、震える声で問いかけてきた。
「兄として?」
「ああ。とりあえず今は、兄として」
「永遠に、の間違いじゃないの」
「未来がどうなるか、俺でも分からないよ。知っているのは女神エネノアぐらいじゃないか?」
微かに冗談めかして言ったのだが、パトリシアは顔を埋めた膝越しのくぐもった声で呟いた。
「女神に問わなくても分かるわ」
「どうして?」
「兄妹のように育ってきたのに、今更だもの」
「今更かな?」
「ええ。だから放って置いて、エディ兄様」
わざと兄と呼称を付けられてしまった。彼女がエドワードをそう呼んでいたのは、もうずいぶん前のことだというのに。
ついパトリシアの所に来てしまったが、何をどうしようかなどという計画はまるでない。情報を必要とする戦術と違って、こんな突発的な事に、しかも立場上敬遠してきた恋愛になると、お手上げだ。その上相手は、子供の頃から一緒にいたパトリシアだというのだから。
やれやれどうしたものかと、エドワードは考え込む。少し伸びてきた亜麻色の髪の隙間から、真っ赤になった耳が覗いている。きっと顔もこんな風にリッツへの怒りと、気持ちを暴露された混乱と悲しみで真っ赤なのだろう。肩が震えているところを見ると、泣いているのかもしれない。
せめて顔を上げてくれないだろうか。表情が分かれば、もっと対処のしようがあるだろうに。そう思った時、ふとあることを思い出した。
試してみる価値はある。小さく息を吸い、そっとパトリシアの耳元に唇を寄せて、強く吹く。
「ひぃやぁ!」
泣いていたはずのパトリシアが、妙な声を上げて飛び上がり、耳を押さえてこちらを見た。見開かれた目からポロポロと涙が零れている。
「エディ、何を……」
「やっと顔を上げたね」
「あっ……」
「リッツにやった時も、飛び上がったんだ。どうやらこれには、強制的にこちらを向かせる効果があるらしい」
「……リッツにもやったの?」
目を見開いたまま問われて頷く。
「ああ。あいつは耳が大きいから、もっと過剰反応してたぞ。鳥肌を立ててさすってたな」
「何をしてるんだか」
呆れたように小さく呟きながら、再び顔を膝に埋めようとしたパトリシアの両頬を素早く両手で挟み、こちらに向かせた。まだ涙で潤んだアメジスト色の瞳が、大きく見開かれた。
「何……?」
「顔を伏せると、幾度も耳を吹く羽目になる」
「それ……嫌なんだけど」
「俺は楽しい。リッツと君が飛び上がる姿には、かなり癒される」
二人ともいつもどこかに、張り詰めた一線がある。全部を話すと言ってくれたリッツであっても、やはり本人も無意識のうちに壁を作っている。それが瞳の中に陰のようによぎるのだ。
「からかってるの?」
「いや。二人とも無防備だから、安心するのさ」
「リッツと一緒にしないでよね」
エドワードの本音は、どうやら軽く冗談に聞こえるらしい。リッツにしろパトリシアにしろ、どこまでも買いかぶってくれるようだ。実際には自らの理想のために作り上げた、見せかけの自分らしさの中でもがき苦しんでいるだけだというのに。
見開かれていたパトリシアの目が、諦めたように微かに逸らされた。
「分かったわ。顔を伏せるのはやめとく」
「ありがとう」
素直にお礼を言ったのだが、パトリシアは何故か唇を噛みしめた。何か文句を言うのかと思ったが、口を開かずに、両手で膝を抱え、膝に顎を乗せる。その横顔は、パトリシアの実の母にとてもよく似ていた。
ジェラルドの前妻で、パトリシアの母だった女性は、あまり身体の強い人ではなかった。アルバートと共にモーガン邸を尋ねると、天気のいい日は、大きな鍔のある帽子をかぶって、庭の花をいじっていた。そして時折、体調を崩して会うことが出来ない人だった。
パトリシアを生むことは、彼女にとって命がけの賭だったのだとも聞いている。ジェラルドは妻がそんな危険をおかしてまで子供を持たずとも、彼自身もそうであったように、跡取りは養子でいいと思っていたらしい。
それでも彼女は子を望み、パトリシア一人を残してこの世を去った。身体は弱くとも芯の強い女性だったとジェラルドは言う。おそらくパトリシアの芯の強さは母親譲りだろうと、ジェラルドは眩しそうに娘を見ていたのを覚えている。
パトリシアは彼女の母親とは、雰囲気も性格も全く違う。正反対だと言っていいだろう。何しろ花と手仕事を好んだ母親と違い、パトリシアが手にしたのは剣であり、精霊使いの杖だった。針と糸を持つべき手には、剣だこができ、グレイン騎士団の中でも随一というほどの乗馬の名手だ。
でもこんな風に憂いを秘めた瞳でため息をつかれると、とても似ているように感じる。
一体いつから、彼女を少年のように扱うようになったのだったろう。
動かない彼女の横顔を見ながら、ふとそんなことを思った。
時々会う可愛い妹が、いつからか少年のようになり、女性扱いすることを嫌うようになった。騎士団の中にいる彼女を妹のように扱うと、『女だからといって無用な気遣いはしないで』と怒るようになっていた。
戸惑いつつも、徐々にそんな彼女に慣れていった。パトリシアの決断に口を挟む気は無かったからだ。彼女が騎士団で上を目指すなら、それでいいのだろうと考えていた気がする。
無駄な軋轢を避け、人に深入りしないように心がけていたエドワードだったから、妹代わりのパトリシアでさえ、深入りすることを避けた。
どうして彼女がそうまでしても、騎士団で歯を食いしばってきたのか、考えた事などなかったような気がする。
『そんなに可愛いくせに、何で乱暴なんだよ!』
モーガン邸で、リッツがパトリシアに向かって、そう怒鳴った時、ハッとした。そして彼女が真っ赤に顔を赤らめた時に、本当に驚き、そして納得した。
彼女はずっと、女性だったのだ。何かのために必死で、一生懸命気を張って男の中にいただけなのだと。
今にして思えばそれは、エドワードの役に立ちたいという、一心だったのだ。
「パティ、まず謝っておく。君の気持ちを誤解して、からかって悪かった」
「……うん」
「君はずっと、リッツの前ではごく自然で、きっとリッツといると楽しいんだろうと思っていたんだ。リッツが君のことを好きなのは知っていたから、上手くいけばいいと思ってね」
リッツと一緒にいると、パトリシアはごく自然に、自分の感情をエドワードにまで話してくれた。
パトリシアの持つ、ティルスの収穫祭でリッツが買ったアクセサリのことや、王太子宣言をしなければならなくなった時にも、彼女はエドワードの前で自らの考えを明かしてくれた。
それをずっとエドワードは、リッツがいるからだと思っていた。リッツのことが好きだから、その感情を受け止めてくれるから、こうしてエドワードと話せるのだと思っていた。
まさか彼女が好きなのが自分だなんて、夢にも思っていなかった。
「改めて聞いていいかな、パティ。リッツじゃ駄目なのか? あいつは本当に君が好きなんだ」
「……無理よ」
「どうして?」
「だって私とリッツは、似てなくていいところが似ているんだもの」
「似てなくてもいいところ?」
「ええ。どこか正直じゃなくて、意地っ張りなところとか、好きな人を相手にする時、微かに怯えてしまうところとかね」
膝から顔を上げたパトリシアは、そのアメジストの瞳でじっとこちらを見上げてきた。深みのあるこの目の色は、母親譲りだ。
「もうエディには私の気持ちが筒抜けだもの、正直に言うわ。私、貴方が好きなの、エディ」
「……ああ」
「最初は分からなかった。子供の頃は、ただただエディ兄様が好きだったの。アルバートが連れてきてくれるエディ兄様が、遊んでくれるのがとっても嬉しくて、ずっと首を長くして兄様を待ってた。家には大人しかいなかったから、一緒に過ごしてくれる兄様が本当に大好きだった」
「そうだったね」
週に一度、エドワードはモーガン邸に来ていた。それはジェラルドによって決められていたことで、十二の年からジェラルドの家に下宿し、学校に通うために、勉学の準備をしていたのだ。
当時のエドワードはまだ、自分が何者であるかを知らなかった。だから兄様と慕ってくるパトリシアの事を可愛がりつつ、不思議に思っていた。
この子の父がアルバートの雇い主ならば、この少女は自分の父の主人の子である。ならば、自分にとってこの子は、将来の主人ではないか。侯爵令嬢に兄様などと呼ばれるのは、きっと身分違いに違いないと思っていたのだ。
でも十二の誕生日が訪れ、モーガン邸で暮らすことになった日に、自分が何者かを知った。その時、どうして父が彼女をパトリシア様と呼ぶのに、自分がパティと呼ぶことを許されているのかを知った。
その誕生日を境に、皆がエドワードを『エディ』と呼ばなくなった。いつの間にか『エド』と呼ばれるようになっていた。
でも彼女だけが、エドワードをエディと呼んだ。今思えば、彼女だけがきっとエドワードの戸惑いと、寂しさを理解し、受け入れてくれたのだろう。
「エディ兄様が一緒に暮らすと知った時は、本当に嬉しかったわ。これでずっと仲良く一緒にいられるんだと思っていたんだもの。でも何だか一緒に暮らしている方がエディは寂しげで、学校に行くようになってからは、近づきがたい程の人格者になってた。何も分からないけど、何だか寂しかった」
あの頃のことを思い出し、微かに苦笑する。知ってしまったことが重くて、それでも将来を思うと感情を外に出すことは出来ず、あの頃は感情をもてあましていた。
唐突に引かれた未来への道筋に、自らの存在意義がそれ以外はないのではないかと、思い悩んだ時期でもあった。
「そんな兄様には近づきがたかったけど、妹のままでは駄目だと悟ったわ」
「……どうして?」
「女の身では、傍で支えることができないもの。お母様のように待つだけなんて、私の性に合わないわ。それに私、乗馬は得意だったもの」
「確かにね」
母のいない寂しさをもてあまさぬように、彼女は父親について、狩りに出かけたり、遠乗りに出かけたりしていた。
長い亜麻色の髪をなびかせて、華麗に馬を操る彼女の姿は、まるで絵画にある風の精霊のようだなと思ったものだった。
まさかジェラルドも、それが騎士団入りを決意させる事に繋がろうとは、思ってもいなかっただろう。「全てを父様に聞かされた時に決意したの。貴方の力になるために、傍で支えられる人になるために、騎士団で自分を磨こうって。頼られるようになるとは思えないけど、せめて力を貸せる人であろうって」
そしてパトリシアは入った四年制の女子学校を卒業した後、髪を少年のように短く切って、騎士団に入団してしまった。
貴族の娘で十六歳といえば縁談が出てくる年だというのに、その全てを断ったのだ。
「女性であることを捨てて?」
「女性であることに甘えたくなかったの。女だからここまででいいとか、女だからこれは出来なくてもいいなんて言ってたら、あなたについて行けないわ。だってエディは、この国を統べる王となる人だもの」
パトリシアが、久しぶりに騎士団の頃の少年のような笑みを浮かべた。
「本当にそれで正解だったわ。私には目指す人がいて、目指すものがあるの。その人が目指す頂点のために、私は補佐できる人でありたい」
輝く瞳でそう言い切ったパトリシアは、大きく息を吐き出した。
「だからね、エディ。私、今の生き方に何の疑問もなかったし、それを苦しいとも思わなかったの。貴方のことが好きだけど、それは貴方を支えるための好きだと思っていたんだもの。なのに……」
俯いたパトリシアの言葉を待つ。しばらくして彼女が小さく呟いた。
「なのにリッツの馬鹿が来てから、私、大きく揺らいだわ。今まで当たり前に貴方を支えていられると思っていたのに、私が欲しくて堪らなかった場所にいたのはリッツだった」
吐息混じりに、パトリシアは自分の感情を抑え込むように、膝をきつく抱きしめた。
「リッツに激しく嫉妬したわよ、本当に、馬鹿みたいに。特にエディがリッツに全てを打ち明けた後の親密さと、誰にも入り込めないあの雰囲気。どれだけの敗北感を私に植え付けるのよ、リッツは。そんなことを思っていたら、今度はリッツが私を好きだって言うでしょう? そんなの気がついてなかったわ。敗北感二倍よ」
「憎かった?」
「憎めないのがまた嫌いよ。知ってるエディ? ティルスで最初に一緒に戦った時、リッツ、気を失う時、私になんて言い残したと思う?」
「……分からない」
「『俺を怖がらないで。本当は俺が一番怖いんだ』ですって」
小さく息をつき、エドワードは死の淵から戻った時に泣きながらエドワードに縋ってきたリッツを思い出した。一人になること、誰にも必要とされないこと、死んで欲しいと願われること。それがリッツは怖い。だからパトリシアに遠慮しているのだ。
「あの人を守ってあげなきゃって気持ちと、助けてあげたい気持ちと、エディを奪われた気持ちでぐちゃぐちゃだわ。リッツを全部嫌いになれたら、こんなに苦しくない。リッツのことは好きよ。でも違うの。あの人が私を好きだとは、違う好きなの」
「パティ……」
「もう何が何だか分からないわよ。エディを奪ったリッツなんて、嫌い。私の欲しかった立場をあっさり手に入れた無神経なリッツなんて、大嫌いよ。ベットの中で布団かぶって『何なのよ、もう! 何なのよあなたは!』って転げ回ってたの。そうしたら本音が零れたのよ。私はエディが好きなの、あなたじゃないわって」
一息に感情的に自らの思いを暴露したパトリシアは、小さく息を吸い込んで黙った。言葉も無くエドワードも黙り込む。
まだ盛り上がる兵士たちの歌声が聞こえてくる。ざわめきも、笑い声も、この闇の中に賑やかに響いている。
戦いが終わり、こうして兵士たちと共に勝利を祝うのが現実だったはずなのに、何故だか妙にそれが現実離れして聞こえてきた。こうしてパトリシアと二人、身体を付けたまま、こんな場所に潜んでいるからだろう。
何だか今までがみんな夢で、妹と家の裏で隠れているのが現実かもしれない。そんな風に思った。もう後戻りなど出来ない道に足を踏み入れてしまった後だというのに。
ふと星空を見上げて思った。
そういえば、立場を知る前は、結構簡単に人を好きになれた。
初恋の人は、ティルスの近所の農家の女の子だった。同い年で、いたずらっ子で、ローレンの学校に沢山の虫を持ち込んで、男女問わず驚かせていた奔放な女の子だ。最もみんな農家の子だから、驚くのは最初だけで、あとは全員で虫取り大会になってしまうのだが。
彼女は、いつも楽しそうにキラキラと瞳を輝かせて、全身で生きていることを楽しんでいた。何となく自分の居場所に微かな違和感を感じていたエドワードは、その子がとても眩しかったのを覚えている。
そのくせ素直にそれを認められず、ローレンの息子として生真面目に注意をし、彼女に煙たがられたりしていた。
結局彼女には、一度も思いを告げられなかった。
きっとそれを話したら、パトリシアもリッツも、意外だと目を丸くするだろう。だがエドワードとて、昔から今のようなエドワードだったわけではない。自分が王の血を引くと知る前は、少しよく出来るだけの普通の少年だったのだ。
もっともそれはもう十五年以上も前の話で、確か彼女は、同じ学校を出た農家の子と結婚して、もう四人の子を持っているはずだ。焼き討ちで夫が怪我をしたそうだが、元気に暮らしているようだった。
ティルスを含め、農村での結婚は皆早い。女性は十八にはもう子供を持っている人も多いし、男性でも二十歳までには家庭を持つ。
考えてみればエドワードは、今年でもう二十七歳になる。パトリシアは六つ年下だから二十一歳だ。二人ともティルスにいたら、完全に行き遅れだ。
そんなことを思って笑みを漏らすと、パトリシアが不機嫌そうにこちらを睨んだ。
「私の話のどこに笑うところがあったの?」
「ごめん。全然関係ないことを思い出してた」
「……リッツのこと?」
焼き餅のように口を尖らせたパトリシアに、また吹き出してしまう。
「リッツは俺の恋人でも、妻でもないよ。君が俺に恋愛感情を持ってくれているなら、リッツに嫉妬するのは違うだろ?」
「男の友情の方が恋愛感情よりも強そうだわ」
「そう言われると困るな。確かに今は、自らの理想と希望を除けば、リッツとの友情が何にも勝ってる。俺の方があいつよりも格段に、あいつを大切に思っているし、否定のしようがないぐらいだ。あいつにはこれっぽっちも通じてないけどね」
「分かってるわ」
「でも今は、だよ、パティ。未来がどうなるかは分からない。君の気持ちを知ってしまったけど、今まで妹だと思っていた君に、すぐに感情を向けられない。君が俺を好きになってくれたのは嬉しいが、俺はやはり戸惑っているよ」
妹から恋人に、関係を書き換えられるのか。大切であることは変わらないが、彼女を女として愛せるのか、まだ全く分からない。
「だからね、パティ。あいつの失言はなかったことにしないか? 政治取引で言うと、一部棚上げというやつだ」
「……一旦置かれちゃうのね?」
「一旦ね。それに一部だ。俺は、他人から聞かされた女性の感情を鵜呑みにして、その女性を自分の物にしようとは思わない」
「じゃあ、答えはNO?」
「簡単に言わないでくれ」
「違うの?」
「違う。今後、妹として見るのは辞める。一人の女性として見てみることにしようと思うんだ」
妹という薄布一枚隔てた所から彼女を見ているうちは、どんな感情も持って行きようがない。でも一人の女性として彼女を見たならば、彼女との関係を見つめ直せるだろう。
「だから君も、一人の男である俺を、見ていてくれると嬉しい。その上で俺が、やはり君を愛せないとなったら……」
「その時は諦めるわ。だってそれって普通に振られるって事じゃない」
きっぱりとパトリシアはそういった。微かに見たその顔は、真っ赤に上気している。強気に出ても照れくさいのだろう。そんな彼女は子供の頃から変わらないなと思う。
「ありがとう」
「お礼を言われることじゃないわ」
「俺は十分、お礼するに値することだと思うけどね」
膝に再び顔を伏せてしまったパトリシアの髪を掻き上げ、額に優しく口づけた。びくりと硬直してしまったパトリシアを置いて立ち上がる。
「さてさて、今度は俺の相棒を何とかしに行くかな。あっちも手がかかるんだ」
落ち込みまくっているだろう相棒を思うと、少々頭が痛い。だが彼女の感情を知らずに、リッツをけしかけていたのは自分なのだから、責任を取る必要がある。
「お休み、パティ」
言いかけて立ち去ろうとした時、ふとパトリシアが真剣な声を上げた。
「エディ」
「なんだい?」
「私を愛せなくても、子供が欲しかったら言って。貴方に子供をあげる」
「パティ……」
「もし狂わずにいなければ、全てを投げ出したくなるぐらいに辛かったら、私が貴方の子を産む。ちゃんと跡取りをあなたに手渡してあげるから、リッツと旅に出て。私があなたの子を、ちゃんと立派な王に育ててみせるから」
早口で一息にそう言ってから、パトリシアは少しだけ沈黙し、再び口を開いた。
「あなたが私を愛せなくてもいい。でもこの身体は、エディに捧げるわ。だから……」
風にかき消えるほどの細い声で、パトリシアが『黙って消えたりしないで』と言うのが聞こえた。彼女に背を向けたままエドワードは、空を見上げる。
「俺はユリスラの王になるんだ。消えるわけがないだろう?」
「分かってるけど、たまに怖くなるの。あなたがいた証拠をこの腕に残して欲しくなるの」
振り返るなと、自分に言い聞かせる。振り返って彼女を見て、彼女がこちらを見て泣いていたりしたら……。
まだ愛しているとは言えないのに、彼女を抱いてしまいそうだ。
それは違う、それは愛では無い。
お互いの心の隙間を埋めるものでしかない。
パトリシアとは、そんな関係を持ちたくない。
今まで大切な妹だと思っていた人だ。一人の女性として見るといっても、大切であることは変わらないのだから。
「エディ……」
「そんな声を出すなよ、パティ。俺だって男なんだから、もう少し警戒心を持った方がいい」
努めて明るく言い放つ。黙り込んだパトリシアに、振り返らぬままきっぱりと告げる。
「俺は君に黙って消えたりしない。例えどれだけ苦しもうと、辛い心を抱えようと、君とどんな関係になろうと、それだけは誓う」
「……うん……」
「俺の子を産んでもらう時は、俺が君を人生の伴侶に選んだ時でいい。そうなった時には、ちゃんと君を愛したい。身体だけを欲しいなんて思わないよ」
「うん……」
「軽々と男の前でそんなことを口にするな。自分を大切にしないと駄目だ」
女として見るといいつつ、少し兄としての説教口調が混じってしまった。でもパトリシアには通じたようだった。背中で微かに彼女が笑う気配がした。
「それもそうね。ごめんなさい。私は……あなたを信じるわ、エディ」
「ああ。信じて損はない。何しろ、自分以上に信用している友と元妹が、褒めちぎってくれるぐらいには、俺はいい男らしいから」
「……元妹って……複雑」
こっそりと盗み見ると、パトリシアはむくれたように膝に肘を乗せていた。目が合う前に手を振って彼女の元から離れた。
きっといつか答えが出る。その時に彼女を愛せていたら、とても幸せだろう。
あまりに突発的であまりに急で、何も答えの持ち合わせがなかったが、本当に彼女が幸せになる方法を考えたいものだと思う。
明日には、ファルディナの本営に戻ることになるだろう。そうなったらすでに婚約している弟、シャスタに相談してみてもいいかもしれない。
とりあえず今は、落ち込んでいるだろう友の愚痴を聞き、酔いつぶして寝かせてしまおう。それから何も考えずに眠ってしまいたい。
その方がいい考えが浮かぶような気がする。ここ数日の緊張と、疲れで、意識が徐々にぼやけてきているようだ。
大きく伸びをして、エドワードは欠伸をかみ殺した。




