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「空が青いなぁ……」
リッツは草原の岩場に腰を掛けて、夏空を見上げていた。照りつける日差しが肌を焼くものの、高原を吹き抜ける風は、夏草独特の青臭さと涼しさを含んでいてしっとりと涼しい。
数百メートル先のシアーズ街道には人通りもなく、時折四頭引きの乗合馬車が、のどかに人を満載して進んでいく。今はまだシアーズ街道は閉鎖されていない。
大きく伸びをして欠伸をすると、隣にいた男に笑われた。視線を向けると、典型的な羊飼いの中年男性が、羊を追う杖を持って座っている。少しごわごわした麻材の生成りシャツに、焦げ茶のつりズボン、同じ素材で出来た焦げ茶の帽子は違和感なく馴染んでいる。近くには、大人しく寝転がっている犬の姿もあった。
そして目の前には沢山の羊が、青々と茂った牧草を食んでいた。夏に向けて羊毛を刈り取られた羊たちは妙に細くて、まるで山羊のようだ。
「退屈か、リッツ」
「うん。マルヴィルは退屈しないの?」
「私は元々農民さ。羊飼いのまねごとなど苦痛でも何でもないさ」
「そっかぁ……」
リッツは岩場に寝転がった。自分の格好もマルヴィルと似たり寄ったりだ。
視線をシアーズ街道から岩場の奥へと向けると、典型的な羊飼いの住宅があった。石組みの頑丈そうな建物に、煉瓦造りの赤い屋根があり、敷地は結構広い。井戸の水くみ場で、老女がのんびりと洗濯している。煙突から煙が上がっているところを見ると、昼食の支度だろう。
「お前さんは農民に向いていないようだな」
苦笑交じりのマルヴィルに、リッツも笑う。
「うん。無理みたいだ」
予定通りにリチャードが王都を発ったとの情報を受け、リッツとマルヴィルを含む、総勢たった十人の遊撃隊員は、こうして羊飼いの家に身を寄せていた。街道から陰になる場所にある厩舎には、すぐに引き出せるようにグレイン馬が繋がれており、日付が前後しても行動を起こせる。
リッツが提案したタールと松ヤニを塗られたロープは、すでに配置を終えている。道の両側に配置されたロープは片側だけでも二キロ、両側を合わせると四キロにも及ぶ。コネルに貸して貰った人材を総動員してもそれだけのロープを作るのに一週間はかかった。
ここから少し先へ行ったところで、ファルディナ方面へ抜けるシアーズ街道は両側を森に挟まれる。大型の乗合馬車二、三台がすれ違える上、その間を小型の馬車や馬が通過できるだけの道幅を持ったシアーズ街道だが、両側を森に挟まれると、視界はとたんに悪くなるのだ。
その道を少し入った場所に、タールと松ヤニのロープの端を仕掛けてある。誰も通らない深夜に、森に詳しい者たちと取り付けたのだ。
そこから左右に二キロもの距離にロープは続き、ロープが切れて煙のない所に敵が逃げ込んだところで弓兵が奇襲を仕掛けることになる。そこからはギルバートと残りの遊撃隊員にお任せだ。
そして混乱の後にリチャード軍が次に出る開けた場所が、革命軍本隊が陣を張るあの草原である。
リチャード軍が、目的の場所へとさしかかるのは、各地に散らばる情報提供者たちによると、七月の三日から四日だそうで、その正確な日時までは分からない。コネルがオフェリル討伐に参加した時のように遅れに遅れると言うことはないようだから、今日が勝負だろう。
大体の日時が推測出来るのはリチャード親王の性格のおかげだと、ジェラルドは語っていた。リチャードはスチュワートと違い、好戦的であり、戦いにおいて前線に立つことを厭わないのだという。むしろ自分の手で人を殺すことが楽しみなのだと、ジェラルドは苦笑していた。
そして本日は四日。もうそろそろお昼になろうかという時間である。本来ならばもう通っていてもいい頃である。
「マルヴィル」
「何だね?」
「……俺の作戦、大丈夫だよね?」
作戦を立てたなんて初めてで、しかもそれが元第三騎士団の面々の命がかかっているのだ。多少不安になってマルヴィルに確認すると、マルヴィルは微かに目を細めて口元を綻ばせた。
「物事には絶対はないが、私は大丈夫だと信じているさ」
「どうしてさ?」
「戦いに赴く者が、指揮官の作戦を信じられなくてどうする? お前さんはティルス村のリッツである前に、精霊族の戦士であり、この少人数部隊の指揮官だ。我々はちゃんとお前さんを信用して付いてきている。お前さんが不安そうな顔をするな」
戦う責任、人の命を率いる責任。それはこういうことなのだ。以前ダグラス隊の指揮を執った時は、全てがお膳立てされていた。でも今回は違う。お膳立てしたのは自分だ。責任を持って実行するのが、リッツの役割だ。
「頑張るよ、俺」
「緊張しなくてもいいさ。我々がちゃんとフォローする。何しろお前さんは、我々ティルス出身者の可愛い息子だ」
「子供扱いして。言ってることがてんでばらばらじゃんか」
むくれるとマルヴィルは、父親のような目でリッツを見て、懐からパイプを取り出した。パイプの中には刻んだ煙草が詰められている。シュジュンの傭兵と違って、農家の人々は煙草を嗜む場合、パイプを使うことが多い。擦られたマッチの火に赤く燃え、煙が漂った。
それを見ていて何となく口寂しくなり、シアーズの時のように胸ポケットを探るが、残念ながら紙巻き煙草はなかった。
「吸うか?」
差し出されたが、いまいちパイプから煙草を吸うのが苦手だから遠慮する。
「何か紙持ってない? 紙巻きにしたら吸いたいなぁって……」
「紙巻き煙草を吸っているところを敵の斥候に見られたら、軍人か傭兵だと見破られるぞ」
「え? 何で?」
「パイプが高価だから戦場で持っているのは士官クラスばかりさ。後はなくしても構わない紙巻き煙草で済ませるというわけだ」
「なるほど」
革命軍と名の付く中にいて、しかも幹部になっているのにそんなことも知らなかった。
「じゃ、煙草は我慢だなぁ」
呟きながら自分の膝に肘を置き、頬杖を付く。その時だった。街道を数騎の馬と、ユリスラ軍の軍服を着た男たちが、シアーズ方面から上がってきたのだ。
「マルヴィル」
鋭く名を呼ぶと、マルヴィルがパイプから煙を立ち上らせたまま、冷静に答えた。
「哨戒部隊といったところだな。間もなく本隊が来る」
「……ついにか」
緊張感を滲ませて呟くと、マルヴィルは平然と立ち上がってユリスラ軍の方へと歩み寄っていく。
「マルヴィル?」
「探りを入れてみる。一緒に来るか、リッツ」
「うん」
悠々とパイプをくゆらせながら街道に近づくマルヴィルに戸惑いながらついて行く。すると哨戒部隊の男たちも気がついたのか、こちらに歩み寄ってきた。
「兵隊様、ご苦労様です。どうなさいました」
パイプの煙を吐き出しながら、マルヴィルが人の良さそうな笑顔を浮かべた。まるきり農家のおじさんだなと思ったが、よくよく考えるとこの戦いが始まるまでは本当に農夫だったのだ。
たった五騎の哨戒部隊を率いているのは、まだ若い男だった。年齢で言えばエドワードとそうは違わないだろう。男は一歩前に進み出て、マルヴィルに向き合った。
「お前たちは羊飼いか?」
「はい。何かございましたんで?」
一瞬兵士がリッツにうさんくさげな目を向けた。ヘラヘラと笑い返そうと思ったが上手くいかずに引きつった笑みを浮かべると、マルヴィルがそれに気がついてくれた。
「息子が何か?」
「いや、妙な目つきでこちらを見ていたのだが」
しまったと思うも対処法が浮かばない。困って引きつったままヘラヘラと笑うと、マルヴィルがフォローしてくれた。
「すみませんね。うちの息子はちょいと頭が弱くて、会話が上手くできんのです。羊となら上手くやっていけるんですが、人間とじゃねえ。引っ込み思案なんですよ」
本当に心配そうな父親の顔でいったマルヴィルの言葉に合わせるように、自分よりも頭一つ分小さなマルヴィルの陰に隠れてマルヴィルの腕に掴まり、おどおどと兵隊を眺める。
「そんなに立派な体格だというのに、惜しいな。頭さえしっかりしていれば、軍で身を立てられただろうに」
小馬鹿にするような兵士の言葉に、リッツは分かっていない子供のように笑い返した。これで疑いが晴れたのか、兵士はリッツから興味を失ったようだった。
「兵隊様、何かあるんですかね?」
「ああ。親父さん、俺も農家出身だから教えとてやる。羊をすぐに家に入れておけ。これからここにリチャード親王殿下の大軍が通る。場合に寄っちゃ、羊を丸ごと徴収されるぞ」
「何ですと!?」
「兵糧として徴収されたら、金も出ない。俺も喰うために軍人になった口だから、農民を路頭に迷わせるのは好きじゃない」
言い捨てるようにそういった男は、部下たちに命じてマルヴィルとリッツに背を向けた。
「急げよ。もう時間がない」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げたマルヴィルは慌てたように、犬をけしかけて小屋へと急ぐ。リッツもその背を追った。マルヴィルが家に向かって怒鳴っている。
「ばあさん、母さん、大変だぞ!」
ちらりと後ろを見ると、哨戒の兵士たちの馬が、駆け足で森へと続く道を入っていくところだった。あの男たちは農民だったと言った。軍に徴収されないように羊を引っ込めろと言った。
彼らとグレインの領民と何が違う?
でもあれが……彼らが倒すべき……リッツが斬り殺すであろう敵だ。これがエドワードの肩にのしかかる、屍の上に道を切り開くことだ。
唇を噛みしめて、視線を前に向けた。振り返らない、後ろを見ない。前に進むのみだ。
目の前の家からマルヴィルの呼びかけに答えて、この家の本来の持ち主たちが慌てて飛び出してきている。犬たちが飼い主の命令を受けて羊を追い込み始めた。
リッツとマルヴィルは、厩舎に駆け込んだ。そこには数日暮らせるだけの荷物が積まれ、残りの八人の遊撃隊員がいた。
「間もなく来るぞ。支度をしておけ」
命じたマルヴィルに頷き、おのおのが農民の格好を脱ぎ捨て、ユリスラ王国軍の軍服に袖を通す。これはみな、コネルの率いる歩兵部隊の、元ユリスラ軍人たちに借りた。
リッツは彼らと異なり、グレイン騎士団の制服の上にユリスラ軍服を身につけた。そのまま軍服を着ると、あまりに腹回りや胸回りが大きすぎて、借り物であることが丸わかりだからだ。リッツほどの身長を持つ者は希だから丈は少々足りない。でもリッツはこの身長にしては細身なせいで、幅が余ってしょうがないのだ。
かといって綿を詰めるのも少しおかしい。苦肉の策として考え出したのが、二枚重ねて着るという作戦だったのだ。
それに本隊が待つ草原に出たならば、リッツはエドワードの隣で戦うつもりだ。そのためにはこうして二枚重ねにして置いた方が得策なのだ。
「これでよしっと」
自分の格好を確認して小さく頷く。濃いグレイの騎士団の制服と違い、茶色をベースとした軍服には違和感があるが、これはこれで仕方ない。
全員が身支度を終え、息を潜めて見守っていると、しばらくして軍馬と沢山の人々の足音が響きだした。そこに馬車が通る音も入り交じり、まるで遠雷の響きのようだ。
厩舎の片隅に街道を見渡せるよう取り付けた鏡で様子を窺う。
晴れた街道の上を、まず騎兵部隊、弓兵、歩兵が続き、見事な馬車が続いていた。馬車の上に翻るのは、ユリスラ王国軍の国旗だった。
初代国王の象徴の青、精霊族の戦士の緑、戦乱の赤。そして精霊族の青年を象徴する汚れなき正当性の象徴ユニコーン。
あの国旗は、今の王家ではなく、エドワード・バルディアにこそふさわしい。あれを掲げるのはエドワードでなくては駄目だ。
心にそう誓いながら、息を整えた。根を詰めていたようで、呼吸をすることを忘れていたようだ。
馬車は道を進み、森に隠れた。その後を沢山の人々が規則正しく行軍していく。しばらくすると、この草原から見渡す街道全てが、茶色の軍服で埋め尽くされた。
普段は気にすることのない剣とベルトを繋ぐ金具の触れあう音、装備同士がぶつかってたてる金属の響きが、地鳴りのようにこだまする。
「通り過ぎるのに、どれぐらいかかる?」
「敵軍五万のうち、八割が歩兵だ。かなりかかるだろうな」
「そっか」
見つめていると汗が流れ落ちた。軍服を二枚着ているからとてつもなく暑いが、この汗はそのせいじゃない。緊張感で冷や汗が吹き出しているのだ。
もし作戦を気付かれたら、上手くロープに着火しなかったら。不安な要素は山ほどある。でもマルヴィルが信じてくれているように、リッツも自身を信じるしかない。
軍服を着た沢山の人々の波が、何だか妙に揺らめいていて、時間がどれだけ過ぎたのかも分からなくなってきた。
その時、街道に最後尾の一団が見えた。その後ろには誰もいない。後方支援の補給部隊がいるはずだが、時刻は昼。おそらくここにさしかかる前に食事を取ってきたのだろう。ならば補給部隊が追いついてくる前に片付けるしかない。
「マルヴィル、支度は?」
「いつでも構わんよ。彼らが森へさしかかったらそのままついて行けるようにする」
「了解」
最後尾の人々をロープの点火場所前に襲撃する。最後尾だと知り得る人々がいるのにその後方から攪乱できないからだ。
「クロスボウはいつでも使える?」
呼びかけると、肉屋のニールともう一人の元猟師が力強くクロスボウを掲げた。
「使える」
確認の間に、一群は森の中に消えつつある。小屋の持ち主が確認しながら厩舎の扉を開け放した。
「協力ありがとう」
一応指揮官であるリッツは馬に身軽に乗り込んでから羊飼いの老人に笑いかけた。老人は首を振る。
「これぐらいのことならいつでも。エドワード王太子殿下に、光の精霊王のご加護がありますように」
「ありがとう」
見つめた老人の目には、微かに涙が光っていた。老人は現在の貴族至上主義社会を憎んでいた。息子が、羊毛を売りに行った際、ファルディナの街で偽の駐留部隊に殺されていたのだ。
「君にも武運があるように」
「ありがとう。おじいさんも元気で」
老人が差し出した痩せて骨張った手を、リッツはしっかりと握り返した。それから真っ直ぐに、厩舎の外に広がる景色を見据える。
ついに始まるんだ。リッツ自身の判断で、この戦いの火蓋が切られる。リッツは目を閉じて、エドワードの顔を思い浮かべた。苦悩、迷い、そして決意と、覚悟。
共に死ぬのではなく、共に生き、この戦乱を勝ち抜くために、エドワードを守る。
「マルヴィル、始めようか」
「了解した。ユリスラの未来のために」
マルヴィルの声に、全員が声を上げる。
「ユリスラの未来のために!」
「いくぞ!」
リッツは馬の腹を蹴った。暗い厩舎から明るく晴れ渡った空の元へ飛び出す。
目映い光に目がくらんだ。
一瞬目を細めたが、すぐに街道へと馬を駆る。マルヴィルが横に並び、その後をクロスボウを持つ二人が続いている。
草原を抜け、街道に出ると、数百メートル先に、最後の一団の背中が見えた。周囲に視線を走らせ、ロープの先端の目印を彼らが過ぎていることを確認した。
まだかなり遠いが、馬の気配に後方の一団が騒ぎ出す。想定内だ。
「お前たちどうした? 所属はどこだ?」
誰何する声に応えず、黙ったまま馬を蹴立てる。軍服故にか、まだ彼らの声に警戒感はない。おそらく後方支援部隊だとでも思っているのだろう。
見る見る間に後方の一団が目の前に迫る。クロスボウが威力を発揮する距離は、五十メートルまでだ。
「所属部隊を言えと言っているんだ!」
苛立ったように叫んだ敵兵を無視して、目測でその距離を確認しリッツは馬上で片手を上げた。敵の誰もが武器を構えることすらしていない。
今がチャンスだ。
「撃て!」
リッツとマルヴィルの両側からクロスボウの矢が、連続して飛び出していく。馬を軽く超えた矢は、混乱している後方部隊を貫いた。幾人もが矢の直撃を受けて血飛沫を上げて倒れる。
「行くぞ!」
後ろに呼びかけて剣を抜く。馬上から剣を扱うのは苦手だ。分かっているから、今日のために訓練をした。
生きるために必要ならば、この戦いに勝つためならば片っ端から身につける。それがリッツの決意だった。
もう二度とエドワードに守られない。
エドワードを守るため、死なない。
混乱する部隊の後ろから斬りかかり、馬上から剣で人々を斬り上げてゆく。
馬の勢いと剣の威力で、敵の身体は深く切り裂かれ、弾かれたように血飛沫を上げて宙を舞う。あるものはそのまま地面に叩き付けられて絶命する。
跳ね上がる血飛沫が目の前を舞い飛び、戦場をみるみる赤く染めてゆく。周り中に金臭い血の香りが充満した。
「敵襲! 敵襲だ!」
叫んだ男に向かって剣を振るう。男は叫んだままの表情で額を二つに分かれさせて吹き飛んだ。
微かに視線を向けると、ランプを持った二人が、ロープに向かってそれを投げ捨てる所だった。
割れやすく、爆発しやすいように薄く焼かれたガラスランプは、叩き付けられた瞬間に赤々と燃え広がり、ロープの端に赤い光を宿した。
次の瞬間、ロープを赤く光が走り出し、もうもうと濃い煙が立ち上がった。
ロープの芯に使った、たっぷりの油を染みこませた部分が赤く燃え、その周りのタールと松ヤニを一瞬にして発火させる。
光よりも先に、煙が混乱する敵軍の中を走っていく。視界全てが白く染まるのに、時間はそれほどかからなかった。
「どうした! 何があった!」
兵士たちが叫ぶのを確認して、リッツはマルヴィルたちを振り返った。布で口元を覆い、後頭部で縛り上げながら、マルヴィルが頷き返した。それを確認してから、大声で叫んだ。
「敵襲です! 彼らは我々を火攻めにする気です!」
「何だと!」
「彼らは我々王国軍に化けている模様! 後方より襲いかかってきます!」
白い煙の中から、敵兵の誰かが叫び返している。きっとこの一群の指揮官だろう。悲鳴に近い怒声が起こり、組まれていた隊列が、蜘蛛の子を散らすように崩れて行く。
見えない視界、敵か味方か判断できない状況。混乱を煽るのにこれほどのことはない。同じ軍服を着ていれば敵味方の区別が付かず、更に混乱することは、ファルディナ解放戦の時の駐留部隊対駐留部隊を見て気がついた。
だから革命軍側の元王国軍の軍服には、水色の腕章が取り付けられている。だがこの煙ではそんなことに気がつくわけもないだろう。
自分も布で口元を覆い、縛り上げた。敵に向かって、ニールたちがクロスボウを放ったのが、風を切る音で分かった。
白い闇の中で、人々が倒れる音と、怒声が響く。
どこから攻撃されているかも分からない中で、人々の恐怖の悲鳴が響く。
「後方から敵兵! 数不明!」
叫びながら、リッツの隣に来たマルヴィルが頷く。このまま戦線を混乱させて撤退。それがリッツの役割だ。まともに戦っても、十人足らずでは百人も殺すことは出来ない。
頷き返して、まだ煙の外にいた部下たちに、黙ったまま頷き、手を上げる。突撃し、離脱の合図だ。
この煙に覆われた中でも分かるような目印が仕掛けられている場所が一カ所あり、そこが唯一草原へと続く獣道の入り口だ。
煙の中でも知っていれば確認できるかは、すでに実験済みだ。
「誰か! 司令官閣下に報告せよ! 我々は奇襲を受けている!」
叫んでいる男の声に、リッツは自分の頬が緩むのを感じた。
なるほど、コネルの言うとおりだ。最後尾の部隊は絶対に前方の指揮官に指示を仰ぐ。だからそれを利用して煙の中を駆け抜けろ。
「我々が行きます!」
リッツが煙の中に向かって呼びかけると、姿は見えないが男が答えた。
「頼んだ!」
そちらに向かってニールがクロスボウを打ち込むと、悲鳴と怒声が上がる。混乱のあまり、敵軍は総崩れになって前方に向かって走り出した。
こうなると秩序も何もないだろう。
リッツは手にした剣で逃げ出す一団を斬りつけ、後方から更に混乱を誘った。マルヴィルを含む遊撃隊員が斬り込むと、混乱は加速度を増していく。
無秩序に前方へと逃げ惑う兵士たちから少し距離を取り、リッツは後方の味方に告げた。
「一刻も早く司令官に報告せよ!」
リッツに倣って、遊撃隊の面々が同じように叫び出すと、敵軍も逃げ惑いながら同じように叫びだした。
「早く伝令を! 司令官に援軍を!」
「道を、左を開けろ! 援軍を呼べ!」
「援軍、援軍を! これでは我々は全滅だ!」
混乱し、叫びながら走る人々を確認して、リッツは剣を納めた。
「伝令がゆくぞ! 左側を開けろ!」
リッツは大声で怒鳴った。総崩れになったら全員逃げろの合図だ。後は後ろを振り返ることなく、全力で駆け抜けて、脇道から草原に抜けるだけだ。
リッツは馬の腹を蹴った。馬は少し躊躇ったが、命令通りに煙の中に身を躍らせる。煙の中を駆けることを想定して、この部隊の馬はあらかじめ煙にならさせたのだ。
リッツは煙の中を駆け抜けながら、左側を仰ぎ見た。チロチロと煙を出さず、赤い炎が燃えて一列に方向を指し示している。
煙を吹き出すロープとは逆に、ランプの芯と同じもので作られた、燃え続ける紐の道しるべだ。
これが消える前に、たどり着かねば方向を見失う。
叫び声を上げ、見えない煙に巻かれながら混乱し、敵兵はみな前方にと逃げている。それに巻き込まれぬよう、叫びながら混乱の中を駆け抜ける。
「後方より敵襲! 後方より敵襲! 援助を請う!」
「伝令が行くぞ! 右に避けろ!」
無秩序な一団に、幾度も言葉を投げつけ、時には混乱して同士討ちをしている人々を避けながら、この混沌とした脱出行が続く。
煙の中を進むうち、徐々に目に痛みが走ってきた。にじむ涙で視界が揺れる。煙が目に染みるのは覚悟の上だが、思ったよりもそれがきつい。
この煙が偽の火事であると分かっていても、これだけきついのだ、視界を失い逃げ惑う敵兵の恐怖はどれほどだろう。
不意に叫び声が響き、リッツの目の前に男が倒れ込んだ。一瞬目が合ったが、男はすでに首を切られて絶命している。
敵軍の同士討ちだ。
一瞬、不安が胸をよぎった。
この混戦状態の中で、部下は付いてきているのか、マルヴィルは、ニールは、他の遊撃隊員は一緒に来ているのか。
焦燥感に駆られたとしても、振り向くことなど出来ない。その一瞬の迷いが、道しるべを失う事になりかねない。
馬の速度でほんの十分か十五分。距離にしてたったの一キロ半。その距離がこの真っ白な中ではとてつもなく遠い。
リッツは唇を噛んだ。
彼らは、リッツの立てた作戦行動を信じると言ってくれた。だったら指揮官の立場として出来ることは、彼らを信じること、ただ一つだ。
大きく息を吸い、再び声を張り上げた。
「敵襲! 後方より敵! 司令官へ伝令を! 左をあけよ!」
片手で痛む目の涙をぬぐい、再び確認すると、頼りなげな赤い光が、一定の場所で切れているのが分かった。あそこがロープの始まりから一キロ半の場所……つまり横道だ。
やっと抜けられる。あと少しだ。
そう思った瞬間だった。
「どこへ行くか!」
煙にむせながら、男が一人立ちはだかった。
「所属はどこだ!」
一瞬足を止めたリッツの後ろから、遊撃隊員が横道へと駆け抜けていく。足を止めたリッツに気がついたのか、止まろうとしたマルヴィルに怒鳴った。
「先に行け!」
黙ったままマルヴィルは駆け去った。その姿を見ることは出来ないが、馬の足音が徐々に遠のいていくから、逃げられたのだろう。
全員の離脱を確認してから、リッツは男を見た。
「どこへ行くかと聞いている」
男は咳き込みながら再びリッツに尋ねた。この男に横道を知られたら、奇襲が敵を草原に招き入れてしまう。
斬るしかない。
向き合った瞬間は一瞬だっただろう。
男は剣を抜き、リッツに向かってきた。リッツも剣を抜いて男に立ち向かう。
今までそうしてきたように、剣を下から斬り上げ、男を狙うも、男は一撃で倒れてくれるほど甘くはなかった。
男の後ろでは未だ敵軍の混乱が続いている。だが男はそれを気に掛けながらも、全く動じていなかった。リッツには階級の見方など分からないが、彼はどうやら一般の兵士と違うようだ。
肩口、袖口に幾本かの銀色の線が入っている。この階級に近いものを見た事があった。
確かコネルの軍での階級は、このぐらいだったはずだ。ユリスラ軍と見分けが付くようにと、腕に水色の布を撒いているが、似たような軍服を今も身につけている。
確かコネルは中将だった。
もう少しで脱出できるというのに、ここに来てどうやら将官と当たってしまったようだ。それに将官と言えば貴族と聞いていたが、この男は戦う力を持っている。
男を振り払ったが、男は軽く後方に飛び退った。まったく剣がかすらない。このまま馬を下りて戦えば勝てるだろう。だがそうなれば逃げられなくなる。
どうする。どうしたらいい?
唇を噛むと、剣を構えたまま男を見据える。男も静かなまなざしでこちらを見ていた。やがて男は静かに口元を緩めた。
「……これは罠だな? 攪乱させるということは、この先に本隊がいると言うことか」
「……」
「貴様が黙っていても分かる。基本中の基本だ」
「何故……?」
「分かるか、と? 煙に巻かれてもなお、あの目印は見える。よく考えたものだ」
男は微かに笑みを浮かべて、まだ微かに炎が燃える目印を指さした。
「だがまさか火攻めとはな。森を燃やし、資源を無駄に無くす気か? お前たちの指揮官は、それほど愚かな作戦を許す無能な男か?」
煽られている。それが分かっていたが、ついついカッとなった。
「エドが無意味に森を焼くもんか」
「エド……? 偽王太子のことか?」
意外そうに男は目を細めた。一歩も引きたくなくて、その目をにらみ返す。
「エドは人も資源も大切にする。人間を使い捨てるあんたらとは違うんだよ」
「貴様……何者だ? 何故、王太子を呼び捨てる?」
しまったと思ったがもう遅い。自分が革命軍幹部だと知られたら、男に後を追われる事は確実だ。
リッツは剣を握り直した。
倒すしかない。
覚悟を決めたその時だった。煙の中から、叫び声が上がった。
「ウォルター大将閣下、どこにおられます! 大将閣下!」
「私はここだ!」
リッツは背に冷たいものが滑り降りるような感覚を味わった。この男がウォルター大将……コネルの友、ジョゼフ・ウォルターだ。
なるほど、ただ者ではなかった。
「閣下! 前方より敵襲! ダグラス中将です!」
「ダグラス中将だと!」
ギルバートだ。
一瞬男の気がそれた瞬間、リッツはきびすを返して煙の中に飛び込んだ。
二人の間に濃い煙が立ちこめる。
「貴様、待て!」
ウォルターの制止の声を無視して、リッツはがむしゃらに目印の切れ目を目指した。煙の中に、赤く揺らめく小さな炎が、微かに瞬いて見える。敵が来てしまえばもう、逃げることが出来ない。
冷や汗を掻きながら横道にたどり着いたところで、目印の紐をたたき切った。これでもう目印は見えない。あの男、ウォルターも、これでリッツたちを追えないはずだ。
「頼むぜ、ギル」
小さく呟く。気がつくと全身冷や汗に塗れている。
戦場で指揮を執るって、こんなに重いものなのか……。
リッツは荒く息をつきながら、馬を蹴り、本隊へと獣道を駆け抜けた。




