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アノニマスは六月十七日にシアーズを発ち、王国直轄領からセクアナに向かっていた。二十八日に王都を発つリチャード軍とは全く違う道を辿り、彼らはファルディナに入る予定なのである。
王国直轄地は季候もよく、小麦、野菜、牧畜がバランスよく行われている土地であり、その景色は畑や果樹が中心の景色が広がっているが、セクアナとの間に広がる広大な大河を、馬車ごと運べるぐらいの巨大な船に乗って渡ると景色は一変する。
セクアナとアンティルは、米の栽培が盛んな地であり、特にセクアナと直轄地の境目のセクアナ側は、広大な田畑が広がる場所なのだ。
特にこの季節のセクアナは美しく、水の張られた独特の田には、勢いよく緑の稲が葉を伸ばして茂っているのである。
そんな美しい光景を見ながら、アノニマスは馬上で夏の近づいた暖かな風に吹かれていた。戦うときとは違い、顔に負ったやけどの跡は、長く伸ばした前髪の中に隠している。
そしてその格好は旅の商人といったところだ。今回の作戦では、旅芸人に扮する必要はないが、シアーズから旅するのに最もらしい商業が必要だった。そのために有能なる元査察団員グレタが調査の上作り出したのが、この格好だったのである。
現在のユリスラでは、ファルディナ北部ブルガンで作られた家具が多く流通しているらしい。そのほとんどがルーイビル産だと偽られているが、グレタは一部の商人がブルガン製と知りつつ大河を利用して仕入れていることを知った。
それを利用し、グレタはブルガンへお忍びで直接買い付けに行く商人という立場を利用しているのだ。おそらくグレタの懐には、シアーズの街の商業権の証明書も入っているのだろう。
これを利用してブルガンに潜伏し、機会を見て今回の任務を遂行する。それがアノニマスたちの計画だった。
今回の任務……。
それはエドワード・バルディアと、リッツ・アルスター、ジェラルド・モーガン、ギルバート・ダグラスの殺害である。
この四人さえいなくなれば、イーディスの邪魔をする者がいなくなる。そしてスチュワートの邪魔をする者もだ。内戦はすぐに終わり、そしてこの国の暗黒時代が訪れるだろう。
現にスチュワートに王位が移ってから、シアーズの街は徐々に荒廃を始めている。今まではイーディスとジェイドによって禁じられていた貴族の商人に対する借金を取り消すことが、王命によって公に解禁された。そのせいで商人たちが貴族に襲われ、店をたたむ人々も増えつつある。
スチュワートが王位についてわずか二ヶ月で、シアーズの人口は三分の一減ったといわれる。
人の数が膨大にふくれあがりつつあったスラム街も、スチュワートの『美しくない者は余の前から消し去れ』との命を嬉々として実行した大貴族の子息たちによって、悲惨なる殺戮の現場へと変わった。
街を離れる者も増え、どこにも行くことが出来ない者は、家の中に閉じこもり、必要の無いときは家の外に出ることすら控えるようになった。
シアーズの街を楽しめる者は、今や貴族の血を引く者たちと、その権威を笠に着る一部の人々のみだった。軍に属している者とその家族にも一応の身の保証はあったが、それですらも危うい有様だ。
国王の座に座ったスチュワートにとって、支配したかったのはシアーズの街であり、そのほかの街への興味は無かった。他の街からもたらされる税や、商品には執着をしているから、その催促は臣下に命じて行わせるが、各自治領主からの要望は全て見もせずに握りつぶした。
そのスチュワートのあまりの横暴さには、イーディスも眉を寄せたが、スチュワートを溺愛する彼女は、その横暴ぶりすらもやがて頼もしくなっていったのである。
たった二ヶ月でここまで王都を荒廃させた者は、ユリスラの歴史上まれだという。もともとバルディア夫人の死から転がるように悪くなりつつあった政治がここに来て完全に崩壊したといっても過言ではないだろう。
現にこの二ヶ月で、セクアナが王家に対して妙な動きを見せ始めているという。セクアナを支配していた侯爵は、元々病弱にして気が弱く、ルーイビルとファルディナの自治領主から、無理難題を言われて唯々諾々と従っていたところがあったのだ。
だがここに来て気弱な侯爵は一念発起し、現在のファルディナを支配する革命軍と手を結びたがっているようだというのだ。そうなればまた、王国国内の勢力図が入れ替わるだろう。
アノニマスはよく晴れた空を見上げた。遙か彼方にユリスラ中央山脈が見えている。
「ユリスラがどうなろうと、俺に関係など無い……」
小さく呟く。意味も目的も持たないアノニマスには国家の動乱など何の意味もない。ただ命じられるままに人を殺し、命じられるままに死ぬだけだ。望めることなど、殺してくれる相手を選ぶことぐらいだろうか。
「アノニマース、ねえ、アノニマスっ!」
後方の馬車から呼びかけられた。二頭立ての二人乗りの馬車だ。御者台には、背を丸めて馬を操る小柄な男の姿がある。
馬上にあるアノニマスは馬の速度を緩めて馬車に並び、いつも共にいる数少ない仲間たちを見た。
馬車から顔を出して手を振っているのは、元王国軍査察部のエリート軍人だった二刀流の女剣士グレタだ。
御者を務めているのは、土の精霊使いの最高位、竜使いの称号を持つ、小男クラインである。二十代も後半だというのに、無表情で人を上目で伺う目つきのせいか老人のようにも見えてしまう男だ。
そしてグレタの後ろから顔を出しているのが、仕掛けものと交渉ごとを得意とする、ヴィンスだ。ヴィンスはクラインと同世代だが、童顔にいつも笑顔を絶やさないから、かなり若く見える。
たった四人だが、イーディスの持つ、便利な暗殺者集団だ。時にイーディスのために手勢を確保することもあるが、大半は命を落とすか処分される。ここにいる四人は、別格なのだ。
「ねぇアノニマス。こんな遠回りのコースでよかったの? 戦場に間に合うかしら?」
にこやかにグレタが目を細めて問いかけてきた。グレタは元々、イーディスの父親の愛人を務めた女だった。査察官でもあった彼女はシュヴァリエ公爵の愛人であり、余計な者を消す貴族専門の暗殺者だったのである。
「グレタはリチャードの軍に入りたいのか?」
前を見ながら冷笑しつつ言うと、グレタは笑う。
「意地悪ね。私は無能は指揮官の下で無駄死にって嫌いよ」
「奇遇だな。俺も嫌いだ」
「ふふ。こんな事を話しているのを聞かれたら、不敬罪で殺されるわよ、アノニマス?」
「俺を殺せるものなら、やってみるがいいさ」
「自信家ねぇ。ねぇそう思わないクライン?」
言葉を掛けられた御者クラインは無言で俯く。クラインは言葉を上手く発することが出来ずに、片言だけを話す。それゆえ人と話すことを極端に嫌うのだ。
だが精霊を操る技は一流で、精霊が街を壊すことを何よりも楽しんでいる。元々孤児だった彼の恨みは深く、それはおそらく彼を闇へと追い払った者への復讐なのだろう。
「グレタ。あまりクラインをいじめないでよ。クラインはグレタが苦手なんだ」
一見さわやかな笑みを浮かべてヴィンスが口を挟んだ。童顔のヴィンスはいつも明るくさわやかな笑みを浮かべていて、一見すると年齢不詳の青年だ。だがその瞳の奥には残忍な心が静かに沈んでいる。
ティルスの街が火に包まれる仕掛けを作り出したのも、このヴィンスだった。すれ違いざまに人を斬り殺し、握手をしながら敵に毒針を刺し、平然と歩き去るような暗殺を得意とする男である。
この男は何の違和感もなく、暗殺対象者の隣にこっそり紛れ込むのだ。この男が殺してきた社交界に関わる人々の数をアノニマスは知らない。アノニマスとは違い、ヴィンスはイーディスの社交界の手駒だったのだ。彼にカードゲームのカードで、笑顔の裏にある毒針で殺された者は多い。
「アノニマスからもいってよ」
笑顔で告げてきたヴィンスは何故かこの無口で小柄で表情を変えないクラインを、とても大切にしているのだ。
「私だってクラインは可愛いわ。いじめるわけ無いでしょ。ただちょっと声が聞きたいだけじゃない」
つんと鼻を尖らせて、グレタはむくれたような顔を作った。
「姐さん、子供。クラインの分は僕がしゃべるっていつもいってるのに」
クスクスとヴィンスが笑う。
「あのさアノニマス。イーディスは最近どうしたの?めっきり老けてない?」
自分の雇い主をあっさりとそう評してヴィンスが笑う。
「あれじゃあ社交界に出ても、引かれちゃうよ。暗殺者の僕よりも暗いんじゃない?」
「お前が暗殺者なのに明るすぎるんだ」
「あ、そっか」
からからと何の罪悪感もなくヴィンスは笑い出した。彼も人を殺しすぎていて、罪悪感という感情がこの世にあることを忘れてしまっている。
「ねえアノニマス、この道って、どうやってファルディナに着くの?」
心底不思議そうにヴィンスが地図を見ている。
「このままだとセクアナ通り過ぎちゃうよ?」
「いいんだ。セクアナとルーイビルの境界の街道をずっと通ってサラディオに抜ける」
「サラディオ経由!? 遠すぎない?」
目を丸くしたヴィンスに、グレタが吹き出す。
「遠すぎるわよね。でも私たちは商人に扮してるのよ? サラディオは商業の街、通るのは当たり前じゃない?」
「でもさ商人のふりしてるだけでしょ? 本当によることないじゃないか」
「いいのよ。だってアノニマス、戦場に間に合おうと思ってないもの」
あっさりとグレタに明かされて唇を緩める。隠していたつもりはなかったからそれを話したグレタに何も言わずに馬を歩かせる。
「ええ? だってイーディスの命令は、リチャードと一緒にいってこっそり暗殺じゃないの? ねえアノニマス?」
確かに命じられたのはそれだった。だがそれでは面白くも何ともない。心底不思議そうな顔をしたヴィンスを笑みを浮かべながら見つめ返す。
「目的を果たせるのならば、俺たちが楽しめる方法が一番いい。そう思わないか?」
かすかに笑みを浮かべると、ヴィンスは楽しそうに頷いた。
「確かにね。僕たちが殺したのにリチャードのとこの知らない兵士に手柄を持ってかれるのやだし」
そう、イーディスの命に従うならば、そうなる可能性が高い。いやおそらくリチャードの手柄とされるのだろう。
「でもアノニマス、これって諸刃の剣よね? もしもリチャードが負けちゃって、私たちも失敗したら、私たちどうなっちゃうんだろ?」
純然たる疑問の顔をして、グレタが首をかしげる。
「さあな。では今から王都に戻り、全員分のユリスラ王国軍の軍服を揃えて、リチャードの下に駆けつけてもいいが?」
小さく嘲笑しながら言うと、ヴィンスがむくれた。
「やだよ。だって僕は社交界専門だよ? 軍なんて男臭くて華やかさが無いところにどうして紛れ込まないといけないのさ。それにさ」
ヴィンスが御者席に身を乗り出して、クラインの頭を撫でた。
「大人数の所に放り込まれたら、クラインがいじめられちゃうじゃないか」
「あらあら。結局私たちって、こうしてイーディスの命令を破って行動するしかないようね」
グレタが呆れたようにわざとらしく、ヴィンスとクラインを見た。
「グレタは元々軍人だから平気でしょ? 野蛮だなぁ~」
深々とため息をつくヴィンスの手は、沢山の死者の血に塗れているが、彼はそれを気にはしていないようだ。
「それで、どういう作戦なのさ、アノニマス?」
興味津々に瞳を輝かせてヴィンスが笑う。上品な茶金の髪にきらきらと青い瞳は、社交界で目立つようで目立たない。
「我々はセクアナからサラディオまで抜け、トゥシルからシアーズ街道を南下し、ブルガンに入る……」
地図を美しい白い指で辿りながら、ヴィンスの顔が輝いていく。ヴィンスもまた敵を求めている。自分よりも強く、殺しがいのある美しい敵を。
「ダグラス隊が……いるよねぇ……」
目の奥のどす黒い炎がちろちろと燃え上がるのが見えるようだ。彼には狙う相手がいる。同業者であり、かつてシアーズの社交界を騒がせた菫の乙女の名を持つ美しき暗殺者だ。
「いよいよ菫の乙女に会えるんだね」
興奮のあまり美しい顔を軽くゆがめ、舌なめずりをしたヴィンスに、グレタが笑う。
「命令にそんな人いなかったんじゃない?」
「ギルバート・ダグラスがいるじゃない。ついでさついで。っていっても、僕にとってはメインだけど。クラインは風使いが欲しいんだって。ティルスで邪魔されたからね」
玩具をねだる子供のようにヴィンスが楽しげにねだると、グレタが笑った。
「そっちもイーディスの命令にいなかったわよ? じゃあクラインはジェラルド・モーガンを狙っているのね?」
黙ったままクラインが頷く。竜使いに襲われるとは、ジェラルドモーガンも不運だ。
「ねぇねえ、社交界でも手が出なかった、ギルバート・ダグラスの琥珀の目、僕が貰ってもいいかな?僕、強い人好きなんだよね」
嬉々として言い出したヴィンスに、笑顔で答えたのはグレタだった。
「じゃあ私は黒髪の子をも~らう。アノニマスは金髪の子ね」
好き勝手なことを言い始めた仲間に、アノニマスは黙って笑う。実際の戦いではどうなるかなど分からない。だがこうして軽口をたたき合っているのは、いつものことだ。
いざその状況になれば、イーディスがターゲットとする全員を殺せばいい。
もしくは……殺されればいい……。この意味もない人生を終わらせるために。
「素敵だねぇ。戦闘に勝って油断して引き返した革命軍の中央を狙い撃ちなんて。楽しみだなぁ。その後の革命軍がばらばらと蜘蛛の子を散らすように、崩れて行くのを想像するとたまらないよ。グレインもオフェリルも崩壊すると思うと身震いする」
ヴィンスのその言葉に苦笑する。
「お前はリチャードが負けると思っているのか?」
「うん。勝って敵がいなくなっちゃったらつまらないでしょ?」
シアーズをリチャードが出るのは六月二十八日だ。ならば彼らがファルディナの地に入るのは、七月になるだろう。
戦いは七月二日か三日。それまでにアノニマたちはファルディナに侵入し、ゆっくりと彼らの本拠地に入り込めばいい。
アノニマスは黙ったまま、口元を綻ばせた。
第4巻「莫逆の誓い」をお読みいただきありがとうございました。いかがでしたでしょうか? お楽しみ頂けたでしょうか?
いつもながらうっすら暗い話に付いてきていただき、本当にありがとうございます。
次回更新から燎原の覇者シリーズ第五巻「邂逅の光明」をお送りします。今後の重要人物が幾人か登場します。それに久々の大規模戦闘も?
お楽しみに~(*・ω・)ノ




