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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
莫逆の誓い
71/179

<10>

「うぉぉぉぉぉ~ひっさしぶりのグレインだ~っ!」

 思わず雄叫びを上げると、隣にいた珍しく騎士団の制服姿のエドワードが、ため息混じりに眉間を揉んだ。 

「だから英雄を演じるんじゃなかったのか?」

「いいじゃんか。騎士団しかいねえもん! それにエドだって王太子じゃなくて騎士団に変装してるじゃん」

「……元々これが俺の正装なんだがな……」

 呆れ果てたという顔でため息をついたエドワードに、エリクソンやオドネルが笑った。グレインに帰還する際、怪我がまだ治らないという名目で王太子エドワードの肩書きだけをファルディナに置き去りにして、エドワードはこうして騎士団に混じっているのだ。

「でもびっくりだよなあ。この格好して帽子かぶってるだけでエドだってみんな分からないんだもん」

 じろじろとエドワードを眺めていると、近くにいたジェラルドが吹き出した。

「当然だ。普通は生きるか死ぬかの怪我を負った王太子が、変装して出かけたりはしないからな。エドは人々の常識を隠れ蓑にしたんだ」

「おっさん、どういうこと?」

「王太子の怪我の回復を祈っている人間の隣を、エドによく似た騎士団員が通ったとしても、まさか怪我をした本人が隣を歩いているとは思わないだろう? せいぜい、あの人は王太子殿下に似ているなと思うぐらいだ」

「なるほど……」

 変装だけじゃなくて、いろいろなものが目くらましになるものだ。

 頷きながら懐かしいグレインの空気を、胸一杯に吸い込む。ファルディナからはオフェリルを通らず、シアーズ街道を北上してサラディオをかすめ、そのままグレインに来たから、最短距離で帰ってこれた。

 やはり大きな街道を馬で駆け抜ければ短い時間で移動できる。街道を拠点にして街を作るのには、こういう意味もあるのだ。

 現に今回は騎馬の人々のみの移動となったので、ファルディナからグレインまで、三日もかかっていない。

 振り返ると遊撃隊からも半数の元グレイン騎士団第三隊の面々の顔が見える。

「マルヴィルたちは、ティルスに行くの?」

「ああ。家族の顔を見てくるよ」

「そっか。サリーたちによろしく」

「ああ」 

 刺されたエドワードの回復を待ってから開かれた会議で革命軍の本営をファルディナに移すことが決まり、グレイン騎士団とジェラルド、パトリシアを含むグレイン出身者の半数が、しばし故郷を離れる準備として、ここグレインに戻っていた。

 オフェリル出身者の半分も今頃里帰りをしていることだろう。そうして順繰りに、戦いに備えた最後の里帰りをしているのだ。

 元王国軍の兵士たちは、故郷が皆ばらばらで里帰りは出来ないそうだが、休暇を順番に貰い、ファルディナやその周辺の街でそれなりに楽しんでいるそうだ。

 現在ファルディナでは、ギルバートとコネルによる革命軍の義勇兵の募集と訓練が進んでいる。ファルディナの街は、便宜上現在ギルバートが自治領主代理を務めているのだ。

 そしてファルディナの街にほど近い、少々開けた草原に本営が作られることになった。ファルディナはユリスラ王国のほぼ中央にあり、交通の要所として発展してきた。交易面だけを考えれば確かにそれは王国一有利な地だといえるが、考えようによっては危険きわまりない土地である。

 この街の中央を通る街道を使えば、南部からはシアーズからのユリスラ軍本隊が、南東部からはランディア軍が、そして西からはセクアナ軍がそれぞれに攻め込める土地なのである。

 北部同盟はグレイン・オフェリル・サラディオ・アイゼンヴァレーの四都市で、これら全ては北部と北東部になる。ファルディナとの交通の便もよく、補給には困らない状況だ。

 だが南部と西部は未だ何の交渉も行われていない自治領区なのである。

 王国千五百年の歩みの中で、敵に攻められたことがないのは大陸中央だけだったそうで、この地域に砦となる建物はない。特にセクアナとファルディナの間には、大きな川が流れているだけだ。

 橋を落としてしまえば、セクアナから攻め入ることが不可能となるが、国民の移動が多い橋を落とすなど、そう簡単にできることではない。

 だから木材管理をしているシグレットの協力を得て、木材による仮の本営を中心地近くに建設するのである。こうすることで西部と南東部からの敵に備えることができ、南部シアーズからの本隊と戦うときにも、有利な戦場を確保できるのだ。

 ファルディナは元々森に囲まれた街であり、シアーズ街道も、ほぼ森に囲まれた街道である。そのため、軍を広く展開できる場所は非常に限られており、そこを有効に使おうと敵も考えてくるだろう。

 その先手を打つ事が、寄せ集めの義勇軍である革命軍の最大の戦術になるのだ。

 人数、訓練の少なさは、場を支配することで乗り切るしかない。元々農民であったり、林業を営んでいたものは、この森を知っていて、奇襲攻撃に最も適しているそうだ。

 現にこれからの戦いではどうしても足場が悪い場合が多く、騎兵部隊であるグレイン騎士団よりも、歩兵の方が有利になるだろう。

 工事には沢山のファルディナの人々が参加していた。領主と言動を取り締まるものがいなくなった現在、人々は嬉々として自分たちの自由を楽しんでいる。

 当然シアーズへの諜報活動も続いているらしく、ギルバートとジェラルドの元にそれぞれシアーズからの情報が入る。お互いに別の情報源からの情報らしいが、その情報を共有するとこで、シアーズの本当の姿が見えてくるのだという。

 現在の所、王都では大々的な親王リチャードの軍が組織されつつあるが、出兵する様子はないらしかった。新王即位の連日の宴で、補給物資が整わず、軍の組織がままならないようだ。

 過去最も優秀だと言われた宰相、グラント・サウスフォードを欠いていることもその原因の一つだろうという。軍の補給、後方勤務部隊も、すでに貴族に名誉職として乗っ取られてから長い。

 エドワードによると『戦争はそんなに長く続かないだろう。問題は王宮に入ってからだ』ということらしい。だが難しいことはリッツには分からない。

 全てを知ろうと思っても無駄だとは、これもまたエドワードの言である。リッツが知るべきは戦いのこと、そして自分が携わっている任務のことなのだそうだ。

 グレインの街に入った瞬間に、また帽子を深々とかぶったエドワードに、わくわくしながら話しかける。

「なぁなぁエド、グレインでどこ行く? アリシアのお店って、今どうかな? あ、最近休み無かったから金貯まってるんだよ! アリシアが前に紹介してくれた、あの高級娼館に……」

「……高級娼館に……顔が知られている二人で行って何をしようってわけ?」

 背中から冷たい視線と言葉を感じて振り返ると、そこには冷ややかな微笑みを浮かべるパトリシアの姿があった。

「げっ……パティ……」

「グレインでは顔が売れすぎてるでしょうが! 少しは館で大人しくしてたらどうなのよ。ちゃんと仕立屋も呼んだんだから、二人とも素直に服を作らせなさい」

 そうなのだ。せっかくのグレインだというのに、まず服を仕立てなければならないらしい。前にパトリシアが用意してくれたあの一張羅は、エドワードの流した血を吸って、あちこちが茶色の染みだらけだし、エドワードの服はもう使い物にならないらしかった。

 今後人前に立つことが出てくるのだから、きちんとした服を最低でも三着は仕立てるというのが、パトリシアの決めたグレインの予定である。

 でもそんなことは面白くも何ともない。久しぶりに息抜きがしたいのだ。

「え~。久しぶりの街なのに、遊んじゃ駄目って何だよ。屋敷じゃ女の子いないじゃん!」

 頬を膨らませて文句を言うと、あからさまに気を悪くしたらしく、パトリシアが眉をつり上げる。

「メイドは女だし、私もアリシアも女よ!」

「でもメイドに手を出したら、絶対アルバートに怒られるじゃん」

「な……」

 思い切り絶句したパトリシアを横目で見ながら言葉を続ける。

「アリシアはおっさんの奥さんだし、パティはやらせてくれないじゃん。俺の欲求不満をどうしろってんだよ?」

 横目で見ながら鼻で笑うと、パトリシアは真っ赤になった。

「ばっ……ばっかじゃないの!! 私を襲ったりしたらただじゃ置かないわよ! その耳揃えて精霊族だって分からないように切り落としてやるからね!」

「出来るもんならやってみろ~だ」

「あんたこそ、やれるもんならやってみなさいよ!」

「へぇ……いいんだ?」

 にんまりと笑うと、パトリシアが怯んだ。なんだかんだ行っても彼女はお嬢様だ。そんなパトリシアに、思い切り舌を出す。

「へへ~ん、やなこった。俺はもっと凹凸がある姐さんが好きだもんね」

「私のどこが平面よ! 無駄にひょろ長いくせに失礼極まりないわ!」

「だって本当だろ? そんなの制服の上からでも分かるさ」

「……こ、この……この体を見てもそう言えるなら言ってみなさいよ!」

「おう、見てやるぞ、脱げ脱げ」

 言い合っていると、頭を軽く抱えたエドワードが割って入った。

「リッツ、パティ」

 その声が思い切り爆発寸前の怒りを抑えたものだったから、リッツは慌てて口をつぐむ。パトリシアも同様に黙った。

「目立たないようにといったのはどこの誰だ。俺たちは今、十分に目立ってるぞ」

 ハッとして周りを見ると、人々の目が興味深そうにこちらを見ていた。今耳は耳篭に隠しているから目立たないが、言動とやりとりだけで十分目立っていたらしい。

「あ、ごめん」

「ごめんなさい」

 パトリシアとほぼ同時に謝ると、パトリシアがキッと睨んできた。

「だいたいあなたが、あんないやらしいことを言うから!」

「だってパティが遊びに行っちゃ駄目って言うから!」

 小声でやり合うと、エドワードが深々とため息をついた。

「二人ともお互いを意識しても全然構わないが、スキンシップが騒がしすぎる」

「ち、ちがうっ!」

「誰がリッツなんかを!」

 同時に否定して、同時に顔をそらす。エドワードが刺されてパトリシアに殴られたあの時から、妙にパトリシアの顔が見づらいのは事実だ。それに普通に話すと何だか恥ずかしくて、どうしてもからかい口調になってしまう。

「とにかく、喧嘩は屋敷に着いてからしろ。俺は目立たないように騎士団に紛れてるからな」

 冷たく言い放たれて焦る。

「あ、あれ、エド?」

「反省するまで、お前たちとは口をきかん」

 エドワードはそう宣言して後方に下がってしまった。確かに騎士団員に紛れ込んで黙ってしまえば、目立たない。

 再び二人になってしまい、パトリシアを伺うと、パトリシアは真っ直ぐに前を向いたままだった。

 好きだという感情に気がつくと、どうも意識せずにはいられない。何しろパトリシアにはリッツの感情自体がばれている。

 それに冗談に紛らわせてふざけていないと、パトリシアをますます好きになってしまいそうだ。絶対に好きになってくれる見込みはないと分かっているのに。

 なにしろ彼女が愛しているのは、リッツの親友エドワードであり、自分ではない。あの時、リッツに取りすがって幾度も幾度も絞り出すようにエドワードの名を呼んでいたパトリシアの声は脳裏に焼き付いている。

 パトリシアにとっても一番大事な人はエドワードで、そこに自分が入る余地なんて無いんだなと、実感してしまったのだ。

 そのことでエドワードを羨んだり、悔しがる気は全くない。リッツにとってもエドワードが一番大切な存在であるからだ。

 エドワードならばパトリシアが好きになって当然だし、エドワードと比べればこの情けない自分はこの辺に落ちている石ころのようなものだ。それにどうしてもリッツは今のところ、エドワードへの友情が何にも勝る。

 だいたいにおいて、彼女にとってリッツはやっかいな喧嘩友達だろう。

 それに彼女は人間で自分は精霊族だ。パトリシアはリッツを置いて死んでいく側の人間なのだ。

「……エディに怒られちゃたじゃない」

 ぼそっとパトリシアに文句を言われた。

「悪かったね、パティの想い人に怒られるようなことして」

 ボソッと小声で口にすると、パトリシアが真っ赤になった。

「な、何よ! 何言ってるの!」

「だってパティが好きなのってエドだろ? エドと付き合いたいんだろ?」

 あっさりというと、パトリシアは熟れすぎたトマトみたいに赤くなる。

「別に……そんなんじゃ……」

「だってすごく大好きみたいじゃん? それって普通付き合いたいとか、やりたいとか、そういう風なことじゃないの?」

 今まで女性と言えば体だけの関係しか築いていないリッツは、当然ながら個人的に女性と付き合ったことなど無い。だから本当に分からなくて、正直に本気で尋ねる。

「……そんなこと……」

「女が男を好きって、そういう意味じゃないの?」

「ち、違うわよ。私、エディのことなんて……」

「俺がエドを好きってのとは違うだろ? パティがエドを好きっていうのの好きって?」

「そ、それは……」

 言葉に詰まって視線をさまよわせるパティの顔は、湯気が出そうなぐらいに赤く、視線はぐるぐる回っている。パトリシアの本気が分かって、かすかに心のどこかが痛む。でもその反面、ちょっと面白くなってしまった。

「そんなに真っ赤な顔じゃ、エドがそういう意味で大好きだってばればれじゃん?」

 からかうと、キッと睨まれて次の瞬間には頭に白銀の杖の一撃を食らっていた。目から火が出るほどの痛みを額に受けて、馬に突っ伏して悶絶する。

「い、いって~っ! すげぇいてえって!」

「勝手な推測ばっかりしてるから天罰よ!」

 怒鳴り声に顔を上げ、一瞬垣間見えたパトリシアの目尻に涙が光っている。

「え……あれ、パティ?」

「馬鹿リッツ! もう知らない!」

「え? 何で?」

 パトリシアは乗っている馬の腹を軽く蹴ると、一人駆け出し、先頭にいるジェラルドに並んでしまった。どうやらすごく怒らせたみたいだ。

 それなのに何で涙?

 怒りすぎて涙が出たのだろうか? 

「……女心って分からねえなぁ」

 呟きにかすかに笑ったのは、近くにいたらしいマルヴィルだった。マルヴィルはあの時の宣言通り、気がつくとリッツの近くにいる。

「俺、何か変なこと言ったかな?」

 首をかしげながら聞くと、マルヴィルは悟りきったような大人の笑みを浮かべた。

「人生は勉強さ、リッツ。女心をちゃんと分かっていないと、将来苦労するぞ?」

 諭すような言葉だったが、リッツは俯く。

「べっつに苦労しねえもん。俺は一生独り者でいいの。娼館の姐さんたちも遊んでくれるし」

「そういうな。もし運命を感じるような出逢いがあった時、あまりに女心を知らないと後悔するぞ?」

「しねえも~ん」

 恋愛なんてしたくない。愛してしまって先に死なれたら嫌だ。どうせ一人になってしまうならば、一晩の駆け引きで体のぬくもりを求めた方が楽だ。

 それにリッツには将来はない。あと六十年もして、エドワードが死んだら自分も死ぬのだから、このまま流れて生きていく方がいっそ潔いい。

 前方を見ると、パトリシアの後頭部が見えた。初めて会った時には少年のように短かった亜麻色の髪も、少しずつ長くなってきている。馬に乗って野山を駆け巡ることを趣味としているから、男のように日に焼けていてそれが健康的だ。

 ふと抱きしめたときの華奢な体つきを思い出す。本当に女の子で、なんて頼りないんだろうと思った。でも心は誰よりも強い。それが眩しかった。

 パトリシアはリッツの気持ちを知っている。知っている上でこういう態度を取っているのだ。それをどう理解して良いのかなんて分からない。分からないからふざけて怒らせて殴られて。それでも遠慮されるのではなく、喧嘩友達としてそばにいられる方がいい。

 リッツの手に届かないものは、本当に多い。子供の頃から嫌と言うほど理解してきたつもりだった。手を伸ばそうとしても、それに触れることが怖くて手を引っ込めるしか無くなってしまう。もしかしたら世界全てに嫌われているのかもしれない。

 そういえば今までの人生で求め、手を伸ばして掴んだのは、エドワードの手だけだったかもしれない。エドワードの手は、生きるという象徴になった。

 エドワードは後方に、パトリシアは前方に行ってしまったから、リッツは黙ったままグレインの街を眺めながら行くことにした。

 馬上が苦痛だという人もいるが、子供の頃から暇をもてあまして巨大な大鹿を捕まえては乗りこなしていたから、全く苦痛はない。

 グレイン騎士団はグレインで厚い信用を得ているから、人々の視線は暖かい。リッツはこのグレインに来たからこそ、人々と共に歩くことの楽しさを知ったと言っていいだろう。

 そもそもグレイン以外に置き去りにされていたら生きてはいなかった。グレインに置き去りにしてくれた商人たちには、もしかしたら感謝すべきなのかもしれない。

 でもグレインに来るのはこれで最後かもしれない。これから転戦していき、シアーズにまで攻め上り、エドワードが王になれば、王都であるシアーズがエドワードの住む場所となり、必然的にリッツも住む場所になる。

 前に潜入していた時と違って、仲間がいるから孤独に支配されることはないと思うが、それでもグレインに戻らないと知れば少し寂しい。

 グレインの屋敷に泊まるたびにエドワードと色々遊び歩いたことを思い出す。飲み屋を渡り歩き、安酒場から高級な店まで食べ歩いた。直感で旨い店を探し出して自慢するのはリッツだった。

 酔っ払いの喧嘩に巻き込まれては率先して相手を伸したのは、実はエドワードだったし、リッツも幾度もその片棒を担いだものだ。もしエドワードが重い運命を背負っていなければきっと、冷静にして喧嘩の強い、騒ぎ好きの名物騎士団員にでもなっただろう。

 街のあちこちに残る思い出を辿るうちに、気がつくとモーガン邸に着いていた。使い慣れた厩舎に馬を繋ぐと、ジェラルドから休暇日数と集合日時を聞いた騎士団員は、各自自分の家族の元へと帰って行った。

 モーガン邸はとたんに静かになる。結局モーガン邸に残ったのは、ジェラルド、パトリシア、エドワード、シャスタ、そしてリッツだけだった。

 当然ながらモーガン邸には沢山の召使いや料理人、護衛、給仕、女給などがいて、寂しいことはない。それにここには、シャスタの父アルバートと、ジェラルドの妻となり、パトリシアの義母となったアリシアもいる。

 モーガン邸に入ってすぐに出迎えてくれたのは、アリシアだった。ローズとして店で歌っていた時とは違って、緩やかで慎ましいドレスに身を包んで長くて緩く巻かれていた髪は、一つに束ねられて前に垂らしていた。

「お帰りなさい、あなた」

 柔らかな微笑みでジェラルドに両手をさしのべたアリシアを、見た事がないような穏やかな表情をしたジェラルドが抱きしめた。それからごく自然に両頬に唇を寄せた。

「今帰った。家を任せて済まなかったね」

「いいえ。全てアルバートがしてくれるんですもの、私は何もせずにいたわ」

 笑みを浮かべたアリシアが見たのは、黙ったまま控えているアルバートの姿だった。顔を上げたアルバートは静かな微笑みを浮かべてジェラルドに頭を下げる。

「お帰りなさいませ、ジェラルド様」

「ああ。ご苦労だった。何も変わりはなかったかね?」

「はい。全て今まで通りに」

 有能にして忠実な執事は、そう言うと静かに頭を下げた。

「ですが二、三、ご覧になっていただきたい書類がございます」

「やれやれ。どこまで行っても仕事は追ってくるものだな」

 言葉とため息の割には楽しげに、ジェラルドは自分の執務室へと向かう。一歩後をついて行くアルバートがかすかに振り返って、こちらに並ぶセロシア家の三兄弟に向かって穏やかに微笑んだ。

 言葉には出さずとも、帰りを喜んでくれているのを感じる。その笑顔にシャスタが小走りでアルバートに駆け寄った。

「ジェラルド様、お父さん、僕がお茶を入れますね。お疲れでしょうから」

「そうか? すまんなシャス。帰ってきたばかりで」

 アルバートが嬉しそうにシャスタの頭に手を乗せた。シャスタも満面の笑みを浮かべ、アルバートを見上げる。ジェラルドの執事である父と共にいるために、シャスタがお茶くみを志願したことはすぐに分かった。

 三人が姿を消すと、アリシアは柔らかな笑みでパトリシアに向かって両手を差し出した。

「パティ。私の大切な娘に、お帰りなさいのキスをさせて貰ってもいいかしら?」

「ええもちろんよ、お義母様」

「お帰りなさいパティ。無事でよかったわ」

 抱きしめたパトリシアの頬にキスをしながら、アリシアは本当に安堵したように、ため息混じりに言った。

「大丈夫よ。私だって物心が付いた頃から訓練を受けてきた武人ですからね」

「ふふ。勇ましいこと。でも無茶はしないでね。女の子ですもの、お嫁さんの貰い手がいなくなるわよ?」

「もうアリシア。そればっかり。私は結婚しません」

「あら何故?」

 率直に尋ねられたパトリシアはうつむきがちに視線をさまよわせた。直視しないように横目で見ていると、目があった。そのとたんにパトリシアは真っ赤になる。

「何でもよ、なんでも!」

 照れ隠しなのか肩を怒らせながらパトリシアは足音も荒く廊下を歩き、階段を上っていく。

「……パティ?」

「シャワー浴びて昼寝するから!」

 こちらを向いて半ば怒鳴ったパトリシアは、そのまま廊下に姿を消した。かすかに扉を乱暴に閉じる音が聞こえた。

「……リッツ? パティと喧嘩でもしたの?」

 不思議そうに尋ねられて、頭を掻く。確かに喧嘩をしたと言えば喧嘩をしたような気もするし、一方的に怒られただけのような気もする。

「別に喧嘩じゃないけどさ……」

 言葉を濁すと、隣のエドワードが小さく吹き出した。

「喧嘩するほど仲がいいのさ。お互いに意識してるからぎくしゃくしてるだけだ」

「ち、違うって!」

 慌てて否定する。

「何が違う? お前がパティを意識してるんだろ?」

「ち、違う! っていうか、俺は違わないけど、パティは違うって言うか……」

 聞かれると頭に血が上る。リッツがパトリシアを意識してるのは間違いないのだが、パトリシアが意識しているのはリッツではない。パトリシアはリッツの思いを知りつつも、エドワードへの想いを抱え込んでいる。

 リッツが抱えるパトリシアへの思いというか、もどかしくて何となく意地悪をしたくなってしまうこの気持ちは、きっと世間で言うところの片思いという奴だろう。

「何を言いたいんだ、お前は?」

 呆れたように笑うエドワードに、口を尖らせる。

「お互いに意識してないの! パティは俺が好きじゃなくて、俺の片思いなんだって。だから俺だけが意識してて、そんでパティは……違うんだよ」

 パトリシアはリッツにエドワードを好きなことを知られてしまって、焦っているだけなのだ。

 でもそれをエドワードに漏らしてはいけないような気がした。エドワードに隠し事はしない約束だが、パトリシアも大切な友達だから黙っていないときっと卑怯になってしまう。

「パティに他に好きな男がいる? それは……何の冗談だ?」

 本気できょとんとしたエドワードに、リッツの方がびっくりした。いつも何でもすぐに感付くエドワードが全くそれに気が付いていないとは思わなかった。

「本当かリッツ? 俺を担いでないか?」

「ないよ! 本当だよ!」

「相手は誰だ?」

 真面目に聞かれて、必死で首を振る。

「俺が知るか!」

「そうか……どんな相手だろう……」

 ぼそりとエドワードが呟いた。それは完全に、兄として妹の好きな男がどんな奴かを心配する口調だった。

「さぁ……?」

 思い切りとぼけておくことにした。

「もしとんでもない相手ならば、そいつをただではおかないぞ」

 完全にパトリシアの保護者的な物言いで、物騒な呟きをこぼすエドワードに、心の中だけで『確かにパティの想い人は、お前からすれば、とんでもないだろうけど、俺が知る中では一番いい男だと思うぞ』と語りかける。

 リッツの片思いはすでに絶望的だが、パトリシアの片思い相手も一筋縄ではいきそうにない。どうやら今までエドワードは、パトリシアが本気でリッツを意識していると思っていたらしい。

 パティお前も、前途多難だ。心の中だけでそう考えて、こっそりとため息をついた。ちらりとパトリシアの想い人、エドワードへ目を遣ると、ちょうどアリシアが笑みを浮かべつつも、軽くエドワードを睨んだところだった。

「エド、そろそろただいまのキスをしてくれてもいいんじゃないの? こういうのは男の子からするものよ?」

「ああ、ごめんアリシア」

 軽く謝りながら、エドワードは笑顔でアリシアを抱きしめ、優しく両頬にキスをする。

「ただいまアリシア」

「お帰りなさいエド。無事で何よりよ。王太子としての初めてのお務め、ご苦労様」

「本当に苦労だらけだ」

 穏やかなアリシアにエドワードは苦笑で返す。

「早速刺されたし」

「聞いてるわ。気をつけてね。あなたもジェラルドと共にある限り、私の可愛い息子なんだから」

 柔らかく暖かな雰囲気の二人を見ていると、今までの戦場が嘘みたいに見えてくる。この幸福がずっとあればいいのにと思うのだ。

「リッツ、あなたもただいまのキスをして」

「え? 俺?」

「ええそうよ」

 当たり前に頷かれて、反射的に一歩下がってしまう。アリシアに対して、ジェラルドやパトリシア、エドワードと、自分が同列に並ぶのは何だかいけないような気がしたのだ。

「でも俺……ここの家族じゃないよ?」

「……いや?」

「いやなわけ無いじゃんか。だけど俺……」

 なんと言ったらいいか分からなくて俯くと、エドワードが肩を叩いた。

「俺も家族に入れて貰っているんだ。お前も同じだろう?」

「だけどエドは本当に家族みたいで……」

「俺にとってお前も本当に家族みたいなものだろう? 弟で唯一の友だ。俺は前にもアリシアの前でそう言ったよな?」

「……うん」

 そのことは何となく覚えていた。唯一の友と言われてエドワードに友がいないことを知り、かなり驚いた覚えがある。戸惑っていると、アリシアが優しく手招きしてくれた。

「リッツ、いらっしゃい」

 おずおずと近くに行くと、リッツよりも頭一つ分以上は小さいアリシアが穏やかな微笑みを浮かべてリッツを抱きしめてくれた。

「アリシア……」

「背が高すぎて、お帰りなさいのキスが出来ないわ。リッツ、あなたがしてちょうだい。エドの弟なら、私の息子よ」

 あまりにも優しいアリシアの言葉に、胸が詰まる。おずおずとそのなめらかな頬に口づけると、ようやくアリシアは解放してくれた。

「お帰りなさい、リッツ」

「ただいま。アリシア」

 小さく言うと、アリシアに手をぎゅっと握られた。

「ねえリッツ。あなたには妙な決まり事があるのね。あなたの人生に通り過ぎる人には、明るく楽しく接することが出来るのに、親しい人には壁を作ってしまう」

「……俺が……?」

 アリシアの指摘に驚く。そんなことに自分では気がついていなかった。

「あなたを中心にして幾重にも円形の線が引かれているみたい。ここまでの親しさなら、これが限度、ここまでの親しさならこれが限度って、全て決めてる。私が歌姫のローズであれば、あなたは遠慮無く私に接するけれど、あの人の妻であるから接し方が分からなくなったのね。親しければ親しいほど、接し方に迷ってる」

 その指摘に、エドワードが小さく頷いた。

「……確かにそうだな。お前はジェラルドよりもギルに対して、ギルよりもコネル対して遠慮がない。そして……俺に遠慮がある」

「もう無いよ! エドにはもう無い」

 慌ててそういったが、アリシアの手はまだリッツの手を握ったままだ。

「アリシア、あの……」

 握られた手の温かさにどうしたらいいのか分からずにいると、アリシアが微笑んだ。

「大切な人を失いたくないから気を遣うのは悪くない。時に親しき仲にも気遣いは必要だわ。だけどリッツ、あなたの本当に大切は人たちには遠慮をせずにちゃんとぶつかりなさいね」

 真っ直ぐに見つめられた瞳は、濃茶をしている。そういえばアリシアの特技は、目を見て相手の心を読むことだった。

「俺の心、読んだの?」

「いいえ。種明かしをするとね、あなたのその遠慮は、昔の私とよく似ていたから分かるの。孤児で幼い頃から歌だけを支えに生きた私にね」

「え……?」

「自暴自棄だった私を拾って、今の私にしてくれたのはジェラルドなのよ」

 笑顔でそういったアリシアには、そんな過去の欠片はみじんも見えなかった。

「人は変われる。あなたもそうなってほしい。それだけよ」

 笑顔のアリシアは、リッツをぎゅっと抱きしめてくれてから、静かに離れて微笑んだ。

「そうだ。リッツ、エド。あなたたちに最初に紹介するわね。いらっしゃい」

 手招きされてエドワードと二人で歩み寄ると、アリシアは両手でエドワードとリッツ、二人の手を片方ずつ取り、自分の腹の上に置いた。布を通して伝わる肌の温かい感触に身動きできずにいると、二人の手を掴んだまま、アリシアはゆっくりと自分の腹の上をさすらせる。

「アリシア?」

「あなたたちの弟か、妹よ。まだ動かないけれど、来年に入った頃に出てくるわ」

 アリシアの手が二人を解放し、愛おしげにゆっくりと自分の腹をさする。新しい命の存在が何となく不思議で、アリシアの顔を見ると、優しく微笑んでくれた。それに安心してまたおずおずと手を伸ばして、アリシアの腹を手でゆっくり撫でてみた。少し大きくて何だかちょっと堅い。

「ここに……赤ちゃんがいるの?」

「ええ」

「おっさんとアリシアの?」

「ええ。だからあなたたちの弟か妹。この子が平穏に暮らせるように、私はここで祈っているのよ」

 綺麗な笑みを浮かべたアリシアが、リッツとエドワードの頭に手を乗せて抱えるように引き寄せ、アリシアの額に二人の額を付けさせた。暖かいアリシアの体温を感じる。

「私は何も出来ないけれど、ここであなたたちの幸福も祈ってる。それを忘れないでね」

 暖かなアリシアの言葉で、リッツは何だか自分がすべきことが分かってきたような気がした。

 死んだローレンのため、エドワードの夢のためにこの国を救わねばと、いつもそれを考えていた。死ななかった自分の罪滅ぼしとして、この国を救うことをがむしゃらに考えていた。

 でも違う。きっとローレンの言っていた未来は、償いのために俯いて作る未来じゃない。リッツ自身が大切に思う人たちのために、このユリスラを平和にしたい。

 苦しむ国民のために国を救うという強い正義感やや信念は、やっぱりまだ芽生えない。顔の見えない人たちのための平和を、リッツはどうしても考えることが出来ないのだ。

 だけどきっと、存在する価値もない、死ねばいいといわれて生きてきたリッツを愛してくれるこの人たちのために、リッツの戦いはあるのだ。そして生も死も全てを受け入れてくれた友、エドワードのためにこの命は今ここにある。

 これからエドワードと共に死ぬまでの限られた時間は、この人たちのために生きたい。このリッツを愛してくれる人々の幸せのために、価値などない自分の命を使いたいと、強く願う。

「ジェラルドには?」

 問いかけているエドワードの声で我に返った。

「まだよ。食事の席で発表するつもり。そうだ。パティとあの人を驚かせちゃいましょうか? エド、リッツ、手伝ってくれる?」

 いたずらを思いついたのか、嬉しそうに笑うアリシアに、リッツはエドワードと視線を交わして笑顔で頷いた。

 その日の食卓には、街で派手に遊びたいとためていたエドワードとリッツ二人の金を豪華に使って、巨大なケーキと、巨大な豚の丸焼きを用意したのだ。

 もちろん主役はその料理ではなく、アリシアのお腹の赤ちゃんだった。

 パトリシアはリッツとやり合ってからずっと不機嫌だったのに、それを聞いて飛び上がって喜び、年の離れた妹か弟が出来ることに感激して頬を赤く染め、目を潤ませていた。

 もうじき五十歳になるジェラルドはただただ驚き、それから本当に幸せそうに微笑んで席を立ち、アリシアの頬にキスをしてから優しく抱きしめていた。

『おっさんの子じゃなくて、孫と間違われるんじゃん?』とからかってみたが、幸福なジェラルドにはそれが全く通じなかった。その代わりに『私の子だから、男でも女でもさぞかし私に似て立派な子になるだろうよ』と生まれる前から自慢されてしまう始末だ。

 そんな大きな出来事もあったが、それ以外はグレインでの日々は、基本的に穏やかだった。

 飲みに行ったり食事に行ったり、娼館に行ったり、パトリシアに殴られたりと、毎日をたわいなく過ごす。

 エドワードは街でよく『王太子殿下に似てるな!』と声をかけられては『よく言われます。殿下に似てるなんて、光栄だな~』などとしらばっくれていた。

 王太子を演じている時には、かなり整えられている髪も、洗いざらしで乱れ気味だし、王太子宣言をした時から髪を伸ばし始めたから、梳かさないと収まりが悪い金の髪はふわりと癖が付いてもつれて、いつもとは印象がまるで違うのだ。

 その上着ている服ときたら、ティルスで過ごしていた時の、農民の格好なのである。春の農作業を終えて、グレインに遊びにきた農家の次男坊という経歴を自分で作り上げているのだ。確かにこれでは王太子にはどうしても見えない。

 それにやはり王太子はファルディナにて怪我の療養中という話が隠れ蓑になっているらしい。モーガン邸での王太子宣言は少し民衆から遠かったし、地元の新聞で描かれた似顔絵も、あまり似ていなかったからか、意外にもエドワードは普通にリッツと遊んで暮らしていたのである。

 反対に耳篭を外すと身分がばれてしまうリッツの方がそちらに気を遣わねばならない始末だった。何しろ王都から出回ったリッツの似顔絵は、自分でもひっくり返るほど似ているのである。

 どうやらシアーズの王立美術院に通う学生が書いたようなのだが、きっとこの人物は将来たいした画家になるだろう、というのはエドワードの言である。

 故郷で過ごす最後の時なのは、エドワードもリッツもよく分かっていた。こうして普通に遊び回れるのも、飲み歩けるのもしばらくは無い事も分かっている。

 そしてもう、長いことこの故郷に戻れないことも理解していた。もし帰れるとしたら、この国が安定して平和になり、全ての問題が片付き、エドワードが王としてグレインに来ても問題が無くなってからか、内戦に負けて落ち延びたときだろう。

 それは何年、いや何十年後なのだろう。

 休暇が終わり、来たときのように集合した騎士団員は、思い思いの決意を持ってその場に並んでいた。彼らも戦いが終わるまで、故郷とはしばしの別れとなる。

 騎士団全員がその場に並び、ジェラルドが出発の号令をかけようとしたその時だった。

 少し大きくなった腹を隠すように柔らかなドレスを身につけているアリシアがその場に現れたのだ。

「あなた。私は平和を祈っているけれど、戦いに赴くあなたがいつも心配で、いつも切ないわ」

 アリシアの瞳に寂しげな色が満ちた。いつもは毅然と真っ直ぐに前を向いているジェラルドだが、かすかに目を細め、愛おしさを込めて愛する妻を見つめている。

 二人が視線を交わす中に、言葉にできぬ想いが溢れているのを感じた。言葉を交わすのではない、だが二人の間には確実に深くお互いを思いやる愛情が満ちていた。それがリッツの目にはまばゆく感じられる。

 まだまともに人を愛したことのないリッツは、それが羨ましく、とても憧れる。信頼の絆や、友への深い親愛の情はこの胸にある。でもジェラルドとアリシアのように、心から愛し、愛されてみたい。そんな風に思った。

 愛することが怖いくせに、人を想う事が恐ろしいくせに。でも、いつか自分を受け入れ愛してくれる人ができたら幸福だろうな、と思わずにはいられない。

 エドワードはリッツが絶対に将来伴侶を見つけると断言していた。でもリッツはその可能性は限りなくゼロに近いと思っている。自分は長く生き、人間は長く生きない。一人になり、取り残されるのは恐ろしい。友でさえも失えば、もうそこから先に生きていきたくないというのに、それが愛した人だったりしたら、全てが絶望になる。

 それでも二人が羨ましい。きっと自分は育ち故か、誰よりも愛されたい願望が強いのかもしれない。

 延々と答えのでない問いかけを自分自身の中に繰り返すリッツの耳にアリシアの言葉が、静かにしみこんできた。

「戦いに赴くのには不向きかもしれない。でも私や家で待つ騎士団の皆さんの愛する人たちの思いを忘れないでいただきたくて、あなたに……そして、戦場へ赴く皆様に私から祈りを捧げます」

 そう言うとアリシアは目を閉じ、かすかに空を見ながら美しく澄んだ歌声を紡ぎ出した。

 歌姫ローズの、あの色気と甘さの込められた歌声ではない。本当に女神への祈りにも似た美しく、少し切ないような歌声だった。


 見送る私の笑顔が涙を隠しているのを

 あなたは知っているの?

 知らずに戦いへ赴くのならば

 どうか風の声に耳を傾けて

 私の思いを気まぐれな風に託して

 いずこか知らぬ地で戦うあなたへ届けるわ

 朝のさわやかな風は、無事を願うあなたへの祈り

 昼の暖かな風は、愛するあなたを包み込む

 永遠の誓い

 夜の冷たい風は

 あなたのいない一人の時を過ごす淋しさの吐息

 あなたの守りたい幸せは私のためね

 私の幸せがあなたを死地へと送ったの?

 でも分かって

 私の幸せはあなたと共にしかないのだと

 たとえこの世界に不幸が訪れようと

 あなたの厭う不幸が満ちようと、

 あなたさえ戻れば私は最上の幸福を与えられるの

 私の幸せは、たったひとりのあなただけ

 あなた以外など何も欲しくない


 全員に歌いかけていたアリシアの目は、いつの間にかジェラルドを見ていた。ジェラルドの目もまた、アリシアを見つめている。

 そこには何にも代え難い、二人の愛情があった。

 騎士団員は静かに目を閉じ、その歌声に耳を澄ませている。

 リッツはその歌声の中に、生きてこのグレインへ帰ってきてほしいという、切ないまでのアリシアの祈りを聞いていた。

 王国歴一五三五年五月二十五日、グレイン騎士団はグレイン自治領区を離れ、再び戦場へと向かった。

 この時にアリシアが歌った歌は、やがて様々な人々に歌い継がれ、ユリスラに全土へと広がっていくことになるのだが、この時は誰もまだそれを知らない。

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