<9>
目を覚ますと、辺りは薄暗かった。ベットサイドに置かれたオイル灯の明かりも、すでに消えかけている。どうやらオイルが切れかかっているらしい。
いったい今何時なのだろう。いや、いったい何日寝ていたんだろう。
体を動かそうとしたが妙にだるくて重い。特に体の右側がびくともしない。ため息混じりにそちらへ視線を向けて、ようやく体の右側に突っ伏して眠っている人物に気がついた。
「……リッツか……」
エドワードはその姿に、頬を緩めた。ベッドサイドの椅子に座っているうちに、そのまま突っ伏して眠ったのだろう。だらりと両腕が下がったままだ。そしてその顔は、エドワードの方を向いていて、子供のように穏やかに見える。
大きく息をつくと、ふわふわと柔らかい大きな枕に再び体を沈み込ませる。ほんのかすかに体を動かしただけでだるいなんて初めての経験だ。
掛布の中で刺された場所をそっと辿ってみるが、そこには綺麗に何もなかった。エンが精霊魔法で治癒させてくれたらしい。
水の精霊魔法は便利なものだ。すべての精霊を合わせると無数の種類の精霊使いがいると聞くが、精霊王と同じ六大精霊の力の中で、水の精霊魔法が最も貴重だといわれている。それはこの治癒能力に他ならない。
普通の医術ならばこの傷を負った場合、生きるか死ぬかは五分五分だろう。だがエンがいてくれたおかげで、傷も綺麗にふさがってる。これほどありがたいことはない。体がだるいぐらいは我慢するべきだろう。
「リッツ」
声をかけてみたが、疲れ切っているのかリッツはピクリとも動かない。そっと掛布から手を出して、眠っているリッツの頭に手を伸ばした。
少し堅い黒髪を、ゆっくりと撫でる。
意識を失いかけ、もうろうとした中で、必死でエドワードを呼ぶ悲痛なリッツの声が聞こえた。泣きわめき、絶望的な叫びを上げるその声を聞いていた。
薄れゆく意識の中で、その叫びがまるでリッツの抱える心の闇が上げさせた悲鳴のように感じて、辛かった。
光と闇の合いの子として罪の子だと疎まれ、精霊族の憎悪の対象として育ったリッツ。人間の村では、育ちが早い人間たちに、異端者として疑問の目を向けられて育ったのだと聞いた。
そんな彼を拾い上げ、手を差し伸べてたった一人の友とし、その上英雄という肩書きまで背負わせてしまったのは他ならぬエドワードだ。そしてエドワードにとって、そのリッツが唯一の友であり、心を落ち着かせられる相棒となってしまっている。
エドワードは、ごくまれにリッツを戦いに引き込んでしまった罪悪感に苛まれる。リッツの心の闇を知りながら、その闇を深めてしまったのは、他ならぬ自分なのではないかと思う夜もある。
リッツはエドワードがいないと生きる意味がないという。だがエドワードはリッツがいなければ、自分の心が重圧で軋む事をよく知っている。エドワードにとって、リッツは自分自身を救う大切な存在なのだ。
だからジェラルドに問われていた『すべてを犠牲にしても生き残る覚悟』をやはり貫けなかった。リックの手にナイフが見えた瞬間、体が反射的にリッツを庇っていた。
この身をなくせば、王国の未来が潰えると分かっていたのに……それでも友の命は失えない。
最近リッツは何かを妙に思い詰めているように見える。だから余計にリッツのことが気にかかってもいたのだ。
ローレンが死んでからずっとリッツは、何らかの苦しみを胸にひた隠している。だがそれを問うても、リッツは笑って誤魔化すだけだ。それはリッツがギルバートたちと共にシアーズに行ってから更にひどくなり、今に至るもそれだけは話してくれていない。
エドワードにはリッツに秘めていることなど無い。前にリッツだけ蚊帳の外に置こうとしているとパトリシアに指摘されて以来、問われれば出来る限り答えるようにしている。
だからリッツが思い詰めるほど辛かった。何かを考えていること、思い詰めていることが分かっているから、かえってそれを言ってくれないことが苦しいのだ。
黙って小さく吐息を漏らしながら頭を撫でていると、ふとリッツの目が開いた。
「起きたか、リッツ」
笑いかけると、不思議そうにリッツは数回目を瞬いた。おそらくまだ現実と夢の境界線にいるのだろう。しばらくしてエドワードの意識が戻っていることに気がついたらしく、跳ね起きた。
「エド! 大丈夫か?」
真剣なまなざしで尋ねてきた友に、小さく笑いかけた。
「だるくて動く気力もないが、生きてる」
「生きてるって……」
リッツの目がみるみる潤んでくる。
「生きててくれないと、困るだろっ……!」
「リッツ」
「エドが死んだりしたら……」
リッツの大きな手が、掛布をぎゅっと握りしめた。その拳が小さく震えているのが分かった。
「俺、どうしたらいいんだよっ!」
子供のように涙をこぼして泣き出したリッツの頭を、優しく撫でると、余計にしゃくり上げて泣きだしてしまった。
「エドがいないと、俺、ひとりぼっちじゃんか! 一緒に生きろっていったのに、なんで先に死のうとするんだよ! お前、案外馬鹿だろ!」
掛布越しにエドワードに突っ伏して号泣する大の男を眺めていると、保護者になったような妙な気分になってきた。何だか大きな子供を撫でているような気分で、優しく頭を叩く。
「悪かった」
「本当にそう思ってるのかよ!」
「思ってるさ。だからこれからはお前を庇わない」
苦笑しながらいうと、顔を上げてかなり近くから涙と鼻水を垂らしつつ、じっと覗き込んできた。相変わらず感情的になると距離の取り方が分からないリッツがほほえましい。
「そうしてくれなきゃ、俺、立場ないじゃん! 俺がエドを守るって言ったのに!」
「そうだな。守ってくれ。せめて周りの殺気ぐらいは読めるようにな」
「……ごめん……」
ダグラス隊にそう注意されていることは、当のリッツ本人から聞いている。自分の根本に関係する悩み以外は、リッツは正直にエドワードに相談してくるからだ。
「この先、こんな事が多くなるはずだ。シュヴァリエ夫人も、スチュワート偽王も、俺とお前の抹殺を考えている」
まだ戦いは始まったばかりだ。これから状況は更に過酷になっていくだろう事ぐらい読めている。だからこそ、ここで片付けておかねばならない事もある。
「俺は前を見続ける。だから俺を守ってくれ」
「当たり前だ!」
「本当に分かっているのか? 俺を守るというのは、お前自身をも守るってことだぞ?」
力を込めて言うと、涙と鼻水でぐしゃぐしゃな顔をしたリッツが意表を突かれたような顔をした。
「俺自身も?」
「ああそうだ。自分が盾になろうとか、代わりに死ぬなんて言うのは俺を守ることにならないぞ」
「……何で?」
全く理解が出来ないのか、リッツがぽかんとした顔で見つめてくる。自分の命の重要性を、リッツは全く意識したことがないのだ。それを教えておかねば今度は目の前でリッツに死なれることになる。それはごめんだ。
「お前がお前自身を守らなかったら、俺が代わりにお前を守って怪我してやる」
断言するとリッツの顔が引きつった。
「だからそれはやめてくれよ!」
「そうされたくなかったら、お前は自分の命にも責任を持て。いいか? 言っておくが俺はあの状況になったら何度でもお前の代わりに刺される」
断言するとリッツの顔が苦しげに歪んだ。
「何で!! ていうか、何だよその脅迫!」
「お前は知らないようだから教えてやる。人よりよく聞こえるその耳でよく聞いておけ」
真摯に目を見つめると、リッツは納得がいかないという顔のままだったがこくりと頷いた。
「いいか? 俺にとってのリッツ・アルスターという男は、大切な俺の半身だ。俺一人ではこの戦いを貫くことはできないし、この重圧を抱えることもできない。俺には友としてお前が必要だ。いわば俺がお前を守るのは、自分を守るのと等しい」
「……屁理屈だ」
鼻水をすすりながら、リッツがぼそっと呟いて口を尖らせた。だが理屈を言っているつもりはない。ほぼ本心なのだ。
「屁理屈なものか。前にも言っただろう? お前は死んで俺の未来を閉ざす気かってな。まさか忘れたわけじゃないだろう?」
それはローレンが死んだ後で、リッツを殴った時に言った言葉だった。当然リッツは忘れていなかったようで、黙ったまま俯く。
「俺を守りたければ、自分自身も守れ。それで初めて俺を守るといえるんだ。自分で言うのも情けない話だが、俺たちは未だ一対で英雄なんだ。ジェラルドやギルのように、一人で全てを背負えない。俺はな、本当に正直に言うが、お前がいなくても王太子殿下を演じるのがかなり辛かった。永遠にいなくなることは許さないぞ」
そう言い切って真っ直ぐに見ると、リッツはベットに置いたままだった拳を堅く握りしめていた。ダークブラウンの瞳は、未だ不安そうに揺れている。その表情から何か苦痛を堪えているのが分かる。
やはりリッツは何かを抱え、それを言えずにいる。
「リッツ」
「……何?」
「お前はいったい、何をそんなに不安そうにしてるんだ?」
「何って……」
「自分自身を守ることが、そんなに苦痛なのか?」
問いかけると、リッツはかすかに目を伏せて唇を噛んだ。
「リッツ?」
返事を静かに促すと、黙ったままじっと自分の拳を見つめていたリッツがおずおずと口を開いた。
「分からないんだ。だって俺が俺を守ったって、仕方ないじゃんか。エドがいてこその俺だもん。エドがいなけりゃ……存在価値なんて無いじゃん」
やはり不安の原因は、やはり今回エドワードが刺されたことだけではないだろう。もっと根本的な原因がありそうだ。
「話せよ。お前、シアーズから何を抱えてきたんだ?俺たちがいなくて寂しくて、毎晩娼婦と過ごしたと聞いたが、それだけじゃないな?」
真摯に尋ねると、リッツは苦い顔でエドワードの視線から逃げるように顔をそらす。
「……なんでさ」
「お前はなリッツ。考えていることが俺に全て筒抜けなんだ。何を悩んでいるか分からなくとも、お前が不安を抱えて、そのくせ俺に気を遣って黙っていることなどお見通しだ」
目の前のリッツがぐっと詰まった。やはりエドワードに負担をかけたくないと、何かいえない不安を抱えているのだ。
「お前の悩みを聞いたぐらいで俺が負担に思うとでも言うのか? 俺はそれっぽっちの度量の男か?」
わざと反論しやすいようにいうと、案の定リッツは顔を上げて反論してきた。
「そんなこと言ってないだろ!」
顔を上げたリッツのその目をじっと見つめると、リッツは一瞬にして後悔したらしい。リッツの目を一度見つめてしまえば、意外にもリッツはエドワードから逃れられないと前々から分かっているのだ。逸らそうとしても目をそらせず、エドワードを見つめたまま身動き一つしないリッツに告げる。
「ならば全部吐け。吐かないなら、このまま昏々と眠り続けてやるぞ」
「そんなことできるわけ無いじゃんか!」
「さあ、どうだろう。意志の力でやってみてもいいぞ?」
真っ直ぐにその瞳を見据えて告げると、リッツは怯んだ。エドワードが本気でやろうとしたらどうしようとでも思っているのだろう。出来るはずなど無いのに、そういう所は単純だ。
「だけど、俺の話なんて、お前の重荷になるだけだ。そんなの、これから大変なエドが抱え込むことないじゃんか!」
「抱えるとはいってないだろう。話してみろといっているんだ」
淡々と問い詰めると、リッツはやっとの思いでエドワードから目を逸らしてかすかに俯く。
「別にそんなたいしたことじゃないさ」
「それを俺の目を見ていえるか?」
今日はうやむやに出来ないぞとの意味を込めて静かに問いかけると、リッツが両拳を膝の上で強く握り直した。
アイゼンヴァレーでの恐怖は未だエドワードの手の中にある。友の血がじわりと流れだし自分の服を濡らしていくあの感触と、うっすらと暗い、夢から覚めてしまうという言葉は忘れようとしても忘れられるものではない。
この間はリッツにうやむやに隠されたが、何かを抱え、何かに苦しんでいるのは明らかなのに、黙ったままいられるのは見ている方が辛い。気を遣って聞かずにいたが、怪我をして意識を失ったエドワードに対して激しい混乱を起こしたリッツの苦悩を放っておくことは出来ない。
「お前は俺に隠し通せているつもりだろうが、お前が目の前で暗い目をしている方がよっぽど俺の負担だ。お前はジェラルドやギルじゃない。綺麗に隠しおおせるほど大人じゃないだろう」
「……それは……」
「いいか。俺はお前が何を隠していても、お前が何かを隠しているのを見抜く。そして話さないお前の苦悩をあれこれ想像して、お前が相談できないほど俺に信頼がないのかと嘆いてやる」
「ううっ……」
「お前が思う以上に苦悩して、お前の友としての自分の価値を見失ってやる。それでもいいのか?」
この言い方がリッツに一番効くのは知っている。自分のせいでエドワードが悩むことを、リッツは決してよしとはしない。案の定リッツは、エドワードの言葉に言い返してきた。
「なんだそれ! そんな脅迫があるかよ!」
「お前に関してはある。他の奴らに対しては全く効果がないだろうな」
「ぐっ……」
「お前は俺の友だからな」
そうきっぱりと断言すると、リッツは力なく椅子に座り込み、顔を両手で覆ってため息をついた。
「……ずるいよ、エド……」
しばらくしてリッツがぼそっと呟いた。
「何がだ?」
「そんなこと言われたら、話さないといけないじゃんか」
「ああ。大いに話せ」
「でも……でも俺自身でも答えが出なくて、もやもやしてて、混乱してて……」
黒髪をめちゃくちゃにかき回しながらリッツが呻く。それを性急に聞き出すつもりはなかった。どうせここから動けないのだから、時間はあるだろう。
ゆっくりと掛布から出した両手の指を掛布の上で組むと、リッツに向かって笑いかける。
「別にゆっくりで構わないさ。お前はすぐに顔に出る奴だから、いずれはパティやシャスタにも悟られるようになるぞ。そうなる前に俺にだけはお前の苦悩をちゃんとはき出させるようにしておけ。その時がきたら、パティやシャスタに、俺がフォローしてやるから」
「でも……」
「俺は意外と度量が広いつもりだ。お前の悩みを受け止めた上で笑える」
静かに告げるとリッツは決意を固めたのか、ようやく顔を上げて真っ直ぐな視線をこちらに向けた。
「分かった。エドにはみんな話す。だけど重荷になるなら忘れてくれていいから」
「それを判断するのは俺だろう? お前は抱え込まずに俺にいえ。俺もお前には話す。そう決めている」
「うん」
リッツは再び視線を下に落とした。膝の上で握った拳を見つめたまま、瞳が不安そうに揺れている。ここは何も言わずに待つべきだろう。
しばらく待っていると、リッツが俯いたまま小声で問いかけてきた。
「あのさエド」
「何だ?」
「ずっと考えてた。シーデナに生まれて、ここに来た自分のことを」
顔を上げることなく、リッツは自分の堅く握られたままの拳を見ている。オイル灯の小さくなった炎が、軽い音を立てたのが聞こえるぐらいの沈黙の後、ようやくリッツは俯いたまま口を開いた。
「精霊族にもなれず、人間にもなれない俺は……いったい何のために生まれてきたんだろうなって」
あまりに重い問いかけに、俯いたままのリッツをじっと見つめた。リッツは俯いたまま指を軽く組んで口を閉じた。何も言わずに続く言葉を待っていると、静かにリッツが話し出す。
「俺、エドに会えて……生まれて初めて生きろっていってくれて嬉しくて、文字が読み書きできて嬉しくて、一緒に未来を拓こうって言ってくれて、俺を必要だって言ってくれて嬉しくて、それでずっと……みんなと一緒に生きていけるって、思ってたんだ。だけど新祭月の鐘が鳴る前に一人でいて気がついちゃったんだ」
顔を上げたリッツの目が、かすかに涙で潤んでいる。泣きたいのを堪えているのだとすぐに分かった。
「何に気がついたんだ?」
優しく尋ねると、更に小さくリッツが呟く。
「エドは、俺より先に死ぬんだって」
「リッツ……」
「強くなっても、エドを守れるようになったとしても、俺、時間には敵わない。これから先、お前は何年生きてくれるエド?」
問いかけに答えられなかった。自分がいつ死ぬかなんて、まだ分からない。
「人間の寿命は、長生きして百年だって俺は知ってる。だけどそれはまれで、普通はもっと短いんだろ?じゃあエドが生きている時間は、あと何年? 五十年? 六十年? 七十年?」
「俺は二十七歳だから七十年は無理だ。もったとしても六十年が限度だろうな」
率直に答えると、俯いたままのリッツの頬を一筋の涙が滑り落ちた。
「俺はあと八百年近く生きないといけないのに?」
「仕方がないさ。俺は人間なんだから」
そればかりはエドワードにもどうすることも出来ない。寿命は女神の領域だ。人の領域の問題ではない。淡々と告げると、リッツは奥歯をかみしめた。
「おっさんは? ギルは? ダグラス隊のみんなは、あとどれぐらい生きてくれる? パティは? シャスタは、あと何年生きてくれる?」
「リッツ……」
「どうしてみんな死んじゃうんだよ。どうして誰も、俺と一緒の時間を生きてはくれないんだよ」
リッツの寿命は千年あると前に聞いた。長く生きてもたった百年の寿命しか持たない人間の十倍だ。
「俺はエドと一緒に生きたいよ。一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に年取りたいよ。お互いにおっさんになったって笑いたいよ」
「リッツ……」
「それで一緒に死にたい。お前が寿命で死ぬ時に、俺も死にたい」
リッツの口からその言葉が出たのは初めてだった。今までリッツは、死んだ方がいいとか、生きる価値がないと言われ続けたきたと聞いた。ただただリッツは『一緒に生きたい』とエドワードに告げていた。決して『死にたい』と口にはしなかったのだ。だからこんな風に死を望んでいたなんて気がつかなかった。
「たった一人で、この世界に置き去りにされるのは嫌だ。俺の生きる場所はここしかない。お前の隣しかないんだ」
絞り出すような悲痛な告白に、エドワードは黙ったまま大きく息をついた。確かに解決方法はない悩みだろう。エドワードは女神でも精霊王でもない。王家の血を引いているだけの、ただの人間だ。ただの人間が寿命を長らえさせることはできない。
リッツの苦悩は分かった。
それでもエドワードはリッツのその感情を、全てあるがままに受け止めようと決意した。リッツの悩みを受け止め、その上で彼に生きることを示していくしか、先に死にゆくエドワードにできることはない。だからリッツの苦悩を自分の中に抱えた上で、リッツに言う事にした。
「お前がグレインに来てから何年になる?」
「え……? 今年の十月で三年かな?」
「そんなもんだな。ならばお前が世界を知ってからわずか三年しか経っていないということだ」
「……うん」
何を問われているのか分からないのか、リッツは絶望的な表情から、かすかに不思議そうな顔を見せる。そんなリッツを正面から見つめて、諭すように力強く言い聞かせた。
「たった三年ばかりの経験で、生きるだの死ぬだのと語るな。お前はまだ世界のすべてを知ってはいないんだ」
「だけど……」
「お前が見た世界なんて、ちっぽけだ。エネノア大陸は広い。ユリスラの、しかもほんのいくつかの街を見たぐらいで、知ったような気になるな」
強く言い聞かせると、リッツは黙ってしまった。だがここで引く気はエドワードにはない。
「俺が死ぬまで六十年も時間があるなら、お前は自分の経験から、俺と死ぬべきか生き続けるべきか決められるようになるはずだ」
リッツの前にある生きるための希望は、エドワード個人に繋がっている。だがこの世界はまだまだ広い。エドワードもユリスラしか知らないのだ。
「王国西部の隣国、リュシアナ王国連合、王国東部の隣国フォルヌ王国、サーニア連邦、タルニエン共和国、ゼウム神国。エネノア大陸にはこれだけの国がある。その全てにお前と同じように亜人種が住んでいるんだぞ? なのにお前が知っている亜人種は、精霊族だけだ。たったそれだけしか知らないんだぞ?」
もしかしたら、世界を知るとリッツと同じような境遇にあり、共に歩める時間を持った人物もいるかもしれない。
それを諭すと、リッツは俯いた。
「……ラヴィもそういってた。サーニアの特別自治区って観光地なんだって」
「観光地……?」
意外な言葉に目を見張ると、リッツも小さく頷いた。
「うん。そうなんだ」
「それはすごいな。俺は王位に就くから見られないだろうが、ユリスラが平和を取り戻したら、お前は見てこい」
「え?」
「俺の夢、覚えているだろう?」
笑みを浮かべて言うと、リッツははっとっしたように顔を上げた。
「大陸を巡る旅をすること……」
「そうだ。もう俺には叶わぬ夢だし、この国を背負うと決めたときに捨てた夢だ。でももしお前が願うなら、その夢はお前にやる」
「え?」
「俺はこれから六十年ぐらいは生きることにする。八十七だ、なんとかなるだろう」
「意味が……?」
本気で困惑するリッツを手招して、自分の近くのベットに座らせる。まだ体が言うことを聞かないが、何とか自力で体を起こした。
「エド! 無理するなって!」
焦るリッツを、黙ったまま強く抱きしめた。一瞬硬直したリッツを、力の入らない手で精一杯の力を込めて抱え込む。少し動いただけだというのに、体の節々が痛い。その痛みを堪えつつ、指先に力を込めた。
「……エド……?」
呆然としたようにエドワードの名を呼んだリッツの手は、戸惑ったように下ろされたままだ。その手の戸惑いが、リッツの生きる迷いにも思われた。だからこそ、しっかりとその命ごと抱きしめる。
「今、死にたいと願うな。俺は今、決して死なない」
力強く宣言する。リッツの体がびくりと震えた。
「ユリスラを救い、人々を平穏に導くまで、俺は死んだりしない」
小刻みに震えながら下ろしていたリッツの手がゆっくりとエドワードへと伸ばされる。
「この体は俺のものだが、それ以上にユリスラ国民のものだ。戦いは始まった。俺たちはもう後戻りできない。そうだろう?」
「……エド……」
おずおずとリッツはエドワードの体を抱きしめる。まるでその手が、リッツ自身の命を繋ぎ止めることに怯えているようでそれが辛い。だからこそ強くリッツに告げる。
「お前が俺を守ると言ったんだ。俺はこの国を守るために戦うからお前が俺を守れ。お前自身も含めてだ。俺はまだあと六十年は生きている。俺が死ぬまでお前が死ぬことは許さない」
自分の体の重さに息が上がりそうだ。だが告げておかねばならない。
「お前は生きろ。俺と共に」
力強くリッツに告げ、力を振り絞ってリッツを抱きしめると、ふと体が楽になった。リッツの遠慮がちだった手が、力強くエドワードを抱きしめたのだ。
「エドと……一緒に……」
「そうだ」
まるでしがみつくように抱きついてきたリッツから、嗚咽が漏れた。リッツは生きることに苦悩を抱えながら、心の奥底に横たわる孤独の恐怖を抱えて泣いている。
エドワードは黙ったまま、じっとリッツの苦悩を噛みしめる。
千年の孤独。
友はなんと重いものを抱えているのだろう。もしもこれが自分ならば、たった一人時間に取り残される恐怖に耐えられるだろうか。
だがエドワードは、それでも友が生きている未来を望む。それは我が儘かもしれないが、心からの願いだった。
「リッツ」
「何……?」
「これから六十年が経ち、お前が世界を全て見てきた上で、それでも希望もなく死にたいのならば、俺の後を追って死んでもいい。ちゃんと遺言に、お前も俺の墓の隣に葬るように書いてやる」
「本当に?」
「ああ。だがこれだけは誓え。俺が生きている間は、自ら望んで死ぬようなまねは決してしないと。それだけは許さないぞ」
「誓う。エドが死ぬまで死なないように努力する」
決意を持って告げたリッツに、力を抜いて再びベットに倒れ込む。柔らかな羽根枕が心地よく体重を受け止めてくれた。
「だけど、戦いで命を落とすのは不可抗力だよな?」
元の椅子をエドワードの頭側に引きずってきて座りながら、リッツはそんなことを言う。まったく後ろ向きな男だ。
「わざとじゃなければ仕方がない。俺だって不慮の事故で死ぬ可能性はある。ただ俺は寿命以外で死ぬ気がしないな」
笑いながらいうと、リッツは呆れた顔でベットに頬杖をついた。
「どこから来るんだよ、その自信」
「分からないが、何となくそんな気がするのさ。それにお前はこれから六十年後、俺が死ぬ時に殉死はしないだろうよ」
「……何で?」
「勘だ。意外と同じような境遇の女性と結ばれて、幸せに暮らしているかもしれないぞ?」
そんな未来になればいい。願わくばリッツと共に歩んでくれる人がいればいい。
エドワードのように戦いの中に連れて行く男ではなく、リッツの全てを包み込んで、優しく愛してくれるような女性がいれば最高に幸運だ。そう、リッツの全てをあるがままに受け入れ、凍り付いた心を溶かしてくれるような、そんな太陽のような女性が。
「できすぎだろそんなの。それはないと思う」
冗談を言われたと思ったのか、絶対にあり得ないという不機嫌そうな顔でリッツはむくれる。だがエドワードには妙な確信があった。きっとリッツはこのままでは終わらない。
いや、親友が孤独にエドワードに従うままの人生で終わってほしくない。これはきっとエドワードの心からの願望だ。
心からの願いは叶う。エドワードが願い続けた心を許せる友を得たいという願いが叶ったように。だから今度は、心からリッツの前にそんな人が現れることを願うことにした。
「では賭けようか? 俺が死ぬ前に、お前がお前の片羽を見つけて結婚したならば、その時点で今年産のグレインワインを貰おう。何十年後か分からないが、さぞかし高いヴィンテージワインになっているだろうよ」
「じゃあ俺が独り者で、行き場が無くって、やっぱりエドと死にたいっていったら?」
救いようの無いことを聞いてくるリッツに、冗談めかして笑う。
「そうだな。その時は俺がお前を殺してやる」
その言葉がすんなりと口を突いて出た。リッツは目を見開き、エドワードをじっと見つめて小さく尋ねた。
「……殺してくれるの?」
その言葉の中にかすかな希望があった。リッツの口から出たその言葉には、死を望む甘美な響きがあるように感じられる。リッツから見えないように、掛布の中で拳を固く握りしめる。
殺せるわけがない。ただ一人の友をこの手に掛けられるわけなどない。でもエドワードはリッツに向かって柔らかく微笑んで見せた。
「ああ。実力ある剣士のお前に、自分の首を突かせるのは心苦しいだろ。俺が拾い上げたお前の命だし、俺が責任を持って殺していかないとな。俺にその余力があるうちに、生きるか死ぬか決めてくれ」
いつものようにからかいの笑みを浮かべて、リッツに告げる。
だがリッツに感付かれないように、力の入らない両拳を掛布の中で更に強く握りしめた。エドワードに殺されることが希望であるならば、エドワードがその命を奪うのだと思っていればいい。そう思っていればきっと、リッツは死ねない。エドワードに殺されるまで死ねないだろう。
エドワードが殺してくれると信じているから、決して自分から命を粗末にしたりなどできないはずだ。
生きて欲しい。
エドワードが死んだ後もずっと、共に生きる人を見つけて、幸せに生きて欲しい。そのためならどんな嘘だってつく。
こんな風にリッツを縛るのは酷だろうか。だがこうすることでリッツは簡単には死ねなくなった。おそらくリッツ自身は、エドワードに着けられた死ねない足枷に気がついていないだろう。
エドワードに殺されるまで死なないということは、エドワードが殺すまでは、何があっても生きるということなのだから。
案の定リッツはエドワード苦しみなど分からずに、頬を軽く膨らませる。
「……俺は結局、家畜扱いか?」
「犬だったか?」
「ひでぇなぁ、エド……」
いつものようにむくれてぼやくリッツから、今までの苦しげだった様子が薄れているのを感じた。
ずっと一人孤独の中で生きなければならないと思い込んでいるから、死にたくなってしまったリッツに、逆に死んでもいいといったから、何となく腑に落ちたのだろう。
リッツにはそういう所がある。褒められることが苦手で、でもけなされたり、貶められたりすると、その時は怒るくせに、後々で妙に納得してしまうのだ。自分はその程度の生き物なのだと。
力の入っていた拳を軽く緩めると、肩の力を抜いた。大丈夫だ。エドワードの嘘は見抜かれていない。
「悪いな、少し寝てもいいか?」
静かにそう告げて目を閉じた。やはり体が重くて、だるい。もう少し眠りたい気分だった。
「いいに決まってる。エドは怪我人なんだから」
「それはそうだな。それでリッツ」
「ん?」
「少しは落ち着いたか?」
尋ねるとリッツの静かな声が聞こえた。
「少し」
「また苦しくなったら、苦悩する前に俺に全部吐け。俺はお前ぐらい全て受け止めるさ。何しろ国民の思いを全て受け止めようと言うぐらい、度量が広いからな」
「変な自慢だな」
呆れたような友の声を聞きながら、大きく息を吐く。ずいぶんと眠くなってきた。体を動かしただけでずいぶんと体力を消耗してしまったようだ。
「エド。本当に約束だ。本当にそうなったら、俺を殺してくれよ。一緒に死なせてくれよな?」
心の底から願う言葉に、エドワードは穏やかに微笑んだ。
「ああ。だがこちらも約束だ。それまで決して死ぬな。お前の命は俺が持っている」
「分かってる。絶対に死なない」
神妙なリッツの声を聞きながら、エドワードは再び眠りに落ちていった。




