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元は自治領主の館であった広大な屋敷で、王都防衛部ファルディナ駐留部隊主催のファルディナ解放パーティが開かれたのは、五月十五日のことだった。
この場に集まっているのは革命軍の幹部たちと、ダグラス隊、そして各隊の隊長クラスの半数ぐらいで、以外に少ない。
アーケルでしばし護衛をしていたマディラの部隊の半数も戻ってきている。その代わりに街道南部に偵察部隊を数組派遣し、街道を監視している。その一つをチノが受け持っているのだという。
連日連夜、貴族たちの宴が開かれていたというスティーヴンスの屋敷は、ファルディナ中心部から少し離れた高級住宅街の中心にあった。この間ギルバートと共に泊まったあのホテルとは思ったよりも近くて、ギルバートの度胸には感心してしまう。
今までグレインのモーガン邸とオフェリルのクロヴィス邸、そしてアデルフィーのカークランド邸しか見たことがなかったから、リッツは豪華さと巨大さに、言葉も出なかった。
広大な庭を抜けて入った屋敷のホールは、見たこともないほどに華美で広い。床にはめ込まれているのは磨き込まれた黒曜石と大理石で、それがチェス盤のように市松模様に並んでいる。
広いホールのほとんどが、その磨き込まれた石の床なのだ。その正面にはまるで舞台のように巨大な踊り場を持つ赤い絨毯の敷かれた階段があり、踊り場から左右にアーチを作って上の階へと伸びている。
階段のすぐ下は、ダンス用に場所が取られているのか少し空間が空いていて、六人の音楽家が並んで音楽を奏でている。貴族のパーティってこういうものなのかなと、リッツは初めての雰囲気に何となく慣れない。
ちらりとエドワードを伺うと、ファルディナの街の代表者たち数人と談笑しているのが分かった。グラスを片手に、グレイン騎士団の制服ではなく、仕立てたスーツを身につけ、絹のスカーフを巻いたその姿に、少々の違和感を覚えるが、これが王太子を演じるための格好だから仕方がない。
リッツは自分の格好を見てみる。エドワードと違って、パトリシアが前にあつらえてくれた、麦わら色の一張羅を着ているのだ。これ以外にまともな格好と言ったら、騎士団の制服しかないという有様だから、これを着るしかないのである。
この場にいるにはおかしくないが、エドワードと会話をするには少々釣り合わない気がする。少々寂しいけれど、近くに行くのは避けた方が賢明だろう。
とはいえ、二人ともこの館に泊まっているから、寂しいと思うのが間違いだろう。何しろこのパーティが終わり、少々時間が出来たら、こっそり二人で街に遊びに行こうなどと計画しているのだ。
いかにしてパトリシアを出し抜くかというのが一番の課題なのだが、その打ち合わせは今でなくともいつでも出来る。
ダグラス隊や騎士団の面々と軽く言葉を交わすと、ぶらぶらと室内を見て回る。リッツは今、耳篭をして遊撃隊のフェイとしてこの場にいる。今日はたくさんの人々がやってくるから、自分の正体が知られると面倒くさいのだ。
そもそも英雄なんて柄じゃないし、敬われるような立場じゃない。
今まで人に疎まれて生きてきて、グレインでようやく人に慣れ、人との関わりを楽しめるようになってきたばかりだというのに、大量の人と関わるなんて無理な話だ。英雄のふりをして見知らぬ人々に愛想笑いをしなくてはいけないのは苦痛以外の何者でもない。
だからエドワードとジェラルドは、もう一人の英雄であるリッツ・アルスターを探す街の人々に『精霊族はこういう集まりを好みませんから』と苦しいいいわけをしているようだ。
リッツ本人はそんなエドワードの横を、春の花で飾られた肉料理を満載した皿を持って、うろうろと歩き回っていたりする。
せっかく駐留部隊が用意してくれたこの豪勢な食事を食べ逃すなんて、そんなのは嫌だ。ホールに置かれたテーブルの上には、隙間もないほど大量の料理がのっているのだ。中にはリッツが見た事もないようなものもある。全部食べないと大損だ。
たまに恨みがましいエドワードの視線を感じるのだが、視線をそちらに向けると、ものの見事にその恨みがましさを消して話しかけてきた人々に微笑んでいる。もうこれは、演技の才能と言っていいのかもしれない。
それに今日はダグラス隊ですら大人しい。リッツにちょっかいを掛けてくる者すらいないのだ。いつもはからかいに来るヴェラやベネット、そしてファンさえも大人しいのだから、リッツもダグラス隊相手に騒ぐことは出来ない。みんなリッツにちょっかいを出せばリッツが過剰に騒ぐことを知っているのである。
何もされなければされないで少し寂しかったりするのだが、この状況では仕方ないだろう。
何しろこの街を今まで仕切っていた貴族のいない今、この街の本当の有力者や、今後に関わる街の人々が大量にこの場にいるのだ。
きっとダグラス隊は飲み直すのに後で街に繰り出すだろうから、その時には連れて行って貰おうと、リッツは心に決めている。
皿を持ったまま、ぶらぶらとテーブルと人の間をさまよい歩く。テーブルごとにいろいろな料理がのっていて、目移りしてしまう。その途中で受け取ったのは、前にベネットにおごって貰ったあの高級ワインだった。
支払いは大丈夫なのだろうかと、グローヴァーの顔を思い出して少し心配になってしまう。駐留部隊の隊長職に復帰したグローヴァーだが、それまでの数年は低賃金で街の掃除をしていたのだ。その駐留部隊が主催だというのだから、気にもなる。
でも金の持ち合わせなど無いリッツが心配したところで、何も変わらないのは分かりきっている。時間があったらグローヴァーに聞いてみようと思っているが、先ほどからその姿を見かけていない。
食べるものを全て食べ、皿にも山盛り盛りつけたリッツは、結局人々の話の輪に入るのが億劫で、階段の両脇にある真っ白な大理石の暖炉近くにある空いた空間に収まってしまった。
演奏家たちの陰になっているからか、この場所は本当に目立たない。
マントルピースに皿を置き、暖炉の上にかかった絵を見上げる。そこには巨大な国王の肖像画が掛けられていた。
それはまだ王都で即位した偽王スチュワートではなく、前国王ハロルドの肖像画だった。前に王都で見たものとは違い、豪華な衣装を身につけて、体の正面に立てた剣に両手をかけている。どうやら肖像画は一種類ではないらしい。
もしエドワードが国王になったら、絶対に馬上で気持ちよさそうに笑っている絵が良いなと思うのだが、きっとそういう絵は飾られないのだろう。
まじまじと肖像画を見つめていても、やはりエドワードを見て知っているリッツからすれば、妙に生気がないハロルドを好きにはなれない。この肖像画がハロルドだと知る前から、何となく苦手感はあったから、どうやらリッツにとってこの人物はどうも受け入れがたい存在なのだ。
そして反対側の暖炉の上には、イーディスの肖像画が掛けられていた。こちらはハロルドに比べて比較的新しい。きっと勝手に王妃になった時に、スティーヴンスが掛けたのだろう。
豪奢な薄緑のドレスに身を包み、椅子に腰掛けてこちらを妖艶に見ているイーディスのその姿は、前に見た本物とは少し違う気がする。肖像画の方が、何だか少しよく描かれている気がするのだ。
「フェイ」
呼ばれて振り返ると、グローヴァーが立っていた。
「こんばんわ、ルイス」
軽く頭を下げると、グラス一つ持っただけの身軽なグローヴァーはリッツの視線の先にあるものを見つめた。
「時間が無くて、外せなかったんだ。この肖像画は壁に直接埋め込まれていてね。時間があれば解体して壁を塗ってもよかったんだが」
「しょうがないよ。俺はこんなもん気にしない」
軽く言うと、ルイスに向かってグラスを掲げてみせる。
「隊長復帰おめでとう」
「ありがとう。五年も隊長の立場を奪われていたとは情けないことこの上ないさ」
「でも家族とか大変だったんだろ?」
「まあそうだね。でも我々は、たくさんの人たちに助けて貰ったんだ。今日のパーティにその人たちも呼んでいる」
本当に嬉しそうにグローヴァーは周りを見渡した。その笑顔につられて周りを見渡すと、本当に人々の顔が輝いているのが分かった。
「何を助けて貰ってたの?」
気を悪くするだろうかとも思ったが、率直に聞くと、グローヴァーは特に隠すでもなく話してくれた。
「我々は実権を奪われ、駐留部隊の建物にほぼ一日無意味にいる有様だった。だがそれではならじと、れわれは街の掃除を始めたんだ。それからこの街に張り巡らされた地下水道の整備や、細々とした街の整備をするようになった。人々を恐怖政治で取り仕切る彼らのことを人々はみなもう駐留部隊と呼ばず人狩り部隊と呼んでいて、日がな一日掃除をして街の整備をしている我々を駐留部隊として大切に思ってくれていたんだ。偽の駐留部隊を止めることも出来ず、ただただ雑用をこなす我々をに沢山の人が励ましの言葉をかけてくれた。それにどれだけ救われたか分からない」
言われてから見ると、確かに普通の商店主や、普通の街の人々が結構いるのが分かる。彼らはみな、エドワードに緊張した面持ちで話しかけ、柔らかく握手をしていた。そういえば前に酒場で、人々は本当にエドワードがやってくるのを心待ちにしていると聞いたのだ。
「給料を減らされ、苦しい生活を余儀なくされた若者に、時に食事を分けてくれたのも街の人たちだった。本当に感謝しているんだ」
「そっかぁ……」
頷きながら見ると、そこにリッツが作戦行動前に泊まっていた宿の主人の姿が見えた。
「あれ、あの人?」
「ああ。あの人だよ。若者に食事を分けてくれていた人は。あの店は常連しか入れないような特殊な店で、あの店でだけ我々は愚痴を言い合えたものだ」
なるほど。だからあの店で店主の息子リックは普通にジェイムズ・ガヴァンを批判することが出来たのだ。だが何故あの場にベネットが入れたのかが謎だ。考えてみればリッツだって常連ではない。となると考えられることは一つだ。
「もしかしてその店って、ギルの知り合いだったりするのかな?」
ぼそっと呟くと、グローヴァーは柔らかな笑みを浮かべた。
「店の主はダグラス中将の元部下だそうだ」
「やっぱりなあ」
つまりファルディナの詳しい情報を得ていた情報源はあの店主だったのだ。ならばリッツやベネットが止められることなく普通に入れて当然だ。いったいギルバートはこの街を含め、どれだけの人々をあちこちに潜ませているのだろう。
教えてくれないだろうが、今度聞いてみることにしよう。
「ところでさ、このパーティって結構お金かかってない? 駐留部隊って、掃除してて貧乏じゃん? 大丈夫なの?」
率直に聞くと、グローヴァーは何ともいえない顔をした。
「フェイ、それは我々を気遣ってくれているんだな?」
「? 当たり前じゃん。俺はちょっと貧乏だし、給料低いから、助けてあげられないけど、大丈夫かなって……」
そういいながらも皿にのっていたチキンバジルソテーを口に放り込む。柔らかい肉に、にじみ出る脂。これも美味しい。
「ん、旨い」
呟くと、グローヴァーは吹き出した。
「君は変わっているな。何故一介の兵士が我々の財布の心配をするんだ? 楽しめばいいだろうに」
「だって気になるじゃん」
本当は一介の兵士じゃないし、エドワードからは革命軍の金策に、サラディオやアイゼンヴァレーに人を遣ったなどと愚痴られているのだから。
「心配は無用だ。楽しんで飲み食いしてくれ」
「本当に?」
「ああ。このパーティの資金は、スティーヴンス侯爵の隠し財産から出ているんだ。隠し財産で街の修繕、ないがしろになっていた教育の復活が進められることになっているが、その中で立て直しが必要な駐留部隊にと割り振られた中から出た一部なんだよ」
「へぇ……」
「このスティーヴンス邸も、来月には改築される予定だ。幼子から専門的な知識までを学べる総合教育施設にね。シアーズの高等政務学院や、王国軍士官学校には敵わないが、そういうものがあってもいいだろう?」
笑顔で問われたが、勉強が苦手なリッツはその必要性がいまいち分からない。だが無知は罪であるということを、今はもう知っているから素直に頷く。
「うん」
「ダグラス男爵がそれを進めたがっていてね。今はもうこの街におられないが、その理念はこの街の人々の中に生きている」
なるほどこの街でのダグラス家は、きっとそういう風に人々の間に立ってきたから、ギルバートも街の人々から貴族でありながら絶対の信頼を勝ち得ていたのだ。
「ギルの父さん、すごいんだなぁ~」
感心していったのだが、またグローヴァーは妙な顔をした。
「フェイは貴族かい?」
「何でさ?」
「妙にダグラス様に遠慮がない」
なるほど傭兵としてのギルバートを知らないと、リッツのギルバートに対する態度は不思議なものらしい。確かにリッツには貴族に対して、敬う者だという認識があまりない。
「違うよ。ギルの部下って、今は元々の傭兵が多いだろ? 俺も似たようなもんなの」
何となく誤魔化したのだが、グローヴァーは納得してくれたらしい。傭兵の世界のことは、普通の軍人の常識からは遠いのだ。それをリッツはギルバートに聞いて知っている。傭兵の間にあるのは階級ではなく実力のみだそうだ。
ワイングラスを傾けるグローヴァーの視線の先を追うと、そこにいたのはエドワードだった。リッツも自然とエドワードを見遣る。
すっと伸びた立ち姿、穏やかな笑顔、王太子を宣言したときから伸ばし始めた金の髪。そこにいるのはいつもリッツが知っているエドワードとはちょっと違うエドワードだった。笑みを絶やさず、握手を求められれば手を伸ばし、人々に頭を下げられながらも鷹揚に微笑む。
何だかエドワードが気になった。殿下などと呼ばれて周りにかしずかれるのは辛くはないのだろうかと、少々心配なのだ。
そんなエドワードと目が合った。今までの穏やかな笑みはどこへやら、一瞬恨みがましい目を向けられてしまった。手にしたグラスは三分の一も減っていない。おそらく飲み物を口にする暇もないのだろう。
こうなったら高級ワインと味見した中で一番おいしかった鴨のテリーヌとローストビーフを、こっそり部屋に運んでおいてあげよう。そうすれば、寝る前に思い切り不機嫌にリッツの部屋で文句を言われるのを避けられるだろう。
「フェイ?」
「うん?」
「殿下がどうかされたのか?」
どうやらリッツがエドワードをじっと見ているのが分かったらしい。
「へ? いや、別に。大変そうだなぁと思ってさ」
誤魔化そうとついうっかりとそういうと、思い切り不思議そうな顔をされてしまった。そういえば遊撃隊の副官であるフェイとエドワードには、何の関係もないのである。
「ほら殿下が王太子宣言なさってから、すぐにこの戦いだろ? お疲れじゃないかと思ってさ」
なんとかリッツ本人ではなく、フェイとしての言葉をひねり出したのだが、その言葉が更にグローヴァーの誤解を生んでしまった。
「そんなに殿下が心配なら、殿下と話をしてきたらどうかな?」
「い、いや、だから……」
「我々が言葉を交わす機会など、滅多にないんだ。これから戦いが進めば、更に殿下の存在は我々下級兵士からは遠くなる。お話しするなら今がチャンスだ」
「え、あ、いや……」
「お加減を伺って、記念に握手でもしてきたらいいじゃないか」
親切心から来る満面の笑みを浮かべたグローヴァーに慌てる。本気で言ってくれているのが分かるからこそ逃げ場がない。何しろこの場で、エドワードに役目を押しつけて逃げ回っている分際で、エドワードに笑顔で話しかけるのは気まずい。
「え? あ、そ、そうだね」
「私も挨拶に行くつもりだったんだ。さあ、一緒に行こう」
「え、あ、ちょっと、ルイス!」
自分よりも背の低いグローヴァーに、後ろからぐいぐいと背中を押されて人混みをかき分ける。
近づいてくるエドワードの笑顔に、かすかな皮肉の笑みが浮かぶのが見えた。周囲には分からないだろうが、リッツには分かる。思い切りエドワードらしい表情だ。このままでは完全に仕返しされる。
派手に抵抗するわけにも行かず、焦っているうちに気がつくとエドワードの正面に立たされていた。パーティの前までお互いにふざけ合っていた友だが、この状況でしかも少し遠い部下としてなんと言ったらいいか分からない。
そんなリッツを緊張して言葉が出ないのだと思い込んだグローヴァーが、エドワードに深々と一礼して話しかける。
「王太子殿下。本日は駐留部隊主催の会に参加いただき、誠に恐縮でございます」
「かしこまらなくともいい。私も楽しんでいる」
「は。ありがとうございます」
頭を下げるグローヴァーに、エドワードは満面の笑みを返す。
「貴官が連れているのは、我が軍の遊撃隊員フェイだな」
「はい。さすがは殿下であらせられますな」
「まだ我が軍は少ない。指揮官と副官ぐらいは全員覚えていて当然だろう。どうしてフェイを私の前に連れてきたんだ?」
事情をすべて余すことなく話したから知っているくせに、普通にエドワードはグローヴァーに尋ねる。本当に演技上手だ。グローヴァーが話している間、リッツはエドワードの顔を眺めたり、まだローストビーフとテリーヌがあるかを、横目でちらちらと確認したりした。
その視線に気がついたのは当然正面のエドワードで、黙ったまま『いいからグローヴァーの話を聞いておけ』と視線だけで示される。
仕方なく視線を戻そうとすると、また見慣れた姿が目に付いた。酒場の店主の子リックだ。なにやら誰かを捜しているようできょろきょろしている。
前に会ったのは自治領主の軍の中だった。なのにいつの間にかこの街に戻ってきたようだ。
ギルバートが呼び寄せた逃げ散った人々の中にもいなかったし、いったいどうやって戻ったのだろう。そもそも何故、あの部隊にいたのだろう。
疑問がいっぱいでつい見ていると、グローヴァーにつつかれた。
「何?」
我に返ると、焦るグローヴァーの顔があった。言葉に出さずに前を向くように顔で指図されて正面を見ると、エドワードがにっこりと微笑んでいた。
「どうやら貴官には、色々気にかかることがあるようだな、フェイ」
「へ?」
「話しかけたのに上の空のようだ」
「あ……」
後で怒られそうだ。そう思うとがっかりだが、人々の目があるから無視しているわけにはいかない。
「申し訳ありません、殿下。遊撃隊ダグラス隊長の副官フェイです」
深々と頭を下げると、エドワードに肩を叩かれた。
「噂はかねがね聞いている。今後も我が軍のために力を貸してほしい」
「はい」
「ところでフェイ」
「はい」
「何が一番旨かったかな?」
顔を上げてエドワードを見ると、水色の瞳がかすかに細められ、鋭い輝きを放っていた。言いたいことが分かった。一番旨いものを部屋に用意しておかないと、酷い目に遭わせるぞといいたいのだ。
「ローストビーフと、鴨のテリーヌが美味かと、あ、チキンソテーも好きだっ……」
チキンソテーも好きだったよな? と確認しかけて慌てて口をつぐむ。一介の兵士たるフェイが王太子の好物を知っているのはおかしい。
「なるほど。三つのどれも、ワインと合いそうだ。確かオフェリル産の二十八年ものがあったと聞いたのだが?」
ベネットにおごって貰ったと自慢したのを、エドワードはちゃんと覚えていたらしい。
「はい」
用意しとくよ、と口に出さずに目で語りかけると、満足げにエドワードが頷く。一体どれぐらい部屋に持って行ったら満足なんだろうか。
頭を下げてエドワードの元を下がろうとしたときだった。自分のすぐ近くにリックが立っているのに気がついた。グローヴァーは不思議そうにリックを見る。
「どうした、リック。親父さんと一緒じゃなかったのか?」
柔らかく尋ねたグローヴァーの目を見ず、リックの目は真っ直ぐにエドワードを見つめた。
「殿下」
呼びかける声が固い。エドワードを尊敬しているようだったから緊張しているんだろうか。のんびりとそんなことを考えていた時だった。
「殿下のお手伝いをさせていただきます」
そういったリックが動くのとほぼ同時に、エドワードが動いた。正面からエドワードに体当たりされたのだ。
不意打ちに焦ってたたらを踏んだが、鍛えていたから倒れるまでではない。
「! エド?」
抱き留めたエドワードを、思わずいつものように呼ぶ。だが答えはなく代わりに顔を上げたエドワードのその顔が苦痛に歪んでいた。
「え……?」
「何故! 何故その男をかばうのです、殿下!」
リックが金切り声を上げた。
「何故! 何故ですか!」
「な……に……?」
全く見えていない状況に身動きがとれずにいると、目の前でリックの体が反転した。技をかけたのはベネットだった。
そのままの勢いでリックは床にたたきつけられ、ベネットに組み敷かれる。
「離せ! そいつは……そのフェイって奴は、ジェイムズ・ガヴァンの友達なんだ、そいつは領主の間者なんだぞ!」
睨み付けられたそのリックの瞳は、憎しみで燃えたぎるような輝きを放っている。口の端にためた唾を飛ばしながら、叫び続けるその姿は異様で、度を失っているのはすぐに分かった。
リックは、言葉も出ずに立ち尽くすリッツに、更なる言葉を叩きつけてくる。
「だから罰を与えるんだ! それなのに何故殿下が庇うんだ! 殿下も所詮貴族なのかよ!」
「お前……何を……?」
問い返そうとすると、エドワードを支えていた手が生暖かいもので滑った。恐る恐る自分の手を見ると、べったりと暖かな血にまみれている。
「エド……?」
状況が読めてきた。
リックがエドワードを刺したのだ。
「エド……、エド……」
リッツはエドワードの相手をしていたからリックの殺意に気がつかなかった。先に気がついたのは、正面からリックを見ていた、エドワードの方だったのだ。
「何で……何でだよ!」
血の生ぬるさに混乱しながら、ずり落ちそうになる友の体を必死で支える。エドワードは自分の足で立とうとしているのだが、力が入らないのか、細かに足が震えている。
リッツは血に濡れた手で、エドワードの服を握りしめた。その間も血が押さえた手の下から溢れる。
血が、血が止まらない。手のひらを伝わって流れていく。
手のひらが、全身が細かく震えだして止まらない。
「どうして、エド!」
声を絞り出すと、かすかに腕の中でエドワードが身動きして顔を上げた。脂汗を流しながらもエドワードはリッツを見つめる。
「この馬鹿。注意力がないとダグラス隊に叱られたんだろう」
エドワードが額に汗を浮かべながらも笑う。
「本当に注意力散漫だ……」
「馬鹿はどっちだ、馬鹿エド! お前が俺を庇ってどうするんだよ! エドを庇って死ぬのは俺だろう!」
半ば悲鳴のような声になった。
「分かってるよ。でもな、体が勝手に動いたんだ」
いつものように、でもかすかに痛みを堪える苦痛が混じった声でエドワードが笑う。
無理をしている。
痛いだろうに、痛いはずなのに……。
どうしてこれが、自分じゃないんだ?
どうしてエドワードなんだ?
「なんで……なんで……」
がくがくと体が震えてしまう。喪失感に支配されそうで奈落の底まで落ちていきそうだ。
目の前でジェラルドが、ギルバートが、そしてパトリシアが、エリクソンが口々にエドワードの名を呼びながら走り寄ってくるのが見えているのに、音が感じられない。
ただ腕の中にいる、エドワードの体温だけしか分からない。
エドワードの体がずり落ちていく。力が入らずに、一緒に座り込んでしまった。目の前にわめき続けるリックの姿があった。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。何も考えられない。
かすかに身動きしたエドワードが、わめき続けるリックを見据える。
「何か誤解があるようだな。真実を知らずして思い込みで動いても利はない……」
静かだが断罪するような口調に、リックは震えながら喚く。
「でもその男はガヴァン卿と親しくしておりました! あいつは自治領主の元にいたんだ! 僕は間違っていない! あいつを殺してやろうと思ったのに、殺せなかったんだ! 街道でも見失った! 絶対に逃げたんだ!」
わめき散らすリックを見るエドワードの視線は、どこまでも静かだった。その目を見て怯えたように俯きながらもリックの荒い口調は止まらない。
「だからそいつを殺してやろうと思ったのに!」
叫ぶリックを駆けつけたラヴィが更に押さえつけた。でもリックの言葉は止まらない。
「なのに何故、殿下が庇うんだ! 僕は殿下のために裏切り者を取り除いてやろうとしたのに! 殿下のためになりたいのに、殿下のためにして差し上げたのに!」
リックの言葉に、立ち上がったベネットが、結っていた髪をほどいて後ろに縛った。それから持っていたハンカチで無理矢理に化粧を落とす。
「ならば何故僕を殺さないんだ! こいつは関係ないじゃないか!」
いつものベネットではなく、ジェイムズとして叫んだベネットに、リックの目が見開かれた。
「……あんた……」
「見つからなかったから代わりに殺すだと? 冗談は休み休み言え! 君は領主に関わるものの友人ならば、殺していいとでも思っているのか!」
「うるさいうるさい! お前が逃げたからじゃないか! お前がそんな格好をして逃げるからじゃないか! だからこいつを殺そうとしたのに!」
ラヴィの下で子供のように体をくねらせてだだをこねるリックの正面に立ったベネットは、そんなリックを冷たく見下ろす。
「僕は確かにガヴァン伯の子だ。でも今の僕はギルバート・ダグラスの部下、弓使いベネットだ!」
「嘘だ……嘘だぁ!」
「嘘など、この状況で付くわけがない」
静かなベネットの断言に、リックの体が小刻みに震えだした。
「……ダグラス様の……部下……」
「そうだ」
「じゃあ革命軍の……」
「そう。革命軍の遊撃隊員だ」
「そんな……」
初めて気がついた自分の過ちに、リックが青ざめる。その目をベネットは怒りに満ちた目で見下ろした。
「貴族だから領主の元にいるだけで殺害する権利があるだと? 人には役割があり、すべきことがある。僕が領主の手下なら、何故君の父親の店を守る必要があった! 何故、領主に店のことを密告しなかった! それを考えたことはあるのか!」
真っ直ぐにリックを見据えるベネットに、リックの目は怯えている。その目が怯えながら助けを求めるように自分が刺したエドワードを見ている。
どうすることも出来ずにエドワードを支えるだけのリッツに何も言わず、エドワードの目はリックを見ていた。
「真実を確かめもせず、己の感情で動いて人を傷つけるとは何事か」
「……殿下……」
「思い込みでは何も解決しない。自らの目で見て、状況を鑑み、正しく判断しなければ、思い込み一つで大局を失いかねないぞ」
苦しげな息でそう告げ、エドワードは息をつく。
「現にお前が命を奪おうとしたこの男は……私の片腕にして半身だ」
「半身……?」
リックの顔が恐怖に歪んだ。でもそんなことはもう、リッツの目には映っていない。
分かっているのは徐々に友の体から血が流れていくことだけだ。
血の染みがじわりじわりと服を濡らしていくのが分かった。止血しようにもリッツにはその方法が分からない。
傷を押さえようと震える手でエドワードに触れるが、何もできない。
「話さないでよ、エド。今……今、エンが来るから。エンは奇跡の手を持ってるんだ。すぐに治してくれるから……」
頭の中が白く霞んでいく。
「こら、リッツ」
エドワードの声が聞こえた。
「だから、しゃべらないでって……」
「馬鹿。泣くな。自分の立場を忘れるなよ」
「だって……だって……俺のせいでエドが……エドが……」
「お前のせいじゃない……とは言い難いな。だが全部がお前のせいじゃない。半分ぐらいだ」
「だけど!」
叫ぶとエドワードの手が頭に乗った。
「大丈夫だ。俺は死なない」
「でも血が……血がこんなに……!」
床に落ちる血液が、小さく床を濡らしてゆく。白い床に落ちる真っ赤な血が、妙に眩しく目に焼き付いて、気が狂いそうだ。
「馬鹿。俺はお前の命を預かったままだ。死ぬわけ無いだろう?」
「でも……!」
「俺はお前との約束は違えない……信用しろ」
かすかに笑うと、エドワードの手が頭から滑り落ちた。苦しげに目を閉じて息をつくエドワードに、頭の中が真っ白になる。
「エド……エド!」
誰かが後ろから立つことの出来ないリッツを引きずり、無理矢理に立たせる。そして誰かがエドワードを抱き寄せるように引き離そうとする。
それに必死で抗うがその手が離れない。
「離せ……離せ!!」
「落ち着け、リッツ!」
叱咤してきたのはギルバートだった。だが落ち着いていられない。
もしエドワードが死んでしまったら……。
もしもう二度と目を開けてくれなかったら……。
この幸福な夢から覚める。
ローレンの思いも、希望も叶えられない。
「エド! 離せ! 離せよギル!」
「リッツ!」
「目を開けてエド! 俺が、俺が代わりに死ぬから!だから目を開けてくれ!」
「リッツ! この馬鹿ガキが!」
「離せ! 離せ! エド、エドっ!」
必死でギルバートの拘束を逃れようともがく。
耳篭が外れて床に落ち、からからと音を立てた。尖った耳がむき出しになったが、そんなことはもうどうでもよかった。
「離せっ! 離せぇぇぇぇ!」
恐怖がひたひたと這い上がってくる。エドワードが死ぬのはリッツにとって悲しみであり、苦痛であり、なにより恐怖だった。
かすかに開かれつつあった世界とリッツの間にある扉が再び閉じ、孤独の闇に包まれる。
リッツにとってのエドワードは世界であり、初めて闇の中に現れたまばゆい光だ。
「エド! エドワード!」
叫び続けるリッツの目の前に、陰が落ちた。
次の瞬間に、思い切り平手で頬を叩かれていた。ギルバートに拘束されているから、抵抗することなんて出来ない。
思いも寄らないその行動に目を見開くと、目の前にはパトリシアが立っていた。
「落ち着きなさい、リッツ・アルスター」
「だけどパティ!」
更に言いつのろうとすると、反対側も平手で張られた。
「あなたは何? どこぞの子供なの?」
「俺……」
「あなたはエドワード・バルディアの友でしょう?片腕でしょう! こんな時こそしっかり立ちなさい!」
「パティ……」
「あなたが泣きわめいて騒いで何になるの? 身分を隠すのも、パーティから逃げるのも構わないわ。あなたが人付き合いを苦痛にしてるのは、みんな知ってるもの」
そういうとパトリシアの拳が、胸を打ち付けた。
「うっ……」
呻くと、真っ直ぐにリッツの胸に拳を押し当てたまま、パトリシアはリッツを見上げてきた。
「でもエディの築いてきた信頼を、情けないあなたの態度で壊したら許さないわ!」
パトリシアのアメジストの瞳が、かすかに潤んでいるのが分かった。彼女もエドワードが心配で心配で、泣くほど辛いのだ。
でもエドワードのことを思って、これからエドワードが歩む道のりのことを思って、リッツを止めに来たのだ。
ぽつりと自分の頬に涙が落ちて、自分が泣きわめいていた事に初めて気がつく。思い起こしてみると、かなりの醜態を演じてしまったことに今更ながらに気がついた。
「俺……」
「これがもし戦場ならば、兵士は動揺する。士気が落ちて戦えなくなる。戦いに負けるわ。それが上に立つ人がすることなの?」
強い光に満ちたパトリシアの瞳は、戦うものの瞳だった。戦いに、何よりも自分と戦う瞳だ。
リッツは俯いた。
俺はいったい、何をしているんだろう……。
そう思うと力が抜ける。抵抗する気がなくなったリッツに気がついたのか、ギルバートの戒めが解かれた。一瞬よろめきかけるが、そのままパトリシアの拳に支えられるように立つ。
「上に立つ覚悟を決めたんなら、貫きなさい! エドワード・バルディアの片腕として、公の場では精霊族の戦士としての覚悟を貫きなさい!」
その言葉が胸に突き刺さった。幾度も幾度も問われた英雄としての覚悟。未だそれが貫けていないし、分かっていなかった。考えること、注意をおこたらないこと同様に。
なんて未熟者なんだろう。
「分かったの!? 分かったら返事しなさいよ!」
こぼれそうな涙を必死にこらえてリッツを叱るパトリシアに、肩の力が抜けた。倒れたエドワードへ目をやると、すでに医療鞄を脇に置いたエンがいて精霊魔法を唱えている。
そうだ。鍛錬場でギルバートに斬られても、ラヴィに突かれても、エンは綺麗に治してくれた。
焼けるような切り傷の痛みにのたうつリッツに、エンはいつも治療をしてくれてた。その時は真摯な瞳で『わしの奇跡の手を信用せい』と諭したものだった。
結局リッツがどんなに大怪我を負ったとしても、エンの手にかかれば、二日以内で体力がいつも元に戻り、動けるようになったものだった。
信じないと。エドワードの言葉も、エンの腕前も。
泣きわめくのも、自分を責めるのも、エドワードに謝るのも、エドワードが回復してから、二人の時にすればいい。
「パティ……ごめん」
小さく呟くと、パトリシアの口元が歪んだ。きつく引き結ばれて泣くのを堪えているのが分かった。
「ちょっとだけ、俺……分かった気がする」
英雄の片腕と言うことの意味が。そして守り通すことの意味が。
「本当に無知で、考えなしで、感情的でごめん」
「……馬鹿! 本当に馬鹿なんだから!」
胸に両手を当てられたから、また殴りに来るのかと思ったら、パトリシアはそっとリッツの胸に当てた両手の間に顔を埋めた。
「本当に……二人とも馬鹿なんだから……っ」
震えながらリッツの胸に顔を埋めて呻くように言葉を発するパトリシアが、泣いているのだとすぐに気がついた。
そっとその体を抱きしめると、思ったよりも華奢で驚いた。リッツよりも遙かに小さく、遙かにか弱い体をしているのに、彼女はとてつもなく大きく見えた。
なんて強くて、なんて真っ直ぐで……。
なんて……綺麗なんだろう。
涙を止めたら流れてきた鼻をすすりながら、しっかりと抱きしめると、パトリシアの流す熱い涙が感じられた。彼女は小さく幾度も、絞り出すように小声で呻き続ける。
「エディ……エディ……エディ……っ」
絞り出すように切なくエドワードの名を呼ぶパトリシアを抱く腕に力を込める。
「大丈夫、大丈夫だ。エンは奇跡の腕を持ってるんだ。本当に大丈夫だから……」
「あなたが心配させるからっ!」
「ごめん。だけどエンは本物だよ。サリーもあっという間に治しただろ?」
先ほどまでパニックに陥って泣き叫んでいたリッツの言葉だから、信用できないかもしれない。そう思ったけれど、パトリシアは胸に顔を埋めたまま小さく頷き呻いた。
「エディ……っ……」
しがみつく指の力が強くなった。本当にパトリシアはエドワードを想っている。心から怪我を負ったエドワードを心配し、その苦痛を堪えている。
それなのにリッツを気にかけて、正気に戻してくれた。その強さ、その優しさに心の底から感謝しつつ、パトリシアの存在を心から愛おしく想う。偉大で、そしてまばゆい存在に感じる。
きっとエドワードが言っていた、リッツの自分では気がつかないパトリシアへの思いは、この心の奥底から感じられる愛おしさだったのだ。
そして同時に気がついた。
パトリシアはただただパニックに陥るしかないリッツと違って、心の奥底からエドワードを想い、そしてそのために動くことができるのだ。
きっと……エドワードを愛するが故に。
「治療は終わりだ。誰か、殿下を部屋まで運んでくれないか?」
不意にエンの声が耳に飛び込んできた。いち早く反応したのは、パトリシアだった。
「無事なの? 大丈夫なのね?」
「ああお嬢さん。わしを誰だと思ってるんだ? おっと、天才とはいわんでくれ。聞き慣れとる」
胸を張るエンに、心からほっとした。エンは自信がないときに虚勢を張ったりしない。医療に関してだけは正直で嘘がないのだ。
小さく安堵の息をついて両手で顔を覆うと、ギルバートに肩を叩かれた。振り返ると心配そうな顔がある。ギルバートがこんな顔をするなんて珍しい。よほど心配をかけたようだ。
「大丈夫か?」
「うん。ごめんギル。パニックになっちまった」
「しかたがない奴だ。これきりにしてくれよ」
苦笑しながらそういったギルバートに思い切り乱暴に頭を撫でられる。首ががくがくとして、目の縁に残っていた涙が零れた。
「うん」
頷くとエドワードに歩み寄る。流れた血は床を赤く染めているけれど、頬に血の気が戻り、穏やかな呼吸をしている。
「エン、どう?」
「血が流れすぎたな。一日は眠るだろうが、命に別状はない。広範囲に斬られはしたが、内臓までは全く達していないから、この傷が後々問題になることも無かろうよ」
相変わらず酒が入っているのか赤い顔をしたエンに、深々と頭を下げる。
「エン、ありがとう。いてくれてよかった」
「馬鹿者が。わしは常におるわ。忘れんでもらおう」
「うん。ありがとう」
「それより早く怪我人を運ばんか」
「ええっと……背負っても平気かな?」
「当たり前じゃ。傷は塞いだし、怪我も治したわい。ただ血が足りなくて体力が落ちてるだけだからな」
「分かった。本当にありがとうな、エン」
「よせやい、リッツ。お前にしおらしくされたら、調子が狂っちまう」
照れくさいのか不機嫌なのか文句を言いながらエンは道具をしまう。しまいながらリッツに注意をした。
「目が覚めたら、まあ最初の一食は軽いものを食べるといい。それ以降は普通に食事を取って構わないぞ。できるだけ血になるものを多く取るといい。肉、魚、それから緑の多い野菜だな」
さっさと言い捨てるエンに、深々と頷く。
「うん。分かった」
どれだけ無関心なふりをしていても、やはりエンは優秀な医者なのだ。患者のために考えることを決してやめたりしない。きっとふらふらと毎日のように往診に来てくれるのだろう。
サリーの時もそうだったと、サリーがティルスに帰るとき、こっそり教えてくれた。
「お礼なら酒がいい」
ちゃっかりとそう申し出たエンに、笑いかける。
「じゃあ当たり年のオフェリルワインを持って行っていいよ。好きなの見繕ってさ」
「そりゃあいい」
リッツの目も見ずにてきぱきと片付けたエンは、テーブルの上からそのワインを一目で見つけると、持って去っていく。一人どこかで、気楽に飲むのだろう。
視線を近くに転じると、その場でラヴィに押さえつけられたままいるリックと、その父、そしてグローヴァーの姿があった。
エドワードの隣に膝を付くと、少し先にリックがいた。その視線と目が合う。軽く鼻をすすってから、リックとその父親に向かって笑いかける。
「俺がリッツ・アルスターだ。おじさん、黙ってて悪かったよ。自分の説明って自分じゃしづらくて」
店主に向けて言うと、店主はその場に膝を付いた。
「も、申し訳ありません! 申し訳ありません! 息子がとんでもないことを!」
床に頭をこすりつけて低頭平身する店主に笑いかける。
「うん。本当にとんでもないよ」
さらりとそう流すと、押さえられたままのリックに目を向けた。
「なあリック、エドが死んだら俺は後を追うしかないんだ。俺にとって誠の王はエドワード・バルディアただ一人だから。本当に勘弁してくれよ。俺を殺すだけならまだしも、お前はこの国の未来を殺しちまうところだったんだぜ?」
「あなたが……リッツ・アルスター……」
呆然と呟くリックに、頷く。
「そう。おじさんがお前を怒るたびに自分が怒られてる気になったよ。それにお前に向けられた視線が、俺が貴族を見ている時の目なんだって気がついたんだ。だからって短絡的に貴族なら悪だから殺せってどうなんだよ。なあ。ベネット?」
「そうよ。家も性別も捨てて、こうして一人の女になって傭兵やってるのに、人前で化粧を落とす羽目になったじゃない」
「俺、ベネットよりもジェイムズの方が話しやすくて好きだけどなぁ」
「女よりも男が好きってこと?」
「違う!」
「冗談よ、やあねぇ」
笑いながらベネットは、くるりとこちらに背を向けた。
「化粧を直してくるわ。長くなるから戻ってこなかったらごめんなさい」
「分かった」
もう何も言いたくないというのが分かったら、何も言わずに送り出す。やがて緊張した面持ちのグローヴァーの視線を感じて真っ直ぐに見つめ返す。
「ルイス」
「はっ! 何でありましょうか?」
堅い表情のグローヴァーに、肩をすくめつつエドワードの脇に座る。未だ完全な眠りの中にあるエドワードの体を抱き上げた。さすがに重たい。やっぱり背負わないと無理だ。でもどんなに重くても、それがエドワードであれば苦はない。
「あのさ、俺は普通にリッツって呼んでくれたらいいよ。あ、フェイでもいいからさ」
「ですが……」
「さっきの答え。俺は貴族じゃなくて、精霊族なんだ。シーデナの精霊族に階級はない。貴族も平民も王族も何もないよ。人間と違ってね」
「はっ!」
「堅苦しいなぁ。だから正体ばれたくないんだ」
ぶつぶつと文句を言っても始まらない。ギルバートの手を借りてエドワードをしっかり背負うと、ゆっくりと立ち上がった。
「……アルスター様」
遠慮がちな呼びかけにグローヴァーを見つめる。
「リッツでいいって」
「は。では、その……リッツ。リックの処分をどういたしますか?」
リックの体がかすかに震え、その体の震えが大きくなっていく。この自治領区では領主を悪く言うだけで処刑されることもあったから、刑罰の重さに震えているのだろう。
「う~ん。人間の法律的には、死刑なんだよね?」
わざと世間知らずの精霊族っぽく考え込んでみる。その言葉にリックががくがくと全身を振るわせているのが分かった。
「でもまあ、俺は精霊族だから人間の法とかよく分かんないよ」
今を逃したら、もうリックを救えなくなる。きっとエドワードは彼を救おうとするだろう事は分かっている。リッツは口を開いた。
「だから今のところは、自室に下がって反省しました、ごめんなさいって何千回も何万回も書いといたらいいと思うよ。エドが起きて、エド自身があんたを裁くまでね」
おそらくエドワードもさして重い罪を問わないだろう。間違っているとはいえ、エドワードの役に立ちたい一心で間違ったことをしてしまったのだから。それにおそらく彼は彼にとって大きな罰則を一つ食らうことになるだろう。
エドワードの役に立ちたいと考えていたリックは、おそらく従軍することを許されない。それは仕方がない。でもそれはリックにとって十分な罰になる。
「もう少し色々考えられるようになったらいいな、リック。俺も考えなしだからさ、お互い似た名前同士頑張ろうな」
後ろで再び店主が深々とお辞儀をするのが分かったが、振り返る気力もなくホールを出て階段を上る。全員の視線が突き刺さるようにいたいが、これはこれで仕方ない。自分が騒ぎすぎた、その代償だ。
人目に付かない階段の上の廊下にたどり着き、静かに歩いて割り振られた部屋に向かう。
「待ちなさいよリッツ、手伝うわ」
後からパトリシアの声が追ってきた。もう一人慌てて走り寄ってくる人物がいる。
「僕も行きますよ、リッツさん!」
「おう。頼むよパティ、シャスタ」
なじみの二人に、思わず安堵の息を漏らす。この二人なら気を遣わなくてもいられる。
「任せなさい。先行くわね!」
後から追いついてきたパトリシアが、リッツを追い越して先に行ってしまう。きっとベットや部屋着の用意をするのだろう。
「待ってくださいよパトリシア様!」
慌ててシャスタがパトリシアを追っていった。この二人は世話を焼くことが好きなたちなのだ。リッツは苦手だから頭が下がる。
意識を失ったエドワードと、この場に二人きりとなった。
「エド、生きてるよな?」
小さく問いかけ、そっと肩口にあるエドワードの頬に自分の頬を付けてみる。ぬくもりと共に、かすかな吐息が感じられた。
暖かかった。
死んでいない。生きている。
「よかったぁ……」
涙がポロポロこぼれた。
「本当に……よかった……」
部屋に入るまでに、涙が止まればいい。このまま泣いていたら、きっとパトリシアとシャスタに心配をかけてしまう。
強くなりたいから。
たとえ見せかけだけでもいい。エドワードの片腕としてふさわしいように強くなりたいから。だからみんなの前では泣かないように心がけよう。
すべてを見透かされてるエドワードの前では無理だけど、せめてパトリシアやシャスタの前でも涙をこぼさないように、強くなろう。
「ギルみたいに……なりたいなぁ……」




