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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
莫逆の誓い
65/179

<4>

 五月九日の早朝、南東部からの攻撃を考慮してアデルフィーに半数を残した革命軍本隊は、大軍で通るには向かない、森を抜ける細い道を通っていた。オフェリルからファルディナへ入る際に街道をそれて、直接アーケルよりも先のシアーズ街道に出られる道を選んだのである。

 オフェリルから街道を通り、ファルディナの街を経由してアーケルまでは、どれだけゆっくり進んだとしても一日半程だ。だがこの周り道では、そうはいかない。

 この道は馬車が一台通るのがやっとで、すれ違うには脇の森に入らねばならないぐらいの大きさだ。当然ながら通行量も街道に比べると格段に少なく、そのため全体的に地面の凹凸が多い。だから本隊に大型の馬車はなく、従軍している馬車は小型の二頭引き幌付き四輪馬車が五台だけだった。そのほとんどが食料品などの補給物資であり、兵士たちは歩かざるを得ないのだ。

 先頭に立つのは騎兵である騎士団第一、第二隊でそれに続くのはやはり馬上にある、コネル・サウスフォードの元ユリスラ軍改革派の部隊だ。

 本来ならコネルの部隊が先頭になり、騎士団はみんなまとめてファルディナ入りするはずだったのだが、こうしてここを歩いているのには理由がある。

 騎士団と同じく馬上にあるパトリシアは、大きくため息をついた。父ジェラルドにグレインに残り、自治領主代理を務めよと命じられたが、頑固に断ると、こちらの本隊に配属されてしまった。

「どうしたんだ、お嬢」

 隣を歩く、本隊指揮官コネルに尋ねられてついついコネルを睨む。

「お嬢はやめてください。パティでいいわ」

「というわけにはいかんだろう。あんたは総軍司令官モーガン元帥の娘だ」

 からかっているのか本気なのか分からない表情で、コネルはそう言って笑う。皮肉屋コネルとはよく言ったものだ。率直に答えが返ってきたことは一度もない。

「つまりおまけって事でしょう?」

「おまけってのは付いてきたら嬉しいもんだろう?この状況は、どちらかというとお荷物だ」

 あまりにも率直な言いように、言葉に詰まる。今まで騎士団の面々や仲間たちにそこまではっきりと言われたことはない。でも薄々、このままではお荷物になると感付いていた。だから痛いところを突かれて言葉が出なかったのだ。

「……とまあ、お嬢は思っているのかな?」

 軽く冗談めかして言われて唇を噛むと、反対隣にいたマディラが穏やかに口を挟んできた。

「サウスフォード様。女性に対する言葉遣いを学んでこられなかったのですか?」

 柔らかいのにどことなく厳しい口調に、コネルが頭を掻く。

「いや、俺は……その……」

「ご心配になさるのならば、正直にそうおっしゃってはいかがでしょう」

 真っ直ぐに言い返したマディラとコネルの年齢は、かなり近い。マディラの夫がジェラルドと同期なのだから、もしかしたらマディラの方がコネルよりも年上かもしれない。やがて降参したのはやはりコネルだった。

「……まったくマディラには敵わんな。君を妻にしているカークランド伯は、強気な妻に負けぬ強靱な心を持っておられるようだ」

「あら。イライザ様の忍耐力には到底及びませんわ」

「……」

 言葉を失ったコネルを笑みを浮かべて見据えていたマディラだったが、その視線がこちらに向く。

「私も気にかかっていましたわ、パトリシア様。少々ご気分が晴れないのではなくて?」

 真っ直ぐに気遣うようにこちらを見るマディラに、パトリシアは意を決した。色々もやもや考えていても埒があかない。おそらくマディラに話せばコネルも聞くだろう。それに皮肉屋コネルはあくまでも皮肉屋であり、話を隠したりはしない人物なのだと、パトリシアは知っている。コネルが故意に相手をからかうのは、今のところリッツだけだ。

「マディラ様」

「マディラとお呼びください」

「では私もパトリシアと呼んでください。私はマディラ様に丁寧に呼んでいただくような者ではありません。マディラ様が信頼を寄せるのは私の父ジェラルドで、私ではないことぐらい、承知しております」

 幼き日からずっと、パトリシアはジェラルドの娘でしかなかった。自分自身として認められようと、がむしゃらに騎士団で男勝りに振る舞ってきても、いつもどこかで『自治領主の娘だから』と甘やかされてしまうのだ。

 それが心苦しく、パトリシアは自分を女だからとか領主の娘だからと甘やかす人々と徹底的に戦ってきたつもりだった。時にすぐに手を出す乱暴者のじゃじゃ馬と苦笑されつつも、自らを認められるために必死にやってきたつもりだ。

 それが普通で当たり前すぎて、リッツに正面切って『可愛い』といわれるまでは自分が女であることも軽く忘れていたぐらいだ。

 だが気がつくと、やはりこうして一番安全な部隊に、しかも護衛まで付けられてしまって配属されている。自分に力がないからなのか、領主の娘だからなのか、考えても結論が出ない。どちらもと言われるかもしれない。

 それでもパトリシアは率直な答えを聞きたいのだ。ただ柔らかく周りから守られるだけでは、もういられない。エドワードとリッツの二人は英雄としての重荷を自ら背負った。二人を守ると決めたのだから、戦力として部隊に関わる自分でいたいと切実に願っているのだ。

 じっと見つめていると、マディラの瞳がふと和らいだ。穏やかにほほえみが広がっていく。

「では遠慮無く呼ばせて貰うわ。パトリシア。私はもともと平民の出ですもの、こちらの方が楽よ」

「私も男所帯で育ったから、その方が楽よマディラ。それに私、自分の考え方が貴族だというのを痛いほど感じたばかりなの。マディラが伯爵夫人で自分が侯爵の娘だから偉そうな言葉を使っているような気がして、それが心苦しい」

「パトリシア……」

「壊すべきだと思っているものにしがみついているのはおかしいでしょう? だから変わりたいの」

 少し前までそんな自分に気付いていなかった。シアーズからの使者が来た後、部屋に戻るふりをして聞いていたリッツの言葉で、初めて自分が貴族世界から離れられていないことに気がついたのだ。

「そう思うこと自体が、貴族的かなマディラ?」

「いいえ。立派だと思うわ。でもね、パトリシア。すべて捨て去る必要も無いんじゃないかしら?」

「……そうなのかな?」

「ええ。ねえ、貴族はみんな悪いと思う?」

 唐突な問いにまじまじとマディラを見ると、穏やかに微笑まれた。逃げることが出来ない問いかけに、自分自身と向き合いながら、パトリシアは言葉を探す。

「……思わないわ。だって私も、お父様も、カークランド様も、マディラも、サウスフォード様も貴族だもの」

「そうね。でもこの革命、一歩間違えば貴族狩りになるわ。それを止められるのは、平民感覚と貴族の誇り、どちらも知る人でなくてはならない。その役割はきっと、殿下やアルスター様では負えない」

 言われて初めて気がついた。エドワードとリッツの二人の向いている方向は、貴族を倒し、現在のこの国を変えることに他ならない。でもそれはこの貴族社会を壊すことでしかない。当然貴族ではない者たちは喜んで従うだろうが、いずれ貴族である革命軍幹部にもその憎しみが広がるかもしれない。

 戦いの後、真っ直ぐに前を向き続ける二人をフォローし、解放した街を平穏へと導くために、貴族と革命軍、ひいては平民の橋渡しを行う人が必要だ。「私がすべきことは戦うことだけじゃないのね? それは……エディやリッツと違う?」

 呟くような問いかけに、マディラは小さく頷いた。

「そうではないかしら? 私とフレイの役割が違うように」

 現在マディラの夫、フレイザー・カークランドが行おうとしているのはまさにそれかもしれない。元々支配していた人々が去って後、人々の間から不満が出ないように気を配っているのはカークランドなのだ。

「でもマディラ、貴族と平民の橋渡しは、カークランド伯がなさっているのでしょう? 私が口を出すことじゃないと思うわ」

 その仕事に力を注いでいる人がいるのならば、その邪魔をすべきではない。今までそう思ってきたから率直に尋ねると、マディラは小さく頷いた。

「ええ。でもねパトリシア。フレイはあくまでもオフェリル第二位の貴族であり、どちらかと言えばアデルフィーに引きこもっていた存在よ。知名度、存在共に、平民に訴えかける力が少し足りないと思わない?」

 カークランドの妻を目の前に頷くには気が引けたが、曇り無い瞳でパトリシアを見つめるマディラに、小さく頷いて見せた。気を悪くするでもなく、当然のことを受け止めたように、マディラはごく自然に頷いて笑う。

「そうでしょう? ではもっと知名度がある方がそれをするのが適切じゃないかしら?」

 確かにカークランドには知名度がない。絶大な知名度を誇るのは、むしろグレイン自治領主であり、元々は軍の総司令官だったジェラルドの方だ。その上ジェラルドは、ハロルド元国王の愛妾バルディア夫人の相談役としても名が知れている。その娘であるパトリシアならば適任であるといえるだろう。

 でもやはりわだかまりはある。

「だけど、人の仕事を横取りして、利を得るようなことをしてはいけないでしょう?」

 カークランドは仕事をし損じたわけではない。未だその仕事に力を入れている。それをパトリシアが横から口を出すなんて、はしたない行為だ。

「あら、あくまでも謙虚な貴族令嬢ねパトリシア」

「なっ……!」

 あまりの言葉に絶句すると、マディラに真摯な瞳でじっとみつめられた。相手が騎士団だったり言い返すし、リッツだったら殴り返すところだが、マディラの目を見たらいい返せない。言葉が出ずに黙ったまま唇を振るわせていると、マディラがにっこりと微笑んだ。

「人の後ろに一歩下がって、殿方に恥を欠かせないのも大切だけれど、民衆のために一日も早い平穏を取り戻すことの方が必要じゃないの?」

「あ……」

「私とフレイはそう考えるわ。それが平民である私と伯爵であるフレイの間にある、この国に平穏を取り戻すための、たった一つの決めごと」

 そういったマディラの笑顔は今まで見たどんな女性よりも輝いている気がした。目指す大きな夢のために、遠慮や引け目などを恐れず、最も大きく前に進むための方法を選び取る。それがカークランド夫妻の選んだ道なのだ。

「守るべき事、やるべき事、それは人それぞれに違うわ。ならばあなたのやるべき事も、あのお二人とは違う。そう思わない、パトリシア」

 大人として、身分の差を乗り越えた者としてのマディラの言葉に、何も言えなかった。

 でも何をすべきなのかは少しずつ頭の中で形を取り始めている。ジェラルドの娘であるパトリシアは、民衆と共に生きようとする数少ない貴族たちと民衆を、お互いが無意味な憎しみで傷つけないように心を配る必要がある。

 共に戦場に出ることだけが守ることではない。自分のなすべき事をなすことが、英雄となった仲間を守ることに繋がるのかもしれない。

 パトリシアの役割はそこにある。

「これからアーケルの街を開放するけれど、私がすべきことって何だと思う?」

 飾らずに、そして率直にマディラに聞く。

「すべてのアーケルの人々に微笑みかける事かしら。共に生きる者は、貴族であろうと平民であろうと関係ないと」

 そういったマディラの笑顔は眩しい。

「パトリシア」

 考え込んでいると呼びかけられて顔を上げる。

「きっとモーガン侯もそれを望んでこの部隊にあなたを配属したのではないかしら? 決してあなたをお荷物だとか、仕方なくこの部隊に組み込んだりはなさらないと思うの」

 穏やかに微笑みながら、マディラはパトリシアの悩みのあっさりと答えを提示する。言葉を失って見つめると、静かにマディラは小首をかしげた。

「それがずっと引っかかっていたのでしょう?」

 一瞬虚を突かれたが、それこそが聞きたいことだったから力が抜けた。気張っていろいろな言葉で感情を飾っても無意味なのだ。階級を超え、人と人との付き合いをするとはきっと、飾り立てることではない。

「何故分かったの?」

「ふふ。簡単な事よ。あなたはグレインの作戦会議中は張り切っていたけれど、それぞれの配属や役割を割り振った時から、とても不本意という顔をしていたわ」

「え……?」

 自分では表情に出したつもりは全くなかったし、それを指摘されたのも初めてだ。

「顔に出るなんて思わなかった……」

 呟くと、マディラが柔らかく微笑んだ。

「本当は、殿下やアルスター様と行きたかったのでしょ?」

 図星を指されてまだ言葉に詰まる。

「でもあちらは少数精鋭を集めた部隊。あなたが入る余地はなかった。殿下はグレイン騎士団、アルスター様の方はダグラス隊と第三隊ですものね」

「私だって風使いだわ。役に立つはずよ」

 言い訳のように口の中で呟いたが、マディラは聞こえているだろうにあっさりと無視して笑う。

「ねえパトリシア、あなたがいるのといないのとでは、本隊の役割と士気が違うの。それを知っている?」

「役割と士気……?」

 思わず眉を寄せてしまった。役割はおぼろげだが理解してきた。アーケルの人々に笑顔で近しく接することによって、革命を階級の無い争いにつなげていくことだ。

 でもそれならファルディナへ入り、シアーズ街道を南下してくる騎士団の部隊に入ってもよかったはずだ。なのに護衛まで付けられて、最も小さな戦闘を制する、この本隊に組み込まれたことが不本意なのだ。

「ねえパトリシア。ブルガンの街へは誰が行った?」

「え……? リッツとギルね」

「ではファルディナは?」

「エディとお父様よ」

「ではアーケルは?」

「私とマディラとサウスフォード様?」

 口に出して初めて気がついた。ほぼ同時に解放をするこの三つの街それぞれに、いずれも名の知れた人間がいるのだ。でももしパトリシアが別の部隊に配属されていたら、ここはコネルとマディラに託されただろう。

 だがコネルは元々シアーズ出身でこの辺りに知名度は低い。そしてマディラは革命軍が組織されるまでは、オフェリルの小都市の護衛団長でしかなかった。この二人はここファルディナにおいて圧倒的に知名度がないのだ。

「気がついた? もしあなたがモーガン侯の言葉を聞いてグレインに残っていたならば、この部隊を率いたのはおそらく、モーガン侯御自身だったはずよ」

「お父様が……?」

 だとすれば本隊は、守られているばかりの安全な部隊ではないはずだ。

「そして私が殿下のお供をし、その後エリクソン団長の代わりに北部へ赴いたはず。この布陣を見るとそれが正しいと思うわ」

「……確かに……そうね」

 考えてみれば今パトリシアがいるこの立場にジェラルドがいるのが一番しっくりくる。

 ジェラルドが本隊をコネルと共に率いていれば、その堂々たる偉容を見ただけで、革命軍の力に期待するだろう。

「だけど考えてみてパトリシア。そうなるとファルディナの街を把握し、解放することが少し遅れるわ。モーガン様は自治領主としての実績があるけれど、殿下だけでは実務面に問題が出るはずだもの」

「ええ」

 エドワードは常にジェラルドについて勉強をしてきたが、それは完全ではない。エドワードに任されていた仕事は全てグレインでのことだったし、他の自治領区を突然管理するのは難しいだろう。

「モーガン侯がこの本隊にいたならば、アーケルを完全に解放してからファルディナへ行かなければならない。そうなればファルディナの管理は遅れる」

 そうなれば確実に、ファルディナの街が平穏になるのに時間がかかってしまう。

「もちろん推測よ。もしかしたら殿下はお一人でもファルディナを解放して、管理をしてしまうかもしれないわ。でもモーガン侯がおられれば、間違いなくそれは早くすむ。それはきっとファルディナの住民からすれば嬉しい事でしょう?」

「ええ」

「おそらくモーガン侯は、あなたがグレインに残らないことなど承知の上だったのではないかしら? だからあなたを信頼して本隊と共に行かせた。ファルディナの街を早く完全に解放し、革命軍への信頼を高めるために」

「……そうなのかしら……」

 そんなことがあるだろうか。パトリシアから見るとジェラルドは、いつもパトリシアのやることを全て心配して先に手を回そうとする男親だ。

 表向きたくましく強くと育てているが、本当は戦いから離れてほしいと望んでいるはずの人だった。それなのに、こんな風に娘を信頼してくれるものだろうか。

 黙り込むと、今まで黙ったままいたコネルが口を開いた。

「安全な戦場なんてどこにもないんだぜ、お嬢。戦いはいつ何時、どう状況が変わるか分からない。この本隊だって安全だと言い切れないさ。万が一のことだってあり得る。もし俺たちの行動が全て敵に読まれていたらどうする?」

「本隊が……一番危険ね。アーケルの私兵と、考えたくないけれど王国軍に挟み撃ちにされる可能性もある……」

「そういうことだ」

「一人だけ安全な部隊に入れられたなんていう私は、世間知らずだということね?」

 真っ直ぐに見つめ返すと、不敵な笑いを浮かべながらコネルが頷いた。

「ああ。まあ元帥閣下は用意周到な方だ。情報もかなり重要視しているから、今の状況ではこの本隊が一番安全だろう。だがいいか、俺たちは戦争をしているんだ。戦いに赴く限り、絶対の安全はないんだ」

 それは戦ったことのある者だけが語る真実だった。コネルもまた、ギルバートの部下として、東の隣国フォルヌ王国と戦ったことがあるのだろう。

 現在、フォルヌとユリスラは戦争状態にない。フォルヌはユリスラとは逆のサーニア連邦と戦っているはずだ。フォルヌの現王は戦争好きで知られ、細かな諍いを起こすのだが、同時に二つの戦争を抱えるほど馬鹿ではない。

「ごめんなさい。状況を軽く見ていたみたい」

 素直に謝ると、コネルはため息混じりに腕を組む。

「分かればいいさ。第一、俺の率いる部隊が安全で、あのくそガキが死地に向かってるなんざ、胸くそ悪いしな」

 その素直ではない口調に、リッツを気にかけている様子が分かった。どうやらコネルが妙にリッツに突っかかるのには何か理由があるようだ。

「サウスフォード様はリッツが嫌いなのかしら?」

「嫌いだね。他人のために命をかけるのはいいが、自分の命を無価値に考える奴は好きになれないな」

「命が無価値ですって?」

「そうだ。友の命は何より重要だが、自分はいらないから代わりにやるなんて言いやがる。ああいう奴は率先して死ぬ。死に急ぐ奴を信頼できるわけ無いだろう」

 淡々とそういったコネルに、ふとまだリッツがエドワードの小屋で一人エドワードを待って暮らしていた頃のことを思い出す。

 ティルスに仕返しに来るダネル・クロヴィスを陥れるために、穴を掘りに来た時、パトリシアはリッツの生まれと苦悩を聞いた。

 あの時は、同情的な気持ちと嫌悪感がない交ぜになって、リッツにひどい言葉をぶつけたのだった。

 そういえば今までリッツと、向き合ってちゃんと話したことなど無かった。コネルが言うように自分の命が無価値だと思っているのなら、リッツを認めている仲間たち対してあまりにも失礼だ。

 特にエドワードには失礼すぎるだろう。エドワードにとっての、リッツという存在の大きさは、パトリシアも知っている。

 パトリシアは物心が付く前からずっと、エドワードという人を見てきた。時に兄として、時に憧れの騎士団員として。でもエドワードはいつも静かな笑顔を浮かべて、自分の心を深く奥底に閉じ込めた人だった。自分に厳しく自制心が強く、弱音を吐いている所など、見たことが無かったのだ。

 いつもエドワードは完璧で、完全だった。そんな完璧なエドワードに常に憧れ、尊敬のまなざしを向けていた。今なら分かるが、エドワードはあの頃、隙など無いぐらいに張り詰めていたのだ。

 でも彼は変わった。当然、いい方向にだ。

 リッツがこなければ夜遊びから帰ってこないで、明け方リッツと二人、玄関ホールで眠っているエドワードを見ることはなかっただろう。娼館に遊びに行って、真夜中こっそりモーガン邸に戻ろうとした二人を怒鳴りつけて、げんこつを同時に頭に落としたりもしなかっただろう。

 最初の頃は本当に驚き、本当に呆れ、エドワードを堕落させたとリッツを恨んだこともある。

 でもその頃からエドワードは少しずつだが、パトリシアに穏やかさだけではなく、楽しげな笑みを見せるようになっていった。今までのただ穏やかだった笑みに、本当の穏やかさがにじみ出るようになった。

 そんな変化にパトリシアは時に戸惑い、時に喜んだ。エドワードが知らない人になっていくようで怖かったけれど、同時に少しずつこちらに歩み寄って来くれているようで複雑だけど、嬉しかった。

 リッツへの憎しみはやがて、パトリシアの中で嫉妬と、感謝に変わっていったのだ。 

 もしエドワードにリッツがいなければ、一週間の休暇の後、穏やかな表情でパトリシアとシャスタを抱きしめ、すべてを静かに微笑んで受け入れるエドワードにはならなかった。

 自らを律し、孤独を受け入れるだけではなく、信頼する人に手を伸ばしたエドワードは心穏やかに見えた。何の迷いもなく前を向いているように見えた。

 昔、彼の前にうっすらと漂っていた孤独感は、吹き消したように消え去っていた。そのことでエドワードは更に、王国を救うための決意を固めていったのだ。

 その変化をずっと間近で見てきたパトリシアは、エドワードの変化と共に自分の心も変化してきていることに気がついた。憧れ、尊敬していたエドワードへの想いが、かすかな痛みを伴う淡い恋心にと変わっていったのだ。

 当然そこにはやはり、リッツという存在が絡んでいる。リッツが時折、もの問いたげな顔でこちらを見ている視線には、前から気がついていた。何か言いたいことがあるのかなと思いつつも、リッツに問いかけることはしなかった。なにしろパトリシアは変わっていくエドワードを見ていることと、馬鹿なことをしでかすリッツを怒ることに、忙しかったからだ。

 でも盗み聞きしたときに、リッツの気持ちを聞いてしまった。その時は自分へ想いを寄せてくれる人がいることに正直に驚いた。それが冷たく当たっていたリッツだったことに更に驚いた。正直、今でもリッツとどういう態度で接して良いのか分からない。分からないから、つい素っ気なくしてしまう。リッツもそれを分かっているのか、妙に突っかかってくるようになった。

 そんなリッツに対する戸惑いと迷いが、パトリシアに自分の想いを自覚させた。

 リッツのことは好きだけれど、それでもエドワードのようには好きになれない。そう考えた時、エドワードへの想いがいつの間にか恋愛感情に変わっていたことに気がついたのだ。 

 王太子と領主の娘。兄と妹のような存在。絶対に敵わない、想えば想うほど辛い、そんな恋だけれど。

 リッツによってエドワードが変わったことで、パトリシアの中の何かも変わっていった。止まっていた時や想いが、少しずつ動き出したような、そんな気もするのだ。

 道ばたで死にかけていたたった一人の精霊族が、王国という重荷を背負った一人の人間を癒し、強くしていく。そのことで周りが徐々に変わりはじめ、少しずつ人の心も動き始めた。考えてみればすごいことだ。

 そこまでエドワードを変えたリッツだが、おそらく本人はそんなことに気がついてない。

 彼の命が無価値なわけがない。エドワードにとっても、そしてそんなエドワードを物心が付いてからずっと見ていたパトリシアにとっても、リッツの命には大きな価値があるのだ。

「サウスフォード様」

「何かな、お嬢?」

「今度会ったら、物わかりの悪いあの馬鹿を一発殴っておきますわ」

 唐突な言葉にコネルは目を白黒させたが、やがて頭を掻いた。

「ま、お嬢に殴られれば少々目が覚めるだろう」

「ええ。だから申し訳ないけど、命を投げだそうとしたら、サウスフォード様も殴ってやってくださいませ」

 きっぱりと言い切ると、コネルは大げさにため息をついて首を振る。

「……あいつ、分からずに殴り返してきそうだがな」

「そうなったら、私が後でサウスフォード様が殴られた三倍殴ってやりますから、ご安心を」

「いずれにしろ俺は殴られるんだな」

「ええ。男は拳で語るんでしょう? 前にそんなことを、騎士団員が話していたのを聞いたことがありますわ」

 済まして言うと、コネルは吹き出した。

「違いない。まあ、若者の目を覚まさせてやるのは年長者の仕事だ」

 お互いにリッツが年長だと知っているから、どことなくおかしくなってしまう。あのリッツを見ていると、リッツが将来大人として年下の面倒を見ている姿が想像も付かないのだ。そもそも落ち着いたリッツを想像することができない。

「悩みが無くなったのは何よりね、パトリシア」

「ええ。ありがとう、マディラ、サウスフォード様」

 素直にお礼を言うと、肩をすくめたサウスフォードは片手をあげる。

「そのお礼はこの作戦が成功したときにまた聞かせてくれ。お嬢の手も借りるが、戦いは俺たちの分野だ。戦場は任せろ」

「ええ」

「では改めて、アーケルで民衆に向けての宣言を考えておいてね」

「……宣言……」

 シアーズで精霊族の戦士として宣言をしたリッツ、グレインで王太子宣言をしたエドワードを思い出して、初めて彼らの気持ちを知った。言葉を人の心に伝えるのは難しいだろう。責任重大だ。

「宣言って……」

 パトリシアは苦悩した。

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