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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
莫逆の誓い
64/179

<3>

 ルサーンとシグレットとの密談から数日、リッツはファンやラヴィと共に、一般庶民の格好をしてほどほどの宿に泊まり、時が過ぎるのを待っていた。

 同じ宿には、元騎士団第三隊のマルヴィルたち数人の姿もあったが、声を掛けることは禁じられている。作戦上、知らない者同士でなければならないからだ。きっとみんな分散してあちこちに泊まったり潜伏しているのだろう。

 あまり街を出歩くことのできないリッツにとって、一階に雰囲気のいい酒場が併設されているこの宿は、もってこいの場所だ。その上、宿の窓からはブルガンのジョエル伯爵の邸宅が見える。正面にあるわけではないが、もし大きな動きがあれば、ここから見られるだろう。

 ギルバートは相変わらずあの高級ホテルに泊まっているようだが、いったい何をしているのかまでは分からない。ただ分かっていることは、作戦は見えないところで徐々に進行中であり、リッツが気を揉んでも仕方ないことぐらいだ。

 それに何となくギルバートに会う気もしなかった。ギルバートに与えられた宿題はことあるごとに頭をよぎり続けているが、答えがまるで出てこないからだ。

 手にしていたグラスの中身を一気に飲み干すと、豊かな香りの後にかすかに甘い苦みが口に残った。前にグレインの街でエドワードにおごって貰って以来、口にするのはこのバーボンだった。この酒場に最初に来た日に入れたボトルも、すでに半分ほどになっている。

「暇……」

 呟きながらグラスに再び酒を注ぎ入れる。今日はファンもラヴィも出かけていて、珍しくリッツは一人きりだった。だからカウンターに座って、一人グラスを傾けているしかない。

 一人きりで部屋にいるよりは、こうして差し向かいにでも店の主人と話している方がましだ。だから食事をしてから、リッツは意味もなくここでぐだぐだとくだを巻いているのだ。

 その主人の隣には、見た目だけならリッツと同年代ぐらいの青年がいる。彼は楽しげに革命軍がやってくるという噂話を口にしている。時にはその話を聞きたいと、オフェリルから来た人々を捕まえては話を聞き回る有様だった。

 どうやら青年は、未だ見たことのないエドワード王太子という人物に夢と期待を馳せているらしい。彼の夢見るような目つきは、どことなく妄信的で見ていると少々危うい気がして、眉をしかめそうになってしまう。

 でももしかしたら、国民の大半がエドワードの存在をそう見ているかもしれないのだとも思う。やはりエドワードという王太子の存在は、国民にとって大きいのだろう。

 エドワードはまだ何かを成し遂げたことはない。ただ自分が正当な王太子であると宣言しただけだ。でも不出来な偽王に絶望していた人々にとって、新たなる希望の種は、必要以上に輝かしく見えることは確かなようだ。

 この期に及んでようやくリッツは、エドワードの立場の重さを身をもって実感できるようになった。エドワードが背負うことに苦しんだ重圧のすさまじい重さを身をもって知ったのだ。

 それでもリッツは民衆たちのように、エドワードに対して態度を改めようという意識が生まれてこない。リッツにとってのエドワードは、あくまでも友である。尊敬できるところも多々あるし、エドワードのために命をかけることも厭わないが、それでも崇めることはできない。

 でもここファルディナのように、難民が増えた自治領区の住民にとってのエドワードは救世の英雄なのである。その英雄を作り上げるために、裏で戦場を整える。それが革命戦争だ。

 ため息混じりにグラスを見つめる。グラスの中にはなみなみと注いだバーボンが、小さく波を作っている。高価なホテルと違って、氷一つ無いが森と川に囲まれたここファルディナは、とても蒸留酒が旨いところだ。

 店内に設置されたオイル灯や、キャンドルからこぼれる暖かな光に、琥珀色がよく映える。深い琥珀色は、ギルバートの目と一緒だ。片方しかないあの瞳は、時に厳しさを帯びてリッツを見つめる。

『お前はまだ無知で、その上何かをはき違えてる。特に人と人との駆け引きにおいてはどうしようもないほどな』

 ギルバートに言われた言葉が突き刺さる。無知はやはり罪なのだろうか。だからギルバートの宿題の意味が未だに理解できないのだろうか。それにいったい何をはき違えているのだろうか。何が間違っているのだろう。

 考え出すとどうしようもなく心が重い。誰かに相談したくても、話を聞いてほしくても、ここにエドワードはいない。リッツの中でそんな相談をじっくりと聞いてくれるのはエドワードしか思いつかなかった。

 でもリッツはいつまでも今までのように無邪気にエドワードに尋ねてばかりもいられない。もっとエドワードの役に立つように、共に戦えるようになりたい。ローレンとエドワードの夢を叶えるために。

「……ギルになりたいな」

 ぼそっと呟いてしまった。本人に聞かれると嫌だが、最近リッツはそう思っている。

 ギルバート・ダグラスのようになりたい。どんな時も悠然と構え、リッツのような未熟者がいればからかいの中にも真剣な感情で向き合い、何にも動じることなく、そしてあの大剣を使いこなせるほどに強い、彼のように。

 でもそれはとても難しいことだと、リッツは知っている。

 おそらくギルバートは自分に恐ろしく厳しいのだ。そしてなにより、リッツのように生きることを恐れてはいない。生きることも死ぬことも、恐れずに立ち向かっているから、ギルバートは強い。

 ため息混じりに頭を掻くと、耳篭に当たった。この耳篭は重宝している。こうして常日頃から愛用するようにしていれば、精霊族として人々の興味を引くこともないだろう。人間に紛れていたいリッツにとっては、おそらく長く使う便利なものになりそうだ。

 グラスを黙って傾けると、不意に肩を叩かれた。見上げると、背の高い青年が立っている。ファンと同年代ぐらいの青年だ。身なりがよく、かなり整った顔立ちをした青年で、薄茶色の長い髪を後ろで一つに束ねている。

「何?」

 考え事をしていたからぶっきらぼうに尋ねると、青年は穏やかに微笑み、隣に腰を下ろした。

「隣、いいかな?」

「……もう座ってるじゃん」

「はは。そうだね」

 柔らかく笑うと、青年は店の主人にワインを頼んだ。そんな青年をリッツは遠慮無く観察する。

 確かに見たことがない青年のはずだが、妙に馴れ馴れしい。もしかしてギルバートが方々に自分の密偵を潜ませているように、こちら側にも自治領主側からの密偵が来たのだろうか。

 そう思うと少し緊張する。そんなリッツのかすかな緊張感に気がついたのか、青年が片手を出した。

「初めまして。リッツ。ランディア自治領区ガヴァン伯爵家の放蕩者の次男坊ジェイムズ・ガヴァンだ。ガヴァン卿といわれるのは嫌いだから、ジェイムズと呼んでくれ」

「あ、うん……ん?」

 男の手を握ってふと気がついた。何でリッツの名前を知っているのだろう。この街ではフェイとしか名乗っていないはずなのに、この男には正体を知られているらしい。緊張感で顔が引きつるリッツの顔に気がついたのか、ジェイムズと名乗る男が柔らかく微笑んだ。

「ごめんよフェイ。こちらの方がよかったね」

 リッツを見て穏やかに笑っているのに、男の目は笑っていない。一気にリッツの中で緊張感が増した。かすかに周りに気を配る。もしも店の中で大立ち回りなんてことになったら大変だ。潜入作戦も、今後の行動も全部ばれてしまう。

 じゃあどうしたらいいんだろう。もしそうなったら目撃者はみんな消してしまえば万事うまくいくのか?

 店の中にいる人数を数えると、幸いなことに自分たちを含めても七人だ。これなら一人で何とかなるが……罪もない民間人に手を出してリッツがエドワードの軍に所属すると知られれば、エドワードの名声が地に落ちる。

 グラスを持つ手の平に、じんわりと嫌な汗がにじんできた。その時だった。主人からワイングラスを受け取ろうとしたジェイムズが、グラスを取り落としたのだ。

 ワイングラスは主人の手を離れ、ジェイムズの手からも離れて床に落ちて粉々に砕けてしまう。ワインは緊張のあまり固まっていたリッツの体にも飛んできた。赤ワイン独特の芳醇な深みのあるブドウの香りが立ち上る。

「ごめんごめん! マスター、箒をくれないかな?」

 慌てたジェイムズに頼まれて、主人があたふたとカウンターから物置に走る。

「ごめんよフェイ、濡れちゃったね!」

 言いながらジェイムズは、ポケットから出したハンカチで、リッツにかかったワインを拭き取る。

「あの、俺、自分で……」

 慌てて自分のハンカチを探すと、リッツに密着してきたジェイムズが、びっくりするほど顔を寄せてきた。思わずのけぞると、ジェイムズが小声で話しかけてくる。

「もう、何びびってんのよぉ。私よ、私」

「へ?」

「私の本名知ってるくせに。わざとなのぉ?」

 その声と口調には嫌と言うほど聞き覚えがあった。でもきっとこの格好には意味があるだろうから、周りをはばかりながら小声でで尋ねる。

「……ベネット……?」

「そうよ。気がつきなさいよね、お馬鹿。注意力散漫って、本当にチノが言ってたとおりだわ」

 綺麗にリッツのワインの染みを叩いて拭き取ったジェイムズ……ダグラス隊の女装の大弓使いベネットは、穏やかな笑みを浮かべてリッツから離れた。そのすぐ隣には、箒を持った店の主人がいる。それに気がついて態度を戻したのだと気がついた。

「すみませんガヴァン卿。片付けますから」

「いいんですよ。すみません。僕も少しぼんやりしていて」

 先ほどまでの感じのいい青年に早変わりしたベネットは、穏やかに微笑みながら主人と話している。リッツが呆然としている間に、ベネットはさっさと店の主人と相談して、店の片隅の席に移動してしまった。どうしたらいいのか戸惑う、リッツを笑顔で手招きする。

「フェイ、ワインをかけてしまったお詫びだ。おごるから一緒に飲まないかい?」

 言葉だけを聞くと、とても親切で穏やかに聞こえるが、中身がベネットだと分かった時点で何を考えているのかさっぱり分からない人物になった。

 だが一応今もダグラス隊に関わっているし、幹部連中には頭が上がらないリッツに断るすべはない。言われるままにグラスとボトルを持って移動すると、ベネットはその席でワインとチーズの盛り合わせを注文した。

 周りから人が消えたのを見計らって、ベネットが小声で語りかけてくる。

「本当にもう。あんたは注意散漫ねぇ~。チノも簡単に暗殺できるって言ってたわよ。それにもしも私じゃなくてこれがヴェラだったら、もうあんた、毒飲んで死んでるわよ」

「……うん……」

 本当のことだから頷く。それは自分でも分かっているのだ。

「表面上は楽しく会話をしても、相手の素性が知れない時には、細かに観察なさい。表情、筋肉の動き、かすかな手の動き。そういうことに気を配れば、少しはましになるわよ。いつもいつもファンやラヴィがそばにいる訳じゃないんだからね」

 小声でリッツに説教する口調は女なのに、いつもの女らしい所作は影を潜め、男らしく足を組み、グラスを傾けるベネットに感心しつつ、軽く反論する。

「俺だってさ、本当に悪意を持っている奴ならすぐに見抜けるよ。でもさ……」

「悪意のない奴は見抜けない? 悪意無く立って襲ってくる奴はいるわよ」

「ダグラス隊みたいに?」

「そ。遊びで半殺しにするわよ、うちの幹部は」

「知ってるよ。身をもって体験したし」

 むくれながらグラスを傾けると、ベネットはため息をついた。

「あんたは気配に聡いし、気がつこうと思えば気がつける子だと思うんだけどねぇ……」

 呟きながらチーズをピックで突き刺したベネットの前で、リッツは俯いた。この間ギルバートに言われたのと似たような言葉だ。

 黙っていると、ため息混じりにベネットが切り出した。

「それで?」

 口調は男のものになっている。顔を上げて周りを見渡すと、一組客が帰って静かになってきていた。それでもまだ人の話し声に紛れてどんな口調かなんて分からなそうなのに、気を遣っているのだ。

「何が?」

「ずいぶん落ち込んでたようだけど、どうかした?」

「落ち込んでなんて……」

「虚空を睨んで一人グラスを傾けながらため息をつくのを、落ち込んでるって世間では言うんだ」

「……」

「覚えておくんだね」

 返す言葉もない。強がっても所詮無意味なのかもしれない。

 傭兵隊の面々は、元々戦場にいて、命の危険と隣り合わせだったと聞いた。つまりリッツとは、生き抜く環境が違う。その環境で暮らしてきた彼らだから、正直ダグラス隊に何をされても嫌いになれない。彼らはリッツと違って、思い残すことがないよう、日々生きることを楽しんでいるからだ。

「悩みぐらい聞くよ。こう見えて僕はおそらく幹部で一番母性本能が強いからね」

 堂々と言い放ったベネットに、苦笑する。

「……確かに」

 ダグラス隊幹部の女はソフィアとヴェラの姉妹だけだ。ヴェラはあの性格だし、ソフィアは誰よりも男らしい。そう考えてみると、性別が男だと言うことを除けば、一番ベネットが女らしい。

「どうする? 話すかい? よし、今日だけ相談無料にしてあげよう」

「いつもは有料かよ?」

「決まってるだろ? 酒のいっぱいでもおごってもらえないと割に合わない」

 ベネットは、ダグラス隊の面々がよくする、人を喰ったような笑みを浮かべて、片目を瞑った。やっぱりベネットはベネットだ。

「じゃあ俺、一杯おごるよ。だからちょっとだけ聞いてほしいんだ」

 このまま煮詰まった頭でいると、いざという時困る。リッツは意を決して話し出した。

 ギルバートと一緒にルサーンとシグレットと会った時に息子に仕立てられたこと。どうしてあの場のリッツがギルバートの息子でなければいけなかったのかを考える宿題を出されたこと。そして頭が回るのに無知ではき違えていて、駆け引きができないと言われたことを、すべてを話す。

 その間、いつもは口数の多いベネットだが、上手く相づちを打って黙ったまま聞き続けてくれた。全部話してグラスに口を付けたリッツに向かって、ベネットが穏やかに口を開いた。

「なるほど、一つ分かれば芋蔓式に分かりそうな問いかけだね」

「芋蔓式?」

「そう。ねえフェイ。君は人の悪意に敏感だって言ってたね? だから悪意には気がつくって」

「……うん」

 子供の頃からそうだった。闇と光の合いの子であるリッツは、幼い頃から悪意にさらされていて、その悪意を見抜けなければ大怪我を負うこともあったのだ。生きるためには人の悪意を見抜くことが一番重要だった。

 正直に頷くと、ベネットはからになったグラスをカウンターに掲げて主人に声をかける。

「ボトルを一本。オフェリルの二十八年もの、ある?」

「ありますよ。当たり年ですからね」

「じゃあそれを。グラスは二つで」

「今お持ちします」

 主人とのやりとりを終えたベネットが、穏やかな顔でリッツを見つめる。

「さあ問題です。僕は今、君を殺そうとしているでしょうか、していないでしょうか?」

「え……?」

 思わずじっとベネットを観察する。すると片方の手が不自然に握り締められていることに気がついた。いや、ごく自然なのだが、握りしめられているにしては、かすかに拳の開きが大きい気がするのだ。

「殺そうとしている……?」

「正解」

 いいながら開いたベネットの手の中には、とがった髪飾りが一つ握られている。女装姿のベネットがたまに身につけている代物だ。その先が異様に鋭いことに初めて気がついた。

「ね? 僕は悪意を持っていないけれど、君を殺すことができる。だけど注意深く見れば君だって僕の手の中に不自然な何かがあることに気がつくだろう? 僕とチノが言う注意力散漫って、こういうことなんだよね」

 リッツは黙って頷いた。ベネットに問いかけられるまで、その髪飾りの存在に全く気がついていなかったからだ。

「君は僕らにかなり信頼を置いているね。僕らはそれは嬉しいんだ。何しろ君は我々の可愛い玩具だ」

「玩具……」

 不本意だが、ダグラス隊の面々からしたら、リッツの扱いなどそんなものだ。不承不承の呟きにベネットは肩をすくめて笑う。

「だから僕らといる時は、警戒することを忘れているだろう? 僕らに対しても僕ら以外に対しても」

 言われて初めて気がついた。確かにダグラス隊との関係に安心しきっている自分がいる。ファンとラヴィがいつもいたから、周りへの警戒を怠っていたのかもしれない。

「そうだね……」

 シアーズでダグラス隊にことあるごとに狙われていた頃は張り詰めていたけれど、シアーズを出て共に行動するようになり、攻撃もされなくなってからは、完全に警戒心を解いていた。それがまさか、ダグラス隊といる時以外の油断につながっているとは思わなかった。

「じゃあチノはそれが言いたかった?」

「そうだろうな。だって君の飼い主がキングなら、君だってそれに類するんだ。クイーンではないけど、ビショップぐらいかな?」

 それは結構上位のはずだ。自分をそんな立ち位置に置いたことなんて無かった。黙ってしまうと、小さく息をつかれた。

「君は自覚が無すぎるよ」

「……俺は……別に死ぬことなんて……」

 怖くない。もしかしたら、怖くないから警戒心が無いのだろうか。

「ほらほら。その態度はどうだろうな。君が自分の命に執着できなくたって、君が死ぬことは我々の打撃になる。だから注意力を持ち続けるべきだ」

 そういったベネットは、近くに来ていた主人の息子と思われる青年からグラスとボトルを受け取とろうと手を伸ばす。

 だが青年は、わざとベネットに手渡さずに、グラスをテーブルに置き、ボトルを音を立ててテーブルにおいた。

「ああ、ありがとう」

「……ごゆっくりどうぞ」

 言葉は丁寧だが、明らかにベネットに対して不快感があるようだ。その理由が分からずにベネットを見ると、ベネットは肩をすくめた。

「あの子は、僕がスティーヴンス侯爵の客だって知ってるんだ」

「え……?」

「僕はね。今下働きのメイドを一人連れて、ランディアから気ままに旅をしているんだ」

 あっさりと言われて目を見開く。そういえばベネットとヴェラが自治領主のところに潜入していると言っていたが、こういう形で潜入していたのだ。リッツはヴェラのことだから、また色仕掛けを使ったかと思ったのだが、違ったらしい。

「あの、ランディアのガヴァン伯爵家って……?」

「ああ。僕の実家」

「! 伯爵なの!?」

「違うよ。伯爵は兄貴が継ぐはずだ。僕は今は伯爵の息子で、将来、伯爵の弟になるんだ。伯爵になることは無いよ。永遠に伯爵の親族さ」

「だって兄貴に何かあったら……」

 声を潜めて尋ねると、楽しげにベネットが笑う。

「その時は弟に爵位が行くだろうさ。何しろ……」

 ベネットは身を乗り出してリッツの頭を引き寄せた。吐息がかかるほど耳元で囁かれる。

「次男は長女になっちゃったんだものぉ~」

「だぁ! やめろよ耳元で!」

「いいじゃないの。照れちゃって可愛いんだから」

「やめろって!」

「今晩どう? 待機任務じゃ娼館にも通えないんでしょう。相手してあげるわよ?」

「男を抱く気はねえってば!」

「いけずねぇ~」

 思い切りリッツをからかって満足したのか、楽しげにベネットが離れた。安堵の吐息を吐いてベネットの顔見て気がついた。

 そういえばギルバートの宿題のことを全く聞いていない。誤魔化そうとしているのだ。

「ベネット」

「……ジェイムズだろ?」

 いつもはジェイムズというと怒るのに、今日は逆だ。あからさまに不機嫌そうにベネットに見据えられてしまった。

「あ、うん、ジェイムス」

 慌てて言い直すと、間髪入れずに質問する。

「それで、ギルバートの宿題の話なんだけど……」

「……宿題は自分で考えるものだけどね」

 言いながらもベネットは飲み干したグラスを置くと、テーブルの上に手を組んだ。

「さっき言ったよね? 二つの問題は芋蔓式だって」

「うん」

「注意力散漫の件は、僕らに気を許しすぎているから、周りにまで気を許してしまっている、君の油断だ。ならばギルバートの戦略を読み切れないのは、何故だろう?」

「……何故って……」

 それが分からないのだ。でもいつもよりまっすぐな瞳のベネットは簡単に聞くことを許していない。だからリッツは黙ったまま一生懸命考える。

 芋蔓式に分かると言うことは、注意力散漫のこととつながっている。でもどこがつながっているのだろう。ギルバートを信用しているから、ギルバートの前で気を抜きすぎていると言うことなのだろうか。気を抜きすぎているから……分からない?

 気がつくとじっと拳を唇に当てていた。そんな自分に気がつくと同時に、エドワードを思い出す。そういえばエドワードは本当に困った時とか悩んだ時、眉間をもむ癖がある。最後にそれを見たのはいつだっただろう。

 ふとエドワードに思い切り呆れられたことを思い出した。そういえばパトリシアにも、ジェラルドにもだ。そのことが不意に引っかかってきた。何だろう、もやもやする。何故あんなに呆れられたのだろう。

 黙ったまま考えてみると、簡単に結論が出た。

「あれ……俺……いつからこんなにものを考えなくなったんだろう?」

 よくよく考えてみると、リッツは一人でいた頃、考えすぎるほどに考え込んでしまう性格だった。その上で突き詰めてしまって、生きる意味を見失う。それがシーデナでのリッツだったはずだ。

 でもグレインへ来て、エドワードと出会い、仲間と出会い、ダグラス隊とも出会う中で、徐々に自分の判断を他人にゆだねるようになっていた。

 考えてみれば自分で考え、決断したのは……いつ以来だ? エドワードと共に戦うと誓った時以来じゃないのか?

 そう思って愕然とした。エドワードの役に立ちたい、エドワードのために戦いたい。そう思うことが、すべての提案を受け入れて、考えずに実行することになっている。しかもリッツ自身がいろいろな物事を考えずとも、簡単に答えが返ってくるものと思っていた。

 エドワードの判断を信じ、ギルバートの指示に従う。それに間違いないから、自分に興味があることだけ何も考えずに質問すればいい。二人に従っていれば何の間違いもないのだから。

 そんなの子供の論理だ。でもどうやら今までのリッツは子供の論理の中で生活していたようだ。だから時折エドワードに眉間を揉ませたり、大きなため息をつかせたりしたのだ。

「俺って……すごくガキだった?」

「おや、自分で認めるんだね」

「だって全然考えてないよ。言われるままに動いてて、今回もギルに宿題を出されなきゃ、ギルに質問して終わりだった」

 そうだ。それでは駄目だとギルバートは思い直し、リッツの質問に答えなくなったのだ。リッツはこの内戦の中ではただの駒かもしれないが、世間に向けての体面上は英雄の片腕であり、精霊族の戦士なのだ。

 なのに唯々諾々と何も考えずに言われたことだけしていては何も成長しない。物事の判断を自分で付けるように努力せねばならないのだ。

 エドワードの役立ちたい、エドワードを守りたいと主張したリッツに、ギルバートは宿題を与える名目で考えさせたのだ。自分が何に甘えて何から逃げているのかを。

 ここから先、内戦を勝ち抜くために己を捨てて完全なる駒になるのか、自らの意志を持ってエドワード王太子の片腕になっていくのか、リッツは決断しなければならない。

 そしてそれを選んだなら、がむしゃらに突き進むしかない。これから繰り広げられるのは戦争だ。そしてリッツはいつまでも無知な子供ではいられない。

 顔を上げてまっすぐにベネットを見つめる。

「俺、考えてみる。間違ってたら訂正してくれよ」

「いいよ」

 軽く答えたベネットに、リッツは深刻に頷く。

「ええっとギルにもし息子がいたら、革命軍にいるよね。そして作戦が成功したらファルディナは革命軍のものになる。これぐらいは俺でも分かる」

 前回の会議で自信に満ちたジェラルドの言葉を思い出せば、それが近々現実になることは間違いない。

「それで、あの二人がこの街の商業に関係することを牛耳れるようになるんだ。でももしもギルが自治領主になったら、好きにできない。だってふたりともギルが怖そうだった」

 二人の怯えたような、気を遣うような表情を思う出す。それでもルサーンとシグレットは、決して自分の利権を離そうとはしなかったのだ。でも彼らはギルバートへの義理を果たすために、作戦の片棒を担ぐことを承諾した。

「そこに息子って言う名目で俺がいたんだ。それで、ギルは曖昧に笑っとけっていってた」

 もし自治領主になったら確実に自分たちをあごで使い、利益を巻き上げそうなギルバートに息子がいたら。そしてギルバートの息子がへらへら笑っているだけの頼りなさそうな若造だったら……。

 あのときの状況を思い出してみる。

 そういえばギルバートはルサーンとシグレットに革命軍がこの地を支配した後、誰が得をするかは自明の理だと言っていた。そう言いながらリッツを見たギルバートに二人は深く納得したようだったのだ。それを考えてみれば答えは自ずと見つかる。

「ギルは革命軍が占拠した後、得をするのはギルであるような言い方をしてた。なのに俺を見てたんだ。つまり俺がギルの息子としてあそこでヘラヘラしれば……」

 頭の中でルサーンとシグレットの性格と、ギルバートとの対立、利益の構図がパズルのピースを組み立てるようにつながっていく。

「つまりギルは、革命軍の支配後、この自治領区の実権を俺に取らせると示したんだ。で、俺がヘラヘラしてて御しやすそうだから、ルサーンとシグレットは自分たちが好きに俺を動かして得をしようと納得した……ってこと?」

 答えを導き出してベネットを見ると、ベネットが満面の笑みを浮かべた。

「正解。ちゃんと答えが出るじゃないか。やっぱり頭は悪くないんだね」

「……やっぱりって……」

「これからはその都度、ちゃんと考えるんだね。君は人の顔をとてもよく見てる。きっと今までの育ちが関係しているんだろうけど、君の視線はいつも周囲を伺っている。だからかな。その場にいる人々の表情の変化や、相手の悪意を見抜けるんだ。だからそれを意識して、注意力を保って順序立てて考えれば、いつかは相手の話を自分の望む方向に持って行けるさ」

「自分の望む方向?」

「そう。ギルみたいに徐々に自分の思うように相手の選択肢を狭めていく方法だよ」

 確かにギルバートはいろいろなことを知っていて、相手を徐々に袋小路に追い詰めていった。きっとそれは情報を知っているだけできることじゃない。相手の顔色を読んで、より有利に話を進めているのだ。

「……俺……ギルみたいになりたいなぁ……」

 ついついぼやいてしまった。笑われるかと思ったが、不意にベネットは少し寂しげに目を伏せた。

「どうかしたの?」

「誰かのようになりたいって望む人物がいることは幸福だけど、不幸でもあるね。その差が大きければ大きいほど辛い……」

 独り言のような呟きにリッツが眉をしかめると、ベネットは唐突に顔を上げて、身を乗り出してきた。

「なんてね。はい、ご褒美」

 気を抜いた一瞬の隙に唇を奪われてしまった。

「! 何すんだよ!」

「だから君は注意力散漫だ」

「何を……!」

「胸元。気がつかないねぇ、やっぱり」

「へ?」

 胸ポケットを探ると、いつの間にか封書が一通おられて入っている。口づけられた衝撃で全く気がつかなかった。

「ああっ! いつの間に!」

「はは。君は本当にお馬鹿だねぇ」

 言いながらスマートにベネットが立ち上がる。

「さあ。あまり君と長居をしていると、君までここの息子に目を付けられてしまうね」

「もう帰るの?」

「そう。それ渡しに来ただけだから。お使い頼んだよ、ワンちゃん」

「だから犬じゃねえって!」

「どうだか。寂しいお留守番犬の目をしてるよ?」

「俺、ベネットよりもジェイムズの方が話しやすくていい奴だと思ったのに、結局馬鹿にしてる」

「おやおや。外見がどうあれ、僕は僕なんだけどね」

 楽しげにリッツに背を向けたベネットに、つい声をかけていた。

「あのさ」

「何?」

「今日はどうしてこう親切なんだよ」

 今までのベネットからすれば考えられない。ついつい疑問が口をついて出た。すると前を向いたまま少しだけ動きを止めていたベネットは、かすかに微笑みながら振り向いた。

「この格好をしているからかな。鏡を見るたび過去から逃れられなくなる」

「過去……?」

「君を見ていると、ランディアに置いてきた弟を思い出すんだ。僕同様、存在を忘れられた弟をね」

「え……?」

 あまりの口調の重さに聞き返すと、ベネットは何事もなかったように、いつもの人を食った笑みを浮かべた。

「な~んて言ってみたりして。実は次に会った時、君に『あの夜は相談に乗ってくれてありがとう♡ 大好き』ってチューして貰おうかと思ってさ」

「するか!!」

「頬でもいいよ?」

「嫌だね!」

「おや残念」

 笑いながら颯爽と去っていくベネットの後ろ姿に、声をかける。

「ありがとう……ちょっと助かった」

 振り返りもせずに、ベネットは片手をあげて出て行った。リッツは大きくため息をついた。助けられてばかりだ。ダグラス隊の面々にも。

 それにしても最もダグラス隊で相談相手に向かない相手に相談して、しかも答えが返ってくるとは思わなかった。しかも伯爵の子息であるベネットも何か問題を抱えているらしい。

 ダグラス隊のみんながたくましく、そして強そうに見えていた。でも今日のベネットは、本当に普通の人物に見えた。普通に弟を思いやる兄のようだった。

 きっとすべてに目をつぶって、見たいものだけを見てきたのはリッツの方だ。周りにはいつもこうしてたくさんの事情や、たくさんの思惑、たくさんの考えが渦巻いているのだから。

 ため息と共にテーブルに突っ伏すと、頭上から声がかかった。顔を上げるとこの店の主人の息子がいる。

「何?」

 顔を上げると、青年は不信感に満ちた顔でリッツを見た。

「あんたは、自治領主側の人間か?」

「え……?」

「だとしたらさっさと出て行け。この街にはもうすぐ革命軍がやってくるんだ。新たに名乗りを上げたエドワード王太子殿下が、自治領主を倒して平和な暮らしを取り戻してくださる。そうなればあんたらみたいな貴族の取り巻きの屑共も、殿下が追い出してくださるんだ」

 憎しみを込めた瞳で見られて戸惑う。今まで自分が貴族に見られたことはなかった。貴族を憎む方に属していたからだ。

 でも青年の瞳の中に、リッツ自身にも存在している貴族への嫌悪感があった。

 そうかと、唐突に思った。貴族はリッツたち革命軍にこんな風に見られているのだ。いったい貴族はこの目をどんな気分で受け止めるのだろう。

「あのさ」

 リッツはまっすぐに立って見下ろしてくる青年に声をかけた。

「何?」

「……密告を恐れたりしないわけ?」

「この店はそんな店じゃないんだ」

「そうなの?」

「そうだ。あんたが密告者なら容赦しないぞ。外に呼びに行く前に、ここで叩き斬ってやる」

 ますます持って見下す青年に、リッツは首をかしげた。何だろう。正義感に満ちているはずなのに、何故か青年の言葉は何か現実感がない。世間に憤っているはずなのに、まるで世間知らずだ。

 そこに主人が走ってきた。

「申し訳ありません、失礼申し上げて! こら、リック!」

 一瞬リッツは飛び上がりそうになった。自分が呼ばれたのかと思ったのだ。だがそれは青年の名だった。しかられたリックという名の青年は、親である主人を睨み付ける。

「親父だって分かってるんだろ! あのカルヴァン卿は、革命軍と戦うために人を集めているんだぞ!こいつはきっとあいつの仲間だ!」

「滅多なことを言うもんじゃない! あの方はジョエル伯を……」

 ハッとした顔で主人がリッツを見てから押し黙り、息子の腕をつかんだ。

「こい、リック。この馬鹿息子が!」

「うるさい! 親父なんて革命軍に裏切り者としてやられちまえばいいんだ!」

 リックは、親の手を振り払って駆けだして行った。乱暴に閉じられた扉を前に、主人がリッツに頭を下げる。

「申し訳ありません。少々思い込みの激しい息子でして……リックと来たら……」

「あ、いいっていいって」

「いえ、あの違います……その……」

 うろたえる店主を見て、その動揺の意味を何となく悟った。もしかしたら彼はリッツが密告をすることを心配しているのかもしれない。

「密告なんてしないって。俺はこの街の人間じゃないから」

「ああ、ありがとうございます。これでうちの馬鹿息子も助かります。それにしても本当にうちのリックの馬鹿は……」

 リッツは慌てて手を振った。これ以上主人が息子リックのことを愚痴れば愚痴るほど、自分が怒られている気分になってしまう。思い込みが激しいのは、ある意味似たようなものだし、説教されるのはきつい。

「本当に革命軍が近づいてるんだろ? 戦争になるんじゃねえかってみんな戦々恐々だぜ?」

 唐突に話題を逸らしたのだが、店主は自分の愚痴に気がついたようで、ようやく話題を変えてくれた。

「どちらのご出身ですか?」

「うん。俺はね、グレイン出身の農民」

 本当の故郷は口が裂けても言えない。

「グレインですか。いいところでしょうねぇ。モーガン候のお膝元ですから」

「うん。すごく平和だよ」

「ではもう実際にエドワード王太子殿下をご覧になりましたか?」

 声を潜めて尋ねられて、リッツは笑いそうになるのをこらえて一緒に声を潜めた。

「見たよ。金髪で堂々としてて、立派だった。とっても綺麗で澄んだ水色の瞳をしているんだ。優しくてとっても意志が強そうだった。他の王太子とは比べものにならないってのが、グレインの評価だよ」

「そうですか。それは素晴らしい……では精霊族の戦士リッツ・アルスターをご覧になりましたか」

 一瞬言葉に詰まったが、引きつりながらも笑って見せた。

「見たよ。殿下の後ろに立ってた」

「どんな方でした?」

 真剣に聞かれて困る。こんな奴だといいたいところだが、そういうわけにもいかない。

「ええっと……背がでかかったよ。う~んと、黒髪でね、そんで……」

 しどろもどろになると、店主はため息をついた。

「それではまるでお客様のようですね」

「う……うん。そうだね。あ、耳! 耳尖ってた!」

「精霊族ですからね……」

 白い目で見られてしまった。

「へへへへ。殿下とはとっても親しそうだったよ」

 実はあんたの目の前にいるのが、そのリッツ・アルスターだけど。そう思うが絶対に口にはできない。

「殿下に見とれて見ていなかったのですか?」

「あ、うん。そうそう。さすが王太子殿下、すっげぇ頭良さそうで、かなり格好よかったよ。うん」

 これだけ褒めておけば、エドワードも喜ぶだろう。

「そうですか。ですがまあ、精霊族の戦士ですから、素晴らしい方なんでしょうね。全くうちの息子と似たような名前なのに、こうほど違うものですかねぇ……」

 店主のつぶやきに曖昧に笑う。実はあなたの息子リックとリッツは似たようなものですよとはいえない。一応リッツは肩書き上、英雄なのだから。困っていると、店主は話題を変えた。

「ガヴァン卿のお知り合いですか?」

「うん。最近知り合ったんだ」

 あっさりと認めると、店主はあからさまにほっとして笑みを見せた。

「そうですか。卿にはここ数ヶ月懇意にしていただいて。おかげで最近危うかったこの店は、安全になったんですよ」

「へぇ……」

 やはりベネットは凄腕なのだろうか。そう思ったのだが、店主のため息で違うことを知る。

「ガヴァン卿はあの容姿で、あの性格でいらっしゃる。争いを好まない穏やかな方で、この店を人狩り部隊から守ってくれているんです」

「人狩り部隊?」

「密告者を捕らえて殺す部隊のことです」

「へぇ……」

 もはや駐留部隊は、駐留部隊扱いされてはいないようだ。

「ガヴァン卿は侯爵の元に逗留なさっておいでだが、もしかしたら自治領主にいいようにされているのではないかと不安ですよ」

「……それは、危険だね」

 自治領主の方が。何しろ相手はベネットとヴェラだ。とは流石に口に出せない。リッツはゆっくりと立ち上がった。この話はこの辺りで頃合いだろう。あまりいろいろ聞かれても答えきれずにぼろを出してしまいそうだ。

「俺、そろそろ帰るよ。お勘定は?」

「ああ、先ほどガヴァン卿が払って行かれました」

「そうなんだ。ありゃ、悪いことしたなぁ……」

 頭を掻くと、店主は首をかしげた。

「貴族に払っていただいたのに、悪いことをしたのですか?」

 その言い方はまるで貴族が庶民の分をおごるのは当然という言い方だった。おそらく息子同様彼もリッツを貴族の取り巻きだと、思っているのだろう。思わず苦笑しながら、更に頭を掻く。

「だって貴族だろうと農民だろうと仲良くなって一緒に酒飲んだら、どっちが払って当然とかってないじゃん。友達なんだから半々でいいと思うし」

「……グレインでは……それが普通ですか?」

「うん。俺の親友は結構身分が高かったけど、一緒に飯を食いに行ったら普段は割り勘で、時折コインで負けた方が払ったよ」

「農民のあなたに身分の高い親友?」

「グレインでは普通だと思うけど?」

 まっすぐに目を見て言うと、店主は深く頷いた。

「なるほど。ですから王太子殿下は、彼の地で農民をされて身を隠されたのですね」

「……そうかもね」

 曖昧に答えるとリッツは店を出た。宿泊場所に併設されている酒場だが、経営しているのは宿とは違う人物だ。

 何となく酔いを覚ましたくて、部屋に帰る前に外に出て、店の横道に入る。薄暗い中でポケットに放り込んでいた数本の煙草から一本を手にとってしわを伸ばしてまっすぐにし、マッチで火を付ける。

 ぼんやりと薄明るいマッチの火を煙草に移した後、その光でベネットに渡された封書を見る。封はされていないから中を見た。

 そこにはギルバート含むダグラス隊幹部向けに、短い文章が書かれていた。

『五月十日、ジョエル討伐の部隊出撃予定。八日の難民の兵士募集に紛れたし。指揮官はジェイムズ・ガヴァン』

「ついにかぁ……」

 ぽつりと呟きながらリッツは空に向かって煙を吐き出した。闇の中で白い煙だけが空を曇らせる。

「会いたいなあ……エド……」

 今頃何をしているんだろう。この妙にわだかまる子供過ぎる自分への苛立ちを、エドワードと話したいと切実に思った。


 五月六日にジョエル伯、七日にデラノ伯が相次いでファルディナを発った。革命軍本体はいまだオフェリルにとどまれりの情報を信じたからだった。

 当然この情報はジェラルドたちが流した偽報に過ぎない。

 そして北部ジョエル伯には、革命軍と呼応し、北からの進軍を助けている謀反の疑いがかけられた。敵、革命軍はジョエルにかくまわれ、すでに北部の街ブルガンにありというのだ。

 スティーヴンス侯爵は翌八日に義勇兵を組織、私兵と共に十日早朝にファルディナを出た。ダグラス隊もその中に紛れ、ジェイムズ・ガヴァンことベネットの指揮下に組み込まれた。

 内戦最初の戦いが始まろうとしていた。

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