<4>
そしてまた季節は巡る。
初めて村に来たときと同じく、一面の大地を覆おう黄金色の波が風に吹かれて、ゆったりと青い空の下で揺れる季節がやってきた。
リッツがこの村に来てから一年が経とうとしていた。
ジェラルドとの稽古は、半年前からずっと続いている。
領主の責務があるジェラルドのギリギリの都合であの森に一週間こもって村に戻り、のこりの四週は村で農家の手伝いをしつつローレンに一般常識を習う。
エドワードがいる時には二人で剣技の稽古を積み、いない時にはシャスタと家事や雑事をこなしつつ一人剣を振るう。
その繰り返しだ。
最初の頃は重い剣に体ごと引きずられていたが、今は軽々と自由に振り回せるようになった。
初めて剣を握ったときにできたマメは破れてひどいことになったが、剣を握ることが日常となった今はマメからタコに変わっている。
ひょろ長い印象だった体つきはまだ細身ではあるが、気がつけば剣を振るうための無駄のない筋肉に覆われるようになっていた。
半年の鍛錬の末、剣を扱えるだけの筋力が付いた証拠だ。
そのおかげか剣を振るうことに苦が無くなってきている。
今までの長い年月で全く成長がなかった自分自身のことを考えると、驚くほど大きな成長で変化だ。
リッツにとって剣の稽古は、エドワードやジェラルドの役に立つことで、今後必要なことだから苦もない。
それに自分でも上達してきていることは感じ取っている。
形通りの剣技にリッツ独特な身のこなしを統合した剣技は、ジェラルドに剣舞に近いとたまに褒められる腕にはなってきている。
その証拠に、剣技を学び始めた事はリッツより遙かに経験の多いエドワードに完全に負けていたが、優位に立てることが多くなってきた。
だが優位に立つことと勝つことは全く違うようで、完全にリッツの癖を読み切っているエドワードに気がつくとあっさり負けている。
いいところまで行くのに、最後の一押しが決まることは決してない。どこでどう情勢が変わったのか、リッツ本人ですら分からず首をかしげるばかりだ。
そして最初は巨大な壁のように大きい存在として目の前に立ちはだかっていたジェラルドにも、数回に一回の割合で一撃は入れられるようになってきた。
剣を振るう動きや自らの行動に会わせて呼吸を変えることが可能になってきたから、上がりっぱなしだった息もほとんど上がることはなくなってきている。
それができるならば、一応一人前だろうとジェラルドはリッツを認めてくれている。
今までは気付かなかったが、リッツには剣技の才能があったようだ。
自分には何もないとずっと思い込んできたリッツにとって、それは驚くと共に、嬉しい発見だった。
空っぽだと思い込んでいた自分に剣技の才能があり、空の箱は徐々にそれで満たされつつある。
そしてその才能は、エドワードたちの助けになるのだ。
孤独に震えて生きていたリッツにとって、それは天に昇るぐらい嬉しい。
ここにいていいのだと何か大きな存在がそう言って、自分を照らしてくれるような気さえしてくる。
自分の存在が受け入れられ、認められ、そして共に歩むことが出来ることがこんなに嬉しいなんて考えても見なかった。
だが未だかつて経験したことのない自分自身の満たされていく感覚とは裏腹に、心の中に微かにくすぶる疎外感をリッツは故意に忘れようとしていた。
まだここに一年ほどしかいないから感じることはないが、数年もするときっとその疎外感を感じ始めてしまうのだろう。
その疎外感とは、年をとらないリッツへ向けられる人々のいぶかしげな視線だった。
それを自覚する度に思い出す光景がある。
故郷の一族に忌み嫌われていた事は子供心に自分自身の存在を見失い、苦しく辛い体験だったのだが、それとはまた違った意味でリッツには辛い思いを味わってきた経験がある。
それはやはりリッツが人間とは違う年の取り方をすることに起因している。
自分の故郷のそばには小さな集落があった。
父親が守護をつとめるこの集落に暮らしている人々はみなリッツたち家族を暖かく迎え入れてくれていたが、年をとらないリッツのことをため息混じりで羨ましがる人や、妬む人、そして気味が悪いと思う人も少なからずいた。
父親は気にもとめておらず、そういう人々に冗談で返していたのだが、故郷でも一人孤独にうちひしがれていたリッツは心苦しかった。
特に痛かったのは、リッツと見た目が同世代の子供たちの目だった。
父親がこの集落で仕事をこなしている間は手が空いてしまうリッツに課された仕事は、集落の子供の面倒を見ることだった。
小さな集落だから裕福な者などおらず、皆が皆忙しく働いていたのだ。
仕事が出来る子供たちは親の仕事を手伝い、そうではない小さな子供たちはいつも一所に預けられていた。
そこにリッツも手伝いという名目で放り込まれてしまうのである。
子供の頃はそれでもよかったのだが、徐々に物心が付いてくると厳しくなってきた。
一緒に遊んでいたのに先に成長した子供は、不思議な物を見るような目でやがてリッツを見るようになる。
その視線がリッツには『何故ここにいるの?』と聞かれているようで辛かった。
そしてその子供たちがさらに成長をすると、分別を持って穏やかに再びリッツを見るようになる。
完全に自分とは違う存在として、同情と羨望を持ってだ。
最初は一緒に遊んでいた子供たちの面倒を見るような年になってからも、その小さな棘は刺さり続けた。
そんな負の変化がリッツの胸に小さな棘のように突き刺さり続け、結局リッツはその集落で特別に親しい誰かと出会うことはなかったし、誰かと親密になろうとも思わなかった。
所詮リッツは異分子だった。それを自分でも感じていた。
「ここは大丈夫そうだけどな……」
思わず口をついてこぼれ出てしまったその声は、リッツの得体の知れない不安ごと黄金の穂を揺らす風に紛れて消えてゆく。
今不安を覚える必要なんてない。きっとそんな状況になるのはまだまだ先のことだ。
それにもしそうなったとしてもエドワードならきっと、リッツが感じてきたあの不審そうなまなざしを向けることはないだろう。
現にシーデナの出身だといった時も驚いただけでその瞳に不振や嫌悪は全く浮かばなかったからだ。
だからエドワードは今までであった人々とは違うと、何の根拠もないのにあの瞳の力だけで確信している。
確信しているからこそ、他の誰とも違うただ一人の友エドワードの助けになりたいと願っているのだ。
小さくため息をついてからかがめていた腰を伸ばして空を仰いだ。
抜けるように美しい青空に、小さな雲が数個ふわふわと漂っている。
穏やかないつもの光景だ。
リッツの数メートル先にはシャスタがいて、リッツと同じように、だがリッツよりも遙かに手際よく麦の刈り取りをしている。
この時期にはローレンの学校も休みになるから、シャスタぐらいの年の子供から幼い子供まで、麦刈りにかり出されている。
居候のリッツとて例外ではない。
この時期ばかりは剣を鎌に持ち替えて、麦の刈り取り作業の手伝いだ。麦刈りはティルスの村で最も重要な農作業なのである。
リッツはひとつかみの麦を刈り取っては、腰に括られたひもに結びつけていく。
最初は簡単な作業だと思っていたが、作業を進めるうちにかなりきつくなってきていた。腕も腰も痛くてしかたない。
軽く腰を叩きながらリッツは過去に自分が倒れていたあの峠に続く道に目をやった。
麦畑の中央にあるこの道は、旅人の街道よりも細く国人の街道と呼ばれており、この街道は自治領区の名を取ってグレイン街道と呼ばれている。
隣国と接するこの自治領区には当然大きな旅人の街道も整備されているが、その街道はティルスの北、グレイン自治領区で最大の街グレインを通っていた。
他国の侵略を考慮したためグレインの街は、少々内陸よりに存在しているが、広大な北の山脈の麓までがこの自治領区の納めている範囲である。
この旅人の街道をグレインの街から西へと向かうとサラディオ自治領区であり、リッツの故郷であるシーデナ特別自治区である。
そしてその最大の街グレインから南へのんびり馬で五、六時間といった近距離にここティルスは存在する。
そしてティルスから十数キロ先にファルディナ自治領区と、オフェリル自治領区との境があった。
そんな土地の位置関係など何も知らなかったリッツだったのだが、ローレンのおかげで普通の人並みに自治領区の位置を把握することが出来るようになっている。
これもおそらくエドワードの役に立つことなのだろうと、何となくリッツは理解していた。ローレンは無駄なことをリッツに教えない。
今日はエドワードがこの村にいない。
エドワードは今まで通りリッツに留守番をさせて出かけている。どうやらまだ何も話してくれるときではないらしい。
だがそれはリッツが不要なのではなく、まだ時期がこないのだとリッツは自分で納得していた。
それにエドワードはその話題になりかけると決まって、何故か心苦しそうな表情を一瞬だけ浮かべる。
エドワードはリッツが気づいていないと思っているのかもしれないが、ちゃんと気がついているからこそ問い詰めたくはなかった。
心の中の苦しさを語ることの辛さはリッツの方が深く心得ているから、ふてくされたり、文句を言うことはない。
シャスタはリッツとエドワードが厳しい剣の稽古をつけられていることを知りつつも、心配そうな顔をするだけで何も聞いてきたりしない。
そもそもシャスタは戦うことに関して否定的で、どちらかというと戦いを嫌っているようだった。
おそらくすべてをわきまえているであろうローレンも、息子のシャスタにはエドワードやリッツに聞かないようにと教えているようだ。
そんな彼女がどう考えているかなんてリッツには想像すら出来ない。
だからリッツとシャスタの何も知らない二人は、妙な探り合いをすることもなくやはり兄弟のように呑気で平穏な日々を送っている。
「リッツ、疲れたんだろ」
ぼんやりと立ち尽くしていたリッツはのんびりと声を掛けられて、声の主を振り返る。
「ちょっとね。慣れなくてさ」
「だろうな。お前さんは麦刈りをするには少々背が高すぎる」
楽しげに笑いながらそういった人物は、ローレンの知り合いであり、この区画の畑の持ち主のマルヴィルだった。
ローレンが知り合いであるマルヴィルにリッツを紹介してくれたからここで働いているのだ。
リッツはその人物をジェラルドとは少しニュアンスを変えて、おじさんと呼んでいる。
マルヴィルは農作業でよく日に焼けた逞しい体つきの穏やかな中年の男性で、麦畑の中には、スカーフで髪を覆った彼の妻も忙しく働いている。
「腰が大変だろ?」
「体を動かせば平気だよ」
視界いっぱいに広がる黄金色の麦畑にため息をつきつつ、リッツは大きく肩を回す。
固まっていた肩がコキコキと音を立てた。かなり凝っていたようだ。
この土地に見渡す限り一面の麦畑が広がっているのは、村人全員の畑がこの場所に集約しているためだ。
もっとも肥沃でいい土地を全員で開墾し、こうして広大な麦畑の区画を村人たちの人数で区切って管理している。
体を伸ばし終えたリッツが再び作業に戻ろうとすると、マルヴィルは笑顔で手を振った。
「早めだが休憩してきな」
「だけど、悪いよ。おじさんたちも疲れてるだろ?」
マルヴィルもその妻も子供たちも、リッツとシャスタが来るより前から働いている。疲れているのは彼らの方だ。
だがマルヴィルは明るい笑みを浮かべた。
「いいって。俺たちゃこれが仕事だからな。そうだ、シャスタも休憩に連れて行ってくれ。顔に出さなくても疲れてるはずだからな」
そういうと綿布で汗をぬぐってから、何の苦もなさそうにマルヴィルは作業に戻った。
背が高くて必要以上に腰を曲げねばならず麦刈りに時間がかかってしまうリッツに反して、この足腰の丈夫そうな夫婦は腰にリッツの倍以上の麦束を背負っていた。
こうしてみると自分が役に立っているんだかいないんだか分からない。リッツはある意味で足手まといかもしれない。
「おーい、シャスター。休憩していいってさ」
近くにいたシャスタに声を掛けると、シャスタはリッツを見上げつつ首を振った。
「まだまだ大丈夫です」
「おじさんが休めって」
リッツの言葉にシャスタのそばにいた少女二人が顔を上げた。この家の娘だ。
明るい茶色の髪をしたそばかすの少女は長女のサリーで確かシャスタと同い年だったはずだ。
はにかみ屋で物静かな少女は、たまにセロシア家に自宅でとれた野菜を提供するためにやってくるのでリッツも面識がある。
その隣には二つ年下の妹マリーがいた。見た目はよく似ているけれど、姉とは正反対にしっかりとした少女だ。
「シャス、休憩しておいでよ」
そばかすの少女がそういってシャスタに勧める。
「でもサリー、君も疲れてるよね? それにマリーも」
「私たちは平気。ね、マリー?」
「平気よ。お兄ちゃんたちよりは慣れてるもの」
しっかり者の二人に勧められて、ようやくリッツとシャスタは二人で畑から出て、馬車を止めたあぜ道に上がった。
曲げていた腰を叩きながら畑から出ると、一番下の妹メリーが待っていた。
「お兄ちゃんたち、それ貰うね」
そういうとメリーは十歳にも満たない小さな体に見合わないような力を発揮して、あっさりとリッツが腰につけていた麦の束を両腕いっぱいに抱えて持って行ってしまう。
わら束を受け取り荷馬車に積み込むのは、まだ刃物を使わせると危険なおっちょこちょいで幼いメリーの仕事なのだ。
危なげない足取りでメリーが藁を乗せたのは、これもまた使い込まれた荷馬車だった。
馬車に固定されたロバは、どこにも繋げていないのに逃げるでもなく路肩の草をのんびりと食んでいる。
豊富な草をたらふく食べて、積み上がるであろうこの大荷物を運んでいくための英気を養っているのかもしれない。
「ううっ……ホント農家は偉大だ」
荷馬車の近くまでよろめきながら進むと荷台に鎌を置き、リッツはその場に寝転がって伸びをした。腰がまっすぐに引き延ばされて気持ちがいい。
風に揺れる麦の音が耳に心地よく、ついつい目を閉じる。頭上には麦のおこぼれを狙う小鳥たちが飛び交って賑やかだ。
本当に穏やかで静かな時間だ。
剣は畑の端に転がしてあった。畑の手伝いに行くなら必要ないだろうとリッツは思うのだが、ジェラルドからは厳しくいつ何時も剣を放すなといわれているから、こうして持ってきているのだ。
くつろぐリッツの隣に鎌をかたづけたシャスタが座り込み、両足を前に投げ出し、両手を後ろについて大きく息を吐き出す。
「農家って偉大ですね……」
同じことを言っている。やはり専業ではなく、自分の分だけを生産しているだけのシャスタにも、この長時間の作業はきついようだ。
「寝転がれば?」
「……そうします」
リッツに習ってシャスタも横になった。力の抜けたようなため息が漏れる。
そんな二人の頬を風が心地よく吹き、汗を優しく乾かしていく。静かで穏やかで幸せだから、ついつい冗談が口をつく。
「シャスタ」
「なんです?」
「サリーとマリー、どっちが本命なんだ?」
とたんにシャスタが跳ね起きた。
「な、何馬鹿言ってるんですか!」
真っ赤な顔で抗議するシャスタに、リッツは更に突っ込む。
「当ててやろうか? サリーだろ?」
「!」
「当たったな?」
「リッツさん!」
農作業が大変でちょくちょく腰を伸ばしてあたりを見回していたリッツは、シャスタが大変だろうにサリーに気を配っていたことに気がついたのだ。
普段なんの弱点もないシャスタをからかうにはいい材料になりそうだ。
ニマニマと笑うリッツに、反論すれば更にはやし立てられると気がついたシャスタは、リッツを睨んだ。
「知りません! 僕は休んでまた手伝いに戻りますからね。声かけないでくださいよ!」
「へいへい」
あまりやり過ぎると夕飯抜きになりかねないから、リッツは肩をすくめて黙った。シャスタの場合、怒ると本気で一日ぐらい食事をくれないだろう。
目をつぶり、リッツに背を向けてしまったシャスタから空に目をやって、風を感じる。
前髪を揺らす風が気持ちいいなんて、一年前には思っていなかった。
しばらくそうして風を感じていたリッツだったが、その間にも夫婦は作業を手際よく進めている。
リッツが一瞬うとうととしているその隙に、夫婦は午前中の目標だった場所までの刈り取りを終えた。
太陽はまっすぐ真上にあり、ちょうど休憩時間だ。
「悪いな。リッツ」
マルヴィルが声を掛けながらやってきた。
「んあ? あ、悪い! 寝ちまった!」
慌てて跳ね起きるとマルヴィルが笑った。
「気にするな。はじめはそんなもんさ」
優しい言葉だったが、マルヴィルが腰に背負った麦の束はリッツとは比べものにならないぐらい大きい。
こんなところでぐうたら寝ていたなんて、申し訳なくて体を起こしてその大量の麦束を見ながら尋ねる。
「俺、少しは役に立ったのかな? どっちかっていうと、足手まといじゃねえ?」
真剣に尋ねたのだが、マルヴィルは軽く答えた。
「たったさ。助かるよ」
本当なのかお世辞なのか、マルヴィルはそう言って満足そうに笑う。
「昼飯を食ったらまた頼むよ」
「……おう」
今日一日手伝ってきなさいとローレンに言われてきているから、こんなところでへこたれているわけにはいかない。
気合いを入れ直さねば。それにはまず昼食だ。
「じゃあ準備は俺が……」
寝ていた引け目からいそいそと立ち上がって、マルヴィルの妻の元に歩み寄った。