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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
一対の英雄
49/179

<9>

 一方、この高原地帯を反対側から眺めていたのはコネルだった。高原地帯を望む街の貴族の館で、コネルは窓の外を見ていた。雪がちらつきだしていた。この調子では雪が積もりそうだ。

 二千の兵士たちは、街に入ることも出来ずに外の天幕で年を越すのだろう。貴族の遊びに連れ回され、こんなところまで連れてこられたというのに、家族と過ごすことも出来ない新祭月を送るのは、悲しすぎる。

 食料の手配だけは怠らずにしているが、それも新祭月分までしかない。計画ではそこまで食料を持たせることが出来れば、グレインとオフェリルから支援の手が差し伸べられるはずだった。

 コネルはため息をついた。窓ガラスが息で白く曇る。もしもコネルが指揮官として戦うならば、この戦いに時間はかけない。雪の中の行軍と雪での待機は、兵士たちの体力を確実に奪う。

 そうならないために求められるのは速度だ。

 もしコネルが戦うのがジェラルドではなく、ただの反乱貴族だったなら、二週間かかる道を騎兵中心の部隊を用意して素早く駆ける。それからまず騎兵部隊で敵の戦線を混乱させ、後で追いついてきた歩兵に場を譲る。

 寒さに対抗するには、時間を長引かせるのは致命傷になる。そんな基礎的なことも分からない貴族に腹が立った。

 実際に今、時間の引き延ばし作戦をしているのはコネルたちなのだが、やはり兵士たちが寒さに震えるのを見ているのは忍びない。あそこには同じ改革派でありつつも、貴族ではないから佐官までしか成れない仲間たちもいる。

 隙を見ては色々な食料や防寒具をもって天幕を訪れるのだが、寒さはやはり骨身にしみる。このまま寒さの中で新祭月を迎えさせるのは心苦しい。

 その上自分は、兵士たちよりも後方にある街の中の、有力貴族の館に滞在しているのだ。

 子爵であると言う理由だけで。

 貴族が何なんだ、軍は実力主義だろう。

 実力無き者は去れ。

 コネルはガラスに映る貴族たちを見ながら、心の中でそう呪った。だが呪っても仕方ないことだというのは分かりきっている。

 今は動けない。

 だが家族が訪れたなら、この手で貴族を……クレメンスを討つ。

 コネルは剣の柄にそっと触れた。剣の柄には、サウスフォード伯爵家の紋章が彫られている。戦うことではなく、政務を選んだグラントから譲り受けものだ。

 もし処刑されたら、コネルがサウスフォード伯爵家を継げと、グラントは剣を託したのである。この剣で、コネルはユリスラの未来を勝ち取ろうと思っている。

 その為には目の前の奴らが邪魔だ。

 コネルは後方を盗み見た。外の兵士のことなど忘れ、暖かな部屋の中で談笑する貴族たちがいる。体調を崩していたはずのクレメンスも、何故か今日ばかりはと、貴族の用意した豪勢な食卓に着いていた。

 王国暦一五三四年が終わろうとしていた。

 各街、各村で打ち鳴らされる新祭月の鐘によって、新しい年の幕開けが知らされるのである。その鐘の音を聞き、一口でも食事をすることが新祭月の習わしだ。

「サウスフォード子爵。こちらに座らぬか」

 クレメンスに呼ばれてコネルは振り返った。

「外は雪ぞ。何も面白い物はあるまい。こちらに座ってこの娘の杯を受けた方が愉快であろう?」

 そういってクレメンスは下卑た顔を自分の後ろに向けた。そこには表情もなく佇んでいるヴェラの姿があった。

 一瞬だけだが、ヴェラはコネルに向かって彼女らしい妖艶な笑みを唇に浮かべたが、すぐに無表情に戻る。

 今も世間知らずな乙女が、手込めにされ、性の奴隷となって従うという、諧謔趣味のクレメンス好みのシナリオを演じているのだ。

 シナリオに載せられているのは、本当はクレメンスの方なのに。

 まさかクレメンスは自分が支配していると思い込んでいる女に、つまらない男呼ばわりされているとは夢にも思うまい。

 あれからヴェラとは話していないが、クレメンスが病に倒れたところを見れば、計画は上手く進行しているのだろう。最近はベネットという女を見なくなった。おそらく何らかの目的があって、この部隊から離れたのだろう。

 朝の冷たい霧に捲かれたヴェラをふと思いだす。

 妖艶な微笑み、殺意に満ちた瞳……。殺したい相手と肌を合わせているのは一体どんな気分なのか、コネルには理解できない。

 コネルは世間的に、少々皮肉屋で、頑固な男だと言われているのだが、堅物でも通っている。自分では心外なのだが、端から見ればそうらしかった。

 貴族であり、軍の中枢にいるというのに、浮いた話が一つもないからだそうだ。だがコネルは妻のイライザを心底愛しているから、他に目が行かないのだ。

 だからこうして貴族の称号を持たぬ女は、総て自分の自由に出来ると思っているクレメンスの神経が理解できない。

 コネルにとって愛する事が出来る女性は、過去から今までずっと、たった一人だ。その一人と共に今も生活していることを、コネルはいつも幸福に感じていた。

 思えば現在の妻である、美しい従姉のイライザは、コネルが小さな頃から側にいた。いたずらばかりしていて両親を困らせるコネルに手を焼いた親族が、堅苦しく真面目な従兄弟グラントにコネルの勉強を見させたのが始まりだ。

 コネルは五才、グラントは十五才、そしてイライザは十才だった。

 本来子爵であるコネルを、伯爵家の跡取りであるグラントが見るのは妙な話だった。だがグラントとコネルの父親は、仲のいい兄弟だったため、この関係が出来ていったのである。

 元々二つのサウスフォード伯爵家は一つだった。だがコネルの父が功績を挙げたため、分家を許されサウスフォード子爵家が出来たのである。

 コネルの勉強を見ることになったグラントだったが、やはり生真面目なグラントは、いたずらばかりしているコネル相手に手を焼いたらしい。その手助けを申し出たのが、イライザだった。

 グラントに叱られて部屋を飛び出し、庭で拾った棒を掴んで木々を打ち付けながら好きな剣術のまねごとをしていたコネルの前に、不意にイライザは現れた。

 噂に聞く精霊族みたいに綺麗だなと思って動きを止めたコネルだったが、次の瞬間には木の枝で頭を打たれていた。痛みと驚きで動けなくなったコネルに、イライザはぴしりと告げたのだ。

「せっかく丹精している庭に手をかけるとは何事ですか」

 コネルはその迫力に一言もなく、手にしていた棒を取り落として、ごめんなさいと頭を下げるしかなかった。

 時が過ぎ、グラントは王立政務学院を首席で卒業して官僚となり、そして宰相補佐官となっていく。コネルは軍人になり、改革派としてジェラルド・モーガン、ギルバート・ダグラスと共に、軍の改革に熱中した。

 そしてイライザは、時が過ぎるほど美しくなっていった。幼い頃に抱いていた憧憬の思いは、強い想いへと変わっていき、いつしかコネルはイライザを愛するようになっていった。

 だが年上で美しいイライザには、降って湧くほどの縁談が持ち込まれるようになっていたのである。告白すらも出来ずに、イライザの前でおどけるだけだったコネルは焦った。

 だが焦ってもどうにもならない現実が待っていた。コネルはサウスフォード家の分家であり、子爵でしかなかった。軍で出世しても、軍に顔も出さないのに伯爵以上の階級を持つ名義だけの上官がいるため、子爵のコネルは少将止まりでしかなかったのである。

 イライザへの縁談も求婚も降るようだった。その中には侯爵や公爵、伯爵家の貴族たちもいて、子爵であるコネルはどうにもならない現実に、苛立った。

 だがイライザは総ての縁談に無理難題を突きつけてはね除けて、サウスフォード家に居続けた。無理難題をふっかけては、狼狽える男たちを小馬鹿にしているイライザの姿を、コネルも幾度かみかけたほどだった。

 でもコネルの前ではイライザはいつも、今まで通りの少々気の強いところもあるけれど、しっかりとした優しいイライザだった。

 やがて降るようにあった縁談が徐々に減り始め、気の強いイライザだから売れ残ったのだと社交界で噂になり始めた頃、すっかり臆病になっていたコネルに、イライザから手を差し伸べてくれたのだ。

「売れ残ってしまったようだから、貰ってくれないかしら、コネル?」

 そういった従姉に、初めてコネルは貴族たちの反感を買わずに子爵の自分にチャンスが残るように、イライザが縁談を断り続けてくれた事を知ったのである。

 イライザはその翌月から従姉ではなく妻となった。従兄弟のグラントは従兄弟でありながらも、コネルの義兄となったのだ。

 現在、グラント・サウスフォードは王城の牢獄におり、イライザと愛する二人の子供たちは、シアーズの将官家族用宿舎に入れられている。イライザと子供たちの命は、実力も思想も総てが未知数の男に託した。

 コネルの信用するギルバート・ダグラスが、大丈夫だと言ったのだから、信頼しなければいけない。疑ってはいけないのだと分かっている。

 だがリッツというあの男は、コネルにはどうにも理解できない。

 この動乱の時代にありつつも、ただひたすらに友のためにと自らの命を賭ける。家族のために命を張るコネルにも、その気持ちは分からなくもない。コネルだって今まさに家族のために戦場にいる。

 だが、あの男……あまりに命を惜しまなすぎる。

 命を惜しまない男が、人の命を守れるのだろうか。それを考えると不安がつきまとう。コネルは自分の命が惜しい。でも家族の命はもっと大事だ。

 あっさりと『自分を殺せ』と言える男は内心、何を考えているのだろう。自分ならしくじらないという絶対の自信があるようには見えなかった。それなのに何故命を張れるのだ?

 イライザは、子供たちは……そして改革派の仲間たちの家族は、本当に無事にここまでたどり着くのだろうか?

 新祭月が女神と光の精霊王の恵に感謝する日だというのなら、その恵を感謝させてくれ。

 グラントとイライザをどうか助けてくれ。

 そう祈らずにはいられない。

「サウスフォード子爵?」

 クレメンスに再び問いかけられて、コネルは振り返った。静かに頭を下げる。

「申し訳ありません伯爵。ありがたく席を頂戴いたします」

 あと数時間で一年が終わる。新祭月になる。

 新祭月二日に作戦が実行されれば、家族がここに着くのは、新祭月の七日。今年の新祭月は十日あるから、それまで戦端を開かずにいられるだろうか。

 参謀であるため、クレメンスの隣に用意された席に腰を下ろしたコネルは、黙って目の前に居並ぶ貴族たちを見ていた。



 窓の外を見ながら、リッツは煙草の煙を吐き出した。普通では高価な煙草も、ソフィアに頼めば給料代わりにと分けてくれるから、リッツは時間を潰さなくてはならないこんな暇な時、ぼんやり考え事をしながら煙草をふかして酒を飲むようになった。

 今晩は一年の終わりの夜だ。この娼館にも新祭月はやってくる。

 娼婦たちはみな、昨日の勤めを終えてから、帰るべき家がある者は家族の元に帰っていった。娼館を辞して男の元へ行き、家庭を築く者もいれば、娼館でためたお金を元に商売を始める者もいる。

 今年一年にけりを付け、新しい一年を迎えるために、今の環境を変えるべく出て行く娼婦たちは多い。このまま残る者たちも、今日だけは客を取らない。

 それが娼婦たちの決まり事だった。お陰でリッツは暇をもてあましている。作戦決行の日が近づき、妙に興奮するこの心と体を鎮めたいのに、一人でくすぶっていても何にもならない。

 リッツはくすねてきたバーボンのボトルに口を付けた。グラスに注ぐのも面倒くさい。

 窓を開けると、出窓に腰を下ろした。冷たい空気がさっと部屋に入ってきて、煙草の紫煙を散らす。

 今頃グレインはもっと寒いのだろう。ティルスの村は、麦の出荷が終わり新祭月が近づくにつれて、雪の降る日が多くなる。

 ティルスでの冬を思い出す。

 雪が積もると剣術の稽古が出来なくてつまらないとむくれるリッツに、シャスタが雪だるまを作ろうと誘ってくれたものだった。

 いい年をしたリッツと、シャスタが家事そっちのけで子供のように大騒ぎして雪だるまを作っていると、マルヴィルの家の三姉妹がやってきて、一緒に雪だるまを作ることになるのだ。

 沢山雪が積もった日には、全員で協力して作った雪山に穴を掘り、そこでシャスタとリッツが作った暖かなスープを食べた。

 時折、家に戻ってきていたエドワードや、手の空いたローレンが加わって、一緒に雪の家でスープを食べ色々な話をしてくれる。リッツもおもしろおかしく、故郷の森のことを語ったものだった。

 それがたわいなくて楽しかった。昨年もそうやって過ごしていたのに、今年は娼館で酒を飲みながら煙草をふかして一人物思いにふけっている。

 妙な気分だ。

 ここ二年夢を見ていたみたいな気がしてくる。

 故郷にいた頃、リッツは一人でいることが普通だった。

 父は少々変わり者で、リッツに対して子供のようないたずらを仕掛けてくる男だったが、深く愛されていたことぐらいは分かっている。

 そして母は闇の一族でありながらも穏やかな優しい人だった。一見すると冷たいと思われかねない切れ長の瞳はいつもリッツを温かく見守ってくれたし、大きくなってもリッツを抱きしめて大切にしてくれた。

 二人とも一人息子であるリッツを、こよなく愛してくれていた。リッツも両親を本当に大切に思っている。

 でもリッツはどこに行っても異端者だった。

 一族の者からは、許されざる罪の子として忌み嫌われ、幼い頃には殺されそうにまでなった。存在を認められることすらなかった。

 いつも掛けられる言葉は『何故死なないのだ?』や『生きている価値などないのに』だった。

 両親の愛情以上に、彼らの迫害と疎外感は幼いリッツを傷つけた。生きていてはいけないのだと、その事ばかりが強く心に植え付けられた。

 そして人間の街で感じた、違和感と流れていく時の違い。

 子供はすぐに大人になり、死んでいく。深くはつきあえない孤独に、リッツは打ちのめされた。

 まるで自分だけがガラスの向こうにいて、周りが手の届かないところで動いているみたいだった。

 誰もがリッツを異物として見ていた。世間とリッツの間にあるガラスは厚かった。

 そのガラスを簡単に打ち破ったのは、エドワードだった。素性も知らずに、でも絶対の信頼を持ってエドワードはリッツに生きろと言った。命を貸せといった。

 エドワードはリッツに、決して死ねとは言わなかった。エドワードの手を取ったあの時から、ずっとこの幸福な夢を見ているような気がしている。

 親友がいて、信頼しあえて、リッツを総て肯定してくれている。

 存在を肯定してくれる人がいるって、何て嬉しいのだろう。自分を認めて、本当に笑いかけてくれる人がいることは、何て幸せなんだろう。

 そう……いまのこの二年間が夢みたいだ。こうしてここで一人酒に酔って煙草をふかしているリッツの方が現実で、ふと目を覚ませば夢から覚めてしまいそうな気がして、一人の夜は怖い。

 何もかも消えてしまって、エドワードは夢の中の人物で、ジェラルドも、パトリシアも、シャスタも、ギルバートも……みんなみんな夢で……一人、森の湖畔で膝を抱えていたらどうしたらいいのだろう。

 どうやって生きて行けばいいのだろう。

 リッツは大きくため息をついて、頭をかき乱した。駄目だ。こんな事を考えていたら、うっかり失敗しかねない。

「明後日かぁ……」

 ポツリとつぶやいてみた。

 明後日、いよいよ計画を実行に移す。リッツにとって計画の失敗は死を意味する。コネルと約束した以上、成功しなければ命を差し出すしかない。

 エドワードを殺させるわけには行かないのだ。

 リッツは窓から首を出し、だらしなく寝そべったまま真上を見た。暖炉の煙で相変わらず曇る空だけれど、星はちゃんと見える。

「入るぞ」

 不意に扉が開かれて、ギルバートが入って来た。

「あ~ギル?」

 だらしなく出窓に転がり、空を見ていたリッツは、のろのろと体を起こした。

「……何をやってるんだお前は」

「ん~。退屈でさぁ……。姐さんたち、誰も相手してくれねえんだもん」

「明日から新祭月だ。当たり前だろうが」

「うん。そうだよね」

 ため息をつきながら、短くなった煙草を灰皿に押しつけた。数日前に貰った煙草をみんな吸ってしまって、灰皿が煙草の山だ。

「……お前、ここでこうやってずっと煙草吸って、酒飲んで、だれてんのか?」

 呆れ顔でギルバートに聞かれて、リッツは笑った。笑うしかない。自分の暗部に向き合っていたから妙に無気力なのだ。

「大丈夫かリッツ?」

「うん。すこぶる元気~」

 へらへらと笑うと、ギルバートはため息をついて、リッツの側にやってきた。床に座り込んだリッツの隣にある椅子に腰を下ろす。

「ボトルが半分以上空いてるぞ?」

「あれぇ? そんなに呑んだかなぁ?」

「明後日のことを考えていたのか?」

「ん? ん~、まあ……」

 気のない返事にギルバートは肩をすくめた。

「違うようだな。ならばお前、何を考えていたんだ?」

 口調はいつものように粗っぽいのに、ギルバートはどうやらリッツを心配しているようだ。自分では気がついていなかったが、ギルバートに気にされるぐらい無気力になっているらしい。

 なんとなくリッツは口を開いた。

「なあ、ギル」

「何だ?」

「今が夢だったら、どうする?」

 軽く尋ねると、ギルバートは顔をしかめた。

「何の話だ?」

 不審そうなギルバートに、リッツはへらへらと笑った。

「俺さぁ、すっげぇエドが大好きなんだよなぁ」

「そんなことは知っている」

「そんでおっさんも好きで、パティも好きで、シャスタも好きで、ローレンが好きで、アルバートも好きで、ギルも、ソフィアも、ファンも、ジェイも、ラヴィも、エンも、ベネットも、ちょっと苦手だけどヴェラも好きなんだ」

 言いながらリッツは床にずるずると寝転がった。

「みんなさぁ、俺に死ねっていわないんだ。ダグラス隊の奴らは殺すっていうけど、死ねっていわないんだよ。エドなんて、俺にさ一緒に生きろっていうんだ。俺が必要なんだって言ってくれるんだ。へへ。嬉しいよなぁ……。俺、だからエドのために生きるって決めたんだ」

「ずいぶんと酔ってるな、リッツ」

 ギルバートに引き起こされて、リッツは座り直した。

 酔っている。酔っていないとこんな事言えない。

「幸せすぎてさ。夢だったらどうしようって不安になったんだ。夢が覚めたらまだ俺、シーデナの森にいたらどうしようって。夢が覚めたら、俺はまたひとりぼっちで、湖を見てたらどうしようってさ……」

 一人の夜はそれを考えるのが怖かった。

 一年が終わる日、稽古もなければ傭兵たちの襲撃もなく、娼婦たちもいないたった一人の夜。

 ぐるぐるとそんな考えが頭を巡っていた。

 エドワードと一緒にいる時には忘れていた感情だった。

 一人になる事なんて滅多になくて、日々を暮らすことが楽しくて、ティルスでは全く思い出さなかった恐怖だった。なのにたった半年ここにいるだけで、またその恐怖が襲ってくる。忘れていただけでずっとその感覚が心の奥の闇の中で、息を潜めていた。

 しばらくの沈黙の後、リッツは小さく息をすってから、顔を上げた。目の前に複雑な顔をしているギルバートの顔がある。滅多なことでは表情を変えないギルバートのそんな顔に焦った。

「はは。ごめんギル。大切な作戦を目の前にして、妙なこと言い出しちまってさ。俺もう今日は寝るわ。ろくでもねえ事考えてる場合じゃねえよな」

 不意に今までの酔いが醒めた気分で、慌ててリッツは立ち上がり掛けた。とたんにすごい力で頭を押さえつけられて床に転がる。

「いって~っ! 何すんだよ、ギル!」

 うつぶせで床に押さえつけられて、リッツはもがいた。片手一本で頭を押さえつけられているだけなのに、全く身を起こせない。

「ちょ、ギルっ! いてえってば!」

 必死でもがくリッツの頭上から、声が聞こえた。

「リッツ。夢ってのはな、楽しむもんだ」

「……え?」

 聞いたことがないぐらいに真剣な声に、リッツは抵抗をやめた。

「いま見ているもんが夢で何故悪い? 夢であるならば、夢でいいじゃねえか。お前の夢であるならば、お前の望むように、お前の思うままに楽しむしかねえんだよ」

「ギル……」

「この夢から覚めた時、お前がもしも一人孤独に膝を抱えていたとしても、お前の胸に残らねえのか? 今お前を満たしている幸福が」

 リッツは言葉に詰まった。

 夢から覚める時のことばかり考えてた。夢だと思うから消えてしまうと思っていた。でももし今が夢だったとしても、決してこれはリッツの心から消えたりしない。

 一人の孤独を抱えても、仲間たちに大切にされた記憶は残っている。エドワードに差し出された手の温かさが信頼が、ちゃんと心の奥に支えとして残っていく。

「人生ってのは夢だ。お前ら精霊族で長生きで、俺ら人間の人生は短い。だがな、例え生きている時間が違ったって、みな生きることは夢を見ることと同じだ。だったら望むように生きりゃいいんだ。いつか夢が覚める時が来る。その時に、ああいい夢だったと笑えりゃ、勝ちなんだよ」

 そういったギルバートが、押さえつけていたリッツの頭をぐりぐりと撫でた。

「傭兵にとっちゃそんなことは当たり前の論理だ。だから生きている今日をめいっぱいに楽しみ、命を賭けた戦場を走れるんだ。てめえみたいな若造が、いっぱしに人生を悩むんじゃねえ」

 頭を思い切りひっぱたかれた。

「いってぇ……ひでえよギル」

 軽くなった頭をようやく上げると、ギルバートはいつもの人を食ったような笑みを浮かべていた。もしかしたらギルバートは、真剣にリッツに語った顔を見せたくなくて、リッツを床に押しつけていたのかも知れない。

 リッツのように、生きていてはいけないと言われていた命でも、こうして大切にしてくれる仲間たちが本当にありがたいと思う。

「一人でいたら考えちまうんなら、俺の部屋に来るか? ソフィアと一緒に、お前を可愛がってやるぜ?」

「じょーだんだろ、ギル?」

「別に冗談でもねえぞ? どうせ一対二なら、俺とソフィアでお前を攻めた方が面白いだろう?」

 鳥肌が立って、背中を冷や汗が流れた。

「男……嫌いだろう?」

「ああ。だがお前ぐらいなら、可愛がってやれそうな気がしてな。試してみるか?」

 ニヤニヤと笑いながら、ギルバートが自分のあごを撫でる。リッツは壁にへばりついた。

 ギルバートの部屋に行ったら、本当に二人に何かされそうで、ものすごく怖い。

「お、そういやあマリーもここに残ってたな。三対一でお前なぶってやるってのも楽しそうだ。お前も一対一じゃ飽きてきただろ?」

「嫌だ! 絶対に嫌だ! マリーも呼ぶんなら、俺、マリーと遊ぶ! 二人で!」

「馬鹿だな。マリーみてえな伝説の娼婦がお前ごときで満足させられるかってんだよ」

「じゃあ俺、一人で寝る」

「寂しくて煙草と酒が必要なんじゃねえのか? それなら疲れ切って気を失うまで暖めてやるぜ? 三人がかりでな」

 そういえば前にジェラルドが『ギルは冗談で本当に私を襲いかねんからな』と笑っていたのを思い出した。女に押し倒されるのは結構好きだけど、男に組み敷かれるのは絶対に嫌だ。

「もう大丈夫。本当に大丈夫!」

 ぴったりと壁に背を付けて、リッツは首を振る。

「そうか。残念だな。俺の技を色々と伝授してやるというのに」

「いらない!」

 壁に張り付いていたリッツの頭に、再びギルバートの手が乗った。まだ体術も剣技も敵わないギルバートに緊張して固まると、大きな手がリッツの頭をワシワシと撫でる。

「思い詰めるな、リッツ。思い詰めて歩むも、自ら望むように歩むも、通るのは同じ道だ。お前は考えるよりも飛び込むくせに、自分の事だけは思い詰めすぎる」

 そういうと、ギルバートはリッツに背を向けた。ギルバートの悪ふざけが、リッツの沈みきった心を浮き上がらせるためのものだったことに気がついて、リッツは大きく息をつく。

「ギル……ありがとう」

「礼を言われるほどのことは言ってねえ」

「それで、その……」

「何だ? やっぱり俺とソフィアとマリーに三人がかりで弄ばれたいか?」

「違う! あのさ、今日のこと……エドには……」

 酒を飲んで煙草を吸いながら、自分の不安を愚痴っていたなんて知られたら、エドワードに心配されてしまう。これから大変な道を歩むだろうエドワードに心配をかけるのは嫌だった。

 しどろもどろに言うと、ギルバートは笑った。

「分かっている。エドワードには黙っておくさ。じゃあな」

 扉が閉じられて、再びリッツ一人きりになる。リッツは壁に背を付けたまま、床にずるずると崩れ落ちた。

「そっか……夢でいいんだ……」

 ポツリとつぶやく。

 いつか夢が覚める。

 ギルバートに言われて気がついた。

 今が幸福な夢であっても、必ずこの夢は覚めてしまうのだ。

 そう……リッツは精霊族で千年の寿命を持ち、エドワードは人間で百年生きられない。

 リッツが人間の見た目でいうと、たった十歳程度にしか年をとらない間に、エドワードは年をとって死んでしまうのだ。

 リッツはギュッと目を閉じた。

 一緒にいられる時間は何て短いんだろう。なんて長い時間、リッツは一人で生きて行かなくてはならないんだろう。

 一族から疎まれて、人の世界に居場所を見つけたのに、それなのに寿命はだけは呪いのようにリッツを生かし続ける。

 リッツと永遠に共に生きられる人など、この世界に一人もいないのだ。

 でも今はまだ夢の中にいる。夢の中だから、思うように思うままに生きてみてもいいのだ。

 大好きな人たちと、思い切り笑っても、思い切り騒いでも、そして共に夢を見てもいいのだ。

 床に横向きに寝転がり、リッツは膝を抱えて小さく身を丸めた。

 たった一人で過ごすシーデナ湖畔で、風が木々を揺らす音が聞こえたような気がした。

 夢か……。

 今の自分は、何て幸せな夢を見ているんだろう。

 目を閉じたままいたリッツの耳に、鐘の音が聞こえてきた。街中に響き渡る鐘の音は、風に乗ってずっと遠くまで流れていくのだろう。


 一年が終わった。長くて、短かった一年が……。


 一年の終わりと新祭月の始まりを告げる鐘の音は、それぞれの場所で、それぞれの時を過ごす人々の心に深く染みこんでいった。

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