<3>
何だか懐かしい夢を見ていたような気がする。暖かくてふんわりとした、とっても暖かな夢を……。
「リッツ、ねぇ、リッツ」
甘い女の声で囁かれて、リッツは目を覚ました。同時に素肌の触れ合う暖かな感触が伝わってきて、伸びをしながら腕の中の肌に手を伸ばす。
「あ~、おはよ~」
あくび混じりで言いつつも、女をまさぐろうとした手が、あっさりと女にたたき落とされる。
「こら!」
手をたたき落とした女が身を起こして、寝転がったままのリッツを見つめ、豊満な胸の前で腕を組んだ。腕に載る乳房の豊かさに思わず笑みをこぼすと、次はあっさりと頭に一撃食らう。
「ってえなぁ……なんだよぉ……」
「いやらしい目で見るんじゃないの」
「昨日はさんざんいやらしくしても怒らなかったじゃん」
「当たり前でしょ。でも今は朝。あたしの休憩時間なの」
「ちぇっ。つまんねえの……」
リッツもベットに起き上がってむくれた。子供みたいだといわれるが、子供みたいに可愛がられた方が気が楽だから、リッツはいつも彼女たちにこんな態度を貫いている。そもそも彼女たちはリッツの年齢なんて知らない。
「あのねぇ、リッツ。あたしは別に、これからあんたの相手をしてあげてもいいのよ? どうせ夕方まで寝てるだけだし」
ため息混じりにそういった女が、困った子供を見るような目でリッツを見下ろしている。リッツもちゃんと我が儘を言っているのは分かっているのだが、何となくまどろんでいたい時も、起きたくない時もある。
特に、ギルバートに一日付き合えと前日から宣告されている時は。
こんな時は大抵、建物の地下にある鍛錬場で、練習と称してボコボコにされる時だ。グレインを離れてもう三ヶ月以上になるというのに、リッツは未だギルバートに全く刃が立たない。
「じゃあ、遊ぼうぜ?」
「……馬鹿ねぇ……。朝から女を抱いてたら、ひどい目に合うのはあんたの方でしょう、リッツ」
「……うん。そうだね」
リッツは小さく呻いた。それを考えると確かに怖い。
「じゃ、あたしも自分の部屋に帰るわ」
女は素晴らしく整った体をリッツの前からくるりと翻し、ベッドサイドにかかっていた派手なガウンを身にまとった。
「行っちゃうのかよ」
「当たり前でしょ」
女は振り向きもせずにリッツに背を向ける。いつもの光景だが、ちょっと残念でリッツはその背に一言声をかけた。
「今度はいつ?」
「今度?」
女は振り返って肩をすくめた。
「決まってるじゃない。あたしの顧客が少なくて、あたしの体力と性欲が余っている時よ。あんたこそ、今度あたしに声をかけるのはいつよ?」
女の言葉にリッツはにやけながら笑うしかない。そんなことはリッツにだって分からないのだ。
「ええっと、相手してくれる姐さんがみつかんなかった時」
「……まったく子供のくせに馬鹿にしてるわ。ろくな大人にならないわよ」
「肝に命じとく」
「……ったく、ギルの弟子とはよくいったものね」
リッツがへらへらと笑っていると、女はため息をついて部屋を出て行ってしまった。
彼女は娼婦である。そしてリッツ住んでいるこの場所は、娼婦たちの宿舎、つまりマレーネの経営する娼館の最上階なのだ。
元々女遊びが嫌いではなかったリッツだったが、ここに住み着いてから、毎晩のように暇な娼婦たちと夜を共にするようになってしまった。
リッツの事を娼婦たちはみんな年下の少年として、ペットか何かのように可愛がってくれているのである。それをリッツは甘んじて受け入れ、状況を楽しんでいる。
実は百十二歳だとはとても言えない。
ギルバートと違って、一対一の普通の関係だが、それも違う人間と毎晩のようにでは、とてもじゃないがパトリシアに言えるような状況ではない。万が一にでも知られたらきっと、パトリシアに『不潔よ!』と殺されるに違いない。
グレインにいた時は、大抵の時間をエドワードと一緒に過ごしていた。チェスをしたり、書類を捲るエドワードの隣で、ローレンに申し渡された宿題をしたり、くだらない話をしながら酒を飲んだりするのが、どうしようもなく楽しかった。
でもここシアーズでは、ギルバートたちと離れて一人部屋に帰ると孤独がじわじわと迫ってきて、いても立ってもいられなくなり、仕事終わりで暇な娼婦とふざけあいながら夜を過ごす。
悪循環だなと自分でも思っているのだが、どうすることも出来ない。
ごくたまに一人で過ごす夜は、エドワードやパトリシア、シャスタの事などを思い出す。ジェラルドやアルバート、そして死んでしまったローレンの事も思い出す。
グレインに帰りたいなと思っても、自分の任務はまだ続いているからそれは出来ない。今帰っても何の役にも立たない自分を知っているから、役に立つためにまだシアーズにいなければならないのだ。
ため息をつきつつ、リッツはのろのろとベットを出て、大きく伸びをした。窓の外に見える景色は屋根ばかりで、空は微かにすすけている。
朝ご飯の支度をする家々からの煙が、煙突から立ちのぼり、空をたなびいているのだ。
「今日もいい天気だなぁ……」
リッツが清々と呟くと、後ろから低い男の声がかかった。
「あらぁ、リッツ。そんな格好で私と遊ぶ気?」
全身に怖気が走って、反射的に机の上の短剣を手に取ると首元を庇った。手が痺れるような衝撃と同時に、柄に矢が一本突き立っている。
「避けちゃったのぉ? 残念。怪我したら介抱してあげようと思ったのにぃ」
目の前には背の高い絶世の美女が立っている。ただし、見た目だけの絶世の美女だ。中身はまごう事なき、男性である。
絶世の美女は手にしていた大弓を、いとも簡単にくるりと回して半分に折ってしまった。折りたたみ式の弓矢だ。
「じょーだんきついぜ、ジェイムズ」
わざと彼が嫌がるように嫌味に本名を呼ぶと、正面の美女が顔をしかめた。そんな彼に矢を抜き取って投げ返すと、リッツは大急ぎで服を身につけた。
どんなに娼婦と遊んでいようと、すぐに身につけられるように服を畳んでおくことは、この部屋で暮らすには必須の条件なのだ。
生き延びるために……。
「いやだ、この子。あたしはベネットよ。ベネット。ちゃんと分からない子は……押し倒すぞ? ひよっこ」
そういうとベネットは、美しい顔に壮絶な笑みを浮かべて、拳を突き出してきた。
リッツはいつものごとく身を躱す。
「押し倒されてたまるかってえの!」
「ふふん。やるようになったわね」
「へん。食らって堪るか」
リッツは舌を出すと、立てかけてあったベルトの付いた自分の剣を掴んで部屋から飛び出す。そう、娼婦といつまでも遊んでいると、こうして女装の傭兵であるベネットに襲われるのだ。
最初はかなりきわどい状況にまで追い込まれたものの、今ではベネットを軽く躱せるようになった。元々ベネットは弓使いで、体術の専門ではない。
ベルトごと剣を身につけて廊下に飛び出すと、タガーが飛んできた。とっさに剣を抜いてタガーをたたき落とすと、もう一本飛んできたタガーを同じように落とす。
振り向くと男が、廊下で黙々とスクワットをしているのが目に入る。彼がタガーを投げてきた張本人だ。隆々と筋肉が盛り上がった褐色がかった肌に茶色の髪をした彼は、ユリスラ人ではない。サーニア人だ。
この状況でリッツを見ることなく、いつも正確にリッツに向けて彼はタガーを投げる。最初の頃はこの時点で傷を負ったものだが、今は無傷で通り抜けられるようになった。
「おっはようジェイ。精が出るね!」
剣を納めて床に落ちた二本のタガーを投げ返すと、こちらを見るでもなくジェイはタガーを左右の手で見事に受け取り、くるりと回転させて鞘に収めた。その間もずっとスクワットを続けている。
「お前も少し早く起きて鍛錬しろ。女なんぞ下らん」
「へへ。耳が痛てえな」
リッツ以外にも数人のダグラス隊と呼ばれる傭兵部隊の人間が、娼婦に混じってこの階に住んでいる。
リッツと直接関わりがあるのはいずれもダグラス隊の幹部たちで、その下の傭兵たちをリッツは知らない。英雄を仕立て上げるという名目上、リッツの地の性格を知る人間は少ないほどいいらしい。
ギルバートが連れて来た傭兵たちは、ギルバートをいれても二十五人前後だそうだ。金にもならない状況でもギルバートに付いてきた、ギルバートに心酔する人間たちである。
ギルバートによると、ここにいる以外の傭兵たちは、情報収集や偵察任務を担当し、ここに顔を出すことはまずないのだそうだ。彼らは商人なり旅人なり、浮浪者なりにばけて、ここシアーズに潜伏しているらしい。
鍛錬好きなジェイに笑いかけながら階段を駆け下りる。リッツが住んでいる階は、普通の娼婦たちの住居なのだが、この下の階には館の外に住むのが面倒な高級娼婦たちがいる。さすがのリッツもこの階の娼婦と遊ぶわけにもいかない。
だがこの階は、マリーことマレーネの住居でもあり、この娼館の中心でもある。そしてこの階には、ギルバートとソフィアが寝起きをしている部屋があり、そこが実質、ダグラス隊の本拠地になっているのである。
「おはよう! ギル!」
いつもの調子で扉を開けたリッツの目の前に、ナイフが飛んできた。さっと避けるも、耳元でナイフが風を切る音がして、髪が数本、切れて宙に舞った。いつもは、ここに来る前に階段で食らうのに、思い切り意表を突かれて、リッツは冷や汗を流す。
「う~ん。残念だね。眉間を狙ったのに」
眼鏡に黒髪の男が、穏やかに微笑みながら、片手にずらりと並んだナイフの刃を光らせた。飛刀という細くて鋭く手の平に収まるほど小さい、タルニエン武器だ。眼鏡の中の穏やかそうな細い糸目が更に細められている。
「死ぬ! 眉間に当たったら確実に死ぬって!」
「ふふっ。大丈夫さ。死なない程度に重傷にしてあげるよ」
「怖ええよファン!」
「やだなぁリッツ。僕のどこが怖いんだい?」
虫も殺さぬように人のいい顔をして、ファンは両手のナイフをすっと胸元に隠した。
飛刀使いのファン。ナイフ以外にも体術を使う傭兵だ。東国タルニエンの出身で、タルニエン人である。ほっそりとした体型に優しげな微笑み、でも殺意を発することなく笑みを浮かべまま人を殺せるのだという。
ギルバート率いるダグラス隊の中では、精霊使いのソフィアと飛刀使いのファンが、ギルバートの下の双翼と呼ばれている。精霊魔法だけではなくソフィアもファンと同等の体術を使うことを、リッツは、我が身をもって知らされた。
マレーネの店に身を潜めて数日の間、ソフィアとファンには、立ち上がれないほど、ボロボロに叩きのめされたのである。
現在は十月も終わりに近づき、シアーズでも秋の気配が濃厚になってきている。つまりリッツがここに来てから、もう三ヶ月半が立とうとしていた。
リッツはため息をつきながら、テーブルに着く。ギルバートはまだ来ていないようだ。
いつもリッツが来る時間を見計らって準備されている朝食がおいしそうに湯気を上げていた。入れ立ての紅茶に口を付けようとして、リッツはその異様な香りに気がついた。
部屋を見渡すと、ふわふわの長い銀髪を可愛らしいリボンで結ったフリルドレスの少女がいた。少女は鼻歌を歌いながら何かを繕っている。
「ヴェラ。また俺を昏倒させようとしてんだろ?」
口を尖らせて抗議すると、ヴェラがにっこりと微笑んだ。
「おはようリッツ。昏倒する前に気がついたのね。偉い偉い」
「……頼むからお茶に毒はやめてくれよ……」
「いやよぉ。それが私のアイデンティティだもん。それともリッツ……」
そう言うとヴェラは妖艶な微笑みを浮かべて、立ち上がり、リッツの元に歩み寄ってきた。ヴェラの白い指が、ゆっくりと艶やかにリッツの首筋を伝う。
「あたしと、寝るぅ?」
「やだ! まだ死にたくない!」
「ええ~、娼婦とは毎日寝るのにぃ?」
「だって姐さんたちは、俺を殺そうとしないし!」
「だ~いじょうぶ。絶対に他殺だと思えないような方法で殺してあげるから」
「俺まだ死にたくないの!」
「そぉ? 死ぬ前に極上の快楽を味わえるのよ?」
「味わいたくない!」
「毒を飲むのが嫌なら、こっちのアイデンティティを満たしなさいよね」
妖艶なヴェラの微笑みに、リッツは思い切り身を引いた。
「だからやだって! ソフィア~」
黙ったままパンをむしっているソフィアに助けを求めると、ソフィアは肩をすくめた。
「女好きなら、一度は味わってみたら?」
「やだ! 俺は普通でいい!」
「だって。ヴェラ、放してやりな。リッツはまだしばらく温存」
「しばらくって……なんだよ……?」
「は~い、お姉様」
開いた口が塞がらないリッツを無視してヴェラはにっこりと笑うと、離れて再びソファーに腰を下ろした。手元には可愛らしい布と糸の付いた針が置かれている。見ると作りかけの可愛いサシェが置かれていた。
一般的には香水をしみこませて使う、掌サイズの小さなクッションだが、制作者はヴェラだ。何がしみこまされるのか分かったもんじゃない。
「攻撃されるのは慣れたけど、毒はやだよ、ソフィア。それにしばらく温存って……」
ヴェラに代わって、リッツはソフィアに抗議する。
「仕方ないだろ。たらしを自称してるんなら、味わってみればっていっただけさ」
「たらし、自称してないけど……?」
「そう?」
「それに温存って……」
「だってあんたは、エドワードから預かっているからね。殺しちゃダグラス隊の名目が丸つぶれさ」
「うそだ。絶対に容赦してないくせに。特にヴェラ」
「そんなこと無いと思うよ。だってあの子はそれが得意なんだから」
そういうとソフィアは、ヴェラを見て微かに微笑んだ。ヴェラはソフィアの実の妹で、砂糖菓子の様にふわふわと甘い美少女に見えるが、その実二十代も半ばのれっきとした大人の女性である。
薬物と毒物を専門に扱うスペシャリストであり、敵から情報を仕入れてくるスペシャリストでもある。薬物で成長しないよう、自分を調節しているかも知れないとは、女装の傭兵ベネットの意見である。
そして彼女は敵のお偉方をたらし込み、ベットで情報を盗ってくる、ハニートラップの名手だ。もしくはその顔と体で暗殺対象にとりいり、ベットで最後の時まで、たっぷり快楽を味あわせてから殺害するプロフェッショナルでもあるのだ。
彼女の容姿から誰も彼女を疑わず、相手は自然死と見なされる。
そしてヴェラはソフィアと同じく、ギルバートの愛人でもある。
さすがのヴェラもギルバートや傭兵仲間相手に毒を盛る気はないらしく、ダグラス隊の中でヴェラの毒の標的になるのはリッツだけだ。
当初、ソフィアとヴェラの関係が微妙な線で保たれているのかとリッツは思ったのだが、ギルバートを挟んで、二人はとても仲がいい。
ヴェラが本当に愛して止まないのは実の姉ソフィアなのだ。だからギルバートを挟んで焼き餅を焼くことなど無く、ソフィアのいう事なら何でも聞く。
がっくりとテーブルに沈み込んだリッツに、新しくお茶を入れてくれたのは、リッツやギルバートよりも大柄な、穏やかの男だった。サーニア出身でやはり褐色がかった肌をしている。
「朝からお疲れ様」
穏やかに差し出されたお茶には、妙なものが入っていない。
「ありがとう。まともなのはラヴィだけだよ~」
リッツはラヴィに泣きつく。
穏やかなる巨人、ラヴィは絵画を愛し、絵を描くことを愛する槍使いである。毎朝の襲撃に決して加わることなく、穏やかにリッツを見守ってくれているのだが、鍛錬場での実戦となると、ギルバート以上に怖い。
槍使いと因縁があるリッツは、暇さえあればラヴィに相手をして貰うのだが、恐ろしいぐらいに強くて、ギルバートと同じく一度も勝てたためしがない。一瞬の隙を突かれて体を貫かれかけ、全身に冷や汗を掻いたことも数知れない。
ここにいる傭兵たちは、とにかく強い。リッツが今までやり合ってきた人々のレベルとは、格段に差がある。しかも彼らが皆、妙にいたずら好きで、リッツはいつもからかわれながら命を狙われている。
最初は本気で怪我をしたり、毒を口にしたりと、死にそうな目にあったのだが、そのたびに綺麗に治療してくれ、命を救ってくれる人物がいる。だからリッツは今も生きのびているのだ。
「エンは?」
見回しても姿が見えないその人物の所在を聞くと、ソフィアが肩をすくめた。
「近所の酒場で飲みつぶれてたから、ジェイが夜中に拾いに行ったんだよ。まだ寝てるんだろ」
「ふうん」
頷きながら、リッツはパンに手を伸ばした。時間が出来た人間から食事を取る決まりだから、ギルバートを待つこともなく食べ始める。
エンはタルニエン出身の小柄な白髪の水の精霊使いだ。といっても攻撃魔法を全く使えないし、体術も剣術も槍術も全く駄目な人物だ。つまり戦場で攻撃する事に置いては全く無能なのだ。
だがエンは怪我の治療に関してはスペシャリストなのだ。水の精霊使いには治癒魔法にのみ秀でているものも少なくない。エンもそれだけならギルバートの部隊にいる人物ではなかっただろう。
だがエンは凄腕の医者でもあった。治癒魔法と医術を使うことで、どんな状況に陥った味方も、たいていの場合は癒してしまう彼を、ギルバートは笑いながら奇跡の手の持ち主と称していた。
その上どんな戦場でも、隠れて敵に見つからないという、ものすごい隠れ上手でもあるらしい。
話し好きのベネットによると、血塗られた戦場で、戦闘後にどこからともなく、医療鞄を持って飄々とエンが現れるのだそうだ。当然、戦闘中は気配すらも感じられないぐらい、見事に隠れているとのことだ。
だが問題もある。エンは酒好きで、女好きの困った悪癖を持っている。もしそれがなかったら、タルニエンで大成しただろう。
でも現実は、違う。エンは常に酔っ払った状態でいるし、目の前を綺麗な女性が通り過ぎると、お尻を撫でずにはいられない。それがいつもトラブルになるのだそうだが、それでも自分の仕事を忘れる事はないのだそうだ。
リッツも幾度かエンに見て貰ったが、酒焼けした赤ら顔が、怪我人の目の前ですっと引き締まり、だらしなく充血していた瞳が傷を見ると澄んでいくのを見た。実力は本当にお墨付きなのである。
リッツはパンを口に放り込む。
ダグラス隊は一癖も二癖もある人々の集まりだったが、傭兵というものは得てしてこんなものだとギルバートは言う。
今までリッツの身近にいた人と言えば、ジェラルドを筆頭とした、至極真面目でリッツからすれば尊敬する人々だった。それに比べてこの集団の雰囲気は何とも言えなかった。
最初は面食らったリッツも、いつの間にかこの状況になじんできていた。仲間だからといって決して馴れ合うでもなく、だが信頼は絶対に失わないという、強固な関係はリッツに取っても心地いい。
「お、起きてきたかリッツ」
扉が開いて、ギルバートが入って来た。
「おはよう、ギル」
リッツ以上に激しい女遊びのせいで、毎朝のように半裸の姿で朝食を食べているギルバートなのに、今日に限っては何故か、いつもは見ないような格好をしている。
どう見ても港で働く人足といった格好なのだ。ぼさぼさの髪がはみ出した、モスグリーンのハンチング帽に、同色の吊りズボン、そして使い古されたようによれたクリーム色のシャツを着ている。その腰には剣すら帯びていない。
シャツのポケットにはこれもまた不格好な黒縁眼鏡が無造作に突っ込まれていて、しかも顔には土を被って拭ったような汚れまである。
「何その格好?」
「さっさと飯を食え。喰ったらお前も着替えろよ」
「え? 何に?」
「これさ」
ギルバートは笑みを浮かべて、自分の服を引っ張った。音もなく立ち上がったソフィアが、部屋の片隅にあった箱を持ってきてくれた。その中にはギルバートと同じように薄汚れた作業着が入っている。
意味が分からず困惑するリッツを、ギルバートがせかす。
「今日はちょっと付き合えっていっただろ? いいからそこにあるてめえの飯を腹に収めて、とっとと着替えろ」
どうやら鍛錬場でこてんぱんにされるということではなかったらしい。有無を言わせない口調に、リッツは頷くしか無い。大急ぎで食事を口に放り込むと、ラヴィの入れてくれた紅茶で流し込み、ソフィアから荷物を受け取った。
箱の中から出てきたのは茶色の吊りズボンに、やはり薄汚れたクリーム色のシャツだ。そして帽子はハンチングではなく、灰色のニット帽だった。
仲間たちのからかいに下品な冗談を飛ばすギルバートの後ろでリッツは急いで着替える。誂えたようにぴったりだった。ということは、誰かがリッツに誂えてくれたのだ。
ヴェラは裁縫が得意だが、こんな服を作ることは絶対無いだろうからこの娼館の誰から繕ってくれたのだろう。
シアーズに来てからのリッツは、外出時は必ず帽子着用を義務づけられている。しかもどれもが耳の隠れる帽子ばかりだ。ニット帽も例外なく少し大きめで、リッツの特徴的な耳は誰にも気がつかれないだろう。
「これでいいの?」
鏡がないからいまいち自分の姿が分からない。
「おう。いい男っぷりじゃねえか」
笑いながらギルバートに顔を叩かれた。
「いってーっ!」
思い切りはたかれた頬を押さえると、そこに何だかざらざらした感触がある。
「おまけだ。これで立派な人足の完成だ」
楽しげなギルバートに傭兵たちが爆笑する。どうやら頬にギルバートと同じ泥を付けられたらしい。何が何だか分からないから、何となく面白くなくてふて腐れる。
「剣は? 置いてくの?」
ぶっきらぼうに行ったリッツに、ギルバートはにんまりと笑う。
「この格好に剣を下げてちゃ目立って仕方ねえだろ。剣がないと不安か?」
「……べっつにぃ。一応腕っ節にも自信あるからさ」
「ファンにも勝てねえくせに強がりやがって」
「うっ……」
確かにリッツは体術もファンとソフィアに習っていて得意ではある。だたこの二人には全然かなわない。
剣術はギルバートにかなわないし、いろんな事が中途半端ではあるが、ここに来てから色々な事が格段に強くなったような気がする。
だが比較対象がこのダグラス隊だから、自分がどこまで強くなったのか、全く分からないのが不安ではある。
「護身用に、お前に渡した短剣は忍ばせておけ。ないよりましだろ?」
「うん」
ナイフもファンから習った。だがどうもリッツはナイフを投げることが得意ではなく、ナイフよりも近距離攻撃を行える短剣の方が扱いやすい。
最初はダグラス隊の幹部全員から得意分野を教え込まれたのだが、ある一定の時期を過ぎるとリッツの適性を見て、徐々にリッツが習うものが限られてきている。
現在教わっているのは体術と剣技だけだ。だが絞られたことでリッツも楽になりつつあった。極める方向が分かってきたからだ。だからといって、このダグラス隊のみんなのいたずらのような攻撃から、逃れられるわけもない。
地下にある鍛錬場では、暇さえあればみんながリッツに稽古を付けてくれる。持っている武器、特技がバラバラだから、リッツは色々な戦いを身につけた。特にラヴィとの戦いには力を入れている。
もうあの槍の男に負けたくない。
短剣を吊りズボンの内ポケットに潜ませると、リッツはぱんぱんとズボンを叩いてみた。もうもうと埃が上がる。
「あ……」
「馬鹿野郎! 俺の部屋を砂だらけにする気か!」
「へへ。悪い悪い」
「笑って誤魔化しやがって。ったく。落ち着きが無くて仕方ねえな」
苦笑しながらギルバートは、ごく自然にソフィアが口にくわえていた煙草を抜いて、自分の口にくわえる。ため息をつきながらソフィアが、新しい煙草を出して、火を付けた。
ギルバートは美味そうに煙を吹き出して、部屋に思い思いの事をしながらくつろぐ部下たちを見回した。
「ヴェラ、ベネットと一緒に買い出しに行ってこい。女同士、二人で行きたいって言ってたろ? 後でファンに請求しろ」
「は~い。ヴェラは買い物に行きま~す」
「ファン、そろそろ布問屋から派手な布を買い付けといてくれ。針子を雇って新祭月までにど派手にパーティが出来るようにな」
「了解。派手なのを買うことにするよ」
「ジェイとラヴィは、エンと留守番だ。俺とリッツは夕方まで帰らん。鍛錬場を使ってもいいが、やりすぎて壊すなよ。お前とジェイじゃ、建物まで壊しかねねえからな」
ギルバートの冗談に、全員が笑った。二人とも稽古が好きで、放っておくととことんまで戦ってしまうたちなのだ。
「分かってるさ、ギル」
穏やかにラヴィは返事をして笑う。
「ソフィアは、こっそり俺とリッツをつけてくれ。怪しいそぶりの奴がいたら覚えておけ」
「了解」
全員に指示を出すと、ギルバートは短くなった煙草を灰皿に押しつけた。
「行くぞ、リッツ」
「うん」
言われるままにリッツはギルバートの後ろに続いた。この娼館にやってきてから、幾度も使った娼館の裏にある通用口から表に出る。
街に来てから、ベネットやファン、ソフィアたちに連れられて、リッツは色々と街を歩き回った。ほんの一週間ほどで、シアーズの人混みにも慣れてきて、前にエドワードとジェラルドと歩いた時のように、人に揉まれて行き先を見失うようなこともなくなった。
観光だ食事だとあちこちに連れて行かれたから、リッツもシアーズの街にすっかり詳しくなってしまった。今では一人でこっそり出かけて、気に入った店で食事をしている。
娼館の食事は娼婦たちの健康管理のためなのか、かなり質素で、普段から少々大食いの帰来があるリッツは、満足できなかったのだ。
リッツは立ち並ぶ建物の間に切り取られたように、狭い青空を見上げる。娼館の裏は朝でも薄暗く、風が通らない。
薄暗い路地をほんの少し歩いたところで、二人は賑やかな大通りに出た。ギルバートが胸に挿していた黒縁眼鏡をさりげなくかける。
いつもは洒落者で通っているギルバートのその姿には、普段の華やかな雰囲気がない。どこにでもいそうな労務者のようだ。なるほど、変装とはこういうことかと、リッツは納得する。
シアーズの街は相変わらず賑やかだ。リッツは眼を細めて人が行き交うのを見る。
最初にこの街に来た時、明るく華やかな賑わいに、リッツは何となく落ち着かなかった。この街の外で、沢山の人々が貧困に喘いでいることを知っていたからだ。
街の本当の状況を見せつけるために、ギルバートはグレインからシアーズに来るまでにいくつかの街や村を経由した。最初に寄ったのはファルディナの街だった。ギルバートの出身地であるファルディナは疲弊していた。
ファルディナの自治領主は、侯爵でありオフェリル自治領区と同じく平民の上に君臨していたのだ。逃げ込んできたオフェリル貴族をかくまった侯爵は、高騰していた小麦を急遽確保するべく買い占め、市民は小麦粉を手にすることが出来ない状況になっていたのだ。
リッツが見たファルディナの子供たちはみな、異様に痩せていた。目を異様に輝かせて恵をねだる子供たちに、リッツの手が震えた。
それを見てきたから、来たばかりの頃はあまりにも賑やかなシアーズに、少し嫌悪感を抱いたものだった。もう少し富を分配すればいいのに、と思ったのだ。
でもこの街で暮らすにつれ、この賑やかな喧噪が、街の人々の妙に浮き足立った態度から出ていることに気がついた。
ギルバートによれば、国が揺れているとき、あえて人は馬鹿騒ぎをしてその事実を忘れようとするのだという。
先を歩いていたギルバートが付いてこないリッツに気がついたのか、振り返って声をかけてきた。
「どうした?」
「なんでもないよ」
リッツは急いでギルバートの後を追う。
ギルバートはリッツより少々身長が高い。リッツもかなりの長身だから、二人並ぶと目立つことこの上ない。だから今まで一緒に出かけるなんてほとんど無かったのに、今日に限って変装してまで外に出るには、相応の理由があるのだろう。
しばらくシアーズの賑やかな町並みを歩き、商業エリアからどんどん海に向かって歩いて行くと、賑やかな人の声は、様相を変える。楽しげにはしゃぐ人々の声から、活気に満ちた男たちの声に代わっていくのだ。
そして街も、どことなく雰囲気を変える。
路地には洗濯物がたなびき、路地にうずくまる浮浪者や、どこから来たかも分からない、暗い目をした子供が、小銭目当てに道を行く人々を見上げて笑う。
朝から酒を飲んでいる人々が殴り合う光景も、道ばたで酔って寝ている姿もある。酒場では朝から朝食と共に酒を提供しているのだ。夜通し働いていた港の男たちはここで食事を取って、ねぐらに帰る。
薄暗い道をしばらく進むと、荷物と人で溢れた広場に出た。ごみごみとしているのだが、その広間の中心には木箱がうずたかく積み上げられ、その周りで逞しい男たちが活気ある声を上げている。
人々はみな今日の糧を得るために、肉体労働に励む。誇りある港の男たちは、みなこうして自分を鍛えているのだ。
どことなくすえた匂いのするこの広場には、どこからか潮の香りと、岸壁に打ち付ける波音が聞こえている。海が近いようだ。
ギルバートに促されるままに、働く男たちの後ろを歩く。よくよく見ていると逞しい人足たちの中には、慣れない作業に疲れている者もいるし、まだ幼い少年もいる。
同じぐらいのグレインの子供たちは、農作業をしながらも、野山を駆け回り仲間と楽しく笑っているのに、と思うとやるせない。
こういう光景を見せられると、リッツは改めてエドワードがやろうとしていることの大きさを思い知る。リッツには理想の国家のあり方とか、理想の君主像がどんなものか何て、何も分かっていない。でも人が望むように生きられる道筋を付けたいというエドワードの思いだけはよく分かる。
リッツ自身が感じるこの心苦しさを、感じなくてすむ国家がエドワードの理想の国家で、エドワードの理想を手助けするのが自分でありたいと思う。




