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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
一対の英雄
42/179

<2>

 翌日の朝、清々しい空気に包まれたモーガン邸の中庭でパトリシアが待っていた。その背後には騎士団第二隊が勢揃いしている。どうやら一番最後になってしまったようだ。

「すまない、少し遅くなった」

「遅くないわ。私が早起きだったの」

 どうやら緊張はまだ解けていないらしい。だがその顔には任務をやり遂げる決意が満ちている。

「行きましょう、エディ。私たちの戦いに。リッツだけ戦っているなんて、それじゃ気が済まないわ」

「そうだな」

 死ぬ思いをしているというリッツを思い浮かべて、エドワードは荷物を担ぎ上げた。荷物以外にも何か重たい荷が肩に乗っているような気がして、微かに息を吐く。

 これもエドワードの一つの戦いなのだ。

 見送りに来たジェラルドに別れを告げ、清々しい朝風の中でグレインを発った。

 グレインの街を出て、街道をひたすら西に進む。

 暑い季節だったが、幸いなことにサラディオに続く旅人の街道は、中央山脈から吹き下ろす風と、どれだけの広さがあるのか誰も知らないシーデナの森からの風で少しは涼しかった。

 リッツによるとここより更に高原であり、木々に覆われたシーデナに夏はないから、風がいつも心地いいのだという。そのせいかリッツは熱さにはそれほど強くない。ティルスの夏はまあいいとして、高原では内王都シアーズの夏は辛いだろう。

 リッツはどう過ごしているのだろう。

 馬に乗っていると、その風が髪を心地よく揺らしてゆく。

 とても気持ちがいいが、領主代行として馬車に乗るパトリシアは暑いかも知れない。

 風の精霊使いであるパトリシアいつも心地よさげに風を感じているから、閉鎖された馬車は息苦しいだろうが侯爵令嬢を演じている以上、ドレスで馬に乗るわけにも行くまい。

 ちらりと覗いた馬車の中のパトリシアは未だに緊張感に包まれていたから、熱さを感じられる状態では無いのかもしれない。

 街道を時折村に寄りつつ三日ほど進んだ後、一行はサラディオの街に入った。

 賑やかな商業都市サラディオは、街道沿いに巨大な市が開いていて、人で賑わっている。馬車の道は整備されているが、両脇の市と人の波は賑わいを見せていた。豊かで華やかな街だ。

 だがよく見ると、浮浪者が多い。市の裏に座り込んでいる者、道に面した建物の入り口の石段に腰を下ろす者もいる。皆が疲れ切った顔をしているのが印象的だった。

 今までエドワードはジェラルドの共で、あちこちの街へ赴き、徐々に国が傾いていくのを見てきた。だがこの状況は今までにましてひどい。

 ふと名前を呼ばれて振り返ると、馬車からパトリシアが顔を出しているのが見えた。目が会うとパトリシアは優雅な手つきでエドワードを手招きする。

 体面上、現在はパトリシアの護衛騎士なので、恭しく馬車が追いつくのを待つために馬の足を止めた。

 馬車に追いつき、パトリシアの顔を出す窓に併走しながら、エドワードはパトリシアに声をかけた。

「どうした?」

「グレイン以外の街って、みんなこうなの?」

 不安そうな声で気がつく。パトリシアはグレイン以外の自治領区の街へ行くことがほとんど無かった。オフェリルのカークランドの街、アデルフィーとシアーズには訪れたことがあるはずだが、治安がしっかりしていたはずだ。

 感覚的に国家の現状を分かっていても、初めて目にした光景に戸惑っているのだろう。

「似たり寄ったりだ」

「座り込んだり、道で寝ている人は、浮浪者?」

「浮浪者もいる。でも大半が、高い税収で食物を持って行かれて暮らせなくなった、難民たちだ」

「難民……」

 パトリシアは、呟きながら馬車の外を見た。パトリシアの視線の先を追うと、そこには子供を抱いて座っている女性の姿がある。

「ここの自治領主は何もしないのかしら」

 目を怒らせて呟いたパトリシアに、エドワードは苦笑した。

「パティ。サラディオは商業都市だ。当然サラディオ自治領区内にも農場や酪農場はあるさ。でもグレインと違って、大規模に経営しているところは少ない。個人の農家に、難民を受け入れて貰うのは、厳しいだろう? 自治領主だって対策は練っているだろうが、それだけでは追いつかないんだろうな」

 諭すようにパトリシアの目を見て告げると、パトリシアは小さく息をついて肩を落とした。

「そうね。商業では、難民がすぐに付ける職業はないから厳しいわ。それに大規模農場があって、家族丸ごと受け入れを出来ないなら、家族がバラバラになる難民が不幸ね」

 黙り込んでしまったパトリシアは、馬車の座席に深く沈み込んだ。共に来ているグレイン騎士団第二隊の面々は、何も聞いていなかったかのように足を進めている。

 エドワードも再び馬車から離れ、馬車の少し前方の持ち場に戻った。前方を見つめるような顔をしながら、街の様子を窺う。やはり難民が増えているようだ。

 そういえばリッツは、初めてグレインの街を歩いた時、今のパトリシアと正反対の問いかけをエドワードにした。『グレインに浮浪者がいないんだな』といったのである。

 リッツは数年前、サラディオを経由して薬草の村トゥシルにやってきて、トゥシルから出てグレインとファルディナの境目で捨てられたといっていた。

 その前に見たサラディオの様子を話してくれたのだが、とにかく状況が悪く、娼館に至っては、難民の若い女性がこぞって生きるために身を売っているような状況だったらしい。

 このままの状況が続けば、難民が溢れて各自治領区の生産性が落ち、国家は完全に崩壊する。下手をすれば隣国から攻め込まれる危険だってある。

 東隣の隣国フォルヌは、昔からユリスラを狙っているのだが、つい先年、自国にある特別自治区に戦いを挑んで見事に軍を壊滅させられたから、しばらくは打って出ないだろうし、反対側の隣国リュシアナは同盟国である。

 今のところ両国ともユリスラに攻め入ろうとする意志はないようだが、このまま国家が乱れれば、どうなるか予測が付かない。

 小さく息をつく。それでもエドワードは動くことが出来ないのだ。

 まだ自分に才覚が無く、戦うための戦力も不足していることをエドワードはしっかりと理解している。それに国王が生きている間は、エドワードの出来る事が何も無い。

 馬は旅人の街道をある場所で折れ、街道から直接続く道を進む。その先に突如巨大な庭園が現れた。庭園の入り口は、巨大な鉄の門扉で仕切られている。

「……大きいな」

 つい呟くと、馬車から顔を覗かせて居たパトリシアに聞こえたらしく、パトリシアも頷く。

「大きいわね。うちより大きいわ」

 確かにモーガン邸よりも大きい。モーガン邸も一応グレインで一番大きな建物だが、街の中にあるため自治領主の邸宅としては小さい方だろう。カークランドは白に近い大きさの邸宅に住んでいるし、サラディオの自治領主邸も大きい。

 どうやらグレインの自治領主は代々締まり屋だったようだ。ジェラルドも邸宅を飾る趣味はない。

「御用でございましょうか?」

 見るからに私兵といった門番にルシナ家の書状と招待状を見せると、門番は巨大な門を開け放ち、一行を庭園へと招き入れた。馬に乗ったままの彼らに、門番が指さしたのは、庭園のずっと向こうにある巨大な建物だった。

 その大きさはカークランド邸に匹敵するらしい。パトリシアが小声で教えてくれた。言葉も無く一行は進む。やがて建物の前にたどり着いた一行を迎えたのは、ずらりと並んだ使用人たちだった。

 丁重な挨拶の後、使用人たちは恭しく一行の荷物と馬を預かり、一行を建物の中へと誘った。商談を聖なるものとするサラディオ自治領主に悪意がないことをジェラルドに聞かされているから、落ち着いて一行は扉をくぐった。

 真っ直ぐに前を見つめて緊張した面持ちで館に入っていくパトリシアに続く。

 パトリシアの緊張感がこちらにまで伝わってきた。その緊張を解いてやりたくとも、今のエドワードに出来そうなことは何も無い。

 通された場所は落ち着いた、雰囲気のいい応接室だった。年代を感じるが、磨き抜かれた家具や、掛けられた絵画など、総てがここで待つ客人を落ち着かせてくれる心地のいい物だ。

 案内の人間がパトリシアの前にお茶を置いて下がり誰もいなくなると、大きくため息をついたパトリシアが振り返った。いつもは短い髪のパトリシアだが、今は長い髪を結った美しい侯爵令嬢になっている。

 仕事だから仕方ないとカツラのこの格好を受け入れているパトリシアだが、本当は鬱陶しくて仕方ないということをエドワードは知っている。

「エディ」

「何だ?」

「あの絵、知ってる?」

 パトリシアが指さしたのは、額縁に入って飾られている大きな絵画だった。そこに描かれているのは、精霊族だ。

「精霊族の絵か」

「ええ」

 深い緑の森の中で、薄布のような白いローブをまとい、金の髪、緑の瞳をした、蝶のように大きな耳の二人の美女が、死にかけた男を見下ろしている絵だった。

 ここサラディオは、精霊族の住むシーデナの迷いの森に一番近い。その自治領主が精霊族に憧れを抱いていることもあるだろう。

「リッツとはえらく違うな」

 小さく呟いたのに、後ろに控えていた騎士団員数人が吹き出した。全員があのリッツの子供じみた姿をちゃんと知っている。

 エドワードもおかしくなったが、前に一度、月光の中のリッツを美しいと思った手前、笑ってもいられない。精霊族のイメージは、たぶん多かれ少なかれ人間であればこんな風なのだ。

「そうよね……じゃなくて、あの絵の価値よ」

「価値?」

「そう。前に画商がお父様のところに同じ絵を持ち込んできたことがあったのよ。その時に聞いた値段は、二十万ギルツだったわ」

「……二十万ギルツ……」

 エドワードはため息をついた。現在、騎士団員であるエドワードの給与は、一年で二百五十ギルツほどである。リッツに至っては新人見習い扱いで百五十ギルツだ。隊長クラスになっても、グレインでは四百ギルツほどしかない。

「私の給料で……百年分よ……?」

 ちなみに彼女の給与は、エドワードよりも少々低い二百ギルツほどである。三人が平均して月計算すると、毎月使える金額は、十六から十七ギルツといったところだ。

「つまり本当の大商人だということだな」

「そうよ。待合室に使用人一人残さず、ポンと二十万ギルツの絵を飾っておけるぐらいにね」

「味方に出来れば心強いが……」

「ええ。敵に援助されたら、こっちの負けよ」

 グレインに本拠地を置く北部構想では、シアーズとの戦いを想定した場合、かなり長く補給路が必要となる。その際何よりも先立つものはその予算である。これから革命戦争になっていった場合、戦線維持に補給は不可欠となってくるだろう。

 やがて応接室の扉が開き、自治領主が姿を現した。

「ようこそサラディオ自治領区においでくださいました。私が領主のレオポルト・ルシナでございます」

 現在の自治領主であるレオポルト・ルシナは、大商人にふさわしい立派な体格の男だった。半ば白くなった髪は、元々薄い茶色だったのだろう。

 お供に使用人を一人と、小さな子供を伴ってきたレオポルトに、パトリシアは今までの険しさを総て包み隠した優雅な姿で立ち上がり、スカートの裾を持って身をかがめた。

「お招きくださり、ありがとうございますルシナ様。グレイン自治領主ジェラルド・モーガンが娘、パトリシア・モーガンでございます。本日は未来のためにお時間を頂きたく、参上いたしました」

「未来のためならば大いに結構。過去とは商売できませんからな」

 座るように促されたパトリシアが座ってから、レオポルトがその大柄な体をソファーに下ろした。その膝の上に金の髪の子供が飛び乗る。半ズボンにシャツを着た少年は青い眼を真っすぐにパトリシアに向けている。

「この子はヴィル・ルシナ。五つになる私の息子で、次期サラディオ自治領主になる。未来のためならばこの子たちのためなのだろう?」

 レオポルトはそういって、肉に埋もれそうな細い眼を更に細めた。優しげな瞳に、嘘はないようだ。

 雑談から始まった会見だったが、穏やかな中でお互いの真意を探り合う、微かな緊張感が漂っていた。

 だがエドワードが感じ取ることが出来たのは、レオポルト・ルシナという男が、貴族と組みグレインを陥れようという考えが微塵もないということだった。

 レオポルトは大らかな心を持ちつつも、広い視野を持つ根っからの商人だった。レオポルトは自由貿易が成り立たず、貴族たちが賃金を踏み倒し、商人たちの持ち場を荒らす現在のユリスラに対し、非常に立腹していた。

 彼の元にはオフェリルの貴族の残党も訪れていて、貴族の支援を持ちかけていたらしいのだが、その上からの物言いが許し難いようだ。

「君たちグレインの人々に苦情が一つあるとしたら、オフェリル貴族がここに来ることだけだ。貴族に一泡吹かせたことは痛快だった」

 そういって、笑ったレオポルトだったが、次の瞬間にはその目を更に細めた。

「さてさて。では商談に入りましょうか。あなたたちグレインは、私と何を取引しますか?」

 パトリシアが言葉に詰まったのが分かった。彼女は協力を持ちかけようとしたのであって、取引に来たわけではないからだ。

「ルシナ様、我々は取引ではなく、協力をお願いに来たのです」

「協力?」

 わざとらしく首をかしげたレオポルトをパトリシアはじっと見つめた。

「今後、この国は更に貴族専攻の政治が広がっていくと思われます。その時に苦しむ民衆を受け入れ、圧政に対峙できる勢力を、北の地に作って起きたいと、我々は考えています」

「我々とは?」

「グレインと、オフェリルです」

「……自治領区二つが共にあっても、それだけでは国と戦えませんでしょうな。確かにグレインには生産力があり、ユリスラから独立しても食べていけるでしょう。オフェリルもクロヴィス侯爵が悪政を敷くまでは豊かな自治領区だった。民衆が戻れば豊かになるでしょう。でも申し訳ないが我々には、それだけで成り立つとは思えません」

「その通りです。ですから経済力を持つ、サラディオ自治領区の協力が不可欠なのです。この国の未来のために、共に北部同盟を組み、貴族の圧政に苦しむこの国の民衆の受け皿になって欲しいのです」

「つまり我々に、有事の際のパトロンになれと……そういうのですな?」

 レオポルトは冷静にそういうと、ゆっくりと腹の上で手を組んだ。エドワードは微かにパトリシアの頬が震えたのを見た。

 理想を口にし、言葉で飾ることは出来る。だが真実はレオポルトの言葉のように簡単なのだ。

 それを目の前に突きつけてパトリシアの誇りが傷ついたのだろう。

 理想のために協力、それすなわち戦争するから金を出せと同意語だとレオポルトはいったのだ。

「あなたたちに協力することはすなわち、我々も国家に対峙することになる。それ相応の見返りをいただける保証がなければ、我々サラディオはあなた方に協力できないと申し上げましょう」

「見返り……」

 パトリシアが小さく呻く。貴族のたしなみとして、彼女は交換条件や、見返りを求めることを幼いころからマナーとして禁じられている。だから対応策が浮かばないのだろう。

「そうです。言葉は悪いが、我々商人は、ただでは動きません。金を出すとなればそれなりの見返りを頂きますよ」

 パトリシアが微かにこちらを向いた。その目は困惑に揺れている。エドワードはさっと、パトリシアの横に膝をつき、パトリシアにそっと耳打ちした。

「条件を聞くんだ、パティ。それから決断しよう。君と俺に決断権は委ねられている」

「でもエディ……」

「君はグレインの次期領主だ」

 小さく励ますと、パトリシアは小さく息をついた。みるみる目に力が戻ってくる。今論じているのは王国のことでもあるが、何よりもグレインの未来のことなのだ。

 エドワードの背に乗っているのは、ユリスラ王国だが、彼女の肩にもグレイン自治領区が載っている。

「ルシナ様、何を見返りに求められますか? ルシナ様は商人でいらっしゃいましょうが、私と同じく自治領区を守る者。無茶なことはおっしゃいませんでしょう?」

 力ある瞳でゆっくりと微笑みながらパトリシアはレオポルトを見返した。そこには凛とした信念の強さがある。もう大丈夫だ。これこそがパトリシアの強さなのだ。

 ゆっくりとついていた膝を伸ばして、エドワードは元のように彼女の後ろに立った。パトリシアはもう、頼りなく弱々しい存在ではない。強い足取りで歩む、一人の女性だった。

 パトリシアのことは、生まれた時から知っている。当時七歳だったエドワードは、頼りなく柔らかなパトリシアを初めて見た時、弱々しくて助けてあげなくてはならない存在だと認識した。

 だから幼い頃から、ジェラルドのところに遊びに来る度に彼女の面倒を見た。当時はまだシャスタが生まれておらず、一人っ子だったエドワードにとって、その存在は本当の妹だった。

「では申し上げよう。まず第一に、この街にいる農家出身の難民をグレインの難民保護区に受け入れいてほしい。オフェリル難民の多くがオフェリルに帰ったのだろう? ならば受け入れられる素地が出来たはずだ」

 パトリシアは眉をひそめた。難民の移動は確かに行われた。だがそれは七月に入ってからで、自治領区を逃れてきた難民が多いため、対外的に知らされていない。

「何故それを?」

「一番金を生む商品は情報ですよ。我々は周辺の自治領区を常に探っております」

「……なるほど。覚えておきますわ」

 静かに微笑み、パトリシアは再びレオポルトを見つめた。

「何故、難民を?」

「我らサラディオは商業街であり、農業の街ではないから難民を受け入れることが難しい。みなてんでにあちこちの村に配置するのではなく、一括で住まわせることに意味があると思うのだが?」

「……確かに、その方が貴族の圧政を逃れて以後、故郷にまとまって帰れますわね」

「いかにも。国が富み、民が富まねば商業が動かない。我々商人は商売あがったりです。難民はみな行き場を無くして、バザールにも、繁華街にも溢れいている。これではどうも商売に影響が出るのです。元々この地で商売をしている商人たちからの苦情も多い。あちこちで諍いも起きているのですよ。このままではサラディオの治安が悪化してしまう。これは自治領主にとって大きな痛手です」

 ため息混じりに芝居がかった仕草でレオポルトが額を押さえた。どうやらこの男の大きな身振り手振りは、芝居ではなく地であるらしい。それに気がついたのか、パトリシアも微かに唇を綻ばせた。

「お気持ち分かりますわ。総てとはお約束できませんが、北部農場にオフェリルの人々の大きな集落があったのですが、そこがルシナ様の情報通り空いております。そこと、オフェリル区境、それから、我が自治領区におります、ユリスラ王国軍グレイン駐留部隊で難民を受け入れましょう」

「ありがたい。そうなればサラディオの治安が戻りましょう」

「ではルシナ様。これで協力体制を取って頂けますか?」

 改めて尋ねたパトリシアに、レオポルトは顔を上げた。

「もう一つだけ、見返りが欲しいのです」

 今までの笑みを引っ込めたレオポルトが、パトリシアを見返している。

「なんですの?」

「サラディオ自治領区の自治権を守って頂きたい」

 意外な言葉に、パトリシアは目を丸くした。

「自治権……?」

「情報は最も価値ある物だと申したでしょう? パトリシア様。そしてあなたの兄君でおられる、エドワード様」

 不意に言葉を振られて、エドワードは苦笑した。意図的にジェラルドとエドワードが親子だと噂を流していたのだから、情報収集を得意とするサラディオが知らぬわけがない。

「知っておられたんですね」

 動じることなくパトリシアが笑う。エドワードの素性を隠しておくために、パトリシアはあっさりと認めたのだ。

「兄も同席してよろしいでしょうか?」

 微笑みながら尋ねるパトリシアに、レオポルトも微笑む。

「どうぞ。私も息子を連れて来ておりますので」

 会見の場に子供を連れて来たのは、そういう意味もあったらしい。

 パトリシアに目配せをされて、エドワードは静かに隣に座った。目の前でレオポルトの子が、退屈そうに足を揺らしている。

「申し訳ありません。出自が特殊ですので。エドワード・セロシアと申します」

 柔らかな笑みを作ってレオポルトを見つめると、レオポルトは頷いた。

「お二人どちらがグレインの自治領主になられるのか、私などが知ることではないでしょう。ですが、北部同盟に一つの不安があるのは確かです。北部同盟と現在の王家が対立し内戦状態になった時、北部同盟はグレインを中心とする一つの国家を名乗ることになるのではありませんかな? そうなれば協力体制にあるサラディオもその中に入らざるを得ない。ですがサラディオは長きに渡り、我々ルシナ一族が守り続けてきた自由貿易都市。例え北部同盟に参加したとしても、その自治権を失うことは絶対に認めませんぞ」

 そう言いながらレオポルトは、ヴィルの頭を撫でる。

「この子はまだ五歳だが次期領主なのですよ。息子にサラディオ自治領主の座を残してやることが、私の使命なのです。その為に私はこの子を大商人として育て上げるのですから」

 レオポルトの目が、じっとエドワードとパトリシアを見据える。二人の中にある真実を見抜こうとする、真摯な目をしていた。

 エドワードはパトリシアの肩に手を置いた。あくまでもグレインの次期自治領主はパトリシアであり、決断するのはパトリシアでなくてはならない。

 ジェラルドからこの任務を託された時、エドワードに与えられた役割は、パトリシアが悩む時に助言することだった。

 本当はジェラルドの子ではないエドワード自体に決断権は無いのである。

「分かりました。いかなる状況にあろうとも、北部同盟として協力をして頂くサラディオ自治領区の自治権は、私、パトリシア・モーガンの名において、保証いたします」

「ありがたい。それならば私はあなた方に協力し、共に北部同盟を作ることを約束しよう。我々は貴族とはもう商売が出来ん。脅迫され、踏み倒されるだけのやりとりは、商売とは言えん」

 ため息混じりにレオポルトは首を振った。頬の肉がゆっくりと揺れている。

「だが貴族と総てのやりとりをすることを禁じられては困る。貴族の中にも我々を助け、擁護してくれる者たちもいる」

「構いませんわ。私も貴族ですもの」

 穏やかに微笑んだパトリシアに、レオポルトは豪快に笑った。

「確かにそうでありましたな。これはこれは一本取られましたわ」

 ひとしきり笑ったレオポルトは、やがて大きく息を吸う。

「グレインとオフェリルは我々にどんな立場をお望みでしょうな? サラディオにも軍はございますが、自衛のための軍であり、攻撃する事など出来ませぬぞ?」

「承知しております。我々が望むのは、中立を装いつつ、貴族に資金援助をなさらないで頂きたいということですわ。そして来たる時には、資金援助を頂きたいのです」

 先ほど着飾った言葉は無用と暗に示されたため、率直に答えたパトリシアに、レオポルトは満足げな表情で頷く。

「そして王国の圧政から、人々を助け、万が一にもこの国を貴族の手から取り戻せたら?」

 見返りはあるのかという、意地の悪い問いかけに、パトリシアは極上の微笑みを浮かべた。

「その時は大いにご商売をなさってくださいませ。ルシナ様のご商売を妨げるものは、もうありませんでしょう?」

 一瞬気を呑まれたレオポルトは、満足げに頷いた。

「それもそうですな。他人に見返りを求めるよりも、自分で商った方が儲かりましょう。分かりました。北部同盟に加入し、援助をしましょう。だがサラディオを傾ける程の援助を期待されては困りますがね」

 微かにレオポルトの瞳をよぎったのは、商人としての損得勘定だったようだが、パトリシアは分かった上で優雅に微笑んだ。

「分かっておりますわ。できる範囲での援助をお願い致します」

 レオポルトは後ろを振り返り、召使いに何かを指示した。召使いは捲かれた紙と、インクを持って現れる。

「契約書です。商人にとって契約書は命。絶対の信用です」

 契約書を手にとって眺めているパトリシアの横からエドワードは契約書に目を通す。

 そこには先ほどから話していた、難民受け入れ、自治権の維持が書かれており、それに対してサラディオはグレインに協力する事が記されていた。

 初めからレオポルトはこの状況を読んでおり、契約書を事前に書き記して置いたのだろう。それが少々癪だが、パトリシアもエドワードもまだ二十代と若い。

 それに比べて目の前に座るレオポルト・ルシナは倍以上も生きているだろう大商人であるから、経験の差は大きい。契約書にパトリシアが署名し、次にレオポルトが署名した。

「これで契約成立ですな」

 レオポルト立ち上がった。パトリシアも立ち上がる。

「商売は早い者勝ちの世界です。サラディオが協力体制に付いたのですから、他の商人にしっぽをふらんでくださいよ」

「もちろんです。未来の巨額利益を抱えているのですから、ルシナ様こそ貴族のお示しになる目先の商売に、乗りませんようお願いいたしますわ」

 微笑みを交わして二人は握手を交わした。これでサラディオとの協調関係ができあがった。

 ルシナ家を辞し、宿泊する宿に落ち着いた一行が取り組んだのは、ルシナ家の商人たちと共に難民の移動をすることだった。

 難民の募集、それを率いていく馬車の手配に数週を要した。

 難民移動の予算は契約上、グレインではなくサラディオから出た。かなりの高額だが、自治領区の安全を守るためには、そのぐらいの金額を惜しむことはないのだろう。

 最初に軍人志望の若者たちが、騎士団数人と共に徒歩でグレインを目指した。徒歩で数日かけて移動する事は、軍人志望ならば当然のことだ。

 その翌日に農民の家族が街を出た。女性や子供、老人を馬車に乗せ、屈強な男たちはその馬車の横を歩いて行く。馬車は急ぐこともなく、のんびりと街道を一週間ほど掛けて野営をしながら目的地まで進むのだ。

 サラディオの路上で生きる気力を無くしていた人々は、道中疲れを見せず楽しげに道を行く。彼らにとって、自分が生きる術だった畑を奪われることは身を切るほどに辛いことだっただろう。

 だが新天地で再び畑を与えられることが、彼らに希望を与えていた。

 その農民たちと共に、パトリシアとエドワード、そして騎士団の半分が続く。

 この中にも加わらない難民もいた。サラディオで商人としてやっていける者、娼館で生きることを決めた者、何をする気力もなくした者たちだが、それは予想よりも少数だった。やはり圧倒的に農業が立ちゆかなくなった農民達が難民化しているのだと分かる。

 往きはたった三十人足らずだった一行は、帰りは五百名ほどの集団となって、およそ倍の時間をかけてグレインへと戻った。

 ファルディナの滞在は、合わせて十日ほどだったが、忙しさで日数を忘れるほどだった。護衛としていったはずなのに、気がつくと書類を処理している自分にエドワードは苦笑したものだった。

 人々を入植地に送り届け、グレインの館に戻っ多頃には八月も下旬となり、微かな秋の気配を感じられるようになっていた。

 帰る途中で見たトゥシルの三叉路を思い出し、エドワードは物思いにふける。

 その三叉路はトゥシルという薬草で有名な小さな村の前にあり、東にグレイン、西にサラディオ、そして南にシアーズへと別れた道だった。三叉路は両脇に延びる森に遮られて遠くまで見通すことが出来ない。

 だがこの道の先に友、リッツがいる。

 離れてから二ヶ月。

 一体友は何をしているのだろう。そう思うと友の遠さにため息をついた。  

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