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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
一対の英雄
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<1>

燎原の覇者第3巻『一対の英雄』スタートです!

これでもかこれでもかと言うほど新キャララッシュです!

ついに傭兵隊ダグラス隊の面々が登場しますよ(^^)/

グレイン自治区という小さな範囲の戦いだった物語は、サラディオ、アイゼンヴァレー、そしてシアーズへと広がっていきます。

その中で一対の英雄達が、どんな成長を遂げ、どう苦悩していくのか。

お楽しみに!

 一五三四年八月初旬。ユリスラ王国北東部グレイン自治領区にも夏が訪れていた。

エドワードは目を通していた書類と地図から顔を上げ、夏の空が広がる窓の外を見た。

高原地方であるグレインの夏は、シアーズに比べると短く、そのためか生命が一気に活力を増して美しい。重量感のある雲が、空に堂々と立ち、夏独特の雲は風に微かに姿を変えている。

 あと一月もすれば、この雲は見られなくなり、高原地帯でもあるグレインに秋風が吹き始めるだろう。

「早いものだな……」

 ふと感慨めいた言葉が零れた。

 最近どうも時間の経つのが早い。以前に比べたら三倍ぐらいの速度で時計が時を刻んでいるのでは無いかと思うことすらある。それもこれもあの相棒が居ればこそだ。

 昨年の今頃は、まだ事態が何も動いておらず、エドワードはリッツとジェラルドと一緒に山へこもっては、逃れられない状況で剣技を鍛えられる生活を送っていた。

 ティルスからもグレインからも離れ、ただ普通の若者として暮らした山での生活は、エドワードの中では貴重で大切な経験になっている。

 あれからたった一年しか経っていないのに、何だかずいぶん前のことのようだ。

 ここ最近はあまりに色々あって、以前のように退屈と隣り合わせの勉学に励むことも少なくなった。実務が多すぎるのだ。

 この状況はリッツのダネル・クロヴィスの従者殺害から始まった。それに続くクロヴィス家との心理的戦い、そしてルイーズの暗殺から始まったティルス襲撃事件とローレンの死。

 状況の劇的な変化の中で心の中に空いた苦痛の後で訪れたのは、友とのしばしの別れだった。

 シアーズへ発つ前日、リッツは心配を募らせるエドワードに『俺は大丈夫だよ。子供じゃねえし』と笑っていた。そうか、もうお前は俺の庇護下から出ても大丈夫だったなと、そう思うと妙に寂しい気がしたものだった。

 友が発ってから、エドワードの毎日は更に忙しくなった。やっていることは主にジェラルドの補佐ではあるが、実務面を任されることが多くなってきたのだ。それはエドワードの平民としての時間の終わりを告げているような気がして、心がざわつく。

 ティルスの復興支援にオフェリルとの協定締結、難民受け入れ制度の確立など、総てが慌ただしく通り過ぎ、気がつくとリッツと出会う前のように、一人資料を読んでいる。

 違っているのはジェラルドが内戦を理由に納税免除の書状を王都に送りつけ、王都へ行くことが無くなった事だろう。おかげで忙しいジェラルドが毎日のように騎士団に顔を出して剣技の稽古を付けている。

 現在のシアーズに行ったなら、ジェラルドが生きて帰ってこれる保証はない。ティルスの焼き討ちがあったということは、リッツとエドワードの入れ替わりがイーディスに知られたということだ。そうなれば黒幕が誰であるかなど、自明の理である。

 こんなに早く知られると思わなかったが、あの仮面の槍使いが裏にいたのかもしれない。あの槍使いがどうなったのかも気にかかるところだ。

 そんな気持ち的にもグレインから離れた遠い地シアーズに今、リッツがいることが何だか妙な感じではある。だがリッツはギルバートの傭兵隊と一緒にいるのだから、ある意味では一番安全なはずだ。

 手元に目を落とすと、ティルス復興計画書が置かれていた。

 戦場となったティルスの村人たちは、こちらに避難してきて二週間程で帰還の意志を示したのである。

 自治領主のジェラルドは急遽大工集団を招集し、彼らと他の自治領区から避難してきた労働者たちによって、ティルスの村を再建している。

 焼き払われた場所の中で、使える場所を選定したり、農地の都合があったりと、色々な事情から少し異なる場所に作り上げられた新しいティルスの村は一回り大きくなり、今までの住民に加え他の自治領区から来た避難民たちも共に暮らしている。

 第三騎士団の面々が管理していた農地は難民達に一時預けて、彼らは騎士団の任務に専念している。今や区境の小さな村は、小さな街へと生まれ変わりつつあるのだ。新しく生まれ変わったティルスも、元のような活気を取り戻しつつあり、昔のティルスの面影は薄れてきているだろう。

 幾度か足を運んだが、もう今のティルスの村には馴染みの景色が一つも無い。

 新しいティルスにも、焼け跡は少し残されている。取り壊そうという話もあったのだが、そこに花を供える者があまりにも多かったためそのままになっているのだと聞いた。

 数日に一度状況を知らせにグレインへ戻ってくる元第三騎士団の者に聞くと、二度と貴族が襲ってこないと分かっているから、村人たちは穏やかに暮らせているということだった。

 戦乱で農地は踏み荒らされ、一部は焼かれたが、夏の麦の生長は著しく、膨らんだ穂が重みで少しずつ頭を垂れてくる姿が見られるようになってきたのだという。それならば人口が一気に増えたティルスの住民が食べるのにも困ることもなさそうだった。

 ジェラルドはティルスからの麦の徴収を今年限り中止すると宣言している。北部の難民入植地からの収入が思いの外多かったため、自治領区の運営に何も困るところはないのだ。これも皆、ジェラルドの巧みな自治領区運営の賜物だろう。

 エドワードは溜息交じりに席から立ち上がり、窓を開けた。

 爽やかながら夏を感じられる風が吹き、髪をもてあそぶ。遠くで子供のはしゃぐ声が聞こえた。

 平和だ。ここは何も変わらない。

 オフェリルとの戦闘以後、ここグレインは何事もなかったように平和が保たれ、グレインの街には、相変わらず人々の活気が満ちている。窓から見下ろす街は穏やかで、馬車が行き交い人々が歩いているのが見える。

 真下を見ると、そこはグレイン騎士団の宿舎兼鍛錬場となっており、騎士たちが剣技の腕を磨いているのが分かった。本当にいつもと代わらない日常がそこにある。

 でもこの生活にリッツがいない。

 何か重みを持った痛みが微かに胸を打った。

 いままでなら、書類に目を通すエドワードの隣で、リッツはローレンの課題相手に悪戦苦闘していた。集中しようと思うのに隣から『う~』とか『ああああ~』とうなり声が聞こえてきて、集中できない。だからついついうるさいと文句を言ってリッツをふてくされさせていたものだった。

 そんなリッツのモーガン邸での楽しみは、騎士団との剣技の稽古だ。騎士団が鍛錬場に出てくると、待ちかねたように書類を放り投げ、自分の剣を手に部屋を飛び出していき、剣技の稽古に交じったものだった。

 飛び出していったリッツに苦笑しながら中庭を眺めていると、鍛錬場に駆け込んだリッツが楽しそうに隊長たちに何かを話しているのが見える。

 その様子が本当に楽しそうで、エドワードもつい手を休めて自分の剣を手に鍛錬場に降りてしまうということもあった。

 そんな時にエドワードは初めて、自分が書類を読むことに疲れていたのだなと気がつくのだ。

 今まで何とも思わずにこなしていた事だったのに、リッツがいることで初めて無理をしていた自分に気がつき驚いた。

 誰かに愚痴を言うことも、何かを投げ出すことも許されなかったのに、それを出来る相手がいるのは、楽だと改めて知ったのだ。

 かといって最初からリッツ相手に心を許していたわけではない。

 リッツがティルスに来て最初の数ヶ月は、無条件に懐いたリッツに微かに戸惑った。

 エドワードにとって他人を見る目は、自分を守るものだったから、生まれたこの方、人の本性を見誤ったことはない。だからエドワードもリッツという存在に警戒心を抱いていたわけではない。

 だがリッツには言えないが、パトリシアが心配したように、このリッツの警戒心のない姿に、多少庇護をしているリッツが何を考えているのかを疑ったこともある。自分の身を他人のために守らねばならない身分だったエドワードにとって、リッツの無邪気さは少々異様に感じていたのも事実だ。

 でも徐々にリッツのその態度が、孤独の裏から来ていることに気がつき、警戒心が消えていった。

 リッツは今までの孤独が満たされたことに満足し、エドワードと共に生きることに自分の生きる道を見いだした。

 生まれて初めて自分の居場所を感じたリッツに取って、エドワードは生きることの象徴だったのだ。

 そんなリッツを知り、リッツがエドワードの出生の秘密を知っても尚、共にエドワードと同じ道を歩むと当然のように決めた時から、エドワードは、楽に息が吸える事に気がついてしまった。

 孤独だったのはエドワードも同じだった。

 人とふれあい、笑い合いながらも、エドワードの心は常に閉ざされていた。決して心を許せる人を作ることを許されなかった。

 だが精霊族であり、自己の欲望をほぼ持たないリッツは、エドワードの正体を知っても、大して態度を変えることも、その権力を悪用しようとすることもなかった。

 人を斬り、戦場を経験してもなお、リッツは今までと何ら代わることなく、エドワードの隣で警戒心もなく笑っているのだ。

 リッツの中の絶対が、エドワードや仲間を守ることだから、彼は動じない。

 今も仲間やエドワードのため、リッツは一人シアーズにいる。ギルバートと共に一体何をしているのか、どんな現状なのか、ここにいるエドワードは微かにしか知らない。

 一月に一度、シアーズからグレインへと届くギルバートからの書状には、シアーズの状況や、今後の展開のついでのように、リッツの近況が綴られている。

 鳩を使った連絡は、馬を駆るよりも何よりも早く情報をもたらせてくれる。シアーズから遠いグレインにとっては、鳩はなくてはならない物だった。これによって、情報の時差を最小限にすることが出来る。それにこの方法が一番、情報妨害を受ける可能性が低い。

 のんびりと餌をついばんでいるイメージのある鳩だが、その飛ぶ速度は鷹や隼に劣ることがないのだ。

 その書状でリッツが傭兵部隊の面々に鍛えられ、幾度か死にかけたことを知ったが、あまりに友が遠すぎて実感がない。

 それでもリッツは文句は言っても泣き言一ついわないのだ、とギルバートは記している。

 次に会う時にはきっと剣技も体術も、総ておいて全くかなわなくなっているのだろう。既にエドワードは、剣技ではリッツにかなわないことに、身をもって気付いている。

 だがリッツはいつもエドワードに剣技で負ける。

 最初はわざとなのかと思っていたのだが、どうやらそうではなく、打ち合っている内にぼろが出るのだと分かった。

 リッツの実力は、本気で戦う時にしか発揮されない。だからリッツの癖を知り尽くしているエドワードなら、稽古においてのみ、リッツを負かすことが可能なのである。

 でもそれにリッツは気がついていない。強くなっても強くなっても、エドワードにはかなわないと首をかしげているのだから、その単純さにはどう言ったらいいのか分からない。

 ため息をつくと、手元の書類に目を落とした。そこにあるのはユリスラ王国の地図と、各自治領主の調査書だ。

 周りの自治領区はみなグレインとオフェリルの間に起こった戦いを、自治領区同士の小競り合いとして様子見していて、今のところ他の諍いに発展しそうな要素はどこにもない。だがこのまま行けば、いずれ細かな問題が起きてくることは明らかだ。

 だからこそ、今この書類に目を通しておく必要があった。

 そこには王が生きている間には、エドワードが正体を明かすことなく、足場を固められるように用意された国家構想案が記されている。

 北部同盟構想である。

 現在のユリスラでは、シアーズから遠く、北部にいくほど、土地に住む貴族の力が弱まる傾向にある。国王直轄地と境を接するファルディナは、貴族の権力が強いが、さらに北のグレイン、オフェリルはジェラルド、カークランドによって解放されている。

 残る北部自治領区は最北の商業都市サラディオ自治領区と、オフェリルと長く区境線を接するアイゼンヴァレー自治領区だ。この二つを仲間に引き込めば北部同盟は完結し、貴族の力が強い南部・中央部との革命戦争へと続く足がかりが出来る。

 現在の平和は、つかの間の平和であることは分かっている。貴族で自治領主であったクロヴィスをオフェリルから追い出したカークランドは現在、自治領主への簒奪罪に問われている。正式な国王の認可を得ず、自治領主を倒し、みずからが自治領主を名乗ることは、ユリスラでは罪なのだ。

 そしてそれと呼応し、簒奪者を助けたとして、グレインも同じ簒奪幇助罪に問われているのである。

 グレインへのクロヴィス家による自治領区侵攻に対する報復戦は法で認められており、自治領主のジェラルドは申し開きのためと称して、シアーズに呼び出された。だが一方的に書類を送りつけて、ジェラルドはグレインにとどまり続けている。

 これはギルバートと協調している作戦のためでもある。二人は戦闘に持ち込むことで、戦闘力を増すことを考えてるのだ。

 こんなことは王国軍でもお見通しだろう。だから王国軍の改革派将官の家族を人質に取っている。

 まさかこの家族ごと奪還しようとしているとは、今の王国軍は考えたりしないだろう。何しろ敵であるジェラルドとカークランドは、遠く北の地にいる。まさか足下のシアーズに火元があるとは思うまい。

 だが作戦の正否にかかわらず、すでにグレイン・オフェリル連合は、確実に王家や貴族を敵に回した。

 彼らが王家に恭順し、反乱の首謀者であるカークランドを引き渡すまで、グレイン・オフェリル連合は攻撃対象となりつつけるだろう。

 現にオフェリルとファルディナの区境では、元オフェリル貴族、ファルディナ貴族連合と、カークランド軍の小競り合いが今もたびたび起こっている。そのほとんどが、貴族による嫌がらせの域をでないらしいのだが、これが王国軍の侵攻で活気づくことは、間違いない。

 では早々とエドワードの正体をばらして、革命戦争に突入するかといえば、それはまだ時期少々だ。

 国王は未だ生きているし、今それを称してしまえば、他の自治領区からの攻撃の可能性も出てくる。

 今はまだ、自治領区の戦いだから、他の自治領区は様子を見守っているのだ。このまま交渉をして、出来るだけ温厚に味方を増やすしかない。

 だが自治領主であるジェラルドは王家に呼び出しを断り続けている手前、動けない。代わって交渉を命じられたのは、パトリシアとエドワードだった。二人は共に組んで、他の自治領区を廻る事になったのだ。

 当然パトリシアが自治領主の娘として主人格であり、エドワードは以前にリッツが務めたように、実務と警護を兼ねた騎士団員として同行しする。

 アイゼンヴァレー自治領区には、まだ交渉を出来ていないのだが、ジェラルドは勝算があるという。

 アイゼンヴァレーの自治領主は、元は大鉱山主だった。鉱石が欲しい貴族たちによって貴族の称号を贈られているが、偏屈な貴族嫌いで有名な彼は、自分の称号を認めていないらしい。

 形式的には侯爵になるらしいが、本人はいつも『炭鉱主』とサインすると聞いている。

 困ったことに、貴族であれば皆嫌っているから、ジェラルドでさえも交渉する糸口を探している状態である。

 その為、エドワードとパトリシアが出向くことになっているのは、未だ交渉の道筋が立っていないアイゼンヴァレーではなく、サラディオ自治領区だった。

 その交渉のため明日、パトリシア、第二騎士団と共に、グレインを離れることになっていた。

 再びサラディオに関する資料に目を通す。

 サラディオは珍しいことに、貴族が自治領主を務めていない自治領区である。隣国リュシアナと接しており、様々な交易品を扱う事で栄えたこの街は、当初からここに住み着いていた豪族であり、現在は大商人であるルシナ家が、代々自治領主を受け継いでいるのだ。

 会見を申し込む書状をグレイン自治領主の名で送ると、驚くべき早さで返事が返ってきた。中には貴族であろうと平民であろうと、商売になる方に関わると書かれていた。

 ジェラルドはサラディオの自治領主を知っているらしく、彼らしいと笑ったのだが実際に出向くパトリシアは出かける日が近づくにつれ、緊張感を増していった。

 パトリシアの緊張して強ばった顔を思い出して、エドワードは思い出し笑いをしてしまった。

 昨夜パトリシアはこの部屋を訪れて、書類を眺めているエドワードに、唐突に尋ねたのである。

「エディ、私って、魅力的?」

 言っている意味がわからず、エドワードは、書き物の手を止めてパトリシアに困惑の視線を向けた。パトリシアは今までに無く緊張で強ばった顔をして立っていた。その目の下には眠れていないのか隈もある。酷い顔だと言ってしまえば酷い顔だが、女性であるパトリシアにそれはいえない。

「唐突だな」

「唐突でも答えて」

 いつものつっけんどんな声でそういうと、パトリシアは着ていたスカートをぎゅっと握った。エドワードにまで緊張する必要なんてないだろうと思ったが、考えてみればパトリシアがそんなことをエドワードに聞いてきたのは初めてだった。

 今までパトリシアに綺麗だとか可愛いと正面切っていったのはリッツだけだ。そのリッツは直後にひどい目にあっている。でもパトリシアはエドワードにとって妹のような存在だから、兄として答えないのもおかしいだろう。

「魅力的……じゃないか?」

 多少戸惑いながらのエドワードに、パトリシアはため息をついたのである。

「違うのよ。私個人の魅力じゃないの。私は女を捨てたのだから、別に魅力的である必要はないの。強くあらねば自治領主は務まらないと思っているわ」

 そうでもないだろうと思うのだが、パトリシアはそう信じているから、ここは黙って聞き流す。パトリシアはエドワードの目を見たまま、真剣に言葉を続けた。

「でも交渉に行くなら、やはり相手にとって魅力的な人間じゃなきゃいけないって事よね?」

「まあそうだな」

「じゃあ私はどう? お父様のように、人間的な魅力があると思う?」

 真剣に顔を突き出したパトリシアに、つい吹き出してしまった。

「なによぉ、エディ……何がおかしいの?」

「おかしいさ。君がジェラルドと張り合ってどうするんだ?」

「だって……交渉ごとだもの。今後のこともかかっているのよ? だとしたら少しでも相手に受けがいい方がいいと思わない?」

 真剣にパトリシアはそう思っているようだ。侯爵の息女が、交渉相手に受けがいいとは……。それは息女ではなく騎士団の理屈だ。

 それがおかしくて、笑ってしまう。

「笑わないでよエディ。私は真剣なの!」

「分かってる。分かってるさ。でも君は本当に変わらない。思い込みが激しいというか……」

「頑固って事?」

「違う。でもまあ、似たようなものかな」

 パトリシアは、融通が利かないところがある。こうと決めたことは、強固に守り通そうとするのである。未だにエドワードのことを、ただ一人『エディ』と呼ぶのもその為だ。

 元々エディは、セロシア家におけるエドワードの呼び名だった。エドワードは自分の名がエディであると思っていたし、ずっとそうなのだろうと思っていた。

 だがシャスタが生まれ、ジェラルドによって自分の立場を知った時、自然とジェラルドが呼んでいた『エド』という呼び名に変わっていった。家族であるが本当は家族じゃないのだ、といわれたような気がして、当時は寂しかった。

 だがそんな十二歳のエドワードに、五歳のパトリシアは宣言したのだ。

「名前が変わるなんておかしいわ。エディはエディでいいのよ。私はずっとエディって呼ぶわ」

 それ以降、どんなに年を重ねてもずっとパトリシアはその呼び名を貫いている。まだ何も分かっていない子供だったパトリシアだが、エドワードの呼び名エディが家族の愛情を示すものなのだと感じていたのかも知れない。

「エディ、聞いてる?」

 不機嫌な声で呼ばれて我に返った。何か愚痴を言っているのは分かったが、その内容は全く聞いていなかった。

「ああ。ごめん。何だったかな?」

「もう! だから私はサラディオの自治領主の前でどんな顔をしたらいいのかって話よ!」

「……どんなって……」

 エドワードはまじまじと、パトリシアの顔を眺めた。パトリシアもじっとこちらを見つめ返してくる。そのあまりに真剣なパトリシアの眼差しに、口元を緩めてしまった。

「そのままで行くしかないだろう? 顔を取り替えることは出来ないんだから」

「なによ、それ」

「君がジェラルドをまねることはないさパティ。君は君のやり方でやればいい」

「でも……」

「いつもの自信家ぶりはどうした? いつも自信に満ちて前を向く君は、とても魅力的だ」

 確信を持って告げると、パトリシアは頬を赤らめた。

「ありがとう、エディ。少し自信出てきた」

 昔なら『女だと思って!』と、かかってきたものだが、リッツを薬箱で殴ってから少々柔らかく、女らしい仕草を見せるようになった。その女らしい表情や仕草に、たまに戸惑ってしまう。だがそれを表に出すようなエドワードではない。

 今までのように兄として、パトリシアの頭に手を乗せて軽く叩く。

「もし助けが必要なら俺が補佐する。君のやり方で交渉を成功させればいいさ」

「そうね。頑張ってみるわ」

 笑顔で部屋を出て行くパトリシアエドワードは、静かに見送った。

 人は変わる。いい方にも悪い方にも。

 パトリシアも変わってきた。いい方に向いて彼女は一人の女性になっていく。それが楽しみのような怖いような気もする。

 では自分はどうなるのだろう。

 夏の風が強くエドワードに吹き付ける。我に返ったエドワードの前に広がっているのは、夏の昼下がりの平穏な街の光景だった。

 そうだ、昨日のことを思い出していたんだった。

 窓から離れ、エドワードは広げていた書類をそのままにベットに倒れ込んだ。勝手に人のベッドに上がり込んで、ローレンの宿題片手にじたばたしていたリッツは今はいない。見慣れたいつもの自分の部屋が妙に広く感じる。

「お前も変わっているのかな、リッツ」

 口に出してみた自分の言葉は妙に心許ない。

 自分はどう変わっていくのだろう。心からそれを思った。

 現国王のように、自らの欲望を振りかざす暴君にならない保証はあるのか?

 兄たちのように殺戮に快楽を覚えたり、非道な手段で欲望を叶えたりする男になったりしないだろうか。

 彼らと同じ血が流れているのにこのままの自分で居られるのだろうか。

 この疑問を口に出した事は今まで一度しかない。リッツの前でだ。

 その時リッツは平然と『エドは変にならない』と笑顔で答えていた。何故かを尋ねるエドワードにリッツは『俺がそう信じてるから』という。

 リッツの答えには何の根拠もないが、その信頼に応えられるような人間でありたい。

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