呑気な冒険者たちシリーズ読者さんのための一対の英雄プロローグ
談話室のソファーで濡れた髪を拭いていたアンナは、痛みに顔をしかめた。
腕に切り傷があるのを、うっかり忘れていた。
治癒魔法で治せればいいのだが、このまま放置しなければいけないのが辛い。
軍学校の医務室で精霊魔法に頼らない治療をして、傷を毎日観察し、状態をつぶさに観察するのが、アンナに課せられた課題なのである。
旅路で使う薬草と違って、医務室の薬品は、水でふやかして包帯で巻き付けておくだけというわけにはいかない。
医務室にある沢山の薬品の中から自分で治療にあった物を選び出すのである。
アンナの傷は剣で切られた傷だから、切り傷のための薬を使っている。
剣で切った傷は結構痛い。
後々までズキズキと脈を打つように痛む。
アンナはため息をついた。
こんな時、リッツって我慢強いなと思うのだ。
共に旅した最後の一月は、リッツと離れていた。
リッツが怪我を負っていたことを知っていても、何も出来きなくて辛かった。
再会した時、リッツは大怪我を負っていたのに辛い顔一つせず、会いたかったと安堵したようにアンナを抱きしめた。
アンナだったらあんなにひどい傷を負っていたら、きっとそれどころじゃない。
現に三日経った今も一人でいる時は、こうして痛がっている。
でもそれを顔には出せない。
なぜならこの傷を付けたのはリッツだからだ。
軍学校では剣技の稽古が日課だ。
軍に所属する以上、自己防衛出来なければ仕方がない。
アンナは水の精霊使いだが、やはり一通りの剣技を学んでいるのだ。
でもアンナは剣技がものすごく苦手だ。どう考えてもアンナに剣の才能はない。
重さは同じなのに、鋤や鍬とは全く勝手が違う。
農機具は持ちあげる時に力がいるけれど、ふり降ろすのに力はいらない。
自重で土が掘り返されていく。
でも剣はどこで止めるかとか、どこまで降ろすのかという意志が必要だ。
アンナはいつも、ふり降ろしてしまった剣に足を取られる。
止めることが出来ればよろめく度合いは減る、とリッツはいうのだけれど、それが難しい。
ごくたまに鍬のように地面に突き立ててしまおうかと思うこともあるが、そんなことをして怒られても仕方ない。
それでも教官のリッツは、剣技をアンナに教えなければならない。
入学する時に、決してお互いの関係を学校にばらさないことと、授業となれば手加減をしないことを約束したのだ。
頼りがいがあって優しく、二人きりの時は甘えっ子のリッツだけれど、鍛錬場で見るリッツは恐ろしく大きい。
その姿は出会った時のリッツに限りなく近い。
ダークブラウンの瞳に、静かに戦士の誇りのようなものが見え隠れする。
そして口元に浮かぶのは、穏やかな笑みではなく、片端を持ちあげたような皮肉な笑みだ。
剣を構えるのでやっとのアンナは、正面に見るリッツの迫力にいつもたじろぐ。
剣を構える姿に一分の隙もない。
周りで生徒たちが見ているから、リッツも気を抜くことが出来ないのだ。
余裕の笑みを浮かべて、かかってくるよう命じるリッツに、アンナは必死で挑むが、剣が届く事など一度もない。
必死で汗だくになって剣を振り回したあげくに、リッツに一撃で沈められるのが日常である。
この傷はその剣技の授業中に受けてしまった。
リッツを避け損ねたあげくに、どうしてそうなったのか分からないうちにリッツの剣の正面に出てしまい、自分から剣に突っ込んでしまったのがこの傷だ。
その瞬間のリッツの顔は、よく覚えている。
一瞬にしてリッツがみるみる青ざめ、その表情はアンナと一緒にいる、いつものリッツに戻ってしまったのだ。
このままでは関係がばれてしまう。
そうなるとアンナは生徒たちに『自分が特別待遇でここに入った』ということも知られてしまう。
今まで学校に通ったことの無かったアンナは、あくまでも軍学校では普通の学生生活を送りたかった、だからそれは避けたくてアンナの方が焦った。
駆け寄ろうとするリッツを目で制すると、リッツはハッとした顔で足を止め、剣技の教官らしく静かに医務室行きを命じたのだ。
血を流しながら立ち上がると、アンナはジョーに付き添われて医務室に行き、その場で麻酔をかけた治療を受けた。
傷を縫ったのだ。
その様子に目を逸らすことは許されず、アンナは自分の怪我が縫われるのをじっと観察した。
治癒魔法が使えればそのまま治癒できるけれど、使えない時はアンナも縫えなくてはならない。
そこで医学専攻科の軍医から突きつけられた課題が、この傷の観察だった。
「痛いなぁ……」
誰もいないからポツリと呟き、アンナは傷を包帯の上からさすった。
そんなことをしても痛みは代わらないと分かっているけど、ついやってしまう。
その時、不意にソファー越しにふんわりと後ろから抱きしめられた。
「ごめんな」
耳元で囁かれる心底落ち込んだ声の主は、振り返らずとも分かっている。
誰もいないと思い込んでいたから、迂闊にも一番気にする張本人が来たことに気がつかなかった。
慌ててアンナは笑顔を作った。
「いいよぉ。だってこれも勉強だもん」
「だけど俺がもう少し気をつけてれば……」
「仕方ないってば。剣技も勉強のうちだもん」
振り返ると背もたれ越しに、リッツがアンナを抱きしめているのが分かった。
リッツに微笑みかけると、リッツはアンナを離してアンナの隣に座った。
「いつ帰ってきたの?」
「さっき。ジョーの奴を、また風呂に放り込んできた」
「あ~」
ついつい笑ってしまう。
ジョーは軍学校でもさんざんリッツに絞られるくせに、リッツが帰宅して剣を振るっていると、嬉々として自分の剣を持ってリッツの元へ稽古をせがみに行くのだ。
学校と違って家でのリッツはジョーに対して遠慮がない。
学校では教官と生徒だが、自宅では師匠と弟子なのだから仕方ない。
結果、ジョーは泥だらけの服のまま、リッツにけしかけられて浴室へ追いやられることになるのである。
クスクスと笑っていると、リッツの手がごく自然にアンナの頬に触れた。
リッツを見上げるとあっさりと唇をふさがれてしまう。
誰もいない時には、こうしてすぐにリッツはアンナに触れてくる。
シアーズへ帰る旅路では常に誰かがいたからそんなことはなかったけれど、家に帰ってからはリッツと触れ合うことも多くなった。
深いキスに身を任せていたのに、リッツの手が優しく傷に触れているのを感じて目を開ける。
ものすごく責任を感じているんだなと思うと、何だか申し訳ないような嬉しいような不思議な気持ちになってしまう。
傷に触れている手に自分の手を重ねると、リッツの指先が優しくアンナに指に絡む。
キスとその絡みつくような指先の気持ちよさと、リッツの可愛さにこらえきれずにリッツの首に手を回して抱きつくと、力強く抱きしめられた。
ため息が出そうな程、大好きだって、ちゃんと伝わっているのかな……。
「さてさて、今日も私はお邪魔なようだな」
唐突に声をかけられた瞬間に、リッツは弾かれたようにアンナから離れた。
「エド!」
「だから毎週毎週、何をそんなに驚くんだ? 私は一応呼ばれて来ているんだがな」
苦笑するエドワードに、アンナは笑いかけた。
「こんばんわ、エドさん。今日もよろしくお願いします」
「ああ。しっかりと歴史の証人を務めさせて貰うことにしよう」
笑顔のエドワードに、リッツが呻いた。
「そういや、今日は土の日か……」
土の日恒例の、エドワードとリッツに本当の歴史を聞く会はまだ続いていたのだ。
エドワードの後ろには、フランツの姿があった。
無表情だが、明らかにリッツとアンナに呆れ返っているのが分かる。
確かにところ構わずべたべたしていちゃ駄目だよなぁ、とちょっと反省した。
帰ってきたばかりの頃は、リッツの部屋以外でこんな風にくっついていなかったのだが、最近はその区別が無くなってきてしまっている。
これではやっぱりよくないかな。気を引き締めねば。
アンナから目を逸らしてため息をついたフランツの手には、先週持っていたのと同じ分厚い本がある。
確か細かい資料の書かれた歴史書だ。
医学書を読むのは得意だけれど、あの手の資料を読むのはあんまり得意じゃない。
「ごめん、お待たせしました!」
短い髪から水しぶきを振りまいてジョーも駆け込んでくる。
学校でも傷だらけだったのに、傷が更に増えているのは気のせいだろうか。
寝る前に治療してあげよう。
「揃ったようだな」
エドワードが満足げにそういうと、タイミングよくアニーが現れて、いつもリッツとエドワードが座る席に、ワインボトルとグラスを置く。
アンナたちの前には、絞りたてのオレンジジュースを置いてくれた。
「さてどこまで話したかな?」
エドワードの問いかけに、アンナは先週の土の曜日のことを思い出す。
ルイーズの死、ローレンの死、ティルス大火。
話を聞いてから調べたら、総ての事が簡単に書かれてしまっていた。
ローレンの死とティルス大火は、ほんの数行だった。
確かに歴史の事実はほんの些細なことなのかも知れないけれど、当事者であるリッツとエドワードにとって、それが最も重要な真実なのだ。
「リッツがエドさんから離れて、シアーズに潜入する話からです」
「ああ。そこからか。では今夜はリッツがメインだな」
笑みを浮かべながらそういったエドワードに、リッツがため息混じりに頭を掻く。
「シアーズに住んでた時の話かぁ……とりあえず新祭月の脱出劇を中心にに話せばいいな」
「そうだな。お前のただれたシアーズ生活は抜いて構わんぞ」
「当たり前だ!」
ため息混じりに隣に座ったままのリッツを見上げて、アンナはふと思った。
リッツはアンナの前で、甘えては肌に触れてくる。
大きな体でアンナを包み込むくせに、アンナは時折リッツを抱きしめている気分になるのだ。
この感覚、たぶんエドワードなら分かるだろう。
話を聞いていてそう思った。
リッツは本当に心を許した人には、驚く程素直なのだ。
これを話に出てきたギルバートは懐いていると言っているのだろう。
エドワードがリッツを『子犬』と冗談で称したのも何となく分かる気がする。
だけど、初めて会った時のリッツはもっと大人で冷静で、そして何かを突き放したように遠い目をしていた。
話に聞くアンナとよく似た性格だったというリッツが、あのリッツになるまでに何があったのか、それを知りたい気がした。
課題のために聞いていたはずなのに、今のアンナにとって話を聞くことはリッツを知ることだった。
アンナの愛する男が、どんな人生を送ってきて、どんなことを乗り越えてアンナを愛し慈しんでくれているのか、それが分かりたかった。
ざっと目を通したきらびやかな歴史の書かれた本では、リッツはシアーズに潜入し、民衆にその存在を明かして人々を導く英雄になっていくのだという。
でもアンナの中のリッツは英雄とはほど遠い。
ぼんやりしていたアンナは、また傷口にリッツが優しく触れていることに気がついた。
アンナがじっと見上げると、リッツは微かに微笑む。
「俺は自分が誰かのために傷を負うことは耐えられる。でも自分のせいで誰かが傷つくことには耐えられねえんだよ」
何処か儚さを感じるような笑みを浮かべたリッツが、アンナの腕を取り、傷口を自分の方に引き寄せてそっと包帯の上から唇で触れた。
ずきりと痛みが走るが、リッツの暖かさに言葉が出ない。
何故だかその姿に、今まで話を聞いてきた昔のリッツが重なった。
誰も亡くしたくない。命に代えてでもみんなを守りたいと、必死でもがいていたリッツを。
「リッツ……」
「シアーズに住んでた頃から、本当の内戦に向かっていったあの時期は、俺にとって、自分が弱くて愛する人たちを守るのに、全く役に立たないことを思い知らされた時期だった。そして……」
リッツはアンナの額に口づけると、ゆっくりと立ち上がった。
「俺が先の全く見えない俺の未来を、おぼろげに考え始めた時期でもあった」
そういうとリッツは、エドワードのいる席に座った。エドワードはグラスにワインを注ぎ、リッツの前に置く。
黙ったままのリッツに替わり、エドワードが口を開いた。
「私はあの時期、自分が英雄になるには何かが不足していると、しみじみ思ったものだった。私とリッツは、まさに一対の英雄だったのさ」
エドワードの言葉に苦笑しながら、リッツはグラスのワインを一口飲み、暖かな暖炉を見つめながら静かに今日の話を始めた。




