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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
樹下の盟約
4/179

<2>

 シャスタと共に坂道を上ってくる男に、どこかで見覚えがあった。

 目をこらして見つめていると、息を切らせながら走り寄ってきたシャスタが、木の真下から大声を張り上げてリッツを呼んだ。

「リッツさん! お客様ですよ!」

「俺に?」

「そうです!」

 巨木のかなり上の方まで上っていたリッツにシャスタは声を張り上げる。

 そんなに大きな声を出さずとも聞こえると幾度となく告げているのだが、シャスタはいつも『返事がないから怒るんです!』と怒鳴っている。

 まったくもって小言魔だ。

「リッツさんってば!」

 怒鳴るシャスタを軽く無視して、そっとシャスタの後に距離を開けて歩いて来た男に目をやった。

 男の目つきは全体から醸し出す雰囲気と同じように穏やかでありつつも厳しい。ティルスの村人たちとは持っている雰囲気が全く違う。

 どちらかというとエドワードに近い雰囲気だろうか。

 やはり見たことがある男だ。

「リッツさん!」

 考え込んでいるリッツにシャスタが再び怒鳴った。

 先ほどから何か色々叫んでいるのだが、全部耳を素通りしてしまった。

「聞いてるんですか!」

「ごめん。聞き流してた」

「リッツさん!」

 だがこのまま怒鳴らせておくとシャスタがかわいそうだ。

「分かった分かった。今行くって」

 返事をしながら今まで座っていた枝に立ち上がり、後ろに向かってゆっくりと落下する。

 風が後ろ髪を巻き上げて涼しい。

「危ない!」

 叫ぶシャスタの声を聞き流しつつ、今まで立っていた枝に膝をかけて回転する。木が軽くきしみ、葉が震えてさざめく。

 シャスタの上にぱらぱらと葉が舞い落ちたのに、目を見開いたシャスタは避けようともしない。

 そんなシャスタの真上にある数本下の枝に両手で捕まって体を左右に振る。そのたびに枝がしなっていい感じの反動が付いてきたら、大きな反動で勢いをつけて一回転した。

「お、落ちますよ!」

 顔面蒼白なシャスタの言葉を無視してまた数本下の枝に飛び移り、体を振って勢いをつけてシャスタの隣に向かって飛ぶ。

「うわっ!」

 全身で身構えたシャスタの隣に音もなく着地し、ゆっくりと立ち上がってそのまま悠々と伸びをする。リッツの父親の軽業師のような身軽さにはとうていかなわないが、かなり動けるようになった。

「よし、完璧」

 ぱんぱんと手を払ってから伸びをすると、シャスタが噛みついてきた。

「リッツさん! 危ないじゃないですか!」

 さっきまでは蒼白で、今度は怒りで真っ赤だ。

 口うるさいシャスタも、実のところ分かり易い。

「大丈夫だって。お前を蹴り倒そうってんじゃないんだから」

「じゃなくて、その行為が危ないんです! 怪我でもしたらどうするんですか!?」

「シャスタを蹴ったりしねえって」

「じゃなくて、リッツさんが怪我をするって言ってるんです!」

「へ? 俺?」

「そうです!」

 断言されてリッツは首をかしげた。

「怪我なんてするわけ無いじゃん。大人はこれが出来て普通なんだろ?」

「は?」

「俺の親父が言ってたぞ? 毎日こうしてたし。普通だろ?」

 至極真面目に尋ねたのに、シャスタは大きくため息をついてこめかみを押さえた。

「普通じゃありません! 危険きわまりないです!」

「そうなのか……」

 知らなかった。

「本当にやめてください! 僕の寿命が縮まるじゃないですか」

「うん……」

 どうやら父親は間違ったことをリッツに教えていたようだ。その上この動きが出来るのは普通じゃないらしい。

 普通というのは難しい。

 心の中で普通の人の隣に木から回転して降りてはいけないと刻み込む。

 当然普通の人の中にエドワードは含まれないから、今度はエドワードにやってやろう。

 リッツとシャスタがやりとりをしていたところに、先ほど後方を歩いていた男が堂々とした足運びで追いついてきた。

 長身のリッツよりも少し低いとはいえ、たくましく鍛え上げられた体は戦うために作られたのだと分かるほど、動きに無駄がない。

 完全に貫禄負けをしているのは、世間知らずなリッツにもよく分かる。

 それほどに雰囲気を持った人物なのだ。

 きっちりと固められた亜麻色の髪と、手入れの行き届いた髭が男らしく彫りの深い顔立ちをさらに引き立てている。

 一見すれば質素な服を着ているように見えるのだが、近くで見ればその服が決して安物ではないことがよく分かる。

 リッツが今まで出会った普通の人々とこの男では、雰囲気もその姿もかけ離れている。これはおそらく貴族で軍人だ。

 そう考えているとようやく思い出した。

 この男とは半年前に会っている。

「エドに聞いているとおり、元気が有り余っていそうだな」

 笑みを浮かべながら深みのある声でそういった男はおそらく、ジェラルド・モーガン。

 リッツを助けてくれたときにエドワードと一緒にいた自治領主だ。

 あの時は黙ったままいたジェラルドと言葉を一言も交わさなかったし、ジェラルドから話しかけてくることもなかったから顔などうろ覚えだったのだが、こうしてもう一度会ってみれば、これほど印象的な人はいないだろう。

 エドワードを愛称で呼ぶところを見るとやはり親しい間柄であるらしい。

 リッツも最初はちゃんとエドワードの名を呼んでいたのだが、数日で呼び名をエドにしていいと本人に告げられ、いまはそう呼んでいる。

「あん時に比べりゃ格段に元気さ」

「そのようだ」

 ジェラルドはフッと笑みを漏らした。

「覚えていてくれたようだな」

「今思い出したんだ」

 正直に答えると、再びジェラルドは笑った。

「それはよかった」

 そして再びの沈黙。

 何の意図があって何のためにやってきたか全く分からないジェラルドになんと言ったらいいか困惑したが、言わなければならないことがあったことをようやく思い出す。

「あのさ」

「なんだ?」

「ええっとあん時は世話になったな、サンキューおっさん」

 どう言っていいのか分からないからぶっきらぼうながらも礼を言うと、男は豪快に笑った。

「おっさんか、久しぶりに遠慮のない呼び名を聞いた」

 だが楽しそうな男とは裏腹に、シャスタが青い顔でリッツの服を強く引いた。

「リッツさん! モーガン様に失礼です!」

「え? だって肉屋のおっさんとか、八百屋のおっさんとかはおっさんでいいんだよな?」

「モーガン様を店のおじさんと同じにしないでください!」

「駄目なのかよ?」

「駄目です!」

 よく分からない。人間の中年に足した年齢の人はおっさん……ではないのか?

「モーガン様と読んでください!」

「でもよぉ……俺がへばってたってのもあるけど、正式に名乗り合っちゃいねえし」

「でも、分かってるんでしょう?」

「ええっと。おそらくそうだろうなぐらいには」

「じゃあ!」

 シャスタがじれったそうにリッツを睨んだが、リッツはむくれながらシャスタに反論する。

「ローレンが名前を知らない人を名前で呼んだら失礼だって言ってたぞ」

「それはそうですけど……」

「じゃ、間違ってなくねぇ?」

「そ、それは……」

「そうなったらさ、おっさんぐらいしか呼び名ねえじゃん?」

 一瞬言葉に詰まったシャスタは大きく息を吸うと、リッツを睨み付けた。

「この方が誰だかご存じなんでしょう!?」

「そりゃあそうだけどさ……」

「だったら分かるじゃないですか! 自治領主様ですよ!」

 シャスタは、尊敬する自治領主に対して礼を欠くリッツを本気で怒っているのだが、リッツは男の肩書きがなんであろうと、自分を助けてくれた人であること以外意味はない。

 未来を深く考えることもないリッツにとって、相手の肩書きや人脈は、全く意味をなさないのだ。

 それに今はこの自治領区に住んでいるが、この自治領区の人間ではないリッツには、自治領主を敬う必要がない。

 ならば自らが認めた相手だけを信頼すればいいのだ。

「リッツさん!」

 本気で怒り出したシャスタの前に、男の手が差し出された。顔を見ると穏やかに笑っている。

「よい、シャスタ」

「ですが……」

「いいのだ。そもそも彼は特別自治区の精霊族なのだから、この国で法に逆らうことがなければ自由に振る舞う権利がある」

 穏やかだがシャスタにそれ以上の反論を許さない口調で言った男はほほえんだ。

「そうだろう?」

「まあね」

 本当は精霊族こと光の一族であっても、一族に正式に所属しているわけではないのだが、誰に従うでもなく自由であるということだけは確かだ。

「でも……」

「シャスタ。特別自治区に住まう亜人種たちは、国王に従う必要すらないのだぞ」

「え……?」

 驚いたようにシャスタの髪色に近い薄茶色の目が丸く見開かれ、ゆっくりと視線がリッツに向く。

「すごい立場と言うことですか?」

「そうでもあり、そうでもない。彼ら一族は同国人でありながら、隣国の人々と同様の権利を持っているということだ」

「……そんな人たちもいるんですか……」

「いる。つまりシーデナ特別自治区は王国内にある絶対不可侵の独立国といってもいい」

「独立国……」

 心の底から驚いたシャスタの口調はため息混じりだった。

「リッツさんは特別、なんですね?」

 不思議そうにリッツを見上げてそういったシャスタにリッツは苦笑した。

「別にそんな訳じゃねえさ。生まれたところがちょっとあれなだけでさ……」

 言葉を濁したリッツに、小さくため息をついてシャスタは黙る。

 考え込むシャスタから男はゆっくりとリッツに視線を移した。

「私はジェラルド・モーガンだ」

 名乗りながらジェラルドは右手をリッツに向かって差し伸べてきた。そんな風に挨拶をされたことなどなかったから戸惑いつつその手を握る。

「俺はリッツ・アルスター」

「聞いたのだから、もう名を呼んでもいいな? リッツ」

 含み笑いをしてそういったジェラルドに、リッツは気恥ずかしくなった。先ほどリッツがシャスタに文句を言ったことを、からかわれているのだと気がつく。

「い、いいよ。……おっさん」

 ジェラルドの名を呼ぶことに違和感があったリッツは、迷った上再びそう呼びかけてしまった。自治領主を呼び捨てるのも失礼だろうし、へりくだり方は分からないしで、それしか手がない。

 だが眉をしかめて明らかに不快な表情を浮かべたのはシャスタだけで、ジェラルドの方は楽しげに笑った。

「おっさんはいい。自治領主なんぞに生まれると、このように親しんでくれる者もいないのでな」

「別に俺は、親しんでるわけじゃねえよ」

「そうか? 私はお前がおっさんと呼んでくれる間はお前を親戚の子だと思っておこう」

「……なんだそれ」

「親しそうじゃないか。まるで甥や姪に慕われているようだ。そう思わないか、シャスタ」

「いいえ、リッツさんが無礼なだけです」

「シャスタは真面目だな」

「モーガン様はおおらかすぎます」

「おおらかか、それはいい」

「モーガン様!」 

 楽しげにジェラルドはシャスタの頭を撫でた。

 なんだか妙な男だ。それなりの地位にいて生まれからして貴族ならば、みんな人を見下して生きているんだと思っていたが、どうやら違うらしい。

 人間というのは精霊族とは違い、すべて画一化された掟の中にはないようだ。

 困惑しているリッツを気にかけるでもなく、ジェラルドは抱えてきた荷物を紐解き、中から何かをとりだした。

「リッツ」

 呼ばれると同時に飛んできた何かを反射的に受け止める。

 見かけ以上の力でジェラルドが放ったそれは、リッツの手に軽いしびれを残す。

「いって……」

 思わず声を漏らすと、ジェラルドはリッツにまっすぐ向き合って笑った。

「リッツ、悪いが今ここで二択してほしい」

「にたく?」

 言葉の意味が分からず首をひねると、ジェラルドが穏やかな笑みを浮かべた。

「二つの選択肢のうち一つを選べということだ。いいか?」

「うん。いいよ」

 頷くとジェラルドはまっすぐにリッツを見つめた。色素の薄い青の瞳が巨木からの木漏れ日で、不思議な色を浮かべている。

「選択肢の一つ目だ」

「うん」

「この村で気の済むまで体を休め、その後、故郷に帰るか好きなところに行くこと」

「え……?」

「ローレンが生きる力だけは身につけさせたはずだ。今後もこの自治区であれば平穏な生き方ができるだろう」

 静かに告げられたのだが、リッツの頭の中は真っ白だった。

 出て行けということだろうか?

 でもエドワードはリッツに命を貸せと、一緒に生きてみろといったはずだ。

 だから寄る辺ないリッツでも居場所を見つけられると思ってここまできて、ここで学んでいたのだ。

 なのにそれはリッツをあの場所から連れてくるためだけの方便だったのだろうか。

 せっかくつかみかけた自分の居場所という希望は幻だったのだろうか。

 呆然としていると、ジェラルドは口元を緩めた。

「なんて顔をしているんだ。選択肢はもう一つあるのだぞ?」

「あ……うん」

 動揺を押し隠して頷くと、ジェラルドは先ほどと全く変わらない口調で話し出す。

「選択肢の二つ目は、自らの平穏を捨てる覚悟でエドワード・バルディアという男と共に生きるか、だ」

「平穏を捨てる覚悟……?」

 意表を突いた言葉に目を見開く。

「そうだ。お前の命をかけることになるかも知れない」

「俺の命を?」

「そうだ。命の保証はない」

 断言された言葉に、思わず息をのんだ。エドワードの道は思った以上に厳しいらしい。

 黙ってしまったリッツに、ジェラルドは言葉を続ける。

「エドはお前が命を拾われた恩義で茨の道を行くのは心苦しいとずいぶん悩んでいた。だからエドへの恩返しを考慮に入れて答えを出すな。お前の未来は後悔しないようお前が考えて決めてくれ」

 静かに言い切ったジェラルドの言葉に優しさがあることにリッツは気がついた。

 たとえリッツがここで自分の命を惜しんで前者の選択をしたとしても、ジェラルドはおそらく微笑んで頷くだろう。

 決してリッツを責めたりしない。

 だからこそ、この選択の重さが身にしみた。

 平穏と茨の道。

 目の前に正反対の道を記されている。

 リッツにはそれが大きな人生の岐路なのだということが分かった。

 そして前者を選んだなら、もうエドワードについて行くことが永遠にできなくなるのだということも。

「なぁおっさん」

「なんだ?」

「この二択ってエドがいった?」

「そうだ」

「なんでエドが俺に直接いわないんだ?」

「エドの気遣いだ。自分を目の前にすると、意外に義理堅いリッツが好きな選択肢を選べないんじゃないかとな」

「じゃあそういえばいいじゃん。人伝てなんて、なんか納得いかねえよ」

 エドワードの目に惹かれてここまで来た。

 確固たる意志と揺るぎない信念に希望を感じてここまで来たのだ。

 なのにどうしてあの時みたいに一緒に来いと言わないのだろう。

「おっさん」

「何だ?」

「あそこで倒れた人がいたら、エドは俺と同じように助けた?」

 もしも自分ではなくても。

「エドは必ず助ける。だからそれを理由に命をかけることはないということだ」

「じゃあさ、そこにいたのが俺でなくても、エドは共に生きろって言ったのかな?」

「……リッツ」

「エドが何気なくいう、常套句みたいなもんなの? 俺じゃなくてもいいってこと?」

 生きる場所を与える。

 それを簡単に人にいうのならば、エドワードの真実はどこにあるのだろう。

 リッツの望みを叶えてくれるのだろうか?

 ただの方便だったらと思うと、不意に足下が崩れたような気がして心許ない。

「なあ、おっさんってば!」

 真剣に迫ると、ジェラルドはため息混じりに息をついてから口を開いた。

「お前だからだ、リッツ」

「俺だから?」

「ああ。もし同じ状況に置かれた旅人がいたなら、エドワードはティルスの自宅ではなく、私の住むグレインの街に連れてきたはずだ。いままでもそうだし、これからもそうだろう。そこには神殿もあり、行き倒れた人々を保護する場所もある」

「じゃあなんで俺は別なんだ?」

 眉をしかめてジェラルドに詰め寄ると、ジェラルドは観念したように呻いた。

「お前とエドが似ているそうだ」

「似てる? 俺とエドが?」

「姿形ではない。心の内に抱える何かがだ。私もお前とエドが初めて会った時に気がついた。エドもすぐ気がついたのだろう。だからローレンに預けた」

「どうして?」

「共に生きるために」

 リッツの中でエドワードは眩しいぐらいに輝いて見えた。まっすぐで迷い無く気高く見えたのだ。

 だからジェラルドの言葉はよく飲み込めない。

 エドワードに比べてリッツは自分に自信が全く持てずに、生きることを投げ出しているような惨めな存在だ。エドワードが太陽だったら、リッツはその辺に転がっているいじけた石ころと変わらない。

 それが今までの認識だった。

 でも違っていたのだろうか。エドワードも色々考えたり悩んだりしているのだろうか。

 そう思うとエドワードの存在が不意にリッツの近くにあるように感じられた。

 もしかしたらリッツが、エドワードを格上に見ていたからエドワードはその立場を保ってきただけで、その実リッツを似た存在として身近に感じてくれていたのかもしれない。

 リッツは大きく息を吐き出した。

「つまりエドはさ、俺に一緒に来て欲しいんだよな?」

 念を押してみると、ジェラルドは笑った。

「そういうことになる。エドワードはきっと今頃、お前がどちらを選ぶかをじっと一人で考え込んでいるだろう」

「嘘だ。想像つかねえよ。エドってそんな奴じゃないだろ」

「それはエドがお前にまだ自分を見せていないからさ。だがお前だって同じだろう」

 図星を指されてリッツは言葉に詰まる。

 ジェラルドにはリッツが何かを隠している事を悟られていたようだ。だがそれ以上ジェラルドは深く尋ねてきたりしなかった。

「改めて問うぞ。選択肢は二つだ。平穏か、命をかけるかだ」

「命をかけるって……何をやらかそうとしてんの?」

 思わず声を潜めると、ジェラルドは小さく息をついた。

「それを知ればお前の選択肢は後者しかなくなる。この村からはだせんぞ」

 ジェラルドは目を鋭く光らせて不敵に笑った。

 どうやらエドワードとジェラルドは何か不穏なことを考えているようだ。

 だがリッツは彼らがやろうとしていることが悪いことだとは思えない。

 リッツは人々の偏見と差別の中で育ってきたから、自分の身を守るために人々の善悪の感情を見抜くことに長けていた。それは一種の特技と言ってもいいだろう。

 そのリッツが六ヶ月共に過ごしてきたエドワードから悪意や打算を感じたことがない。

 生きながらも死んだように日々を空しく流れていくだけならば、エドワードと共に茨の道をゆくのでも全然構わなかった。

 エドワードは生きる希望がなく、死ぬことに安らぎの道を求めようとするリッツに共に生きろといった。生きることに全く執着のないリッツが本当に生きる意味を……生きている実感を感じさせてくれるのはおそらくエドワードだけだろう。

 そんなエドワードが一人でリッツの言葉を待っている。それを聞いてしまったら、リッツの答えなんて一つしかない。

 なによりリッツはエドワードと一緒にいることが気に入っている。

 今まで生きてきた一一〇年の中で知り合った他人の中では、一番共にいることが楽しい。

 孤独を抱えてきたリッツにとって、エドワードはそれだけで平穏を捨てて共に生きる価値がある男だ。

「おっさん、俺、エドと一緒に行く」

「いいのか? 今ならまだ踏みとどまれる」

「踏みとどまったって、俺には行く場所がねえよ。一人でふらふらしてるより、エドの近くにいた方がずっといい。それにさ……」

「なんだ?」

 何故だかジェラルドまで心配そうな顔をしている。

 リッツはふと村の噂話を思い出した。エドワードとジェラルドは親子なのではないのかという噂だ。

 二人はやはり似ている。

 何だかおかしくなって、リッツは小さく息をついた。

 もう心はとっくの昔に決まってる。

「水くせえじゃんか、エドのやつ。悩んだとか心苦しいとかってさ。俺に来てほしいなら、変に気をまわさねえで一言、こいって行ってくれりゃあ、一緒に行くのにさ」

「リッツ」

「だから俺、行って文句の一つもいってやるんだ」

 口をとがらせて文句を言うと、ジェラルドが豪快に笑った。

「何がおかしいんだよ、おっさん」

 むくれて睨み付けると、ジェラルドは笑いを抑えきれずに声を詰まらせてから口を開く。

「なるほど。エドには友人と呼べる者がいなかったから、友との接し方が分からなかったようだな」

「友人がいない? エドに?」

 意外だ。きっとたくさんの友人知人がいて忙しいのだろうと思っていたのに。

 ジェラルドを見ると、ジェラルドは苦笑した。

「特殊な事情があってな」

「特殊な事情ねぇ……」

 一般常識をようやく少し身につけたばかりのリッツに、特殊な事情がなんて推測することもできない。だがそれもおいおい分かっていくだろう。

「ま、いっか」

 大きく息を吐き出しながらそういうと、ジェラルドは笑いながら頷いた。

「状況は徐々に見えてくる。だがエドは本当のところ、お前にあまり事情を知ってほしくはないようだがな」

「なんで?」

「お前が何も知らない精霊族だから気楽なんだそうだ」

 精霊族であることをそんな風に言われたのは初めてだ。

 でも王国の人間ではなく、シーデナの精霊族のほうが気楽とは何故だろう。

 顔をしかめてジェラルドをじっと見つめていると、ジェラルドは笑った。

「私もお前が嫌いではないぞ、リッツ」

「なんで?」

「エドの正体も知らんのに、食料一つでエドにくっ付いてきたというところが何ともいい」

 突いてきた理由はそれだけではないのだが、エドワードに寄せる信頼を上手く言葉にできそうにないからむくれながら文句を言う。

「……えさ貰って懐いちまった犬ころかなんかみてえないいようだな」

「そうだな。実際それに近いのだろう?」

 からかわれているのが分かったから、リッツは口を尖らせてふくれた。

「なんでえ、俺はエドに拾われた犬かよ」

 むくれたまま頬を膨らませたリッツに、存外真面目な声でジェラルドが言った。

「エドはお前がいると落ち着くそうだ」

「落ち着く? まさか本当に拾った動物みたいに思ってるとか?」

「それはないと思うぞ」

「じゃあなんで?」

「自分が普通の人間でいられるからほっとするそうだ」

「普通の人間?」

 リッツには謎ばかりが募っていく。

 どこからどう見てもエドワードは人間だ。しっぽが生えていたり、角が伸びてくるわけでもないし。

 それでもリッツといることが落ち着くといわれたことは嬉しかった。

 どうやらリッツの存在は邪魔ではないらしい。

 小屋に帰ってきたエドワードの周りで、リッツはいつもエドワードがいない間の出来事を話す。

 説明が上手くないリッツのつたない話を聞きながらエドワードは何らかの書類をめくっていて、適当に話を詰めてしまうと、リッツに細かい説明を求めるのだ。

 これは一緒に暮らし始めた頃に、エドワードがリッツに課した課題だった。

 もしかしたら忙しいエドワードは、リッツが仕事の邪魔をしないように課題をさせていると思っていた。

 おかげでこの六ヶ月の間に、物事を順序よく組み立てて話せるようにはなってきた。

 でもエドワードに課されていたのはそれだけで、エドワードの役には立てていないと思っていたのだ。

 それでも落ち着くと言って貰えれば少しは役に立っていたのかも知れない。

「お前がエドと共に行くなら、エドはようやく楽にお前とつきあえるな」

「なんだそれ。エド、俺に気を遣ってたの?」

「そうらしい」

 そう言うとジェラルドは軽く肩をすくめた。何故か嬉しそうなのは気のせいだろうか。

「行くとなれば、それをつけておけ」

 指摘されて初めて、先ほどジェラルドに投げられた物を思い出して眺める。

 それは剣とそれを腰に差すための鞘が付いたベルトだった。

「おっさん……これ……」

「無くしたのだろう?」

「うん。でもどうして剣くれたの? 俺が自分のを無くしたから?」

 当然の疑問をジェラルドにぶつけたのだが、ジェラルドははぐらかすように笑って返す。

「お前は剣を使えるのか?」

「全然。どっちかっていうと体を使って喧嘩ばっかしてた」

「なるほど。では稽古は私がつけてやろう。お前が生き延びられるようにな」

「生き延びるって?」

 全く意味が分からないリッツの疑問に答えるでもなくジェラルドはリッツに背を向けた。

「さぁ、荷物を持って出かけるぞ」

 ジェラルドが先ほど背負っていた袋を叩く。

 どうやらリッツの荷物はもうまとめられていたらしい。

「へ? 今から?」

「そうだ。エドも待っている」

「そっか。分かった」

 先ほどの話が本当ならば、エドワードも辛い待ち時間になっているかもしれない。

「じゃ、シャスタ、行ってくるぜ」

「リッツさん? モーガン様?」

「ローレンの許可はとってある。こいつが使い物になったら戻ると伝えてくれ」

 なんだかジェラルドから不穏な言葉を聞いた気がする。

 使い物になるとはやはりこれのことだろう。

 リッツは腰に撒いた革製の太いベルトと剣を見やった。

 こんなにちゃんとした武器を持ったことがないから違和感いっぱいだ。商人の馬車に乗り込んだときには中古で買い求めた安いお飾り程度の剣だったが、これは何かが違う。

 ちゃんと戦うための本物の剣だ。

 いったいエドワードの行く道に何があるというのだろう。

「いくぞリッツ」

 颯爽と先を歩き始めるジェラルドの後を追って行ったリッツが追いついたとき、ジェラルドが振り返って言った。

「リッツ、さっきの言葉、エドに言ってやってくれ」

「どれ?」

「水くさいというところさ」

 そんなこと、言われなくてもエドワードに言ってやるつもりだった。

 お前が俺を友だと思ってくれてるなら、一緒に来いでいいんだと。

 お前が俺を認めてくれるなら、俺はお前を友として認める。

 しばらく黙っていたジェラルドがやがて口を開いた。

「リッツ、馬に乗れるか?」

「大鹿なら乗れる」

「大鹿だと!? あの森林地帯に住んでいる大鹿か?」

「そう。家の近くにいっぱいいてさ。暇だから手なずけて乗ってみた」

「……そうか」

「うん」

 後で知ったことなのだが、普通の人は大鹿に乗ったりできないそうだ。

 だがこの時のジェラルドは一瞬絶句しただけで、呟きながら軽く肩をすくめた。

「……ならば大丈夫だな」

 

 馬で一時間ほど走った森の中に薪の炎が燃えていた。こちらに背を向けて男が一人、薪の火を見つめている。

「エド!」

 何故だか嬉しくなって駆け出すと、驚いたようにエドワードが振り返った。

「リッツ、お前……来たのか」

 なんだか複雑な表情でそういうエドワードにむくれる。

「なんだよ来ちゃ悪いのかよ」

「悪くない、悪くないがな」

 エドワードらしくない、歯の間に物が挟まったみたいな言い方だ。

 なるほどエドワードは本当に、リッツをこれから起こるであろう何事かに巻き込みたくないと思っていたのだ。

 変なやつだ。

 あんなに堂々とリッツに向かって生きろと、命を貸せと言ったくせに。

「来るに決まってんだろ。まだお前に預けっぱなしなんだぜ、俺の命」

「……本気なのか?」

「もちろん」

「危険なんだぞ?」

「うん。いいよ」

「お前そんなに簡単に……」

 軽く答えたリッツにエドワードがため息混じりに眉間を揉んだ。本気で考え込んでいるようだ。

 こんなエドワードも初めて見た。

 エドワードは完璧ではない。

 そんな当たり前のことに今気がついた。

「あのさ」

「何だ?」

「知らなかったみたいだから言ってやるけどさ。俺、お前が結構気に入ってるんだ」

「リッツ」

「そりゃあ俺には分かんないことだらけさ。まあ難しいことも色々あるんだろうけど、でもお前といた方が絶対に楽しそうだし」

 きっぱりとそう言い切ると、何故かエドワードの瞳が曇った。

「本当にいいか? まだ戻れるぞ?」

「来ちゃ悪いみてぇないいかただな」

 口を尖らせつつ腕を組むと、エドワードは一瞬視線を逸らしてから再びリッツを見つめた。

「俺に義理立てしてくれなくても全然構わない」

 真摯な目でそう言いながらも、微妙に嬉しそうなエドワードに気がつく。

 なるほどジェラルドが言うことは本当らしい。

「回りくどいことしねえでこいって言えばいいじゃんか。お前がこいって言えば、俺はお前と一緒に行くんだぜ」

「リッツ」

「何やるんだかしらねえけど、俺にもお前を手伝わせてくれよ」

「だがかなり険しい道のりなんだぞ? いいのか?」

 この期に及んでそんなことを口にするエドワードにリッツは向き直った。

「エド、お前って結構馬鹿だな」

「リッツ?」

「俺、もう友達なんだろ?」

 冗談めかしてそう言うと、エドワードは一瞬目を見開いてからようやく堅い表情を崩した。

「ああ。俺はそのつもりだ」

「じゃあ、ざっくばらんに行こうぜ! 俺、お前と一緒に生きることにする。お前がなんて言おうと、文句言わせねえぞ。俺が決めたんだ」

「そうか……」

 エドワードはそういうと笑みを浮かべて目を閉じる。しばらくして顔を上げたエドワードは晴れやかに笑っていた。

「分かった。では早速ざっくばらんに言わせて貰うぞ。リッツ」

「おう」

 明るく返事をすると思い切り頬を引っ張られた。

「いでででで」

「お前に馬鹿と言われる筋合いはない!」

 何故だか楽しげにエドワードはそう言い切った。

 出会ってから六ヶ月、ほとんど保護者と化していたエドワードのそんな表情を見たことはなかった。

 そんなことだけでなんだか少しだけ同等に近づいたようで、とにかく嬉しい。

 だが嬉しいが不満もある。

「他にも言うことあるだろうが! 来てくれて嬉しいとか、今後よろしくとか!」

「それはそうだな。来てくれて嬉しいぞリッツ」

 人の頬をつねりながら、しかも冗談交じりの口調ではあったが、リッツには何となくそこにエドワードの本心があるような気がした。

「言い方がおざなりだ! っつうか痛てえって!」

「当たり前だ。痛くしているのだからな」

 ようやくリッツの停滞していた時間がまた動き出してゆく。 

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