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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
冀求の種子
34/179

<13>

 エドワードに思い切り殴られまくり、ボコボコに腫れた顔でグレインに戻ったリッツは、ジェラルドの館に戻るやいなや、パトリシアに無言のまま拳で殴りつけられた。

 腫れ上がった顔を更に殴られるというほぼ拷問に近い状況に、周りの人間は息を詰めていたが、リッツ自身は無言でパトリシアの拳に抵抗することなく俯いて耐える。

 ローレンの事を責められているのは分かっている。母を幼い頃に無くしたパトリシアにとってローレンは特別だったと知っていたからだ。

「おやめください、パトリシア様」

 見とがめて止めに入ったのは、出迎えに出てきたローレンの夫アルバートだった。言葉にも止まらないパトリシアを厳しい口調で押さえつける。

「パトリシア様!」

「放してアルバート! この馬鹿は殴らなきゃ分からないの!」

「リッツも十分分かっていますよ」

「分かってないわよ! この馬鹿は!」

「ごめんパティ……」

 俯いていたリッツが顔を上げると、目の前で羽交い締めにされているパトリシアは、ボロボロと涙をこぼしていた。

「パティ……?」

 予想外の表情に驚いて目を見開くリッツは、零れる涙を拭きもしないパトリシアに怒鳴りつけられた。

「どれだけ心配掛けたら気が済むの!? 失うのはローレンだけで十分だわ! あんたまで死んでどうするってのよ!」

「パティ」

「あんたは馬鹿だけど、エディの親友で、私の仲間でしょう。あんたに何かあったら心配するに決まってるじゃない!」

 パトリシアはリッツを責めているのではなかった。

 ローレンを失い、自分を責めて生きる気力を無くしかけたリッツを心配して怒っていたのだ。

 パトリシアの怒りは、心配と同じだった。

 今まで幾度もパトリシアに怒鳴られてきたリッツだが、そのうちのいくつかは、リッツを心配して怒っていたのだと初めて気がつく。

 リッツと同じく、パトリシアも素直じゃない。

 申し訳なさで胸が詰まった。

 今までの自分はあまりにも自分勝手だった。自分を責めるばかりで、自分を心配している人が居るなんて考えずにいたし、悲しみに沈むことで前に進むことを放棄していた。

 エドワードにもパトリシアにも叱られて当然だ。

 エドワードの言った通り、誰もリッツを責めていなかった。

 誰もがローレンを失った悲しみを胸に抱きつつ、身勝手な苦しみに沈むリッツの帰りを待っていてくれた。

 優しさと申し訳なさに、涙が零れた。

 あまりに自分は無知だった。

「パティ……ありがとう」

「……殴って礼を言われたのは初めてだわ」

「パトリシア様」

「ごめんなさいアルバート。もう大丈夫よ」

 涙を拭きもせず唇をぎゅっと噛みしめたパトリシアはそう言うと、アルバートから離れた。

 「あの、パティ……」

 リッツの言葉など聞こえなかったかのように、くるりときびすを返し、振り返ることなく自室に戻ったパトリシアに立ち尽くす。

 そんなリッツの肩を優しく叩いたのは、いつの間にか来ていたジェラルドだった。

「おっさん、俺……」

 言葉に詰まったリッツの肩に大きな手が乗り、優しく二度叩いてくれた。

「ご苦労だった」

 その微笑みに涙がこぼれそうになり、必死に堪えた。誰もがリッツを心配していたのだ。

 何故、生きているんだ。ローレンを殺したのにと、誰も責めなかった。

 誰も死ねとは言わなかった。

 子供の頃から植え付けられてきた生きる価値がないという傷が消えることは無いが、ここでは誰もそれを責めたりしない。

 リッツは心の底から大きく息を吐き出した。

 心の中には痛みがずっと残っている。でも少しだけ安堵した。

 帰ってきて良かった。

 こんなに強くて優しい人々に何の恩も返せずにあそこで生きることを諦めなくてよかった。

 その日の夜に伸びていた髪を短く刈った。

 後悔で死にたいという身勝手な感情は、焼けた金の髪と共に捨てる。

 ローレンの夢を叶えるまで、彼らの希望を叶えるまでリッツは生き続けようと決意を固めた。

 その決意の表れだった。

 その翌日、リッツは腫れ上がったままの顔で新調した騎士団の制服に袖を通し、ジェラルドから命じられた任務をこなすことになった。

 それはオフェリルのある人物と、ジェラルドの間で進められていた密約を実行に移すため派遣された使節団の護衛任務だった。

 率直に言えば密使であるグレイン自治領主の息女、つまりパトリシアの護衛任務だ。

 グレイン自治領区が、表向き二週間の喪に服している間に、その後起こる自治領区戦を優位に戦うための足場作りである。

「この顔で使節団の護衛?」

 独り言に笑いながら返事を返してくれたのは、直属の上司として派遣されたギルバートだった。

「現地に向かう二日間でなんとかしろ」

「無茶言うなよな~」

「てめえはまだ若い。何とかなるさ」

 無理だろうと思っていたが、グレインを出て馬に揺られていると本当に腫れは引いた。

 もしかしたら人間と比べて怪我に強いという特性があるのかもしれない。


 ティルスよりも更に西部を通る細い道から、ファルディナ自治領区とオフェリル自治領区の境である国人の道に抜けて、人の手が全く入っていない森林地帯を一行は進む。

 六月の六日になり、ようやく森林地帯を抜けると、明るく日差しの降り注ぐ葡萄畑が連なる集落へと出た。

 ここオフェリルは、ワインの一大産地だった事を思い出す。

「ここら辺が目的地?」

 隣を進むギルバートに尋ねると、いつもの楽しげな笑みを浮かべて、ギルバートは頷いた。 

「そうだ。こここそ、オフェリル第二の街アデルフィーだ」

「アデルフィー……」

 ティルスの焼き討ちからまだたったの一週間しか経っていない。何だか遠くに着てしまった気分だ。

 感慨にふける間もなく、リッツ達はオフェリル北部の荘園に着いてしまった。

 美しい森に囲まれたこの館には、ジェラルドと士官学校で共に過ごしたという、カークランド伯爵が住んでいる。

 カークランド伯爵は、オフェリルの中では特殊な位置にいるという。

 貴族であるというのに、クロヴィス侯爵家と一切の接触を断ち、自治領区の中にありつつも辺境に位置するこの場所で静かに暮らしているのだ。

 もともとカークランド家は、二代前の国王の命を戦場で救った功労者として下賜された伯爵家である。

 名声と、近代に貴族になった立場からクロヴィス家もその存在をもてあまし、カークランド家も貴族として民衆から搾取することを望まなかった。

 現当主フレーザー・カークランドは、温厚な人権派として知られる人物で、オフェリルで貴族とやり合い、行き場の無くなった人々を館にかくまっていた。

 広い館にはそんな人々専門のフロアもあるという。そのため、オフェリルの貴族たちからは倦厭されていて、代わりに領民たちに愛されている人物なのだそうだ。

 だが士官学校にジェラルドと共に通った人物ではあるが、体力的には決して軍人として優れた素養を持っていたわけではなかった。

 そのかわり素晴らしい見識を良識を持ち、誰からも愛される珍しい存在であったという。

 カークランドは軍に入ってすぐに、現在の王国軍の有り様に見切りを付けてやめてしまい、政治や経済を学ぶことにしたそうだが、現王政では学べることは限られていた。

 自然とこの館に大量の歴史書と、経済書を抱えて引きこもるようになったらしい。

 これを話してくれたのは、主にパトリシアだった。

 使節団の密使として赴くパトリシアは、カークランドについて色々ジェラルドから聞き出したらしい。

 だがジェラルドはリッツにカークランドについて語る時、たった一言こういっただけだった。

「舞台裏を仕切るなら、彼ほど適した人物はいない。軍でも政治でもな」と。

 館に着いた一行は、丁重に客人として迎え入れられた。

 白い石積みで出来たカークランドの館は、巨大でありながらも多くの人を受け入れるような開かれた入口を持った館ではなかった。

 追われた領民をかくまっているためか、入り口はこじんまりとして小さい。

 だが森の中に静かにたたずむその姿は、森の緑に映える美しい白亜の館だった。

「なんか……絵みてえな館だ」

 馬を下り、館のエントランスでぼそりと呟くと、前に立っていたパトリシアに、足を踏まれた。

 容赦ないヒールのかかとの一撃に、思わず呻く。

「お行儀よくしてなさい」

 パトリシアに小声で申しつけられて、リッツは文句を無理矢理引っ込めて頭を下げた。

 今のこの格好でいつも通りの喧嘩になれば台無しなのは、リッツにだってちゃんと分かっている。

 パトリシアは今、質素ながら上品なくるぶしまで隠れるような丈の長いドレスに身を包んでいた。

 短い髪は、自分の髪で作ったという亜麻色の長い髪のウイッグに包まれていて、緩やかに肩に流れ落ちている。

 薄く化粧をした顔は、なめらかで綺麗だ。

 いつもは騎士団の制服に身を包んで、髪を風にさらしているパトリシアのこの変身には、最初リッツも度肝を抜かれた。

 どこからどう見ても落ち着き払った自治領主の息女だ。

 今までもパトリシアは自治領主の息女を演じる必要があればこの姿をしていたらしく、騎士団は見慣れているようだった。

 それどころかおののくリッツを『惚れるなよ』とからかう始末だ。

 正直、ちょっとその姿に鼓動が高鳴ったのも事実だが、それはそれだ。

 どっちかといえば『女は化けるって本当だなぁ』と感心したに過ぎない……と思う。


 館の扉をくぐってすぐの広間で待つこと数分で、館の主であるフレーザー・カークランドが現れた。

 二階のテラスから、なんの警戒心も貴族特有の尊大さもなく、極々普通に歩いてきたのだ。

 想像していたのとは違った雰囲気の人物に、リッツは戸惑う。

 ジェラルドやギルバートのように、堂々たる体躯の持ち主ではなく、極平凡なユリスラの男性だったのだ。

 腰に剣すら帯びていないし、堅苦しい貴族の服も着ていない。庶民と同じように白いシャツを身につけ、かろうじてベストだけは着ている状態だ。

 剣を帯びたら振り回されるのではと思われるような中肉中背、顔には穏やかな笑み。人の良さそうなという言葉がもっとも適当だろう。

 焦げ茶の髪は固められることもなく自然に伸ばされている。

 そしてここに密使が来ているというのに、どう考えても髭を剃ることもしていない。

 それどころか革靴ではなく、どう見てもモコモコと柔らかそうなの室内履きを履いているのだ。

 唖然と見上げるリッツの視線になど気がつくこともなく、パフパフと軽そうな音を立ててカークランドは階段を下りてきた。

 そしてリッツと同じく呆然と立ち尽くすパトリシアの前に立ち、胸に手を当てて頭を下げる。

「よくおいでくださいました。私がフレーザー・カークランドです」

 見た目通りの穏やかな声でそう言って、カークランドは印象的な青い瞳を細めて微笑んだ。

 我に返ったように、パトリシアパトリシア丁寧にお辞儀をした。

「パトリシア・モーガンです」

「初めましてパトリシア。ジェリーから聞いています。美しく育ちましたね。お母様にうり二つだ」

 カークランドの言葉に、嬉しそうにパトリシアは頬を染めた。

「母をご存じですの?」

「はい。ジェリーにさんざん惚気られましたよ。お陰で女房には変に勘ぐられる始末で……」

 照れくさそうにカークランドはそう言って笑う。

「なにせ古女房な物で」

 貴族の伯爵らしからぬ言いようで、カークランドが笑うと、いつの間にかその後ろに立っていた女性が咳払いをした。

 カークランドよりも年上のその女性はすらりと背が高く、腰に剣を帯び、動きやすそうな制服に身を包んでいる。下手をするとカークランドよりも背が高いかもしれない。

「ああ。失礼。こちらはカークランド家の護衛団長を務めますマディラ・カークランド。つまり家内です」

 紹介された女性は、一つに結い上げた髪を揺らしてパトリシアの前に膝を付いた。

「護衛団長のマディラでございます。グレインよりの長旅、ご苦労でございました」

「え……あの……」

 戸惑うパトリシアに、カークランドは頭を掻いた。

 だがその目がパトリシアを試すように微かに細められたことに、リッツも、そして当のパトリシアも気がつく。

「妻は平民出身でして」

 パトリシアはキッとカークランドを見据えてから、マディラの前に膝を付いた。

「お顔をお上げくださいませ、マディラ様。我々グレインには、貴族と平民の間に確たる区別も差別もございません。人と人は、尊敬と信頼において自然と頭を下げる物であり、強制された立場で下げる物ではございません」

 言い切ったパトリシアは、マディラを立ち上がらせると自分も立ち上がり、厳しい目つきでカークランドを見据えた。

「奥様を跪かせるなんて、伯爵たる夫がするべき事ではございませんわ」

 じっと相手を見据えるパトリシアに同調するように、リッツもじっとカークランドを見据える。

 するとこの緊張を破ったのはギルバートだった。

「フレイ、つまらんことを試すな」

「一番効果的だと思うがね、ギル。貴族は妻がこう出れば平然と妻を見下し、障害物か何かのように存在を無視する。私はジェリーの志や心を尊敬するが、その子も同様に尊敬するに値するなどと盲目的に考えはしない。相手を信頼できるか、自分の目を持って見る事は必要だ」

 胸を突かれたようにパトリシアが小さく呻き、唇を噛んだのが分かった。

 ジェラルドの代理として立てられたパトリシアだが、ジェラルド・モーガンの娘だと言うだけで、信頼に値する人物だが分からない。

 面と向かってそう言われたのだ。

 おそらくパトリシアからすれば屈辱であり、同時に初めて感じる個人の資質を試される重圧だろう。

「ま、賢明だな。本当にお前さんらしい」

 呆れたようにそういったギルバートに、カークランドは微笑んだ。

「褒め言葉と受け取っておくよ」

 そういってカークランドは静かに微笑みを浮かべて再びパトリシアを見つめた。

「何しろオフェリルは、領主の息子のことで危地に陥っているんだ。偉人の子は偉人ならず。歴史がそれを証明しているよ」

「わたくしは、審査に通ったということですの?」

 パトリシアは真剣な表情でカークランドを見つめた。カークランドは微笑みながら優しくマディラの肩を抱く。

「マディラ?」

 カークランドに変わってマディラが穏やかに微笑んで答えた。

「はい。私はパトリシア様は信用できると判断いたしました」

 告げられたパトリシアが小さく安堵の息をつき、微かにかしいだ。

 とっさに後ろにいたリッツが支える。

「大丈夫か?」

 小声で尋ねると、相当に緊張して体をこわばらせていたパトリシアは、リッツの腕を軽く掴むとすぐに体勢を戻した。

「ええ」

 頷いたパトリシアは、再び二人の前に立つ。

「ありがとうございます」 

「こちちらこそ失礼いたしましたパトリシア様。ここには主人の敵が多すぎるのです。敵だと分かれば玄関でお引き取り頂くのが、当家の習わしとなっております」

 断固とした口調でマディラがそういった。クスクスと笑いながらカークランドが頷く。

「そうなんだ。私は剣はからきし駄目でね。客人は大抵、突然牙を剥く妻に脅されてそこの玄関から這々の体で逃げ帰る事になるのさ。その意味は君なら分かるだろう?」

「はい。平民出身であれども、カークランド卿の妻となった時点でマディラ様は伯爵夫人におなりです。失礼な行いをした者たちは、追い出されて当然ですわ」

「その通りだ」

 初めて聞いた話に、リッツは深く頷いた。

 なるほど、そういうことになるらしい。

 どうも貴族のことはよく分からない。

「試すようなことをして申し訳なかった」

「いえ」

 小さく返事を返したパトリシアは顔を上げ、自らの使命を果たすべくまっすぐにカークランドを見つめた。

「会談の場をお持ちくださいませ、カークランド様。時は迫っております」

 断固としたパトリシアの言葉に、カークランドが頷いた。

「そうしよう。だが君たちも疲れている。少し休み給え。本日の晩餐後、会談に応じることとする。正常な判断と正しい結論は、心身共に充実した時にこそ表れてくるからね」

 穏やかながら決して譲らない物言いは、エドワードとよく似ている。

 もしかしたら責任を負う者は皆、どこか共通する雰囲気を持つているのかもしれない。

 そんなことを考えていたリッツの耳に不意に聞こえたのは、マディラの吹き出す声だった。

「何だい、マディラ?」

「今の言葉そっくりそのまま、あなたにお返ししますわフレイ。何を履いていらっしゃるの?」

 言われて初めてカークランドは自分が暖かそうな室内履きを履いたままなのに気がついたようだった。

「あーこりゃあ……説得力も何もないなぁ……」

 のんびりとそう呟いたカークランドは、照れくさそうに頭を掻いた。

 カークランドの計らいで騎士団全員も休憩を取り、食事を与えられた。その後、豪華な食事をするパトリシアの後ろに立ち、警護という立場の切なさを噛みしめたりと時間を過ごした。


 夜が更け、窓の外には真っ暗な森の光景が静けさをもたらす頃、カークランドの応接室で会談がもたれた。

 カークランド側は、カークランドと妻のマディラ。

 そしてグレイン側は、パトリシアと、リッツ、ギルバートの三人だった。

 騎士団は何かあったら駆けつけられるようにと、神経を尖らせているだろう。

 それはきっとカークランド家護衛団も同じだ。

 まずパトリシアはジェラルドに持たされた親書を手渡し、受け取ったカークランドはそれにじっくりと目を通した。

 紙を捲る音だけが響き、時折天井に掛けられたシャンデリアの炎がはぜる音がする。

 やがて読み終わったカークランドが顔を上げた。

「私にオフェリルの指導者になれと……?」

 静かな問いかけに、パトリシアは頷く。

「はい」

「だが私は貴族だ。クロヴィス卿を倒し、私がオフェリル自治領主を引き継いだとしても、また同じようにならないと言い切れるかね?」

「言い切れまず」

「何故だね?」

「父が信用を置く人だからです」

 きっぱりと言い切ったパトリシアに、カークランドは微笑んだ。

「お父上を信頼しているのだね」

「はい」

 確信を持って頷くパトリシアに、微笑みを浮かべたままカークランドが告げた。

「だがジェリーも貴族だ。そして君も。我々貴族に、本当の平民の幸福が何か分かるだろうか?」

「それは……」

 パトリシアは言葉を切ると、ジェラルドと同じように拳を唇の前に持ってきた。

 軽く人差し指で唇を押さえつつ思考を巡らせている。

 やがてパトリシアは顔を上げた。

「人としての幸福は貴族であろうと領民であろうと変わらないと思います。信頼できる人がいて、暖かなぬくもりを感じられる場所を持ち、日々充実した仕事をこなせる、それが幸福です」

「領主はその幸福のために必要だとおもうかい?」

「はい。人々がそうした幸せを守るために存在するのが領主であり、本当の意味の貴族であると思います。我々は搾取するためではなく、守るために存在すべきです。それを忘れた貴族はもう貴族ではない。幸福の簒奪者です」

 パトリシアの言葉に、微かに目を閉じてカークランドは腕を組んで椅子にもたれた。

「……カークランド卿?」

「クロヴィスは簒奪者かな?」

「はい」

 迷い無く頷いたパトリシアに、カークランドは目を開けた。

「では私は、簒奪者から地位を奪い取るさらなる簒奪者だね」

「え……?」

「君の論理で行けば、総ての人々の幸福は同じだということになる。ならばクロヴィス卿と共に追い落とされる貴族の幸福は誰がどう保証するね? 貴族は滅びることしかできないのかな?」

「それは……」

「君も貴族だ。その気持ちは分かるだろう? 今まで許されてきたことが突然犯罪とされ、追われる身となる。貴族の称号も名誉も、何も役に立たなくなるその恐怖を考えたことがあるかい?」

 多少意地悪な質問だ。

 リッツはじっとカークランドを見つめたが、カークランドの瞳はに悪意はない。真剣に何かを試そうとしているのだろう。

 だがそれが何かリッツには全く分からない。

 ちらりと横に立つギルバートを窺ってみるが、今日のギルバートは妙に静かで二人の間に入ろうとしない。

 ギルバートもきっと、この場でパトリシアを試してるのかも知れない。

 パトリシアが貴族としてエドワードと共にあり、後にこの国に害をなす人間かどうかを。

 貴族でも何でもなく、もしエドワードが王になたとしても何の権限も持たないだろうリッツには、全く理解できないが、貴族でありつつも、貴族の横暴を許すこの国を根本から覆そうという彼らにとって重要なのだろう。

 それにしてもこんなに試してばかりで疲れないだろうか。

「例え戦いが終わって貴族をこの地より追い払ったとしても、彼らは生きていく。貴族を皆殺しにすることは出来ない。そんな中で私が貴族の称号を持って、貴族を一掃した自治領区を支配することに意味があるのか、私は知りたい。貴族である私が領主としてここにある限り、去った貴族のよりどころになりかねん。それは私の代で済めばいいが、私の息子、娘たちにまで及びかねない。そして私の子は私ではなく別の人格だ。貴族にいいようにされる可能性もある。それでも私はカークランド伯爵としてオフェリルを支配せよと君は言うのかい? 君はどう思う?」

 リッツは息をのんだ。

 カークランドが見ていた未来は、現在から更にずっと先の未来のことだったのだ。

 だからこの館に来た時、ジェラルドの娘であるパトリシアを信頼に足る人物かを試した。

 それは人の営みが続いていく限り、この貴族制度を残すことで未来をよい方向に持って行けるのかを問いかけるものだったのだ。

「それでも……」

 パトリシアが口を開いた。

「それでも私は、いまのオフェリルをカークランド卿に救って欲しいのです。我々グレインは、自治領区を焼き討ちにされました。領民の怒りは頂点に達しています。我々はオフェリルの貴族を……クロヴィス家を許すことはできない」

 パトリシアは立ち上がった。

「でも我々が倒すべきは、貴族に脅された領民であってはいけないのです。虐げられたオフェリルの民をこれ以上苦しめたくはありません。グレインはオフェリルに攻撃された。でもそれを仕掛けたのは貴族たちです。ですがクロヴィス卿の命を守るしかない領民は、彼らの要求を断れず、我々グレインに命がけで立ち向かうでしょう。そんな彼らに逃げ場を作らねばなりません。そしてそれは間違いなく、彼らの希望とならねば行けないのです」

 まっすぐに顔を上げたパトリシアがカークランドを見つめた。

「貴族とて人。人は生きようと思えば生きていけるのです。貴族でなくても人を愛する事が出来ます。貴族でなくとも生きる糧を得ることは出来ます。貴族でなくとも、この国の美しさを感じることが出来るはずです」

 その輝くアメジストの瞳に、リッツは目を奪われた。

 その凛とした姿は、今まで見た女性たちの中で一番美しいと思ったのだ。

 彼女は命と引き替えにしてでもと、風の精霊を遣ってティルスの人々を救った。

 誰よりもパトリシアは守るべき者として領民を大事に思い、真剣に隣領区であるオフェリルの民をも救おうとしているのだ。

 その信念が彼女を輝かせる。

 そんな彼女はとても綺麗だった。

 エドワードとは違う感慨が浮かんでくる。彼女がその目を曇らせることがないように守れたら、きっと幸せだろう。

 守らせてくれるかどうかは別だが。

「カークランド卿。オフェリル領民を支配から解放してくださいませ。民衆の旗印として、我らグレインと共に戦ってくださいませ」

 頬を染め、そう言い切ったパトリシアは、静かに椅子に腰を下ろした。

「申し訳ございません。未熟者が大きな事を申しました」

「かまわない。若い頃は大いに理想を語るの事が必要だからね」

 そういったカークランドは、穏やかに笑ったが、すぐに静かに表情を引き締めた。 

「オフェリルは幸福ではないと、君も思うかな?」

「……申し訳ないですが、幸福とは思えません」

「何故?」

 ゆったりとした動作でカークランドはテーブルに両肘を付き指を組んだ。

「生まれながらにして殺していい者と殺されていい者に別れた自治領区は幸せでしょうか? 私は生まれた者は総て等しく生きる権利を持っていると考えています」

 きっぱりとしたパトリシアの言葉に、カークランドは表情を変えぬまま再び尋ねる。

「では君は、王政も否定するのかね?」

「……え?」

 意表を突いた質問に、パトリシアが絶句している。

「君は先ほど貴族であっても人、人として生きられるといったね?」

「はい」

「貴族の元をたどれば、そこには国王がいる。貴族の頂点は国王だと言えるだろう。生まれながらにして総て平等であれば、国王はいらない。総ての人々が総てを決め、上から命じられることなく生きていくこととなる。もしくは等しく民衆は王になる資格を持ち得ることとなる。それは平和を保てるのかね?」

 答えられずに言葉に詰まるパトリシアに、カークランドは更に尋ねる。

「もし皆が王になれるのなら、さらなる争いが起こることになりかねないのじゃないかな? 領民を第一に考え、貴族の存在を否定してしまえば、結局それは国家の首を絞める。君はそう思わないかな?」

 黙り込んだパトリシアをじっと見つめながら、リッツは首をかしげる。

 何だか不思議なことを話している気がするのだ。

「あのさ……」

 つい口を開くと、すごい目でパトリシアに見られた。カークランドもリッツをじっと見つめる。

「うわぁっ……悪い、ごめん、黙ってます」

 慌てて直立の体勢に戻るリッツに、パトリシアが首を振った。

 だがカークランドは面白そうにリッツを見つめる。

「君は?」

 答えていいものか黙っていた方がいいのか分からずにギルバートを見ると、ギルバートが肩をすくめて口を開いた。

「リッツ。俺の弟子みたいな者だ。そしてパティの仲間にしてエドワードの親友さ」

「……そうか」

 カークランドの目がまっすぐにリッツを見た。

 どうやらエドワードのことを知っているらしい。

「何か言いたいことがあるのなら、言ってみてくれないか?」

 おろおろとしていると、パトリシアがため息混じりにリッツを振り向いた。

「リッツ。もう黙っているのも手遅れだわ。話して」

「いいのかよ、パティ?」

「ええ。許可します」

 二人のやりとりを聞いていたカークランドが首をかしげる。

「彼は、貴族かね? 平民にしては遠慮がない」

「いや。精霊族さ」

 何気なく答えたギルバートの言葉に、カークランドが目を見開いた。

「精霊族が何故ここに?」

「こいつははぐれ精霊族だ。故郷には帰れない事情があるらしい。な?」

「……うん」

 仕方なく頷くと、カークランドはじっとリッツを見てから、先ほどの言葉の続きを促してきた。

 全員の視線を感じつつ、リッツはおずおずと口を開いた。

「あのさ。国王って、っていうか血筋って、人間にとってそんなに大切なもんなの?」

 水を打ったように場が静まりかえった。その理由が分からずにリッツは言葉を続けるしかない。

「俺の一族にもさ、長老はいるよ。長老はこの国の国王と同じなんだけど、長老の一族なんていないんだ。一族の中から最もふさわしい者を、一族の総意で決めるんだって。俺ははぐれてるから決めるとことか見たことないし、親父に聞いただけだけどさ」

「もし指導者が道を誤ったなら、どうなるのかね?」

 深刻なカークランドに尋ねられて、リッツはあっさりと答えた。

「長老会議に掛けられるんだよ。明らかに誤っているって判断されたら他人たちに引きずり下ろされるんだって。それで次の長老を決めるんだ」

 リッツに取ってはそれが当然だった。だから貴族という生き物が、血筋を盾に威張り散らすことの理解が出来なかったのである。

「人間もそうすればいいのに、何でやらないのかなって不思議でさ。まあ精霊族と人間じゃ、数が違いすぎるから無理なのかもしんないけど」

「精霊族は一体どのくらいいるのかな?」

「う~ん。俺も詳しく知らないけど……二千人ぐらいいるのかなぁ……あれ、もっといるのかな? よくしんないや。俺、基本はぐれ者だし」

 言い切ったリッツが周りを見渡すと、何故か皆が静まりかえってしまっていた。やがて口を開いたのは、カークランドだった。カークランドは苦笑しながらリッツの顔を見た。

「なるほど、ジェリーはこれを狙って君を彼女のお供に付けたのだな」

「え?」

「パトリシア、君はどう思う?」

 不意にカークランドに尋ねられたパトリシアは、ため息をつきながら微笑んだ。

「これでは革命を起こす我々の大義名分を失ってしまいますわ」

「え? そうなの?」

 驚いてパトリシアを見ると、パトリシアは苦笑した。

「だってリッツ、私たちってエディを御旗に戦おうとしてるのよ? 王の血筋を真っ向から否定されたら、根幹が崩れちゃうじゃない」

「あ……そっか」

 その事に初めて気がついて、血の気が引いた。

「や、俺、そんなつもり無いよ! エドは絶対にすっげぇ国王になるもん。エドなら俺は絶対にいいと思うし! エド以外なら嫌だし!」

「今更遅いわよ」

「ごめん! 忘れてくれ!」

 全員に向かって頭を下げると、その場が爆笑に包まれてしまった。

 おろおろしていると、カークランドが呟いた。

「二千かそれ以上か。アデルフィーの街の人口と計らずも同じぐらいだな」

「え?」

「この国は大きい。国王はまだ必要だ。もし君が言うように民衆が自らが望む王を頂くようになるまでに国を変えるのには、もっとたくさんの時間が必要だろう。王政の問題点も抱えたまま、君の言うとおりエドワード王太子に賭けてもいい。それが今選べる最善の方法だ。だがアデルフィーを精霊族と同じように自らの考えから領主を選ぶ街にしていくことなら出来るだろう」

 静かにカークランドは立ち上がった。

「やがて貴族の世界を終わらせ理不尽な王政を倒すやもしれぬ希望の種は、ここアデルフィーで芽吹かせ、オフェリルで育てるとしよう」

「では……?」

「グレインの宣戦布告と共に、カークランド一族および、我らと志を共にする人々は、オフェリル領民の権利回復のために自治領主と戦う」

 今までの穏やかな微笑みではなく、まっすぐに未来を見据える笑みを浮かべて、カークランドはパトリシアに手を差し出した。

「共に戦いましょう、パトリシア」

「ありがとうございます、カークランド卿!」

 パトリシアの瞳にうっすらと安堵の涙が浮かんだ。

 そんな彼女を見ていると、リッツは不思議な感情が芽生えてくる自分に戸惑う。

 パトリシアに対して、何だか分からないけれど柔らかくて暖かな感情が芽生えてきたのだ。

 そんな自分の感情に戸惑いつつも、リッツは気持ちを引き締める。

 こうして連合が成立したことで、戦乱が始まることを改めて実感した。


 こうして、現オフェリル自治領主クロヴィス家を倒すためのモーガン・カークランド連合は成立した。


 六月十五日、火の日第三週、グレイン自治区はジェラルド・モーガンの名において、オフェリル自治領区に宣戦布告をした。 

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