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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
樹下の盟約
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<1>

大変お待たせ致しました。いよいよ、呑気屋本舗の二大柱のひとつ『燎原の覇者』シリーズの開幕です。

第1巻は『樹下の盟約』

乱れる国家の中での二人の出会いの物語。運命の出会いは、国家を救えるのか?

どうぞお楽しみくださいませ。

 人々が住まう大陸――ここエネノア大陸には六つの国がある。

 王国に共和国、連邦国家と様々な形態の国家があるが、そのすべての国に共通する特徴があった。

 各国には必ず亜人種が一種ずつ住まう特別自治区があり、すべての特別自治区はそれぞれの国家によって自由自治を認められているのだ。

 特別自治区方が定められた時代がいつであるかは分からないのだが、エネノア大陸に生まれた人々にとって、それは犯さざる法律だった。

 最初に国家ができあがったとされるのは、光の精霊王を守護に持つ国、ユリスラ王国。

 つまり光の一族が住み、リッツの出身地でもあるシーデナ特別自治区という広大な森林地帯を抱えるこの国である。

 このユリスラ王国は一の特別自治区と九の自治領区、そして王族直轄区一つを抱える王制国家だ。

 現在の国王はもともと堅実な国政を行う賢王であったのだが女好きでも知られており、子をなすことなく若いまま正室がこの世を去ったのを境に、乱れた生活を送るようになったと伝えられている。老齢のため判断力に欠け、政治を放棄して女だけにうつつを抜かしているとも噂されているのだ。

 それと同時に国を動かしているのは王太子の母親であり側室だが、側室は毒婦であるとの噂もまことしやかに囁かれているのだが、真実は誰にも定かではない。

 その王位継承者である王太子は顔以外は無能であり、弟の親王は戦争好きの馬鹿と揃いも揃って無能であるという話で、リッツの耳に聞こえた噂話はこう締めくくられる。

 現王がいなくなってもこの国の荒廃は続くのだと。

 噂ではなくただひとつ分かる真実は、現在のこの国は決して幸福ではないということだった。行き倒れたリッツに誰も手を差し伸べなかったことからもそれは明らかだろう。

 エドワードに旅人の街道で拾われてから、早半年が経とうとしていた。

 その間に、リッツを取り巻く環境は目まぐるしく変わった。生まれてから一一〇年経つが、過去の自分を振り返ってみると時間が止まっていたとしか思えない。

 ここに来てようやくリッツの中にある時計が時を刻み始めたようだった。

 当然それだけの長い時間を生きているリッツは、この大陸では亜人種と呼ばれる六種族のうちの一種族……光の一族である。

 もっともこの国の人々は光の一族をその容姿から精霊族と呼んでおり、一族の正式な種族名を知らない人々が多い。

 国を出たことのないリッツは他国の特別自治区に住む種族について父親から聞いた程度のことしか知らないが、おそらく光の一族と同等程度に知られていないに違いない。

 光の一族とは抜けるような白い肌と絹糸のような金の髪、若木のようにすらりと伸びた長身、羽を広げた蝶のようだと称される美しい耳、森の輝きを宿した緑の瞳を持つ六種族一美しい種族といわれる。

 だが黒髪に蝶の形とは違って横幅の少ない尖り気味の耳を持ち、薄めの小麦色の肌を持つ人間に近い姿のリッツは、当然のことながら純粋な光の一族ではない。光の一族と対立する闇の一族の亡命者を母に持つ混血児だ。

 そのため生まれてから今まで一族に疎まれ、蔑まれ、時には暴力を加えられながら生きていたのである。

 そのせいかリッツには絶対に生きたいという、普通の人間が持ち合わせるであろう欲求が限りなく少ない。

 だからリッツは耳にした噂にそれほど興味を抱いていたわけではなかった。自分に関係のないところにまで興味を持っていられない。

 それにここにいると国が荒れていることなど忘れてしまいそうだ。

 なぜならリッツが今いるグレイン自治領区は、今までいた隣の自治領区サラディオやファルディナと比べると、とても穏やかで平和だからだ。ここにいれば噂にあるような国家の荒廃など感じることもない。

 人々の生活も全く荒んでおらず皆穏やかに互いを思いやっている。

 それぞれの自治領区には自治領主がおり、自治領主の任命権は特別な措置以外それぞれの自治領区に任されている。つまりその自治領主の力量一つでその地区の豊かさは変わってくるのだ。

 だから自治領区に属する十から二十ほどの街や村は自治領区ごとに違っているらしいが、狭い世界しか知らないリッツにはよく分からない。

 リッツが彼を置き去りにした商人たちに出会ったトゥシルはサラディオ自治領区に属するも、特殊な土地故にサラディオ領主による独占が認められていない土地だった。だから余計に中央の混乱をまともに受けていたそうだ。

 リッツが倒れていたあの場所から、ほんの数キロ先の丘を越えたところが自治領区の境だった。そこがこの自治領区グレインだ。

 グレインの自治領主はジェラルド・モーガンという、王国初期から続いている名家の貴族で軍人だ。後で聞いて驚いたのだが、エドワードがリッツを拾ったとき共にいたのが自治領主本人だった。

 がっちりと大柄で亜麻色の髪を軍人らしくきっちりと撫でつけた、穏やかながら厳しそうな男だったのを覚えているが、あれ以降一度もお目にかかっていないのでうろ覚えだ。

 そもそも行く当てのない行き倒れが、身分の高い貴族の自治領主に会うことは二度とないだろう。

 あの後衰弱していたリッツは、エドワードとジェラルドの二人がかりで馬に乗せられこの自治領区に運ばれてきた。

 痩せているくせに長身であるというはなはだ迷惑な体型のせいで、二人はとても苦労したらしい。

 二人には迷惑を掛けたが、リッツはあの日の鮮やかな光景が目に焼き付いている。

 峠から眼下を見たリッツは、故郷を出て初めて見る美しい景色に圧倒されて息をのんだ。

 風に揺らめく黄金色の波は、まるで話に聞く海のようだったし、深い空の蒼は絵の具を溶かしたかのように鮮やかに輝いて見えた。

 呆然と『綺麗だな』と呟いたリッツに、エドワードは誇らしげにほほえみ、『ああ。俺の故郷だからな』と告げた。

 自分の故郷を誇れるエドワードを純粋に羨ましく思ったのだが、それは口に出さなかった。

 リッツにとっての故郷はあまりにも辛い場所だったのだ。

 助けられたあの時、何故だかリッツにはエドワードが得難い人物になると直感していた。だから自分の過去や正体を知られたくなかったのだ。

 そのくせ心の折れていたリッツは知り合ったばかりのエドワードなる人物に、洗いざらい告げてしまいそうで怖かった。

 リッツが光と闇の合いの子であると知られればこの国では辛い立場になることを事は分かっていた。エドワードがそれを知ってなお手を差し伸べてくれるような人物かを、まだリッツは見極められていない。

 黙ってしまったリッツに、エドワードは何故リッツが商人たちに馬車から落とされたのかを説明してくれた。

 リッツが読めなかった契約書には『薬草の予定積み込み量を満たしていた場合にのみ、トゥシルから護衛契約をする』という内容が書かれていたそうだ。つまり薬草を予定量仕入れることができなかった場合、この契約は無効となる。

 だが文字の読めないリッツは読まずに契約し、契約無効のはずの馬車に武器を持って乗り込んだということになる。

「つまり商人から見たらお前は、契約無効を認めずに武器を持って脅迫しつつ金銭を要求してくる無頼者に見えたんだろう。心底その商人たちはお前が怖かっただろうさ」

「でも俺、こんなに若造だし、旅慣れてないのに?」

「まあ旅慣れていないのには気づいたろうな。だから豊かな自治領区の近くにお前を捨てていったんだ。まさか受け身もまともにとれないとは思わなかっただろうよ」

「じゃあ……」

「そうだ。怖いやつは放り出したかったが、何も知らないみたいだから放り出しても生きられるところで捨ててやろうと手加減して貰ったわけだ」

 エドワードに説明されるまで、本当に何も分からなかった。商人たちの気遣いにも気がつかなかった。

 そもそもリッツが文字を読めていれば防げた事態だった。

 初めてリッツは文字が読めないことの不利を実感した。

 人間の社会に関わることなどないだろうと文字を学ばずに来たのだが、話せれば読み書きできなくても何とかなると思っていた自分は甘かった。

 自分のふがいなさにぐったりと馬に縋ってリッツは黙り込む。

 二人に運ばれていった先は、森と花畑と麦畑に囲まれた静かで小さな村だった。

 それが今リッツが住んでいるティルスの村だ。

 意外なことに裕福な貴族の息子だろうと思ったエドワードは、この村の家に小屋を間借りして住んでいた。そして今のリッツは、エドワードの小屋をさらに間借りしている居候だ。

 エドワードが間借りしている小屋の主はセロシア家で、ローレン夫人と息子シャスタが住んでいた。この家の父親はアルバートといい、ジェラルドの元に仕えている侍従であるという。

 その関係からエドワードとジェラルドは面識があったのかもしれないが、自治領主から一目置おかれているエドワードの生い立ちは未だ謎である。

 分かったのはローレン・セロシアはティルスの村で学校を運営する教師であり、エドワードの乳母であることだけだ。

 つまりエドワードは乳母に預けられるほど高貴な生まれということになるのだが、それ以外のことは『そのうち嫌でも分かる』とエドワード本人は教えてくれない。

 だから、きっとエドワードはジェラルドの隠し子に違いない、などと村の噂話を聞いてから勝手に考えている。

 そんなリッツがこの村で何をしているのかといえば、この村唯一の教育者であるローレンに付きっきりで読み書きの稽古をして貰ったり、基本的な生活習慣や生きるために必要な家事全般や物作りを教えて貰っているのだ。

 はじめはそれが嫌で仕方なかった。

 最初にリッツがさせられたことといえば、紙にローレンが書いた文字を手本にひたすら同じように書かされることだった。

「はい。リッツの分」

 そんな言葉と共に、バサリと紙束が置かれた。学ぶとは何かが分からずだらだらしていたリッツが驚いて見上げると、少くせっけ気味のふんわりした濃茶の髪と同じ色の瞳が目に飛び込んできた。

 眼鏡の奥で優しくも厳しい瞳をまっすぐに向けてきたのは、ローレンだった。

 細身で見るからに子供たちの先生といった優しげな印象を受けるローレンは、決して甘い人間ではないことぐらいリッツは数日で理解している。

 教えることには厳しいのだ。

 そんな彼女がまっすぐリッツを見つめると微笑んだ。

「さあ、これをひたすら書き続けなさい。書くことが文字を覚える上で最も重要なプロセスなのよ」

「ひたすらって?」

「言葉通りよ。紙が無くなるまで」

 そういったローレンの表情は穏やかだったが、目は笑っていなかった。真面目にやらなければならないと覚悟を決めてリッツは作業を始めた。

 意味が分からないその文字をリッツはイヤイヤながらも書き続けた。文字の重要性は理解していたからだ。

 ペンを握る手が震えるぐらいの枚数を書いたところで、ようやく手本と同じように綺麗に書けるようになった。

 するとローレンは満足げにリッツの書いた文字を眺めて、ようやくリッツにその文字の意味を教えてくれた。

「リッツ・アルスター。あなたの名前よ」

 そう言われた瞬間、頭の中で霧が晴れた気がした。ひたすら書き綴ったこの文字が自分の名前を指し示しているなんて考えていなかった。

「おめでとうリッツ。これで書類にサインできるわね」

「うん!」

 自分の名前が書けることは、思いの外嬉しい。

 次に書かされたのはエドワードの名前だったのだが、これは比較的早くエドワードの名前だと理解できた。ローレンがその文字を書くことと同時に、一文字一文字の発音を教えてくれたからだ。

 文字が解読できたことと、文字が書けるようになったこと。

 そのどちらもがあまりに嬉しかったため、出かけることが多くあまり家にいないエドワードが帰ってきた時に、自分の名前とエドワードの名前を書けるようになったことを自慢してしまい、大笑いされた。

 確かに見た目が二十歳の若者がすることではないと、かなりばつが悪くなって何も言えなくなってしまったリッツだったのだが、エドワードは自分より綺麗な字を書くと笑いながらも褒めてくれた。

 リッツの字は丸々ローレンの写しだったから綺麗で当然といえば当然だ。

 エドワードはリッツの書いたエドワードの名前とリッツの名前を、二人で暮らす小屋の壁に大切に張り付けてくれた。未だ部屋にはその文字が飾られている。

 それから文字は徐々に増えていき、ローレンの名、シャスタの名、そしてたまに帰ってくるアルバートの名も書けるようになった。そうなるとようやく文字を書くことが面白くなってきた。自分で思うように文字を書けるということが初めて楽しいと思えたのだ。

 そうなると理解は早かった。

 一月の間に知っている数少ない人々の名前ぐらいは書けるようになり、次の二月で文字を読むことを覚えた。そして文章を書くことを覚えていく。

 もともと話すことに苦はなかったリッツだったから、めちゃくちゃながらも徐々に読めるものができあがってきた。

 さらにリッツはこの家にやってきた時、文字を読むことだけではなくお金の貨幣価値すらよく分かっていなかった。

 お金には金貨と銀貨と銅貨があるのは知っていたが、銀貨が何枚で金貨と同じなのかや、銅貨を何枚集めれば銀貨になるのかなど、実際に必要なお金の知識を持ち合わせてはいなかった。

 子供の頃から買い物をしたことなどほとんど無く、欲しいものも特になかったリッツに金銭感覚はまるでなかったのだ。

 そこでローレンは文字をようやく読めるようになったリッツに突然、お金を渡した。

「何これ?」

「お金よ。このメモに書いてあるものを買ってきてちょうだい」

「ええっ!?」

「おつり、間違わないようにね」

「でもローレン、俺、お金のことなんて……」

「お願いね」

 驚いたリッツに有無をいわせずローレンは財布を押しつけた。気がつくと買い物かごとメモはリッツの腕にかけられている。仕方なくリッツはきちんとローレンに与えられた任務を遂行することになったのだった。

 ローレンはリッツが文字を読めない、貨幣価値を知らないことを承知であちこちへ買い物に行かせた。

 時には八百屋であったり、雑穀屋であったり、肉屋であったり牛乳屋であったりと買い物させられる範囲はかなり広い。

 気がつけばリッツの頭には自然と今住んでいる村の地理がしっかりと焼き付けられた。

 元々道を覚えるのは得意だし、一度通った道は忘れないリッツにとって、それは簡単なことだった。

 そしてこの買い物はリッツと村人たちの距離をかなり縮めてくれた。

 ローレンの客でエドワードの居候とはいえ、得体の知れないリッツに最初は村人たちも警戒心を抱いていたようだった。

 ところが一生懸命書かれたメモを解読しながら買い物かごを下げて歩くリッツの姿に、村人たちは徐々に親しみを感じてくれるようになった。

 リッツに最初は子供が寄ってきて、次に老人が寄ってきた。

 それからは警戒心を解いた村人に混じってティルスでは普通に生活できるようになっていく。

 後日エドワードや村人たちは細身で長身のひょろ長いリッツが、必死で買い物をする姿がほほえましくて警戒するのが馬鹿らしくなったのだと聞いた。

 そんなこんなで村に溶け込みつつあるリッツだったが、すべてが順調だったわけでもない。

 元々投げやりで落ち込みやすい癖があるリッツは、こっそり抜け出そうとしたり課題を前に机に突っ伏したまま動かなかったりと手がかかる生徒だったのだ。

 そんなできの悪い生徒を厳しくも粘り強く教え続けたローレンの指導と、一所懸命リッツを励まし、逃げるとどこまでも追いかけてきたローレンの息子シャスタによって、リッツは数ヶ月でようやく普通の人に近い生活を身につけた。

 留守がちなエドワードに替わり、リッツの相手をするのはいつもシャスタだった。

 十三歳のシャスタは母親によく似た焦げ茶の瞳をくるくると動かしてあちこちに気を配り、てきぱきと様々な雑事を片付けていく。

 計算し尽くされた無駄のない手際の良さは、さすがローレンの息子である。

 だがシャスタにも困ったことはある。彼はリッツが初めて会う小言魔だったのだ。

 シャスタはとにかく口うるさかった。

 リッツの母親も小言を言うタイプではなかったから、そんなシャスタに、こまめな方ではないリッツは時折辟易したものだ。

 乳兄弟であるエドワードをエドワード様と呼び、その客であるリッツをリッツさんと呼ぶ律儀な少年は、教育者であり家庭を空けがちなローレンよりもしっかり者でこまめなのだ。

 ローレンが家を空けている間、リッツはシャスタに家事の基本を教わった。

 父が自治領主の屋敷で暮らしているから、家事と小さい畑の手入れをしているのはほとんどがシャスタだったのだ。

 居候が一人増えた分仕事が増えたシャスタの大変そうな姿を見たリッツは、シャスタを自然と手伝うようになった。

 最初はミスばかりのリッツにため息をつきつつ頭を抱えていたシャスタだったのだが、ほんの数週間でリッツを認めてくれるようになった。

 元々実家では母親の手伝いや、父親の手伝いをやらされていたリッツにとって、家事を習得するのは文字を習得するより遙かに簡単だった。

 気がつくとセロシア家の家具や建物の修理はリッツ、掃除全般はシャスタ、料理は二人でというスタイルに落ち着いた。

 エドワードやアルバートを含む全員で食卓を囲むときも二人で料理を作るようになった。

 エドワードがいない長い夜には、一人小屋で膝を抱えてぼんやり座ってエドワードを待っていたリッツの元にシャスタが簡単なカードゲームやチェスを教えにやってくる。

 母親が帰宅後も仕事に忙しく、父親もいない家に育ったから、一人っ子のシャスタもリッツと同じように長い夜を一緒に過ごす相手が出てきたのは嬉しいそうだ。

「はい。王手」

「え? あれ?」

「リッツさん弱すぎです」

「う~ん……」

 リッツは頭を掻く。チェスの基本を教えてくれたのはエドワードだが、エドワードには全く弱すぎて教え甲斐がないと嘆かれている。当然シャスタにも勝てた試しがない。

 それなのにリッツはもしかしたら勝てるのでは、と性懲り無くチェスで勝負を挑んでみる。

 結果はいつも同じだ。

「おっかしいなぁ……」

「残念でした。じゃあ明日の夕食はリッツさんが買い出しですからね」

「うへぇ」

「僕が楽させて貰います」

 普段年以上にしっかり者のシャスタは、こんな時だけ年齢相応の表情で嬉しそうに笑うのだ。

 勝負にいつも負けるのはしゃくだが、こんな時間は楽しい。

 弟ってこういうもんかなと、シャスタと同じく一人っ子のリッツは思う。もしリッツに兄弟がいたなら、あんな風に孤独に膝を抱えずにいられたのかも知れない。

 そんなことを考えつつもリッツにとってシャスタは近しい存在となっていったのである。

 だがシャスタもエドワードのことは詳しく知らなかった。

 エドワードはどこに行くのか、何をしているのか。これは二人の中で大きな疑問だった。

 一日で帰ることもあれば、数日戻らないこともあるエドワードに勝手な推測をしてみるも、何をしているのかまるで見当が付かない。

 エドワードに拾われ、エドワードに命を貸しているリッツとしては、エドワードに着いていきたいが、何も知らない役立たずのリッツがついて行っても、何もできないのだろうと半ばあきらめていた。

 そんな謎のエドワードを除けばこの村は平和で、そんなことを何も知らずとも生きていけた。

 リッツもまだ多少、世間一般の常識に欠けるところはあるものの、ティルスの村でなら普通に生活できるレベルに落ち着いてきた。

 学ぶことに一段落し、家事に時間をとられることも少なくなったリッツは、かなり長い時間やることがなくて、退屈を噛みつぶすために村はずれにある巨木に登り遠くを見渡すようになった。

 村の高台にあるこの巨木は、この村ができた当初からシンボルとして大切にされてきたという。

 村全体を見守ってきたと言われる木だけあって、季節の移り変わりも人々の生活の営みも、ここからならティルスすべてを見下ろすことができた。

 元来リッツはじっとしていられる性格ではない。

 だが命を貸してしまった以上、どこかへ好きに出かけてしまうこともできなかった。

「つまんねぇの……」

 ポツリとつぶやいてみる。

 エドワードは生きる場所をリッツに与えてくれるといった。

 今まで居場所を見つけることができなかったリッツにとって、それはあらがいがたい魅力をもった言葉だったのだ。

 だからこそ、こうしてエドワードを待ちながら退屈を噛みしめるしかない。

 巨木の枝に腰掛けて空を見上げていると、時間の流れの早さにふと気がつかされて不思議な気分になる。今まではぴたりと止まったまま目の前に暗く横たわっていた時間という化け物が、今はものすごい速度で流れ去っていく。

 リッツは深々とため息をついた。

 初めてここに来たときには黄金色だった丘も、今は緑の短い茎を伸ばしている。

 雪が消え、雪の下で育った麦は、これから成長し穂を伸ばしていくのだ。麦畑の中では村人たちが忙しく行き交っている。そろそろ虫が出始めているから虫を捕っているのだろう。

 リッツはたまにそんな農民たちに混じって手伝いをし、ごく少量の小遣いを稼いでいる。居候で食べさせて貰っているだけの身分であるリッツはその小遣いをそっとローレンに手渡す。

 働かざる者は食うべからず。

 これがアルスター家のしきたりだったから、何もせずに食べている状況は気持ちが悪いのだ。

 笑いながらローレンは微々たる金子を受け取っては、財布に収めてくれる。それだけで何もしないよりは少しましな気分になった。

 そんな毎日が続き、今日もこうして木に登って遠くを眺めている。

「リッツさーん」

 遠くの方から自分を呼ぶシャスタの声が聞こえてきた。

 声のした方を見ると、シャスタが大樹のある丘を駆け上ってくるのが見える。その後ろには村人ではない壮年の男が、大きめの布袋を肩から提げて悠々と歩いている。

 その男が、リッツの停滞気味だった日常を大きく変えることになる。 

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