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「誠か!?」
「は。金の髪をした男は、リッツという者で、本物のエドワードは、黒髪の男だと思われます」
イーディスを興奮させぬよう平穏に告げたのだが、手にしていたカップを力任せに投げつけられた。
毎夜のごとく酒に溺れ、手に力の入らぬから、カップの中身が飛び散っただけで痛くもかゆくもない。
だが人肌よりもほんの少しぬるいお茶がかかったことは不快だった。
男の立場で拭うことも許されずに、男は頭を垂れて待つ。
「……では……妾は欺かれたと?」
春から夏になりかけた五月も下旬、ライバルを蹴落とした喜びに浸りつつお茶を楽しんでいたイーディスの声は屈辱に震えていた。
顔を見ずとも分かる。今イーディスは、ぎらぎらと輝く瞳でこちらを見据えているのだろう。
男は与えられた任務と自らの手勢を確保するためにしばらく王都を離れていて、報告に戻ったばかりだった。
その際にイーディスから自慢げに、自分の元に疑わしい男が訪れたこと、そしてその男の中にルイーズの面影が全くないことを話して聞かせたのだった。
だが男はすぐに、その男たちが逆であることに気がついたのだ。
理由は一つ。
金の髪でエドワードと名乗った男は、イーディスによると、ジェラルドよりも背が高かったという。王国軍時代のジェラルドを知っている男は、あの時に戦ったエドワードの身長が、ジェラルドよりも低い事に気がついた。
そして黒髪のリッツは、明らかにエドワードよりも大きかった。身長があるのに驚くほど機敏で、身軽なことに、男も驚かされた。
つまりその場にいた金髪の男はリッツという少年の変装した姿だったのだ。
顔を臥したまま淡々とその事を説明すると、男は口を閉じた。
鳥の声とさわやかな緑の香りに包まれた庭園で跪く男に、問われたこと以外を話す許可はない。
その上、柔らかな風が心地よい季節だというのに、風は直接男の頬をくすぐることはない。
顔面に負った火傷の醜さを疎ましがられて、イーディスの前に出る時は、火傷を負った顔の約半分を仮面で隠すよう命じられているのである。
「ではきやつらは、堂々と妾の前に偽りの姿を見せたと申すのか?」
「おそらくそうではないかと……」
「なんと……」
イーディスは絶句した。男から見えるのは、ドレスの裾が小刻みに怒りで震えていることだけだ。
男には核心があった。
間違いなく、二人は入れ替わっているに違いない。
疑われていることを承知で、平気でやってくる事などあり得ないし、あのジェラルド・モーガンがそんなことをするはずもない。
それにおそらくジェラルドは、イーディスという女の愚かさを読み切っている。
堂々と姿を見せれば疑うことなく信じ込んでしまうのだということを。
妬みや身勝手さばかりが知られるイーディスは、元は貴族の深窓の令嬢だった。人を信じやすく、悪い噂は更に信じやすい。
そういう女なのだ。
だから堂々と真実をイーディスの前で偽った。時間稼ぎが出来ることを知っているのだ。
もし王城に男がいたならば、その偽りを看破することが出来ただろう。
だがイーディスが王妃となり、謁見の間で客をもてなす時は近衛や親衛隊が付くようになってから、男を謁見の間から遠ざけた。
これ幸いと男は自らの仕事を片付けていたのである。
それが今回は完全に裏目に出た形となった。
「何故じゃ? 何故そんなことをするのじゃ」
「さぁ……分かりかねます」
感の悪い女だと、男は内心で肩をすくめる。
だがそれを一切表に出すことをせず、男は頭を垂れ続ける。それが自分にとって最良だと分かっているのだ。
「どういうことじゃ? 何故それを隠すのじゃ? 金の髪がエドワードと申す、モーガン侯爵の息子と噂の男なのであろう?」
「はい」
「では……何故髪の色まで変えて隠すのじゃ?」
見開かれ、拳を振るわせるイーディスに、男は短く答えた。
「分かりませぬ」
「何故じゃ……何故……」
影のように後ろに立つ男は、静かに新しいカップにお茶を注ぐ。
カップを渡す時に小さく落ち着くようにと柔らかく囁いているのが聞こえた。
怒りにカタカタと震える手でイーディスは新しいカップを手に取り、苦労して中のお茶に口を付けたが、上手く飲めないことに苛立ち、乱暴にカップを
テーブルに戻す。
「エドワードという男の真の顔は隠すに値するほどのことなのか?」
「……おそらくは」
「それならば、エドワードという男はまさか……噂通りなのか?」
「……」
「顔を上げよ! 妾におぬしの考えを申せ!」
苛立たしげな声に顔を上げる。すっかりと度を失い、蒼白な顔が目に入った。
「バルディア夫人の子だと申すのか!?」
怒りにわなわなと震えるイーディスの髪が、逆立っている。
「分かりませぬ。ですが相当の理由があるかと」
淡々と答えると、イーディスの血の気もみるみる引いてゆき、白皙の頬が更に血の気を失って青く、そして怒りに燃えるその顔には恐ろしい程の無数のしわが刻まれていく。
「おのれ、おのれモーガン侯爵め! 妾を愚弄するか!」
「王妃様」
「あの女を殺してやった! 陛下の妻は今や妾一人のはず。なのに、何故妾の元にひれ伏し、国王と同様の忠誠を誓わぬか!?」
男は微かに顔を上げ、荒れ狂う女の顔を見つめた。
哀れなものだ。
若き日は王国中に知らぬもののいないほど美しい公爵令嬢だったというイーディスだが、荒れ狂うこの女の姿は、まるで絵画に描かれる闇の精霊王のようではないか。
やはり美しさは魂に宿るのかも知れぬ。
いかに美しく生まれついたとしても、心の中に妬みや怒りばかりを抱えてしまえば、こうして醜い怪物に変わってしまうのだから。
「許さぬ。妾は決して許さぬぞ!」
髪を振り乱してイーディスはテーブルの上の突っ伏してティーセットをまき散らした。
美しい高級陶磁器が、粉々の破片となって当たりに散らばった。
その器のセット一つで、今飢えに苦しむ国民を幾人救えるか、それをイーディスは知ることなどないのだろう。
それなのにこの国を現在、実質的に動かしているのは、この女性なのである。
そして……イーディスの後ろに立つこの男、ジェイド・グリーンだ。
荒れ狂うイーディスの後ろに立ち、子供をあやすように笑みを浮かべてなだめるジェイドを、男はじっと見つめた。
得体の知れぬ男である。
知るのも面倒だし、興味もない。
焦げ茶色の髪を撫でつけ、眼鏡を掛けた冷静沈着なこの男は、王が全く顧みることがなくなったイーディスの現在の愛人であり、この国の宰相である。
だがジェイドがどこの何者かは知らない。貴族であるのか、平民であるのか、王族であるのか、それすらも知らない。
ランディアの出身だと言うが、それ以上は誰も知らない。
だがこの男がイーディスによって牢獄に入れられた元宰相の後釜となって、好きに国を動かそうとしている事だけは知っている。
ならばイーディスと同じように欲に満ちた瞳をぎらつかせてもいいのに、男はいつも冷静であり、私欲を肥やす様子はない。
それが得体が知れず恐ろしい。
「目にものを見せてやるわ! モーガン!」
荒い息をつきながら叫んだイーディスに、ジェイドがそっと耳打ちした。
握りしめたイーディスの拳が少しずつ緩んでいく。
「そんなことができるのかえ?」
「可能でございましょう、奥様。彼に御命じになられては? 彼にとっても因縁の場所でしょうから」
「そうであろうな」
イーディスは冷笑を浮かべた。
「そちに命じる。妾を欺し、涼しい顔をしておる、あの若造たちを懲らしめよ。彼らの帰る場所を、なくしてしまうがいい」
男は黙ったまま俯いていた。
どうやら面倒くさいことになったようだ。
また彼の地、グレイン自治領区ティルスへ行かねばならないらしい。
「は。してどうなさいましょう、王妃様」
冷静に切り返すと、イーディスはしばし黙った。沈黙の間、男はイーディスの視線を感じつつ、身じろぎ一つせずに頭を垂れていた。
「そちは確か若造どもに火を掛けられたのであったな?」
「はい」
「ならば燃やしてしまうがよい。そちの顔を鑑賞に堪えぬようにした罰じゃ」
「……焼き討ちせよ、と?」
「そうじゃ。さすればそちも気が晴れるであろう?」
「……よろしいのですか?」
それをしてしまうと、きっと事態は限りなく大きくなっていく。戦乱のきっかけとなる可能性すら孕んでいる。
男からすれば時期尚早に見える。何も起こっていないうちに平地に乱を起こすようなまねは自殺行為だ。
それを匂わせてみたのだが、イーディスは復讐に燃えた目で男を見返した。
「構わぬ。もう国王は長くはない。あやつらが何を企んでおるのか知らぬが、私の愛おしい子、スチュワートに仇なす者など、存在してはならぬのじゃ。妾を欺くとどうなるか、身をもって知るがいいわ」
短絡的だ。
そんなことをしたら、ジェラルドの怒りをかい、結果自分の首を絞めることになりかねないというのに、そんなことにすら気がつかない。
だが男は静かに、自分に命じられた使命を受け入れた。
「ではお時間を頂きたい。手勢を集め、良き日を狙って実行させて頂きます」
「たのむぞえ。なるべく早う、モーガンの泣きっ面が見たいものじゃ」
「はっ……」
泣きっ面をかくのは、きっとイーディスだ。
だが男はこれから先の未来を気に掛けたりはしない。ただ目の前にあることをこなすだけだ。
それがやりがいがあればあるほど、生きている実感を持つことが出来る。
飼い犬でしかない、自らの立場を考えずとも済む。
「それから……」
イーディスが口を開いた。
「はっ」
「おぬしがやることじゃ。妾には関係などない。分かっておろう?」
「はっ。心得ております」
つまり失敗し捕まったら、イーディスの名を出さずに自害せよということだ。
男には命の自由すら出来ない。
「妾を馬鹿にしおったことを、悲しみの中で後悔し続けるがいい!」
イーディスの調子のはずれた高い哄笑が響いた。しばしたががはずれたように笑い続けていたが、イーディスはやがて激しく咳き込んだ。
酒にやられた喉は、かなり荒れ果てており、イーディスはこうして咳き込むことが多い。
すかさずジェイドが水を差し出す。ジェイドの出世のための武器は、このイーディスへの気遣い、ただ一つだ。
一息ついたイーディスの視線はじっと彼女を見つめる男の上に注がれる。
やがてイーディスの唇が皮肉げに綻びた。
「故国など持たぬそなたにとって、うってつけの仕事であろう? のう、アノニマス」
イーディスの問いかけに男は静かに深々と頭を下げると、馬に乗るべくその場を辞した。
男には二つの名がある。一つは記憶を失い拾われてから軍で名乗っていた名ウイリアム・ストーン、そしてもう一つは軍を辞め、イーディスの手駒となった時から呼ばれている名、名無しを意味するアノニマス。
そもそも軍にいたことも情報収集のためで、イーディスの差し金だった。
記憶を無くし、感情もなくしていた男を拾ったのはイーディスの実家である公爵家の者だった。
その頃から既にアノニマスと呼ばれていた召使いの男に、目を掛けたのはイーディスだった。
理由は簡単だ。男は整った顔立ちをしていて、イーディスが身の回りにおいても鬱陶しくなかった。だが今はそんな顔も火傷でただれてしまった。
記憶も感情も何処かに置き忘れてきた男にとって、名など記号でしかない。だから名無しという名は気に入っている。総てなくしてしまったのなら、なくしてしまったままに。それが一番当たり前に感じられる。
生きているその実感が得られないまま、王国の現状をただ上から見下ろしている自分に、男はいささか厭いていた。
この人生を面白くしてくれるのか、それともここで終わるのか。
エドワード、リッツ。お前たちはこの人生に、少しはやりがいを与えてくれるのだろうか。
しばし、生きたいと思わせてくれるのだろうか。 男の髪が風に揺れる。
その髪は綺麗な金色をしていた。




