<1>
燎原の覇者第2巻『冀求の種子』スタートです!
シリアスです。1巻に輪をかけてシリアスです。
そして今後の物語を動かす新キャラクターも続々登場!
お楽しみください!
エドワードの立場を知ったリッツ。それでも戦いの始まらない日常を望むリッツとエドワードにもたらされたのは、エドワードの母の暗殺。二人は初めて王都へ向かう。
王座を目指す、争覇の戦いの物語が動き始める。
王国暦一五三四年五月上旬。
春の遅い王国東北部グレイン自治領区ティルスでは、麦以外の農作物の作付けが村人総出で行われていた。
この季節はどの農家も人手が足りず、専業農家では無いセロシア家の面々も農作業に忙しい。
晴れてグレイン騎士団第三隊の見習いとなったリッツも、冬の間はエドワードと共にグレインの街や村を回ったが農繁期の現在、騎士団は休業して近隣農家の手伝いに借り出されている。
騎士団第三隊を率いるマルヴィルでさえそうなのだから、見習いたるリッツもそれに準ずるのが当たり前の事で、文句など言えるわけがない。
働かざる者喰うべからずだ。
そういえば、とリッツは手を止めて考え込んだ。
リッツは未だに第三隊全員の顔を知らない。彼らはティルスとその周辺の村々で普段は農民として暮らしている。年に幾度かの演習があるがそれさえも全員揃うことはなく、よほどのことが無い限り農作業を優先させるというのが第三隊の決まりらしかった。
リッツもこの演習に参加することになっているのだが、騎士団所属になってまだ五ヶ月で、演習は一度しかなく、それもグレイン駐留の人々の限られた物だった。
隊長のマルヴィル曰く「農業と個人の鍛錬を怠らなければ、実力が落ちることはない」そうで、いざという時はいつでも戦えるように準備をしているらしい。
この間の事もあるし、オフェリルのような危ない領地を隣に抱えているのに危機感が無いなと最初は思ったが、彼らの団結力を見ていて納得した。
彼らは誰よりも信義に厚く、誰よりもジェラルドに尊敬の念を抱いていた。その感情は一本の槍のように真っ直ぐ揺るぎない。どちらかといえば色々なことがぐらぐらと揺らぎがちのリッツに比べれば、彼らは格段に強そうだ。
そんな忙しい中でも、リッツとエドワードの山ごもりは形を変えて続いていた。こもる場所も山からグレインのモーガン邸へと変わっている。
リッツやエドワードの相手をするのは相変わらずジェラルドだが、ジェラルドが忙しい日中は騎士団第一隊長エリクソンや第二隊長オドネル、それに騎士団の猛者たちが相手をしてくれた。
それに手が空いたという理由で、本来は騎士団とは関係ないはずの組織である王国防衛部グレイン駐留部隊長までもが相手役を買って出てくれる。
最初はリッツという得体の知れない精霊族の青年に興味があって手合わせをしてきた彼らも、必死で剣を振るうリッツを見て、徐々に本気で相手をしてくれるようになった。
一族の中では全く馴染めず、普通の人々の中でも疎外感を覚えていたリッツにとって、リッツを受け入れ普通の若者のよう接してくれる大人たちは、とても新鮮で楽しい存在だった。
この自治領区に来るまでリッツの周りにいた大人たちは、リッツを迫害する精霊族か、リッツが子供の頃に面倒を見ていた年下の大人たちだけで、常に両者の間に得体の知れぬ溝があった。
でもここの大人たちにとって、リッツは初対面の若造だった。リッツに取っても彼らは知り合ったばかりの大人だったから、見た目相応の対応が出来た。
それがこんなに楽だなんて知らなかった。
口が悪くて、礼儀という物を何処かに置き忘れてきたリッツだが、ここの人々はリッツの事を笑って認めてくれた。
困った奴だとか本当に馬鹿だとからかわれるが、そんなことが嬉しい。
メリート集落で、遠慮がちに気を遣いながら話かけられる言葉が、リッツに取ってどれほどの重圧だったのかを思い知らされた。
お陰でリッツはジェラルドの館にいる間、剣技の稽古でボロボロになりつつも、かなり充実した時間を過ごした。
とにかく重い荷物を背負ったエドワードの役に立つために強くなりたくて、がむしゃらに頑張ったリッツは、気がつくと騎士団長を凌ぐ実力を身につけてきていた。今は一対一なら隊長たちに勝つことが出来る。
唯一負け続けているのは、ジェラルドだけだ。
エドワードとの戦いは、完全に対等に持って行けるようになった。
だがやはり最初は優勢でも気がつくと負けているという状況に変わりはない。勝ちたいのだが、どうしたら勝てるのか未だ全く分からない。
長い打ち合いになると、無意識のうちに飽きて、隙が生まれているのではないか、というのがエドワードの見解だ。
そんな風に時を過ごし、確実に剣技の実力を磨いて、グレインで最強目指して歩み続けているリッツだったが、現在のティルスで持っているのは剣ではなく鍬である。
そして相手にするのは隊長たちではなく、納屋のそばで育てられていたトマトの苗だ。騎士団持つ楯の代わりに持つのは、インゲンの種が入った笊だ。
ジャガイモは寒い季節が来る前に畑に埋めていて、今は濃い緑の葉を茂らせている。他にもこの地で栽培するのに適しているという、タマネギや、カボチャも大量に植えた。
背が高いリッツにとって、腰をかがめて苗を植え付けるのは、剣を振るうよりも重労働だ。だから畑を耕して畝を作る作業を中心に作業をした。小柄なローレンや、子供のシャスタが苗を植え込んでいく。
朝早くから日が暮れるまで、リッツも、シャスタも、ローレンも、そしてこの時期と麦の収穫時期だけは自宅に帰っているアルバートも、肩書きに関係なく、一農民として畑仕事に汗を流す。
基本的にグレインの街以外では、自給自足だ。こうして畑を耕すのは生きるためなのである。
それは王位継承者であることを隠して、普通に村人の中で暮らしているエドワードも例外ではない。
そっと伺う視線の先には、麦わら帽子に作業着姿のエドワードが居る。どこをどう見たって王位継承者には見えない。
繁忙期にはローレンも夫のアルバートも、エドワードの立場を知りつつ、決して特別扱いはしなかった。
エドワードもその事に決して文句は言わないし、むしろ農作業を楽しんでいるように見える。あまりに不思議だったから、リッツは一度エドワードに、農作業をやることが嫌ではないのかと聞いたことがある。
グレインではどうか知らないが、隣のオフェリルの貴族たちは農作業などしたこともないだろう。
それにエドワードは笑って答えてくれた。
「俺も居候だからな。食い扶持ぐらいは自分で稼がないと、仕方ないさ。働かなくても喰っていけるような奴はろくなもんじゃないだろ」
その笑顔に卑屈なところは一欠片も無かった。本心からエドワードはそう思っているらしい。
エドワードの母はこの村の農民であり、騎士団勤めの元農民の兄を持つごく普通の女性だったそうだ。だから、息子であるエドワードが農作業をするのは当たり前だとのことだった。
エドワードはここティルスでは、決して自分の立場や自分の権力を振りかざそうとはしなかった。村人達もエドワードはおそらく自治領主の息子では無いかと思いながらも、セロシア家の息子として接している。
もしかしたらエドワードは時が来るまでは故郷の地では、普通の青年でいたいのかも知れない。
それを感じ取ったから、リッツもエドワードとは友として、話を聞く依然と全く変わらない態度を取っていた。
リッツは相手の立場がどうであろうと、それに合わせて接し方を変えられるような器用さはまるでない。そもそも接し方が分かっていない。
だからふと考えるのだ。
もし、リッツがエドワードを王太子としてかしずかねばならなくなった時、ちゃんとエドワードの元にひれ伏すことが出来るのだろうかと。
その時が来ればエドワードはおそらく現体制への反乱軍の長となる。そしてリッツはその配下となるだろう。
その時リッツに求められる立場とは、いったいどんな立場なのだろう。
何も知らない精霊族の剣士という立場でいて、本当にいいのだろうか。
それで親友の役に立てるのだろうか。
それを考えると、いつも不安になってしまう。だからリッツは正直に言えば、このまま平穏に時間が過ぎ去って欲しいと思うのだ。
このまま、ティルスでエドワードと馬鹿をやって笑い転げたり、グレインの街で一緒に娼館で遊んだり、それをパトリシアに見つかって、二人揃ってどやされたり殴られたりしていられたら、どんなに楽しいだろう。
でもリッツは知っている。
グレイン以外の自治領区の人々はどんどん追い詰められている。
ここ数ヶ月でグレインに流入する隣領区の領民が増え、グレイン街道上を疲れ切った表情で歩くのを幾度も見ていた。
ティルスにやってきた時は世間知らずで何が起こっているのか全く分からなかったリッツだが、今はそれがユリスラ王国の国民全体にとって、かなりひどい状況なのだと言うことぐらいは分かる。
そんな国民を見るエドワードの目は、いつも静かな決意を秘めている。
彼らを、そしてこの国を救うべく自分に何が出来るのかと、エドワードは人々を見て黙ったままそれを自分自身に問いかけているのだ。
そんなエドワードの隣に立ち、リッツはただ黙って同じように道を歩く流浪の領民を見ていることしかできない。
エドワードのように国を憂いて人々を救いたいと思うには、リッツにとっての世間は遠すぎる。遠くて現実感が掴めず、実感を持って理解することがまだ出来ないのだ。
大変だろうとか、辛いだろうとか、それを想像することは出来るが、そんな彼らのために命をかけられるかといえば、答えは否だ。
利己的で身勝手だが、リッツにとって大切なのは王国ではなく、自分が大切な人々だけだった。
だからこそ、リッツは自分の立ち位置に戸惑う。
エドワードが国を思えば思うほど、自分がどう彼の役に立てるのか見えなくなってしまう。
もうこの国は限界に近い。それだけは確かだ。
だからこそ望んでしまうのだ。
もう少し、もう少しだけでいいから、この時間を全身で感じていたい。
本気で笑って、本気で喧嘩して、嘘偽りのない感情をぶつけ合うことが出来るこの時間を。
弟分のシャスタの小言を。
リッツに食ってかかるパトリシアの感情を。
そして二人でいる時にしか見せない、エドワードの少し柄の悪い年相応の若者の姿を。
同時に分かっているのだ。
リッツが生まれてから今までで一番幸せで、ただただ楽しい時間は、きっと限られている。
終わりは近づいている。
自分に何が出来るだろう。
リッツは鍬を持つ手を休めて空を見上げた。単純作業を繰り返していると、考える時間ばかりが長くなってしまう。考えても答えなど出ないことなど自分でも分かっているのに。
遠くに視線を転じてリッツは目を細めた。
冬の間は、近くにくっきりと見えていたエネノア中央山脈が、春の暖かさに霞んでいる。山の頂は地上からは見られないが、ここからでもまだ雪が残っている山脈上部の姿は見えた。
そこから視線を転ずると、見慣れた村人たちの姿に混じって、他の自治領区から逃げてきた人々の姿があった。
グレイン北部の移民地区はもう満杯に近く、最近はこうして人手が必要な村々に領民がやってくるようになっていた。
騎士団の人々のところには、家族で身を寄せる者もいる。騎士団の面々は、主に家族の移民を受け入れているのだ。
これもみなジェラルドの命である。
だがさすがにエドワードのいるセロシア家には、移民はいない。
パトリシアに聞いたのだが、移民の中に暗殺者がいた場合エドワードが危ないからだそうだ。
こういう時、やはりエドワードが王位継承者なのだと実感して、少し寂しくなる。
リッツは内戦となった場合どうしたらいいのだろう。エドワードの友である事は、例えどんなことが起きても変わらない。
でも精霊族であり、光と闇の混血児であるリッツが王太子と共にいられるのだろうか。
いられるならばどういう風にいればいいのか、何が正解なのか、それが未だ人間社会に完全に馴染めていないリッツには分からない。
エドワードに聞けばいいのだが、この時間が続いて欲しいと願っているリッツは、それを口にしたくないというジレンマに陥っている。
「どうしたリッツ」
当のエドワードに話しかけられて、リッツは振り向いた。
麦わら帽子に作業着のエドワードの手にあるのは、剣ではなく大量のマメの種が入ったザルだった。リッツが作った畝に穴を開けて、豆をまいていたのである。
そのどこからどう見ても農民といったエドワードに、リッツは小さく息をつく。
今はこれでいい。知りたくなくてもその時が来れば総て分かるのだろうから。
「ん~、いい天気だよなぁ……」
「ああ。平和すぎて、このままずっと時間が過ぎればいいと思ってしまうな」
リッツはエドワードを見つめた。エドワードもまた同じようなことを考えていたようだ。
エドワードもリッツと同じように、穏やかな時間が続くことを祈っている。
それなのに進むべき道は茨の道だ。
エドワードはきっとリッツの何倍も辛いのだろう。
そう思うとリッツはぐっと言葉に詰まり、くるりと再び前を向くと鍬を土に突き刺した。
「このまま農作業はきついぜ。俺、そろそろ休憩したいな」
「駄目だ。豆まきは今日中に終わらせるぞ」
「げ~。まだ続くのかよ」
「そうだ。マルヴィルを見てみろ。一日中畑仕事をして、寝る前に剣術の稽古をしているぞ。マルヴィルよりも俺たちの方が何倍も若いんだからな」
「おじさんって……まともじゃねえな」
農作業の後で剣を振るうと切っ先が揺れてしまう。
鍬を振るうのはかなりな全身運動だ。
「お前ね、他に言い方があるだろ?」
非難しているのか呆れているのか、エドワードがそういってため息をついた。
「だってよ、こんなにきついのにさっ、と」
勢いよく土に鍬を突き立てると、リッツは畝作りを再開した。これ以上話していると、本当に鍬を投げ出したくなってしまう。
黙々と畝立てをしていくと、不意にエドワードに声をかけられた。
「リッツ」
「何だよ」
「気にしてることがあれば俺に聞け」
思い切り見透かされて、リッツの手が止まってしまった。
「……何で分かるんだよ?」
「何でってお前……全部顔に出てるからだ」
「げっ……出てる?」
「丸わかりだ。本当にお前は分かり易いな」
「そっかなぁ……」
エドワードに隠し立てできない。
それでも今は誤魔化して、この平穏な時間を過ごしたかった。
「別に何でもねえって」
「そうか?」
「うん。マメ、撒いちまおうぜ」
明るく言い切ると、リッツは畝立てを再開した。
「そうだな」
後ろでエドワードがそう言うと、リッツの作った畝に、器用にばらばらとマメを撒いた。
もしかしたらリッツの苦悩なんてとっくの昔に読まれているのかも知れない。
でも何も言わずに笑っているエドワードに感謝しつつ、リッツは力強く鍬を振り下ろした。
結局、セロシア家が所有する畑を耕し、家畜から出た堆肥を蒔き、苗を植え付け、種を植える作業に丸三日かかった。
セロシア家の畑は、リッツが来てから更に面積を増やしていて、年々広くなりつつある。
この三日間リッツは鍬を振り続け、エドワードも最初の二日間は鍬を手にしていた。力のある男二人が畑を耕し、アルバートが堆肥を馬車で運び、シャスタとローレンがそれを撒く。
どう動くのが最も効率がいいかを考えるのは、ジェラルドの執事を長年務めるアルバートだ。
農作業は完全なる共同作業なのである。
三日目には、リッツとエドワードがマメを撒いている間に、ローレン一家が三人で力を合わせて苗を植えた。これだけやっておけば、夏には沢山の実りが畑に溢れるはずだ。
そうなればセロシア家五人分ぐらいの食料は備蓄できる。
大変な農作業だが、それでもセロシア家の畑作業は楽な方なのだ。何しろこの畑で育てる物は、セロシア家の五人が食べる分だけなのだから。
何しろセロシア家は専業の農家ではない。父アルバートは自治領主ジェラルドの執事だし、母ローレンはティルスの学校教師兼医師である。
居候二人は表向きグレイン騎士団所属で、働いていないのはまだ若いシャスタだけだ。
つまり出荷しない分、専業の農家に比べてかなり楽をしているということになる。
それでも農作業はこんなに大変だ。専業で農家を営み、グレインを支えている領民に、リッツは心から感謝した。
なるほど農民あっての自治領区で、王国なのだ。
農作業でさえも、ローレンやエドワードといると政治の勉強になる。
総ての農作業が終わった日の夜、それほど長くジェラルドの館を開けられないアルバートが翌日グレインに帰ることになり、ささやかな畑作業の慰労会が行われた。
食卓に上がっているのは、どれもこれもティルスの村でとれた春野菜と、豆類、そして鶏肉を使った、料理の数々である。
この料理のほとんどをリッツとシャスタでこなした。エドワードとアルバートとローレンは三人で畑に水を撒いていたのだ。
実はローレンは料理が得意ではない。学業や医学を修めていたローレンなのだが、何故か料理を苦手としているのだ。
リッツはローレンほどの人が料理を苦手とする理由がさっぱり分からないのだが、ローレン曰く、関わらなくて済むなら出来る限り料理から遠のいていたいらしい。
全員が揃い食事が始まると、食卓は穏やかで賑やかな雰囲気に包まれた。
グレインのモーガン邸ではジェラルドの影のように表情に乏しいアルバートも、家ではよく話しよく笑う。
アルバートにとって、リッツもエドワードもシャスタと同じく息子で、剣術のことから勉学まで心配そうに二人の出来を確かめたりもする。
男親らしく未来の家族への責任にまで話は及んでいくのだが、寿命が長くて将来の展望がまるでないリッツに取って、アルバートの語る幸せな未来図は、全く想像できないものである。
だからリッツはそんな時、アルバート相手に『そんな先の事なんて興味ねえもん』とそっぽを向くしかなかった。
守るべき最愛の人、守るべき自分の家族……。
そんな物をリッツが持てる日なんて、来る気がしない。
今はとにかく、エドワードやジェラルドの役に立つために強くなりたいと願うだけだ。
夜も更けて夕食があらかた片付き、食後のコーヒーを楽しんでいる時、セロシア家の扉が叩かれた。
最初にそれに気がついたのは、耳のいいリッツだった。
こんな時間だし、風で扉が揺れただけかと思ったのだが、扉を叩く音は続いている。
「ローレン、誰か来たみたいだ」
言いながらリッツは立ち上がった。
「誰かって……客?」
「うん。俺、出るよ」
「気をつけてよ、リッツ」
不審そうに眉をひそめて、ローレンがアルバートに目をやる。
「それにしても遅いわよ。こんな時間なのに」
「こんな時間だからかも知れないぞローレン。医者はうちだけだ」
「そうね……でもそれにしては静かよ」
二人の会話を背中に聞きながら、リッツは家族の集う食堂を出て、剣を片手に扉の前に立った。エドワードの立場を聞いてから、リッツは出来る限りの警戒をするように心がけているのだ。
剣の柄に手をかけながらそっと扉を開くと、扉の外にはフード付きのローブを目深にかぶった男が立っていた。
剣を握る手に力が入ったが、男がフードを取ったとたんに力が抜けた。
「おっさん……」
「遅くにすまんな、リッツ」
「いいけどさ。でもこんな時間にどうしたの?」
「急用が出来てな。全員揃っているか?」
ジェラルドはそう言いながらローブを脱いだ。ローブの下に身につけていたのは、農民たちと同じような作業着だ。
この格好でしかも顔を隠してここにきたということは、何か他人に知られたくない用で来たということになる。
何だか嫌な予感を覚えつつも、リッツはジェラルドに頷いた。
「揃ってるよ。みんなでコーヒー飲んでた。おっさんも飲む?」
「ありがたい。頂こう」
そういいながらジェラルドは入り口にローブを掛けて、部屋の中へと入っていく。
リッツは急いで台所へ行ってコーヒーを一人前淹れる。この家では立っている者が動くのが決まりになっているのだ。
いつでもお変わりが出来るようにと、シャスタが薬缶を種火の上で暖めていたから、そのお湯を使って急いでコーヒーを淹れた。
それをお盆にのせて食堂に戻ると、黙ったままのジェラルドが、じっとテーブルを見つめているのが分かった。
いつもは必ず顔を上げ、前を見つめているジェラルドにしては珍しい。
「はい、おっさん。コーヒー」
「ああ。すまんな、リッツ」
受け取ったジェラルドが、コーヒーを飲む間、全員が押し黙ってジェラルドを見つめていた。
嫌な予感はますます強くなる。
こんな時間にジェラルドが来るのだからよほどのことがあったに違いない。
やがてコーヒーを半分ほど飲んだジェラルドがため息混じりに顔を上げた。
「……どうしても私の口から伝えねばならんことがあってな」
重い口調で切り出したジェラルドに、アルバートが気がかりそうな視線を投げかける。
「どうなさいました、閣下」
アルバートに聞かれたジェラルドは緊張感を浮かべながら、ゆっくりと全員を見回した。その表情は暗い。
やがてため息混じりにジェラルドが口を開いた。
「ルイーズが死んだ」
リッツ以外の全員が息をのんだのが分かった。
リッツは意味が分からずに、眉を寄せる。
「……ルイーズ?」
口に出して尋ねると、ジェラルドはリッツを見てから小さく息をついた。
「ああ、お前は知らなかったか」
「うん」
初めて聞く名前だ。誰かが教えてくれるのかと、ちらりと視線を巡らせたが、誰も何も言葉を口にしない。
やがてジェラルドが小さく呟いた。
「ルイーズ・バルディア。エドの母親だ」
「な……」
言葉が出ない。
リッツがエドワードに聞いた話だと、エドワードの母親は十五歳にして国王に召し上げられ、翌年にエドワードを生んでいる。ということはまだ四〇になったところだろう。
なのにこんなに急に、何故……?
呆然とするリッツの耳に、うめき声が聞こえた。
「嘘……」
声の主を見ると、それはローレンだった。
「嘘よ。嘘……。ルイーズが死ぬなんて……」
「ローレン」
「ルイーズはこの間まで元気だったのよ! 手紙にだってなにも書いていなかった!」
立ち上がったアルバートの手がローレンの肩を優しく抱く。
「死んだなんて……あの子が死んだなんて……」
いつもは常に冷静沈着なローレンの瞳から、涙があふれ出す。
「私はまだ何もしてあげていないのに。エドに会わせてあげてもいないのに……」
ローレンはエドワードの母の親友だったと、エドワードは言っていた。親友を失うなんて、どれほどの悲しみだろう。
リッツには想像もつかない。
言葉も出てこずに、ただリッツは押し黙った。
「すまなかったローレン。約束しておきながら、助け出すことが出来なかった」
苦痛に満ちた表情でジェラルドが呻き、大きな右手で額を押さえた。
止めどなくあふれ出す涙を止めることが出来ないローレンに変わって、アルバートがジェラルドに微笑んだ。その笑顔に胸が締め付けられるような気がした。
なんて悲しい笑みなのだろう。アルバートの笑みには心からの深い深い悲しみが満ちていた。
「閣下は出来る限りのことをしてくださいました」
静かなのに、笑顔なのに、何故がリッツには苦痛に満ちた言葉だと分かった。
リッツを生んだ罪と自らの存在をなじられた母が、子供の頃に見せてくれた笑顔と同じだと思ったのだ。
『大丈夫よリッツ。お母さんは大丈夫』
大丈夫じゃ無いじゃん。そう思っても口に出すことは出来ない。
昔も、そして今も。
「すまんな、アルバート」
「あやまらんでください、閣下。感謝しています」
「……すまん」
心から深くため息混じりにそういったジェラルドの言葉を最後に、沈黙が部屋を支配した。
居間に取り付けられている大きな時計の振り子の音と、時計の針の音が妙に大きく聞こえてくる。
その沈黙を破ったのはエドワードだった。
「……ジェラルド。母の死因は?」
死因……。聞き慣れぬ言葉だった。ジェラルドが一瞬眉を寄せる。
「エド……」
苦痛に満ちた中で、エドワードの感情が抜け落ちたような平坦な質問が続いた。
「あまりにも突然だ。自然死なのか?」
全員がハッとしたように顔を上げた。その中でジェラルドだけが小さく息をつく。
なかなか口を開かないジェラルドに、エドワードが小さく吐息を漏らすと告げた。
「俺は本当のことを知りたいんだ」
呼吸の音しか聞こえないぐらいに静まりかえった中でしばらく沈黙してから、ジェラルドは顔を上げた。薄青い瞳に微かな影が差している。
「……毒だろう。ルイーズ付きのグレイン出身の女官たちからはそう報告を受けている」
「……毒殺……」
「ああ。確かなことはいえないが、ここのところ国王の容態が不安定だ。これを機にあの女は権力を手に入れるつもりだろう」
あの女……。それは前に聞いた、王太子といわれる男たちの母だろう。
「ルイーズが邪魔だったのだろうな。あの状況で連れ去られながらも、ルイーズは国王の身を案じていたからな」
「そうか……殺されたのか……」
エドワードの震えるような苦痛に満ちた呟きに、リッツは総毛立った。こんなエドワードを見た事がない。それに、これで王国崩壊へと向かうシナリオが動き始めていることに気がついたからだ。
リッツが何より恐れる、戦乱への扉が開かれそうになっている。
「あのさ……」
思わずリッツはジェラルドに問いかけていた。
「何だ?」
「殺した奴って、やっぱ悪い側室なの?」
全員が固まったように動きを止めてリッツを見つめる。
全員の不審そうな顔に戸惑いながらも、リッツは言葉を続ける。
「だって、国王が死ぬのを待って権力を手にするんだよな? それって側室のせいだろ?」
「言いにくいことを聞く奴だな」
答えるでもなくジェラルドが苦笑した。
他に誰も答えてくれそうにないから、リッツは更にジェラルドをまっすぐに見つめて尋ねた。
「じゃあ国王、もうすぐ死ぬの?」
リッツに質問に大人全員が押し黙ったが、シャスタは青ざめて叫んだ。
「リッツさん、それ王都で言ったら不敬罪で死刑ですよ!」
「死刑にならねえよ。俺はシーデナの精霊族だもん」
「あ……」
シーデナには、ユリスラ王国の法は適応されない。
シャスタもそれに気がついたようだ。
「だからさ、おっさん、教えてくれよ。もうすぐ国王が死んで戦争になるのか?」
戦争になれば、リッツを取り巻く世界が変わっていく。
リッツはエドワードやジェラルド、パトリシアを守るために戦いに身を投じる覚悟を決めている。
あの時のように、人を殺す事も辞さない覚悟だ。
だから本当のことを教えて欲しかった。
もう覚悟を決める時なのか、まだこの場所で普通の青年をしていていいのかを教えて欲しかった。
リッツの真剣な眼差しに、ジェラルドが小さく息をついた。
「……おそらく国王陛下はもうじき崩御なさるだろう。現に、ルイーズの死を知らせてきたのは王太子たちの母であるイーディス・シュヴァリエ夫人だ。肩書きはイーディス妃になっていた」
その言葉にアルバートが目を見開いた。
「ではシュヴァリエ夫人は王妃になられたと?」
「そうだ。あれだけ拒んでいた国王陛下がお許しになるわけもない。つまりもう、陛下の意志は、誰にも届くことはない。陛下の意識があられるのかも分からん状況だ」
淡々とジェラルドはそう告げ、ゆっくりとテーブルの上で指を組んだ。
「事態は動き出している。現にエドの存在をシュヴァリエ夫人は感づきつつある。あちらも仕掛けてくるやもしれん」
シャスタ以外の全員に緊張感が走った。
それを知られてしまえば、王妃となったイーディスにエドワードは命を狙われる。
だがリッツはあることに気がついて首をかしげた。
「でもさ、おっさん。エドって最初っから何にも隠してないよな? 堂々とエドワード・バルディア名乗ってるし、おっさんと行動してるし。バレて当たり前じゃないの?」
ルイーズはバルディア夫人なのだから、世間に宣言しているも同然ではないか。
だがそれを否定したのはエドワード本人だった。
「リッツ。俺は普段エドワード・バルディアを名乗ってないんだ」
「へ?」
「俺のグレインでの籍は、エドワード・セロシアだ。名目上はシャスタの実の兄ということになってる」
「え? そうなの?」
一年半も一緒にいるのに初耳だ。
「本名を知ってるのはここにいる全員とパティと、騎士団の各隊長だけなんだ」
「え? だってエド、俺にちゃんと名乗ったじゃん?」
「……それが俺にも分からない」
「は?」
「お前には嘘をついては駄目だって……お前は大丈夫だって思ったんだ」
「何でだよ? パティは疑ってたのに?」
「あの時のお前の顔を見てたら分かるさ。現に一緒にいたジェラルドも俺が本名を名乗っても何も言わなかっただろ」
「うん」
エドワードは人を見る目に自信を持っている。それは人の悪意を見抜く目を持っているリッツといい勝負だ。
おそらくリッツとエドワードの人を見る目は同じように幼い頃から、生きるために必然的に身につけたものだろう。
そしてその直感が、出会った時にエドワードに本名を名乗らせ、リッツに真実を語らせた。
だからリッツはエドワードの言葉に納得し、質問を続ける。
「じゃあさ、おっさんと一緒に行動してるのに怪しまれないのはどうしてさ?」
問い詰めるリッツに、苦笑しつつ答えてくれたのはジェラルドだった。
「リッツも噂を聞いただろう? エドワードは私の隠し子だとな」
「うん。聞いた」
「パトリシアではなく、私が隠し子のエドを後継者に仕立て上げようとしている。それがグレインの人々の知るエドと私の関係だ」
「うん。この村の人たちもそう思ってるよ」
エドワードの友として知られるようになったリッツは、幾度となく噂好きのご婦人たちにエドワードとジェラルドは本当に親子なのかと聞かれた。
平和で静かなこの村ではそんな噂話ぐらいしか、大きなゴシップがない。
「あの噂の出所は、私だ。エドを連れて歩くようになってから、暗に隠し子であると取られるような言動や行動をしてきた。グレインの街では、エドの母はアリシアだという噂まであるぞ」
「それ無茶だし」
確かアリシアは三十代前半だとエドワードに聞いたことがある。
「そうだな。だがお陰でエドワードとバルディア夫人が結びつくことはなかった。エドワードの本名はエドワード・モーガンだと疑われることで誤魔化していたんだ」
「なのに、なんでばれたの?」
率直に尋ねると、ジェラルドが小さくため息をついた。
「オフェリルの馬鹿息子を落とし穴に嵌めた時、とてつもなく強い男がいたといっていただろう? あの男のことは、オフェリルに潜んでいた密偵も知らなかった。つまり探りを入れに来たシュヴァリエ夫人の手の者だったようだ。その男を通じて、エドワードとリッツという、規格外の青年がいることをシュヴァリエ夫人は知った」
「それでどうして疑うの? 強い奴がいるのとエドの存在って関係ないじゃん」
「それだけならな。だが誰かが彼らにバルディア夫人には、国王陛下との間に隠し子がいるらしいという噂話を流した」
「え? でも……誰も知らないんじゃないの?」
「誰も知らないはずだ。だが噂というのはどこからともなく沸いて出る。政治の乱れた今の世ではなおさらだ。だが時期が悪かった」
「時期?」
「そうだ。そんな時にお前とエドが目に付いた。そしてシュヴァリエ夫人は、国王とルイーズと同じ金の髪であるエドを疑った」
リッツは唾を飲み込んだ。もし今ばれたりしたら、刺客が襲いかかってきたりするのかも知れない。そうなればリッツはエドワードを守りきれるだろうか? リッツの実力でそれが可能だろうか。
青ざめるリッツからエドワードに目を移して、ジェラルドは静かに切り出した。
「明日、シアーズにルイーズの遺品を受け取りに行くことになった。ルイーズの亡骸は王宮地下にある霊廟に納められることになったから、お前も顔を見ることは出来るだろう」
「……分かった」
「だがルイーズの遺品を引き取りに行くことに、一つ条件を出された」
「条件?」
エドワードが眉をしかめて、ゆっくりと指を組んだ。頷いてジェラルドは手にしていた革袋をテーブルの上に置いた。
「私だけではなく、リッツとエドワードという二人の若者を連れてこいとのことだ。告げに来た使者は、完全にお前を私の隠し子だと思っていたな。つまりシュヴァリエ夫人は、グレインでの噂も調べて知っている、ということになる」
目を見開いて絶句するエドワードに変わって、リッツが立ち上がって怒鳴っていた。
「断れないのかよ! ばれてたら殺されちまうじゃんか!」
そんなことは許せない。エドワードの命を守るつもりだが、死地へと知りながら入るのは絶対に反対だ。
だがジェラルドは冷静にリッツを見返した。
「確かにこのままで行けば危ない。エドはルイーズによく似ているからな。だが連れて行かなければ遺品を受け取り、霊廟でルイーズと再会することがかなわない。この命令はシュヴァリエ夫人からではなく、正式なユリスラ王妃イーディス妃名義で出されているのだからな」
「そんな……」
「リッツ、人間の階級とはこういうものだ。我々、国民は国王の権力の前には無力だ」
穏やかだが苦痛に満ちた言葉だった。それが分かったから、リッツは何も言えずに音を立てて椅子に座り込んだ。
口を開かずにいるエドワードと、むくれたようにそっぽを向くリッツからジェラルドは視線をアルバートに移した。
「アルバート、ローレン。くつろいでいるところをすまんが、これをリッツとエドに使ってくれ」
そう言ってジェラルドが取り出したのは、瓶に収まったどろりとした真っ黒な液体と、反対にさらさらな液体がたっぷり入った大きな瓶だった。
「これは?」
「金髪の人間が黒髪になると、相当に印象が違うものだ。逆に黒髪が金髪になってもな。似ているという印象も薄れるはずだ。身代わりを立てようかとも思ったが、それではルイーズにエドを会わせてやることができんからな」
ジェラルドの言葉に、黙っていたエドワードが微かに微笑んだ。
「……なるほど……俺がリッツになって、リッツが俺になるわけか……」
「そうだ。リッツとルイーズでは類似点など、どこにもない。そしてついでに呼んだ黒髪の従者に彼らは目をとめないだろう?」
自分の話らしいのに、リッツには全く見当が付かない。エドワードとジェラルドを交互に見ていたリッツは、ため息をついてテーブルに頬杖を突いた。
「俺には分からねえし」
そんなリッツの肩に手を置いたのは、エドワードだった。静かな中にもいつも通りの少々からかい気味な微笑みを浮かべている。
「簡単なことさ。お前は王都シアーズにいる間、エドワード・セロシアだ。そして俺がリッツ・アルスターを名乗る」
「え?」
「あれで髪を染めてな」
エドワードが指さした先には、たっぷりと液体の入った瓶があった。
「ええ!?」
「そういうことだろう。ジェラルド」
エドワードがそう言って微笑むと、ジェラルドが鷹揚に頷いた。
「その通りだ。悪いが他にエドを霊廟まで連れて行く方法がない」
逃れられなくなりそうな状況に、リッツは慌てた。
「でも俺、耳、長いし!」
「悪いが王宮にいる間だけ、裏に折り曲げてくれ」
「無茶だよ、おっさん! そんなことしたら鬱血しちまうって!」
「その辺は何とか我慢してくれ。まあ、お前なら大丈夫だろう」
「何の根拠があるんだよ! 俺には絶対に無理だってば!」
思い切りおののくリッツに、エドワードはいつものように穏やかに言い切った。
「ジェラルドの隠し子らしく、少しは品を持って俺を演じろよ、リッツ」
「無理!」
「無理なもんか。お前ほど俺をよく知っている奴はいないぞ」
「それとこれとは別問題だ!」
「大丈夫だ。頑張ってくれよ」
エドワードもジェラルドと同様に何の根拠もなくそう言って笑った。
どうやらこの二人は、リッツが抗議したぐらいでは、計画を中止する気はないらしい。
「無理、絶対無理だって! 本当に無理!!」
必死で抵抗しながらも、リッツはエドワードの顔に何らかの暗い光があるのを見逃さなかった。




