<17>
「乾杯!」
買ってきたばかりの麦酒の瓶をお互いに掲げてから口をつける。苦みのある爽快な飲み口に、リッツは大きく息をついた。
「美味い!」
「それはそうだ。なにせ大麦はティルス製だ。もっともホップはグレインよりも北の高原だがな」
「へぇ。ホント詳しいよな、エドは」
感心しながらリッツはランプの明かり一つしかない暗がりから、暖かな光がともっているティルスの村を眺めた。
丘の上の大樹からは、ティルスの村が一望できるのだ。
「まあな。ジェラルドと共にいれば詳しくもなる」
そういうとエドワードは麦酒に再び口をつけた。
最初は普通に世間話的なことから迫っていこうと思ったのに、リッツは自分がいきなり核心に近いところを突いてしまったことに気がついた。
だがエドワードが今までのようにリッツに黙っていて欲しいという目を向けない。ただただいつもと何も変わらずボトルを傾けている。
きっと聞いてはいけないことなど、もう無いのだろう。
そう直感的に感じた、リッツはそのまま疑問をエドワードにぶつけ続けることにした。
わざとらしく話題を避けるのは、おそらくエドワードが今望んでいることではない。
「エドってやっぱティルスにいない時はおっさんといるの?」
「ああ。ジェラルドの視察にはほぼすべて同行してる」
「……そっか……」
今までは曖昧に誤魔化されてきたことを、エドワードはあっさり認めた。
本気でエドワードは今まで語られることがなかった自分の正体を告げるつもりなのだ。
少し緊張しながらリッツは尋ねた。
「エドってさ、おっさんの隠し子なの?」
「何故そう思う?」
「村の人が噂してた。それにおっさんの視察に同行してるって聞いて、やっぱ跡取りなのかなって」
「跡取りなら、パティだろう?」
「まあそうなんだけどさ。じゃあなんでエドは視察に同行するんだ?」
じっとエドワードを見つめながら尋ねると、エドワードは少しだけ目を閉じて考えてから、ゆっくりとその水色の瞳を開いた。
「人を治めるとはどういうことか、この目で見ろといわれているからさ」
「人を治める?」
「万が一のことがあれば、俺にはその能力が最も大事になってくる。おそらくジェラルド以上にな」
「ジェラルド以上!?」
「ああ。だから十五を過ぎたぐらいから、常にジェラルドの隣で政治を見てきたんだ。日々これ修行……だな」
苦笑しながら言うエドワードに、リッツは戸惑うしかない。聞いてみてもさっぱり分からないのだ。
それ以上に聞けば聞くほどよく分からなくなってくる。
混乱して聞くことすら分からなくなってしまったリッツにエドワードが静かに尋ねた。
「リッツ、今この国はお前の目にどう映っている?」
「え?」
「ユリスラの民でありながら、シーデナに属するお前からどう見えているんだ?」
エドワードの真剣な表情にリッツは考え込む。
ここ一年、グレイン自治領区ティルスでの日々は平和でのどかだった。
だがエドワードが聞いているのはきっとグレインの事じゃないのだ。
だからリッツは来るまでに感じた閉塞感を思い出しつつぽつりぽつりと話し出す。
「……平和だと思うよ」
「平和か」
「うん。だけど豊かじゃないんだ」
「どんな風に?」
「食べ物とか着る物とかは店には溢れてるけど、買える人と買えない人がいるんだ。道ばたで死にかけている人もいれば、その横を食べ物を食べながら食べられるところで捨てて平気な顔してる人もいる」
「不平等だということか?」
「うん。でもそれって不平等ってだけの話じゃない気がするんだ。でもそこにシーデナで俺が受けた差別とか迫害とかはないんだよな。貴族は貴族で威張ってるけど、でもそうやって不平等になってるのって、別に貴族じゃねえもん」
リッツは考え込む。上手く言葉に出来ないのだが、不平等という言葉だけでは足りない。
それ以外に何かが欠けているような気がするのだ。
無言で考えている間、エドワードは黙って麦酒を飲み、リッツを待っていてくれた。
「なんっつうか、ゆとりがねえんだと思う。金持ちは金を抱え込んでないと不安で、普通の奴らはもっと抱え込んでないと不安で、だから何も持ってない奴はずっと貧しいんだ。何だかみんな何かを怖がって、だから周りを見る余裕が無くて……」
立ち寄ったサラディオの街、トゥシルの村そのどちらの人々も自分たちの今の日常を守ることで必死だった。
そして彼らは皆、これから来るであろう更に貧しい生活を恐れていた。
「そうか、心が豊かじゃないんだ」
「また話が飛ぶな」
「そうかな? だけど本当にそうなんだ。だってさ、税金がどんどん上がってるんだろ? なのに何の見返りもなくって街道もあちこちかなり荒れてるってトゥシルで聞いたぜ?」
エドワードを見ると、心苦しそうに眉を寄せて頷く。
「……ああ間違いない」
「そんで国王が死んだら、跡取り息子が馬鹿ばっかりだから、更にひどくなるって噂じゃんか。それじゃあみんな、冬眠前のリスみたいに今のうちにため込んでおかないとってなるよ。そしたら誰も死にそうな人なんかに手を差し伸べねえよ。俺だって何人もの奴らに見て見ぬふりされてあそこに転がってたんだから」
言葉の継ぎ目にリッツは麦酒に口をつけた。
「つまりあれだ。先が見えないから、みんな周りが見えないんだ。はは、俺みたいじゃね?」
隣のエドワードを見ると、考え込んだ様子でじっと暗闇を見つめている。
不安に駆られながら、思わずいつものように軽い話に持って行こうと口調を変える。
「にしてもよ、エド。変な気分だよな。ほとんどの奴らにとって、国王なんて雲の上どころか風の噂で聞いたぐらいに現実性がない人間じゃん? なのにさ、こんな風に指先一つで王国中の生活を変えられちゃうんだぜ? しかも馬鹿息子しか跡取りに残してないって聞いて、国中が不安で乱れちゃうんだもんな」
そう言いながらティルスの村を見る。
祭りはまだまだ盛り上がっているようだ。この村では国王の話がほとんどでなかった。平和で幸せなら、国王は物語の中の人物で十分なのだろう。
でも現実に暗い影が落ちるとやはり他の街のように、この国を治めている人物が気にかかってくるに違いない。
「国王って人間なんだよな。なのに持ってる権力ってまるで精霊王か女神の力のごとくなんだな。確かにダネルみたいな奴が国王になったらどうなるんだって俺も思うけどさ」
軽い話をしたつもりでエドワードを見たのに、エドワードは何故か動きを止めていた。
「エド?」
少し心配になって声を掛けると、エドワードがいつもの彼らしくなく力のない苦笑をした。
「大丈夫か? 何だか具合悪いみてえだけど?」
「大丈夫だ」
いつものエドワードと比べて、ちっとも大丈夫そうには見えない。
「リッツ」
「ん?」
「もしダネル以上に悪い男が国王になったら、お前どうする?」
「どうするって……俺には関係ないじゃん。一介の精霊族が何をどうできるんだ?」
目を見張って聞くと、エドワードがリッツをまっすぐに見つめてきた。その瞳が怖いぐらいに真剣で少し恐ろしくなる。
「エド……?」
「これから更にユリスラは乱れていく。物価も税金も上がっていくだろう。実際にお前がこのグレインにいる間に周りの自治領区は更にひどい状態になっている」
「そうなのか?」
ここでの生活が平穏すぎて、そんなことになってるなんて思いもしなかった。
「オフェリルがどうして実の息子を犠牲にする可能性があっても、グレインから小麦を買いたいのか考えたことはあるか?」
「え? 他から買うと高いから、だろ?」
「そうだ。だが多少高いぐらいなら、他の街から買い付ければいいと思わないか?」
「あ……」
それはそうだ。跡取り息子が犠牲になるかも知れない状況で、それでもグレインから小麦を買う必要なんて無いはずだ。
「じゃあどうして?」
「小麦の値段が高騰している。グレイン以外で昨年と同じ量を買い付ければ、三倍以上の金額になるんだ」
「三倍!?」
「内陸の海沿いでは五倍近いと聞いている」
「うわ……」
事の重大さに、リッツは言葉を失った。
そんなに値上がりしてしまっては、貧しい人々はますます貧しい。それどころか今まで普通に食べられた主食が口に出来なくなってしまう。
それは大変なことだ。
「だからな、サラディオから旅人の街道を通ってグレインに逃げ込んでくる人々が増えているんだ。農作物を育てて売っても税金が高くて売り上げが出ない。だが食物はどんどん寝上がっていく。作っても食えないのなら、畑を手放すしかない。そしてまた農地が荒れ、農作物の値は上がっていく」
「国王は? 国王はどうしたんだよ?」
「……老化が頭にきてしまったらしくてな。もう政治は出来ない」
「じゃあ馬鹿息子がこうしてるの?」
「いや。国王が生きている間は息子は何も出来んさ。今国を好きに動かしているのは国王の側室だ」
「……側室って何?」
「簡単に言えば愛人だな。その中でも跡取りとなる王太子を産んだ有力な側室だ」
「王妃いねえの?」
「ああ。王妃は既に死んでいるから国王は今まで好き放題にやってきた。王宮には過去に何十人もの女たちが囲われていたようだが、こうなってしまっても残っている側室はたった二人しかいない。その一人が今国を好きに荒らしているのさ」
淡々と、だが憎しみがにじみ出るような表情で語るエドワードを見つめながら、リッツは不思議なことに気がついた。
エドワードは何故そんなことに詳しいのだろうか。国王は政治が出来ないなんて、秘密中の秘密ではないだろうか。
「何でそんなことに詳しいの?」
「俺の母親が王宮にいるからな」
不意を突かれてリッツは素っ頓狂な声を上げてしまった。
「エドに母親がいたんだ!」
「……いるに決まってる。俺が草や何かのようにその辺から生えると思うか?」
「思わねえけど……でもびびったな~。働いてるのか?」
「ああ。働いているといえば働いているな。我が儘の限りを尽くす側室の代わりに、国王の面倒を見ている。身の回りの世話から、欲望の処理までな。頭は惚けても、体は過去の栄光を忘れないらしい」
「……え?」
言葉の意味が一瞬飲み込めずにリッツは惚けたが、分かった瞬間にエドワードに向かって叫んでいた。
「国王のもう一人の側室って、エドの母ちゃんなのかよ!」
「そうだ。もう二十六年になる」
静かにそういったエドワードに、リッツはため息をついた。
「二十六年ってなげえな……じゃあエド、母親と暮らしたこと無いんだな」
「いや。生まれてから一週間だけは一緒にいたらしいぞ。すぐにグレインに移ったようだが」
「そっかぁ……」
頷いてから、何かが変だと気がついた。
今エドワードは二十五歳だと聞いた。だとしたらエドワードは母親が国王の側室になって一年たってから生まれたことになる。
その意味は一つしかない。
リッツは静かに顔を上げ、エドワードを見つめた。
驚きのあまり妙に息が苦しくて、呼吸が上手くできない。
万が一の時にはジェラルドより大変な立場になる存在、そして政治をその目で見ろと修行させられる立場……。
「エド……」
「なんだ」
「エド……」
「なんだ、リッツ」
「お前は……国王の息子か?」
思わず声が震えた。
エドワードはリッツから目をそらし、小さく頷いた。
「そうだ」
頭の中が真っ白になった次の瞬間、思わず叫んでいた。
「何でこんなところに国王の息子がいるんだよ! 息子は二人だけのはずじゃねえの!?」
「公式なのはな。だが俺は、現在は非公式ながら王位継承権を持っている」
「な……」
あまりのことにリッツは開いた口がふさがらなくなっていた。
まさか国王にもう1人息子がいるとは……しかもそれが目の前のエドワードだとは夢にも思わなかった。
呆然とするリッツにエドワードは小さく苦笑しながら説明を続けてくれた。
「母が俺を身ごもったとき、母は子供をもう一人の側室に殺されるぐらいなら自分も死ぬと言い張ったんだ。その頃側室は病的に国王の子が生まれることを警戒していたらしい」
「殺されるって?」
「生まれた子供が男の子だったとき、何故か皆、変死していた。生き残っているのは現王太子と、親王のふたりで、二人とも側室の子だ。何かを仕掛けて殺していたことは確実だ」
「うわ……」
「だが母を最も寵愛した国王は、母が自ら命を絶つようなことを決して許さなかった」
どろどろとした何か暗いものが王宮に漂っているような気がして、思わずつばを飲み込んだ。
国の中枢なのに、ものすごく恐ろしいところのようだ。
「でもエドは生き延びたんだな」
「ああ。国王は母を失わないよう、すべてのことを内密に進めた。母は妊娠を気取られぬよう、腹が目立つようになってから一時期病気を理由に国王の別荘に囲われた。そこに昔からの忠実な召使いと、医術の知識があった母の親友も共に囲われて住んでいたそうだ。たった三人でな」
呆然とするリッツに向かって微かに微笑みを浮かべつつ、エドワードは言葉を続ける。
「俺はそこで生まれた。俺を取り上げたのは産婆でもなんでもなく……ローレンだった。ローレンは母の親友だったんだ」
今朝、祭りで夜更かししたために、眠そうな顔で食事をしていたローレンを思い出す。
ローレンも大変な思いをしてきたのだ。
それを思うと事の重大さにどうしていいのか分からなくなる。
「じゃあ、国王は? 会ったことあるのか?」
「ない。国王は母を守ろうとしたが、俺の存在を歓迎してはいなかった。むしろ母を一時期でも遠ざけた俺の存在は迷惑だっただろうな。だから俺は父である国王とは一度も顔を合わせていない」
「なのに継承権を持ってるの?」
「ああ。継承権を賜ったのは最近だ。国王が側室に殺されるのではないかと数年前から疑い始めたんだ。それで頭がおかしくなる前に、ジェラルドを通して内密に俺にユリスラ王位継承権を賜られたのさ。正式な息子であるはずの、現王太子には与えられていない継承権をな」
「え……意味が……」
「国王は側室の血を憎んでいるんだろうよ。だから正式に王太子として継承する書類を出していない。だけどあの側室は、正式に継承権を持っていると内外に発している」
「じゃあ、あの馬鹿息子って噂の王太子って本当は王太子じゃないの?」
「王の意思は関係なく、あちらが王太子とされているさ。だからこのことは本当に信頼できる少数の人間しか知らない」
「じゃあお前って……国王から継承された、たったひとりの正式な王太子なんだな?」
思わず声がかすれる。雲の上の人間でリッツには関係ないと思っていた血筋の人間が目の前にいる。その事に純粋に驚いていたのだ。
だがエドワードはリッツの言葉をどう取ったのか、寂しげに笑う。
「ああ。だから俺は特別に自分の近くに寄せる人間を作るわけにはいかなかった」
『エドワードには友達がいない』
そのジェラルドの言葉の重さがじわじわと心に浸透してくる。
そういう意味だったのだ。
だからエドワードは常に孤独だった。
「もし俺の正体が知られて、その権威を利用し特権としようと考える人間が出てくるとも限らない。そうなれば民衆を救うという理想が崩れるかもしれない。それは避けたかった」
「だから友達がいなかった?」
「そうだ。王国の特権など関係ないシーデナ出身で、権利や特権に興味のないお前と出会うまでは」
「何でさ。俺よかまともな人はいっぱいいるだろ?」
「ああ。だがなリッツ、何しろ人間は変わりやすい。権限や権力を持つことで、人格すら歪んでしまうことも少なくない。俺はそれを避けねばならなかった。国家に万が一があった場合、信頼を失うような行動をする人間が一人でもいれば命取りだ」
「厳しいんだな」
「ああ。だが一人だった訳じゃない。ジェラルドとパティがいた。あの二人は友ではなく身内だったが、得難い存在なんだ。ジェラルドは俺の親代わりで、パティは幼い頃から俺の立場を知りつつ、俺個人を尊重してくれた。ジェラルドのおかげだな」
「もし俺がエドの友であることを利用して、好き放題し始めたらどうするんだ?」
恐る恐る聞いてみると、エドワードは笑った。
「それはない」
「なんで?」
「お前が欲しいのは生きる場所だからだ。それは権力なんかで得られる物じゃない」
「……うん」
「お前は根本から違うんだ。だからお前なら大丈夫なんだ」
「そうなのかな……」
自分に信用のないリッツには首を捻るところだがエドワードは穏やかに笑い、そしてリッツの瞳をまっすぐに見つめて告げた。
「お前と出会えて本当に嬉しかったのは……きっと俺だ」
「……エド」
「俺はようやく、楽に息が出来るようになった」
言葉にならないほど嬉しい。だがエドワードはその後自嘲の笑みを浮かべた。
「お前こそ、俺が友でいいのか?」
「何でさ?」
「俺は現国王の息子だぞ。国王が不審な死を遂げたなら、側室の子を殺してお前が王になれというような男の血を引いているんだ」
「な……」
リッツの頭から一気に血の気が引いた。
「そのために王は俺に王位継承権を賜られたのさ。勝手なものだな。そいつらも自分の息子だろうに」
親が息子を殺すのに息子を使う。しかも自分に害をなした女の子供だからという理由でだ。
そんなこと許されるのだろうか。いくらできが良くない王太子とはいえ、一応はエドワードにとって血を分けた兄弟だというのに。
最初はエドワードの立場と、王家の人間であるという事実に尻込みし、恐怖すら覚えつつあったリッツだったが、親友で命の恩人であるエドワードの苦悩の表情を見ているうちに、だんだん国王のやり方に腹が立ってきた。
自分が嫌いな奴を倒したいなら自分ですればいいのだ。それは国王であっても平民であっても変わらないはずだ。
リッツは思わず手に持っていた麦酒の瓶を地面に叩きつけていた。
「そんな親のいうことなんて聞くこと無いぞ!」
「……リッツ」
「継承権なんて放棄しちゃえよ! そんなもんがなけりゃお前自由じゃんか」
「そうできればいいな」
「お前苦しそうじゃん、嫌そうじゃんか。そんな物いらねえって突っ返しちゃえよ! 国王だろうと何だろうと、自分のケツは自分で拭きやがれってんだ」
「まあそうだな」
「出来るだろ。いらねえって、突っ返せばいいじゃんか」
エドワードに詰め寄ると、エドワードは笑みをこぼした。
「もしそうできたらいいな。そうなったら俺は色々やりたいことがあるんだ」
肩の力が抜けたようにぽつりとこぼしたエドワードは、驚くぐらい普通の若者だった。
ごく普通の、ティルスにもグレインにもどこにでもいる、この年代の若者だ。
そんなエドワードが、いつもどれだけの荷を背負っているのかが分かったリッツは痛ましくなる。
リッツも色々背負ってきたけれど、エドワードの肩に乗っているにはリッツのそれとは全く性質が違うのだ。
そこには人々の思いや国家の重さがある。一人の苦悩や悩みとは別物だ。だからリッツは明るく尋ねる。
「何がやりたいんだ?」
「俺は世界が知りたい」
「世界?」
「ユリスラだけじゃなくて、エネノア大陸を全部見て歩きたい」
「うわぁ、大陸全部かぁ……」
想像もしたことがなかった。
リッツにとって子供の頃はシーデナの自宅がすべてで、少し成長してからは近くの集落とたまに訪れるサラディオの街がすべての世界だった。
そして今は今までの世界にグレインを足したものがリッツのすべての世界だ。
これだけでリッツの世界はかなり広がっている。でもエドワードはもっと大きな世界を見ていたのだ。
「リッツは知ってるか? 国によってすべてが全然違うらしいぞ」
「どんなことが?」
「食べ物、着る物、家、風習、すべてだ」
「へぇ……。食べ物が違うんだ」
「お前は結局そこか」
「うん! エドは?」
「俺はとにかく見たいんだ。街も人も自然も、総てを」
そういったエドワードの表情は、子供のように輝いていた。
初めてエドワードが本当に願っている願いを聞いた。
もしそうなればいいのに、とリッツは心から思う。
だけど分かっているのだ。
リッツはもちろん、エドワードもこれが叶うことがない夢だということぐらい。
「いいな! 俺も付き合う!」
「一緒に来てくれるか?」
「当たり前じゃんか。俺たち友達だろ」
「ああ」
「でさ、大陸を制覇したら海に出たりしてさ」
「お前もすごいことをいうな」
エドワードは楽しげに笑って、それから麦酒に口をつけた。
なんとなくリッツも押し黙って二本目の麦酒を開けた。
秋風が冷たく丘を吹き上がってきて、熱くなっていた頭を冷やすようにまとわりつく。
静かに次の麦酒を手にしたエドワードは、いつものように年齢以上に大人びた静かな瞳で大樹を見上げ、そしてリッツを見て寂しそうに笑った。
「そうなればよかったな」
静かだ。そして静かな決別の言葉だった。
自分の夢への決別だ。
「だがなリッツ、俺には継承権を放棄することが出来ないんだ。俺は時が来たらこの国を救いたいと願っている」
「……うん」
「国王が望むようになろうと、それでこの状況をひっくり返せるならば仕方ない。俺はもう、この国の民が苦しむのを見るのは嫌なんだ」
「うん」
「誰かが状況を変えなければならない。誰かが荒れていくユリスラを救わなければならない。それが出来るのは、王族として育った王太子ではなく、ここで育って、だけど王位継承権を持つ俺なんだ」
決意に満ちた一言だった。
「だから俺はもう……自分の夢に迷わない」
エドワードは空を見上げた。
「お前と出会って、ようやく心からそういえる」
「……俺と?」
「そうだ」
エドワードの視線の先を共に見上げる。
満開の星空だ。
空は広くて、他の国々の上にも広がっている。エドワードはこうして自らの夢と別れを告げ、ユリスラのために生きようと幾度も自分に言い聞かせてきたのだろう。
「これからは、この国を救うことが俺の夢だ」
「うん」
「茨の道であるし、険しい道であることも分かってる。でも俺はこの道を選んだ」
「うん」
「おそらく遠くない未来に国王が死に、この国は崩壊を始めるだろう。そうなった時、俺は側室と王太子に反旗を翻すことになる」
静かな口調だった。
「俺は戦争を起こす。この国は混乱に陥るだろう。それでも俺はこの国を……ユリスラをこの手で救いたいんだ。俺には、その権利がある」
だが決意はもう揺るがないのがリッツには分かる。そしてこの道を行くエドワードには、これから辛い試練が幾つも降りかかるだろう事も分かった。
王太子となれば、弱音を吐くことも、感情を露わにすることすらも、許されなくなってしまうこともあるだろう。
だから険しい道をゆくエドワードには、たった一人でも喧嘩をしてお互いにぶつかり合える友が必要だったのだ。
そこにリッツがやってきた。
リッツは、エドワードと共にいることで初めて生きている事、自分が必要な人間であることを実感できる。
最も必要な存在に、お互い巡り会えたのだ。
それを知った今、リッツには何の迷いもなかった。
「俺の秘密は話した。細かいことはまた話すが、今はこれで全部だ。どうするんだ?」
そういうとエドワードはリッツを見つめた。
迷わないといいつつ、エドワードはまた迷っているのだと見当が付いた。
エドワードが悩んでリッツに選択肢を預けようとするのは二回目だ。
自由に道を歩むか、エドワードと共に戦いの道を行くのか。
黙ったままエドワードを見つめてにこにことしているリッツにしびれを切らしたように、エドワードがリッツを見つめる。
「お前、分かってるか?」
「うん」
「……さっきから頷いてばかりだな。何か言いたいことはないのか?」
「ない」
「お前はそう簡単に……」
あっさりと返事をしたリッツに、エドワードが軽く眉間を揉んだ。
これはエドワードが悩んでいる時と困ったときの癖だ。
「だってよ、俺の命はまだお前に貸してるじゃん。なんでお前がここで迷うんだよ」
「リッツ」
「いいか、忘れんなよ。俺はお前の友達なんだ。俺がそう決めた。だからエド、お前が迷う必要なんてねえじゃんか」
そう告げると、エドワードは一瞬、泣きそうな顔をした。
総てを告げることで何かを失うんじゃないかという不安の中にいたのはリッツだけではなかった。エドワードも同じだったのだ。
だがエドワードは、そんな表情をあっという間に打ち消して、いつもの自信に満ちた笑みを浮かべる。
「そうか、そうだな」
「ああ」
頷くとリッツはまっすぐにエドワードを見つめる。エドワードもリッツを見つめた。
あの自信と確信に満ちた強い輝きをたたえた瞳だった。
「俺が進むのは戦乱の道だが……」
差し伸べられた手の力強さは、あの時と変わらない。
「一緒に来い、リッツ・アルスター」
「ああ。付き合うぜ、親友」
そしてリッツも、あの時と変わらずに力を込めてエドワードの手を取った。
救国の英雄たちの伝説が始まろうとしていた。
第1巻『樹下の盟約』はこれでおしまいです。燎原の覇者シリーズいかがでしたでしょうか?
長い長い燎原の覇者シリーズは、まだまだ続きます!
現時点では8巻まで同人誌で刊行中!
全10巻の予定です。
来週からは、第2巻『冀求の種子』がスタートします!
お楽しみに!




