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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
遼遠の彼方
177/179

<19>

『エド』

 ん、何だ、リッツ?

『なあ、エド』

 だからなんだと言っているだろう?

『エド、エドってば! エド』

 うるさいな。そんなに連呼しなくても、ちゃんと聞こえているぞ。だからどうしたんだ、リッツ。

「エドワード様」

 エドワードはハッと目を開けた。目の前には見慣れた顔がある。

「ああ、シャスタか……。すまんな、うたた寝をしていたようだ」

 軽く目頭を揉み、エドワードは体を解した。妙な体勢で寝てしまったらしく、節々が痛い。

「お疲れですね、陛下」

 気遣わしげにこちらを見遣るシャスタを見て、苦笑してしまう。

 疲れているのはエドワードよりもむしろシャスタの方だ。

 十二歳も年下のくせに、エドワードよりも遙かに歳をとって見えるのは、その髪に交じった白髪の量がエドワードよりも多いからだけではないだろう。

 苦労性の彼には、国王に即位してから今日に至るまで気苦労ばかりかけている。申し訳ないとは思いつつ、それに報いることができずにいた。

「さすがの私でも、六十過ぎると無理は利かないな」

 軽く眉間を揉みながら呟くと、今度は少々呆れたようにシャスタが苦笑する。

「何をおっしゃいますか。まだまだ元気が有り余っていらっしゃるでしょうに。この間も街へ勝手に散歩に行かれましたね? 陛下がいないと、王城は大騒ぎでしたよ」

「……すまんな。少々気分転換だ」

 ため息混じりに呟くと、シャスタもため息をついた。

 ごくたまに疲れると人の流れに身を任せてみたくなる。国王になる前、リッツとも出会う前の気分転換と同じ方法だ。

 親衛隊やシャスタ達からすればとんでもないことなのかもしれないが、それぐらいは許して欲しい。

 ふと自分の左側に視線を向ける。

 先ほど見た夢があまりにも現実的すぎて、そうすれば傍らに友が見えるような気がしたのだ。

 だがそんなことはあり得ないと、重々承知している。

 友はどこにいるのか、その笑顔はあまりにも遠く、そして幻のように霞んでいる。

「それでシャスタ、何か進展は?」

「……ありませんね。あちらも手出しを控えているようですから」

「お互いに次の一歩を手探りしている状態だな」

「はい」

 ため息交じりにエドワードは組んでいた手を上に伸ばして肩を鳴らす。

 現在、王城に不穏な動きがある。査察官達によって密かに探られているのは、今後の王位を巡る継承問題だ。

 エドワードには息子が一人いる。ジェラルドの名を貰ったこの子が生まれる時、酷い難産でパトリシアはとても苦労をした。

 そのせいでパトリシアは次の子をもうけることが出来なくなり、結局王位継承者は一人きりになってしまったのだ。

 だが争うことがない状況はそれなりに悪くないとエドワードは想っている。何しろ自分が兄たちを倒して王位を手に入れたのだから。

 そんな王位継承者の息子なのだが、微かに漏らしたエドワードの本音が妙な尾を引き、今まで過去の澱みに沈んでいた勢力が暗躍を始めているのである。

 それが現実味を帯びて王城に暗い手を伸ばしてきたのは、王家にのみ伝わった宝物が、宝物庫から盗まれて消えていたことで確実になっていた。

 この怪しい動きの裏に、王族か、王族に血の連なった大貴族の末裔がいるのは確かなのだが、その主犯が誰なのか、なかなか尻尾を掴めずにいる。

 内戦以来三十五年もの間、静かに企てられた復讐を看破するのは意外に難しい。

 内戦が終わってから三十五年だ。三十五年も経ってからこんな問題が首をもたげてくるとは思わなかった。

 小さくため息をついて、エドワードは微かに身をひねり窓の外を見た。十一月に入り、秋の気配が王都シアーズの街を染めつつある。

 内戦が終わってから三十五年……。

 つまり、リッツがエドワードの元から離れてから同じ年月が流れたと言うことになる。

 なんて長い時間が過ぎたのだろう。ガラスに微かに映る自分の姿はこんなにも年を経てしまった。 

「……シャスタ」

 ため息交じりに呼びかけ、デスクに両肘を付いて手を組む。

「何でしょう?」

「懐かしい夢を見ていたよ。リッツの夢だ」

 呼べば手が届きそうだった。懐かしいあの笑顔で駆け寄ってきそうだった。でも手は届かず、伸ばした手は空を切る。

 いつもいつも、その繰り返しだ。

 こんな日は忘れようと考えていた友への、遠い親愛の情に胸が痛む。

「……懐かしい名前ですね……」

「ああ。あいつは今どうしているんだろうな」

 エドワードの呟きに、シャスタが小さくため息をついた。

「どうしているんでしょうね。もう三十五年になりますか……」

「……そうだな」

 リッツが去ってから、五年はいつ帰るのだろうかと待っていた。

 十年経つ頃には、いったい何をしているのか、生きているのか死んでいるのかと、気を揉んだ。

 二十年経ち、三十年経つと、リッツの事はまるで幻か夢のように、懐かしく思い出すだけになってしまった。

 もしかしたら彼は本当に、エドワードの胸の中だけにある、暖かく大切な幻影なのかもしれない。

 リッツという存在は、本当はエドワードの心の中にしか存在してはいない、空想の産物かもしれない。

 そんな風に自嘲気味に考えることもある。

 世間一般的には人格者であり、理想の国王であるエドワードとて人である。

 いつも平然としていられるわけではないし、時に愚痴をこぼしたい時も、疲れを分かって欲しい時も、誰かに当たりたくなる時だってある。

 妻のパトリシアやシャスタも仲間であり、色々な話を出来る相手である。だが自らの少々皮肉屋な部分だったり、適当な部分は見せられなかった。

 当たることなど論外だ。

 だからこそ、唯一無二の友、リッツが必要だった。今も必要だと強く思っているし、その存在を傍らに欲している。

 今はそうないが、ここに戻ってこいと心が悲鳴を上げることもたびたびあった。

 傭兵隊として遠くタルニエン共和国シュジュンにいることは分かっているから、その地を管理するタルニエン軍のスイエン本部に手紙を幾度も書き送ってはいた。

 もう四十通は書いただろう。

 年に一度は一年間のことを事細かく書いた手紙をスイエンに送ることが習慣のようになっているのだ。

 だが一度も返事が返ってきたことはない。手紙が届いているのか届いていないのかも分からない。

 せめて元気だと一言ぐらい返事を貰えれば、それだけで安心できるが、それすらもないのだ。

 だがエドワードも分かっている。自分が素直に自分の感情を手紙にしたためていないことを。

 国王の役回りを上手くやっている、大丈夫だ。

 こちらは平和だ、全てが順調でこの国は素晴らしい国に変わってきている。

 こんな問題があったが、こうして解決できた。政務官も軍人も育ってきている。お前がいなくても、ちゃんとユリスラは回っている。

 本心を書くことは出来なかった。

 リッツは年を取る仲間と、笑って一緒にいられるぐらい強くなったら戻ると言った。彼が戻れないのならば、こちらも戻れとは言えない。

 リッツにまたあの苦痛を与えたくはなかった。

 だから言葉を隠す。封じる。

 今、お前の手が必要だ。任せたいことがあるんだ。

 悩んでいることがある。お前に聞いて欲しい。

 何も期待しない。役職に就けとも言わない。でも近くにいろよ、リッツ。

 こんなに離れていたら、話も出来やしないじゃないか。

 疲れた頭に本音が浮かんでは、泡が弾けるように消えていく。考えても仕方ないことを考えるのは、もうとうの昔にやめたはずだ。

 エドワードは軽く眉間を揉みつつ、ため息をついた。

 手の届きそうに現実的な夢の感触と、二度と会うことが出来ないだろう、友の遠き姿の差を実感させられて胸が痛む。

 俺が死ぬと夢から覚めるのだろう? お前が俺の夢の中だけの存在になってどうするんだ。

 色々な事に行き詰まる時、悩みを抱え込んだ時、無性に友に会いたくなる。

 だが会うことがきっと友を苦しめるのだと思えば、探すことすら出来なかった。

 だからこうして、リッツの手が欲しいと思う時に夢を見る。手を伸ばせば隣に友がいて、総ての夢を分かち合っていた頃に戻った夢だ。

 視線を向けるとそこに友がいて、軽く肩をすくめるが、次の瞬間には笑って頷いてくれる。

『分かったよ、エド。俺がやる』

 頼んだぞ、リッツ。

 心の中だけでそう思うだけで、実際は目覚めてからため息交じりに書類にどの部署の誰に割り振り、どのように対処するかを書き記している自分がいる。

 帰ってこないリッツを嘆くのではなく、そうやって自分を誤魔化してきたのだ。 

 でも先ほどの夢は、あまりに現実的だった。色を伴って現れた友の、忘れかけていた声までもが、はっきり聞こえた気がした。

 小さくため息をつくと、手元の書類に目を落とす。もうすぐ年が変わるから、駆け込みの仕事が集まりつつある。

 面倒だが仕方ない。ペンに手を伸ばそうとすると、苦笑交じりにシャスタが尋ねてきた。

「会いたいでしょう、エドワード様」

「ああ」

 会えるのなら、今すぐにでも会いたい。

「もう帰ってこないのでしょうか?」

「さあな。生きているならば私が死ぬまでには帰って来るとは思うが……」

 ため息混じりに軽く首を回す。

 もう一度、話をしたいよ、リッツ。

 お前、この三十五年何をしてたんだ? 

 俺は色々あったよ。子供が生まれて、孫までいるんだ。俺はもう世間で言う老人だ。

 それから国王の役回りは、やっぱりかなり大変だ。お前はどうだったんだ? 

 俺の所に届く情報なんてほんのわずかだ。お前がシュジュンでギルの大剣を譲られて傭兵隊長をしていることは、ギルが死ぬ前に俺に手紙をくれた。

 お前と一緒に描かれたあの絵は、俺の寝室に飾ってあるよ。 

 でもギルの手紙以降、お前は何をしている?

 まだ気がついていないのか? お前に本当に似合うのは、戦場じゃないということに。

 お前がいるべきは、グレインにいた時のように、大切に思ってくれる、沢山の人の中なのだということに。

「ちゃんと分かっているんでしょうかね。待っている人がいることを」

 シャスタの言葉で我に返る。肩の力を抜いてエドワードは苦笑した。

 エドワードの苦悩をシャスタに背負わせたくはない。だから穏やかに、自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

「あいつのことだ。分かっているからこそ、帰り辛いんだろうよ」

 待たれていて、それでも帰れなくて時間だけが通り過ぎて。だからこそリッツは帰って来辛くなってしまっている。

 時間を空ければ開けるほど、エドワードは年を取り、リッツとの年の差が開いていく。それを実感すればするほど、リッツは時の流れが恐ろしくなる。

 だから……待たれているから帰れない。

 もしかしたらリッツが帰って来るのは、エドワードが死に、国葬が行われる時ではないのかと最近少々うがって考えてしまう。

 死に顔を見られても全然嬉しくなんて無い。生きているうちに顔を見たい。

 一言でもいいから言葉を交わしたい。

 友と言葉を交わす。普通ならば簡単なこんな小さな事に、エドワードは心から焦がれている。

 せめてもう一度だけ、話をしたい。

 再びため息をついた時、遠慮がちに執務室の扉が叩かれた。

「入れ」

 いつものように命じると、開かれた扉の向こうに、青白い顔をして目を白黒させた見知らぬ青年が立っていた。

 その横に立つ親衛隊長が、見事な敬礼を返した。

「失礼いたします。宰相閣下に至急お目通り願いたいと言うことでしたので、お通ししました」

「私に?」

 現在ユリスラ王国宰相を努めるシャスタは、不審そうに眉をひそめて男を見遣る。

 いくら至急の用とはいえ、国王の執務室にまで見知らぬ男を連れてくるとは、確かにただ事ではない。

「少し待たせてくれれば、政務部の方へ行きますが?」

 明らかに不信感を滲ませて、扉を開けた親衛隊を見たシャスタに、親衛隊員が慌てたように弁解する。

「も、申し訳ありません! ですが、この者が持つ親書の封印は、国王陛下が以前から『この封印を持つ者はいかなる時であっても目通りを許す』とお達しのもので……」

 親衛隊員につつかれて、男は慌てて懐から親書を取り出し、平伏しながら差し出す。受け取ったシャスタがその封印を見つめ、目を見開いて裏を返し、差出人を確認する。

「……陛下……陛下!」

 珍しく、うわずった声でシャスタは封筒を差し出した。受け取ったエドワードはその封印をじっと見つめる。

 図案化された文字で、その封印にはこう書かれている。

『ユリスラ王国大臣 リッツ・アルスター』

 裏を返すとローレン譲りの、性格とは正反対の綺麗な文字でその名が書かれていた。

 一瞬、目の前がくらんだ。

 まだ夢を見ているのだろうかと、現実感が揺らぐ。でも幾度見てもその文字は消えそうにないし、夢のようにかき消えそうでもない。

 震える手を押さえつけてペーパーナイフを取り出し、赤いロウの封印を綺麗に半割にした。

 封筒の中には、三つ折りにされた紙が一枚入っていた。ゆっくりと広げると、昔と変わらない綺麗な字で、丁寧さなどどこにもない適当な文章が綴られている。

『シャスタ、久しぶり。三十五年ぶりかな?

 長い間ご無沙汰で悪い。

 突然だが今、俺はファルディナにいる。ファルディナの街で何か問題が起きているらしくて、暴動になりそうな気配らしい。

 この手紙を持たせた奴に聞いたら、かなりきな臭いから、急いで王都に行かねばならないらしいんだ。

 なのにこの馬鹿は道に迷って、シアーズと反対のサラディオ方面に向かってたんだ。

 仕方ないからそいつに金貸して、馬車でシアーズに向かわせることにする。

 で、査察官に来て欲しいらしいんだが、そこんとこ便宜を図ってやってくれないか? 暴動の中心になりそうなのは、女性だって言うからさ。

 ファルディナで暴動とかっていやだろ? 自治領主もいないしさ。

 そのかわりといっちゃあなんだけど、俺は一週間だけファルディナにいることにする。

 俺に用事があったら査察官と一緒に一週間以内にファルディナへ来てくれ』

 そこで唐突に手紙が終わっていた。相変わらず礼儀作法を理解していない男だ。

「……いい加減だな……リッツ」

 小さく呟く。その下には、何かを書いて、ぐしゃぐしゃに塗りつぶした跡があった。微かに読める文字に気がつき息が止まりそうになった。

『ところで、エドは元気にしてる?』

 幾度も書き潰した下の文字をそっとなぞると、ついつい口元が緩んだ。

 元気だ、馬鹿。

 お前に会うまでくたばるものか。

「ファルディナ……か……」

 内戦の際、彼の地には自治領主を置かなかった。そのため要注意監視地区とされていたファルディナを、きっとリッツは放ってはおけなかったのだろう。

 自分を不真面目だとか、適当だというが、リッツが本当は考えすぎるぐらい真面目で、人を思いやれば馬鹿みたいに優しいことを、エドワードはよく心得ている。

 リッツを悪く思っているのは、リッツ自身だけなのだと、いい加減に気がつけばいいのに。

「君、なんと言ったかな?」

 先ほどから顔面蒼白のまま固まっている青年に声を掛けると、青年は緊張のあまりに固まりながらエドワードに敬礼をした。

「はっ! ファルディナ駐留部隊のヒース・アドニスっす!」

 なるほど、これが手紙にある馬鹿らしい。駐留部隊の新兵だろう。

「ヒースか。して、この文書はどうした?」

「はっ! ええっと、小官が道に迷っていたら、親切な三人組が助けてくれると言ってくれまして」

「……三人組?」

 傭兵隊長を務め、一人大陸を放浪しているようだとギルバートに聞いていた。

 それなのにユリスラにいて、しかも三人旅?

 ちょっと想像が付かない。

「はいっ! ええっと、背がでかくて、ちょっと怖くてやたらと軍に詳しい傭兵のリッツさんと」

 それは確かにリッツだろう。間違いない。

「優しくて可愛いアンナちゃんっていう女の子と、無口で無表情なフランツ君っていう少年の三人です」

「……女の子と、少年?」

 ますます傭兵のリッツからは考えられない、意外な取り合わせだ。

 一体リッツは子供を連れて、このユリスラで何をしているのだろう。全く想像が付かない。

 エドワードの知るリッツはどちらかと言えば、下の面倒を見るタイプではなく、世話を焼かれる性格だったはずだ。

 傭兵隊長を務めているのだから精神的には成長しているのだろうが、それにしても子供で、しかも女の子とは……。

 娘だろうか?

「俺、シアーズと反対に行っちゃって、間に合わないかもしれないってファルディナの事を話したらアンナちゃんがリッツさんに『助けてあげない駄目だよ』って言ってくれたんです。リッツさん、あんなにでかくて強そうなのに何だかアンナちゃんに頭が上がらないみたいで押し切られて、助けてくれることになって、それでこの文書を書いてくれました」

 そういえばリッツは、エドワードと共に暮らす以前、子供の面倒を見て暮らしていたと言っていた。

 エドワードの知るリッツと、傭兵のリッツではない顔は、実は子供好きの世話焼き体質なのか?

 眉を寄せて考え込んでいたエドワードは、ふと気がついた。

 そうだ。それを知りたければ、リッツ本人に聞けばいいではないか。何しろ一週間はファルディナにいるというのだ。

 ここから早馬で飛ばせば、ファルディナまでは実質三日ほどなのだから。

 それにエドワードには今、シアーズを出るための大義名分があった。

 そう、怪しい動きをする者たちを動かし、尻尾を掴むことだ。

 そうと決まれば話は早い。

「アドニス、すぐに案内出来るか?」

「え……、いや……あの……」

 ヒースはふらふらと座り込んだ。

「無理っす。少し休ませてください……」

「……仕方あるまい。下がってよい」

 親衛隊がヒースを連れて出て行ったのを見計らって、エドワードはシャスタを見つめた。

「シャスタ」

「はい」

「私が行こう」

 言い切ると、シャスタの目が大きく見開かれた。

「は?」

「ファルディナだ。ちょうどいい機会じゃないか。査察部のフォート少佐を連れて行く。お前は査察部長と共に、王都で怪しい動きをする物を見張れ」

 エドワードが囮になれば、暗躍する集団は何らかの動きを見せるだろう。その尻尾を掴めれば、今後の対処を検討出来る。

「! 陛下! では陛下が囮に……?」

 恐る恐る尋ねたシャスタに、堂々と頷く。

「そうだ」

「危険すぎます!」

 半ば悲鳴のように叫んだシャスタに、穏やかに笑ってみせる。

「大丈夫だ」

「何が大丈夫な物ですか! おいくつになられたと思っておいでです!」

「ん? 六十四かな?」

「普通ならかなりのお年です!」

「……お前はさっき俺に若いと言っただろうが」

「それとこれとは話が別です!  玉体にもしもの事があったら!」

「そんなことはないさ」

「どうしてそう言い切れるんです!」

 叫んだシャスタに、笑顔で言い切る。

「リッツがいる」

 シャスタは目を見開いた。

 だがエドワードにとってそれはあまりにも当たり前で、普通の選択だった。

 ファルディナにリッツがいる。そしてリッツはあの手紙の消した部分を見れば、本当はエドワードに会いたいのだと分かる。

 それならばリッツは、昔と変わらずにエドワードを慕ってくれているのだ。

 もしエドワードが危険にさらされていると知れば、リッツは確実にエドワードを守り、共に戦おうとしてくれる。

 シュジュンでも名うての傭兵隊長であるリッツが共にいてくれるなら、これ以上に信頼できる人物は、エドワードにはいない。

 でもあの性格故に、エドワードのそばに戻ることを躊躇っている。

 きっとシャスタが出向いたならば、エドワードを失う恐怖を思い出して、リッツは逃げだそうとするだろう。

 ならばエドワード本人がファルディナに出向き、こちらから伝えればいい。

 お前を待っていた。俺の隣に帰ってこいと。

 しばし黙って見つめ合った後、シャスタは大きく息を吐いた。

「こんなに長い間離れているのに、エドワード様はリッツさんに、未だ絶大な信頼を抱いているんですね。普通なら不信感を募らせてもいいはずなのに」

「そうかな?」

「そうです。エドワード様は、リッツさんに対しては人が良すぎます」

「それは違うぞ、シャスタ」

 笑顔でエドワードは立ち上がった。

「何が違うんです?」

「あれは俺の半身なんだ。自分の半分ぐらい、自分でよく分かってるさ」

 リッツは他人ではない。二人で一人と言われた自分の片割れなのだ。

 だからどれほど長い時間が経っても、彼が何を考え、どうしたいのかぐらい分かるに決まっている。

 リッツの方はきっと、エドワードに対してそんな感情を持っていないだろう。

 リッツはエドワードがどれほどリッツを大切に思い、会いたいと願い、心から求めているのかを知らない。

 エドワードにとってのリッツの存在を、シャスタとパトリシア以上に理解している人はいない。

 おそらくそれを一番理解していないのは、リッツ本人だ。

 やがて諦めたのかシャスタは、静かに固めた白髪交じりの髪を一撫でしてため息をついた。

「分かりました。お止めしても無駄だと言うことが」

 ため息混じりのシャスタを横目に、エドワードはシャスタの隣をすり抜け、剣を手にした。

「俺に何かあった場合の遺言は、パティが持っている。万が一の時は頼む」

「……万が一には、万が一にもならないでください」

「心がけよう。さて、査察部の軍服に、そうだ、帽子もいるな」

「エドワード様?」

「一週間しかいないのならば、すぐに出向いて、無理矢理にでも首に縄を掛けてシアーズまで引きずってきてやる。楽しみに待っていろよ、シャスタ」

 久し振りに心が躍る。こんな楽しみはどれぐらいぶりだろう。

 シャスタも、昔のように楽しげに、顔を綻ばせた。

「楽しみにしてます。僕もリッツさんに沢山言いたいことがありますから」

「俺もだ」

 つい昔の口調で返すと、シャスタも昔のように屈託無く笑った。

「エドワード様は、本当にリッツさんが好きですね」

 エドワードはシャスタに笑い返した。

「ああ。大好きなんだ。自分でもこれほど長く一人を想えるのかと不思議になるよ」

「まったく。パトリシア様が聞いたらなんと言うか」

「笑うだろうよ。俺たち二人は本当に駄目なコンビだって」

「確かに。パトリシア様もエドワード様に負けず劣らずリッツさんに甘いんだから」

「よく分かってるじゃないか」

 軽口を叩きながら笑う。

 リッツにもし会えて、そして首に縄を掛けられたなら、もう二度と放置したりしない。

 二度と再び、こうして先も見えずに帰りを待つことしかできない時間を過ごすのはごめんだ。

 強くなることは離れることじゃなかった。共に苦しみを乗り越えることだった。

 そんなことに気がつくのにエドワードもリッツも、これほど長い時間がかかってしまった。

「では行くか。ファルディナへ」

 唯一無二の友と会うべく、足取りも軽くエドワードは颯爽と執務室を後にした。



「声で気がつかないとは思わなかったぞ、リッツ。それとももう私のことは忘れたのか?」

 三十五年の時が交錯する。

 リッツはエドワードの半身だ。目を見れば、分かる。会いたかったと、でもまだ会いたくなかったと、リッツの思いが手に取るようだ。

 そして今共にいる少女と少年を気にしていることも分かった。彼らには人のいい傭兵の兄貴分でいたいようだ。

 この見栄っ張りめ。

 それでもリッツは……傭兵として感情を殺してきたはずのリッツが、泣きそうな目でエドワードを見た。

 引き結んだ唇が噛みしめられ、声を出して泣くことを必死で堪えているのだと分かる。

 ずっと、ずっと、会いたかった。

 帰ってきたかったと、その目は如実に語っていた。

 それだけで手に取るようにリッツの孤独と寂しさが分かった。

 リッツは本当に、エドワードの元に戻りたかったのだ。エドワードと同じ思いを、リッツもずっと抱えていた。 

 それが分かっただけで十分だ。それだけで三十五年の恨み言も、苦情も苦悩も、全て綺麗に昇華してしまう。

 俺もお前に会いたかった。ずっとずっと話がしたかったんだ。そのことに俺がどれだけ焦がれたか、お前は知らないだろう?

 いや、知らなくてもいい。

 お前はこうして戻ってきた。

 仕方ない。お前と共にいるその新たな希望たちに、お前の情けない姿をさらさせないでやる。

 その代わり覚悟をしておけ。もう二度とお前をこの手から放す気はないからな。

 まったく。心配を掛けさせて。

 本当に無事で良かったよ。


 ユリスラ王国歴一五七二年十一月五日。

 この日、再び一対の英雄がユリスラの地に揃うこととなった。

 その後、王都で起こったあの事件を考えれば、それはきっと必然で、そして運命だったのだろう。

 そしてその先に、新たな仲間達も加わる、新たな冒険が待っているなんて、今はまだ誰も知らない。

「お帰り、リッツ」

「ごめん……ただいま」

 長き放浪の旅が終わり、自分の存在を探る本当のリッツの旅も、ここから始まることとなる。

 だがそれはまた、別の物語。

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