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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
遼遠の彼方
170/179

<12>

 婚儀前日の夜。予想外の事態が発生していた。

 この日にこっそりと王宮を抜け出すつもりだったのに、リッツ付きの侍従達がリッツの部屋から出て行かないのだ。

「参ったなぁ……」

 部屋の片隅でリッツは小さく息をつく。

 理由は簡単だ。婚儀の衣裳が不必要となることを知っているリッツが衣裳合わせを避けて逃げ回っていたためである。

 その為侍従達はリッツの部屋から離れず、衣裳を持ってリッツを拘束していたのである。

 いうなれば自業自得という奴だ。最後の最後でどうも抜けている。

 どうしたものかと思案している間も、リッツの部屋の掃除や、食事などの面倒を見ていた年若い侍従であるオコナーはリッツが逃げないようにじっと部屋の片隅に座り込んでリッツを見張っている。

 こうなると翌朝まで開放されないかも知れない。

 現に衣裳は未だ身体に合っておらず、侍従達は徹夜の構えだった。

 正直に言えば、このまま拘束されていて出て行けなかったんだといえばエドワードが笑って『それなら仕方がないな』とリッツに言った言葉を取り消してくれるかも知れないとも思った。

 だがリッツはエドワードという男が一度決めたなら梃子でも考えを変えないことぐらい分かっている。

 リッツのようにいつも迷い、揺れ動くような弱い心の持ち主ではないのだ。

 出て行きたくない気持ちと、今行かなくてはもう出て行けないという焦りが混じり合う。

 出て行きたくない気持ちの方が強いが、エドワードの苦しげな顔を思い出せば甘えることなど出来ないことも理解している。

 どうしたものだろう。

 じっと頭だけを働かせて、ようやくリッツは一計を案じた。

 エドワードに会いに行くと告げることにしようと決めたのだ。

 今迄ならそれはここからは一人になれる口実にはならなかった。何故ならリッツとエドワードは隣同士の部屋にいたからだ。

 だが国王となったエドワードは、先週からリッツの隣室にいない。更に王宮の奥地にある離宮に住んでいるのだ。

 国王になったから警護上の理由もあるが、それにはもう一つ大きな理由がある。

 エドワードはパトリシアとの婚儀の後、今迄の王族のように、同じ建物内であっても別の空間で王妃となる彼女と暮らすことを拒否したのだ。

 王族の婚儀と言ってもそれは庶民の結婚と同じで、伴侶として、家族として同じ空間でパトリシアと共に暮らすことを望んだのだ。

 その為にはこの王宮の建物は向いていなかった。ここの部屋が独立し、常に侍従が互いの部屋を行き来するような状況ではエドワードが望む生活は期待できない。

 その為、過去に沢山の寵姫が国王と遊蕩の限りを尽くすために作られたという独立した離宮を改築したのだ。

 この王宮の建物のとなりにあるその離宮は、二階建てのこじんまりとした建物だった。部屋数も王宮の三分の一以下だろう。

 それでも広いだろうとエドワードが言っていたことを思い出す。エドワードはセロシア家ぐらいの広さがあれば十分だと考えている節があるが、流石に国王を粗末な家に住まわすわけには行かないだろう。

 そんな紆余曲折を経て、現在エドワードとパトリシアはそこに住んでいる。

 リッツも幾度かそちらに顔を出したが、二人の時間を邪魔する気も無いからこうしてここに残ったのだ。

 背後にシアーズ山脈を背負った立派な庭園のある建物は、リッツがいるこの沢山の人々が行き交う王宮とは違いとても静かで快適な環境だ。

 家族と共に過ごす時間をあまり持ったことがないエドワードにとって、その離宮は幸せな新居になるだろう。

 普段ならリッツはその離宮に自由に出入りすることが出来た。リッツはいつも特例として建物内を自由に移動できるからだ。

 だが翌日に婚儀を控えた慌ただしい王宮において、たとえリッツであっても彼らに会うためには許可がいる。

 面倒なしきたりだなと思っていたが、それがリッツに味方した。そのことを逆手に取ることにしたのだ。

「オコナー」

 年若い侍従を呼ぶと、若いくせに難しい顔をした生真面目な侍従がすぐにそばに来て跪いた。

「はい、閣下」

「今すぐ国王陛下に会わねばいけないのを思い出したんだが」

 唐突なリッツの申し出に、オコナーは目を見開いた。

「……失礼ながら大臣閣下」

「何だ?」

「それは無理というものです。侍従長の許可と、離宮を警備する近衛兵長の許可がいりますので」

「知っている。だがオコナー、緊急だといったら?」

 じっとその目を見据えて言葉を続けると、オコナーは黙り込んだ。

 衣裳を手にして忙しく動き回っていた侍従や女中達も困惑したように押し黙り、じっとこちらの様子を窺っている。

 こんな時間まで仕事をさせているのに申し訳ないし、その服を着ることは決してないことを悪いとは思うのだが、これしか手段がない。

 しかも彼らはこの後、大臣行方不明という更なる悲劇に見舞われるのだ。

 それも本当に申し訳ない。

「……閣下……あの、明日では……?」

 おずおずと提案してきたオコナーを静かに見据える。

「明日は婚儀だ。それでは間に合わない」

「ですが……」

 渋るオコナーに、リッツはできる限り冷たく命じる。

「お前が許可を取らねば、俺はそのまま突入するが、それでいいか?」

「!! それは困ります!」

 悲鳴のような声を上げてオコナーは飛び上がった。そんなことをされたらオコナーの首が飛んでしまうのだろう。

 勿論物理的な意味ではなく。

「では許可を取ってきてくれ」

「しかし……!」

「では俺は……」

「お待ち下さい! 突入することだけは!」

「ならば急いでくれ」

 冷たい口調のまま急き立てると、オコナーは慌てて部屋を飛び出していった。

 ごめんな。もしまた会うことがあったらちゃんと謝るからなと、心の中で詫びる。

 それから呆然と部屋に残った衣装係の女中と侍従を見渡した。

「悪いが俺は陛下にお渡しせねばならない内密の書類を作成する仕事がある。全員部屋を出て行ってくれ」

 できる限り冷たく告げる。とりつく島もない状況を作ることが早道だ。

「それでは衣裳が!」

 悲鳴のような声を上げた侍従と女中に笑いかける。

「俺はこの国の大臣だ。お前達の手にしている、いかにも精霊族然とした衣裳を着る必要は本来ない」

「ですがこれは宰相閣下の命令で……」

 グラントはどうしてもリッツを建国神話になぞらえたいらしかった。

 だがそれは今日で終わるとリッツは分かっていた。だから彼らに無駄な仕事をさせるのは気が引ける。

 それに彼らに出て行って貰わねば王宮を抜け出すことが出来ない。

「大臣としての礼服とマントがあるだろう? 俺は武人なんだから、それで十分だ」

「ですが……」

 更に言いつのる侍従をじっと見つめ返す。

「諸君らに一つ聞くが、陛下の御前で大臣と宰相は同等ではないのか?」

「!」

「陛下に緊急の用がある俺の頼みよりも、宰相が命じた俺の衣裳を優先するのか? 俺が精霊族で若いから宰相優先とでもいうのかな?」

 厳しく聞こえるであろう口調でそう告げてから、リッツは全員を見渡した。

 演じるのは得意だ。精霊族の戦士を演じれば、誰もリッツに逆らえないことぐらい承知している。

 脅すようで悪いが他の手がない。

 居心地が悪そうに視線を彷徨わせる侍従と女中達をただ見据えていると女中達が折れた。

「分かりました閣下。失礼致します」

「ああ」

 言葉少なにそういうと、リッツは机に向かった。その姿に諦めたように侍従達が部屋を出て行く。

 やがて全員が外に出て扉が閉ざされると、リッツは大急ぎで扉に耳を押しつけて気配が遠のくのを待った。

 彼らの気配が無くなると部屋に鍵を掛けてから隠して置いた荷物を引っ張り出す。

 リッツ個人の持ち物などたかが知れている。

 この国にしばらく戻らないのならば、今迄大切にしていたものの大半を置いていかねばならない。

 軍服を脱ぎ捨てて、隠して置いた平民が身につけるシャツを着る。ボトムに身につけたのは丈夫な素材で作られた濃い砂色のパンツだった。

 それから焦げ茶色の丈夫なジャケットを羽織ると、編み上げのブーツを履き、靴紐をきつく結ぶ。

 最後に腰に剣を取り付けるための太いベルトをしてから剣を帯びた。

 防寒のために大きめのニットストールをマフラー代わりに巻く。ニット帽は街に出るまでかぶらなくても良いだろう。

 鏡に映った姿は、どこから見ても傭兵で、今迄の軍服との違いに苦笑する。

 そのまま床に脱ぎ捨てておくのは忍びなく、リッツは軍服を丁寧にクローゼットに掛けた。

 そこにはいくつかの服が下がっている。

 王国軍服。

 王国軍専用防寒コート。

 大臣の軍服と大臣の礼服。

 パトリシアが仕立てさせた麦わら色のベストとパンツに白いシャツ。

 そして……グレイン騎士団の制服。

「おっさん」

 グレイン騎士団の制服を撫でながら、リッツは亡きジェラルドに呼びかけた。

「ごめんな、おっさん。俺がエドの傍にいたらエドを苦しめちまう。友達だから傍にいるって誓ったのに、離れる俺を許してくれよな」

 制服を撫でるだけで、グレイン騎士団として過ごした日々や、この制服で戦場を駆けた思い出が押し寄せてきて、鼻の奥がつんと痛かった。

 初めてこの制服に袖を通したのはティルスだった。落とし穴作戦の時だ。

 それから幾度この服を身につけただろう。

 エドワードの傍らにいる時、リッツは大概この制服を身につけていた。それは革命軍が王国軍へと変わり、大臣となるまで変わらなかった。

 でももうこの服を着ることはないだろう。

 もしリッツがエドワードの隣で笑えるぐらいに強くなって戻って来たとしても、もうリッツはグレイン騎士団ではない。

 それに、その時が来たとしても、軍服に袖を通すのかすら分からない。

「騎士団の制服着たおっさん、格好良かったよなぁ。俺はあんな風に格好良く着れなかった」

 モーガン邸での堂々たるその姿を思い出す。パトリシアと同じ亜麻色の髪に、意志の強そうな青い瞳。身を包むグレイン騎士団の制服は本当にジェラルドに似合っていた。

 優しくさすると、あちこちに傷ついた跡があった。

 傷つく度に幾度も補修してきたから見た目には分からないが、触れればちゃんと分かる。

 それがリッツがグレイン騎士団であったたった一つの痕跡であるような気がして切なかった。

「おっさん、俺、ギルと行くよ。おっさんの代わりにはなれなくても、少しでもおっさんのいない寂しさをギルに忘れて貰えるように頑張るからな。だからおっさん……」

 騎士団の制服を抱きしめた。

 侍従達が綺麗に整えてくれた制服からは、柔らかな香りしかしない。

 それでもこれは確かに、リッツを守り続けてくれたものだった。

「おっさんはここでエドとパティを見守っててくれ」

 願いを込めてそう囁く。

 リッツはゆっくりとクローゼットを閉じた。これで全ての支度が出来た。

 手にしたのは小さなデイパックたった一つだけだ。それ以外は必要ない。傭兵として暮らすうちに必要なものは買えばいい。

 侍従達が戻ってくる前に、リッツはバルコニーから外に出た。廊下を歩いてしまえば誰かに姿を見られかねないからだ。

 リッツの部屋は二階にあった。そこから身軽にバルコニーを伝って庭園に降りる。

 行きたくない。行けば全てが終わってしまう。そう思うのに足は自然とエドワードの元に向かっていた。

 エドワードは一人で離宮で待っている。

 リッツが旅立ちの日を決めた時にエドワードがそう言っていたのだ。

 だから……最後はエドワードと言葉を交わして旅に出る。そう二人で決めた。

 十二月最後の日の庭園は、冷たく凍り付いていた。春から秋にかけていろとりどりの景色を見せる庭園も今は何の色もない。

 庭園を足早に進んでいると、不意に強く風が吹いた。

 風に乱れる黒髪に手をやることもなく、顔を上げてその風にその身を晒す。

 ああ、風が吹いている。

 初めてエドワードと出会った日も、強い風が吹いていた。

 目の前に広がる抜けるように蒼い空と、強い風に一斉にそよぐ黄金色の麦畑。

 そして馬を引きながら隣で歩くエドワードの金の髪が強い風に煽られて揺れていた。

 シアーズ草原からシアーズの街を見下ろして革命軍の先頭に立っていた時も、風は彼らの間を吹き抜けていた。

 始まりはいつも……風が運んできた。

 そして終わりもやはり、風が運んでくるようだ。

「くっ……」

 不意にこみ上げた叫び出したいような感情に、強く唇を噛む。

 本当は引き留めて欲しい。

 行くなと、傍にいろと言って欲しい。

 でもエドワードは絶対にそれを口にしないだろう。そんなことは重々承知しているというのに、未だ女々しくそれを願う自分がいる。

 なあ、お前は俺がいなくていいの?

 俺はお前と離れて生きていけるとは思えないよ。

 でも俺がお前を苦しめるならば、俺は離れるしかないんだよな。

 心の中で幾度も幾度も同じ問いかけが繰り返されてしまう。

 もう一週間考えた。その間エドワードと幾度か話をした。

 だが二人とも敢えてこの話題を避けた。代わりにエドモンドの地図を挟んで世界について語り合った。

 本当はそんなことに興味なかったんだよ、エド。ただエドが楽しそうに世界を語るから、俺は頷いただけだったんだ。

 そんな言葉も言えるはずがなかった。

 大きく息を吸い込み、それから少しづつ息を吐く。

 感情的になるな、落ち着かなければ。

 自分に言い聞かせてから再び足を動かす。

 行きたくないと思っているのに、いつの間にか庭園を越えて離宮の敷地に足を踏み入れていた。

 侍従達の騒ぎなどないように、離宮は静まりかえっている。

 リッツと違ってエドワードとパティは予定通りに衣裳合わせをしたんだなと思うと、少しだけ笑えた。

 大丈夫、笑えた。

 絶対に泣かないと決めていた。泣いてしまえば縋ってしまう。行くなと言ってくれと泣きついてしまう。

 だからリッツは笑う。

 笑うしかない。

 約束通り鍵のかかっていなかった大きな硝子の扉を押し開けて、リッツは離宮に足を踏み入れた。そこは玄関ホールになっている。

 リッツは足を忍ばせて離宮内を歩く。

 驚く程に誰もいない。おそらくエドワードが人払いをしてくれたのだろう。

 庭に面した角にある約束の部屋に辿り着き、扉をノックしようとして一瞬躊躇う。

 このまま部屋に入ってしまえば、もう旅立つしかない。この期に及んでそれを恐れている自分がいる。

 甘えるな、と自分に言い聞かせた。

 強くなるんだろう?

 エドワードの傍にいても、エドワードも自分も笑っていられるぐらいに強くなるんだろう。

 そうでなければ、エドワードに殺されることだけを望むリッツがエドワードの心を延々と傷つけ続けてしまう。

 意を決して扉を叩くと、待つことなく扉を開ける。

 そこはサンルームだった。

 春になるときっと、沢山の花を咲かせる庭園が一望出来る快適な部屋になるのだろう。

 リッツがこれから始まる春に、その景色を見ることはない。

 リッツの隣室にいた時に使っていた丸いカードテーブルに燭台を立てて、エドワードは一人で座っていた。

 そこにはワインのボトルが置かれている。

 喉が詰まったように言葉が出ず、リッツは立ち尽くした。

 エドワードはゆっくりとリッツを見ると、軽く片手を上げる。

「……よう」

 いつものエドワードだった。だからリッツも小さく息を吸っていつものように答える。

「……おう」

「座れよ、リッツ」

「うん」

 促されるままにエドワードの向かいに腰を下ろした。用意されていたワイングラスにエドワードが慣れた手つきでワインを注いでくれる。

「とりあえず乾杯するか?」

 いつもの言葉だったがリッツはエドワードの指が微かに震えていることに気がついている。

 だからリッツは敢えて気付かぬふりで、エドワードに無邪気に笑って見せた。

 それがリッツがエドワードに送ることが出来る最大限の贈り物だと分かっているからだ。

「いいね。何に乾杯しようか」

「旅立つお前に、しかないだろうな」

「ま、そうだよな」

 これが別れだと感じさせないように、いつものようにグラスを掲げる。

「乾杯」

「乾杯」

 グラスを合わせると、注がれたワインを口にした。懐かしい味だとボトルを見ると、グレイン産のワインであることが分かる。

 王国歴一五三三年製のワイン。

 リッツとエドワードが出会った年のワインだ。

 わざわざ用意してくれたのだと分かって、リッツは言葉を失う。

 しばらくワイングラスを傾けていると、エドワードがまじまじとリッツの格好を眺めてから微笑みを浮かべて言った。   

「立派に傭兵だな」

「だろ? ちょっと格好いい?」

「まあな。よく似合っているよ」

「軍服よりも?」

「大臣の礼服よりはな」

「だよな。あのマント付きの白い礼服って趣味悪くない?」

「儀式用だから仕方ないだろう。少しでも目立たないと駄目だしな」

「みんなが白い礼服着たら目立たないじゃん」

「マントがあるから目立つさ。その為の目印じゃないか」

「あれって目印だったの? 通りで実用性無いよな」

「確かに実用性はないな」

「強風が吹いたらめくれ上がって面倒なんだぜ?」

「そういえばいつだったか、お前頭からかぶりそうになっていたな」

「そうだよ。かぶってたら俺、公衆の面前で超恥ずかしいじゃん」

「お前らしくて笑うがな」

「笑わないでマントを取ってくれよ」

「それは気がつかなかった。悪い」

「ちっ、本当は俺がおたおたすんの面白がってたくせに」

「気付かれていたか」

「当たり前じゃん」

 いつものようにくだらない会話。

 いつものようにどうでもいい会話。

 ただ言葉を互いに意味も無く投げ返す言葉のやりとりがいつも楽しかった。

 本当にこれで終わりだなんて思いたくない。

 でもこれで終わりだと、リッツもエドワードも分かっている。

 だからこそいつものように時間を過ごしたくて、どちらも旅について言い出せない。

 馬鹿話をしていると、鐘の音が鳴り響いた。

 どちらとなく黙り込む。

 年が明けた。新祭月が始まったのだ。

 エドワードの王政が始まり、パトリシアが王妃になる新たな年が、いよいよ始まる。

 鐘の音を聞きながらリッツは俯いた。

 新たな始まりだからこそ、リッツも新たな一歩を踏み出さねばならない。

 ここでずっと座っていても、この旅立ちをなかった事になど出来ないのだから。

「……去年も新祭月の鐘の音を、お前と聞いたな」

 エドワードがぽつりとそういった。

「うん。雪が降ってたよね」

「ああ。あれから一年経ったんだな」

 小さな呟きにリッツは俯く。

 あれから一年。

 たった一年なのに、もうエドワードから離れようとしている。

 何故……離れなくてはならない?

 何故一緒にいてはならない? 

 答えなんてとっくに出ているというのに、再びその言葉が胸の中を嵐のように吹き荒れる。

 でもここで泣きつく事なんて出来なかった。

 エドワードはリッツと共にいたいと思っているのに、リッツに幸せを望み、リッツを手放すことを決めた。

 たとえ本当に小さな可能性であっても、自ら望む幸せを見付けて欲しいと切実に祈ってくれている。

 だからリッツは行くしかない。

 エドワードが望むリッツの幸せがこの世界にあるかなんて分からない。

 エドワードから離れたリッツがそれを見付けられる訳など無いと、リッツは本気で思っている。

 でも彼が望むなら、世界を旅しようと決意はしている。

 傭兵として自由に出来る金が出来たなら、それを手に世界を巡ろう。

 そして世界をこの目で見よう。

 いつかリッツが強くなって、この国に戻ることが出来た時、エドワードに沢山の土産話が出来るように。

 幸せの欠片など見つからなくても、強くなりさえすれば、ここに戻ってこれる。

 エドワードと共に再び生きることが出来る。

 だから……強くなる。

 まだ中身の入ったままのグラスを置くと、リッツは大切に胸ポケットに入れていたものを取り出してテーブルの上に置いた。

「これ、返しとくな」

 それはリッツに与えられた大臣の印章だった。もうリッツに取っては無用のものだ。

 だがエドワードはそれをじっと見つめてから、おもむろに掴みとり、リッツの手に押しつける。

「エド?」

「それはお前のものだ」

「……でも俺もう大臣じゃなくなる」

「それでも、それは俺がお前に作った唯一のものだ。持っていけ。他の誰もそれを使うことが出来ないんだからお前が持っているしかないだろう?」

 正面にいるエドワードを見つめると、エドワードは笑った。

 忘れずにここに戻ってこいと言われている気がした。これを持っている限り、戻る場所はここなのだと示されたのだ。

「その代わり悪用してくれるなよ?」

「しねえよ。じゃあこれ……貰っとく」

「ああ。大切にしろよ。結構な金額だ」

「やだなぁ。そういうの言わないでくれた方が気楽なのにさ」

「悪いな。お前が簡単に無くせないように言って置いた方が良いかと思ったんだ」

「信用無いよなぁ、俺」

 苦笑しながら印章を大切にしまい込む。そこまで言ってくれるのならばずっと肌身離さず持っていよう。

 大切な友がくれた大切なものなのだから。

 グラスに残ったワインを飲み干すと、リッツは立ち上がった。

「エド、俺行くよ」

 エドワードもゆっくりと立ち上がる。

「ああ。行ってこい」

 そっとエドワードに手を伸ばそうとすると、逆にエドワードにしっかりと抱えられていた。

「お前の幸せを見付けてこい」

 自分より背の低いエドワードの肩に額を付けると、リッツはその背を抱き返した。

「……強くなって戻ってくる」

「リッツ」

「お前の傍で一緒に笑えるように、強くなって戻ってくる。世界を見て、お前にそれを伝えらるようになってくる」

「ああ。楽しみに待っているよ、リッツ」

 もう一度しっかりと抱き合ってから、ゆっくりと離れる。

 目の前のエドワードは静かに微笑んでいた。

 寂しげな、だが一縷の望みに縋るようにリッツの幸せを望んでくれるその姿に涙が零れそうになる。

 だがエドワードの前では泣かないと決めた。

 だから笑う。

 笑え、リッツ・アルスター。

 強くなるために笑うんだ。

 自分に言い聞かせて笑みを浮かべた。それは多分歪な笑みになっただろう。

 それでも笑えた。

「じゃあな、エド」

 無理矢理作った笑顔でリッツは手を差し出した。その手を力強くエドワードが握ってくれた。

「気をつけて行ってこい、相棒」

「おう!」

 昔のように拳を二度合わせて、見つめ合う。

 ティルスのエドワードが、五年も経ったのにあの頃のエドワードがそこにいた。

 変わらずにずっとここにいてくれ。

 お前はずっと俺の帰る場所だから。

 リッツは目の前のガラス戸を開いた。再び強い風が吹き付け、窓辺に掛かっていたカーテンを激しく揺らした。

「……ばいばい、エド」

 小さく告げるとエドワードの言葉を聞くことなく、リッツは庭園に向かって歩き出す。

 先程よりも寒い気がするのは何故だろう。

 こんなにシアーズの冬は寒かっただろうか。

 こんなにも冬という季節は心凍るものだっただろうか。

 リッツは足早に半ば駆けるように庭園を抜けた。

 今頃大騒動になっているだろう寝起きしていた建物から一番離れたところを通り、夜中だというのに婚儀の準備のために沢山の人々が行き交う王城の門を抜けた。

「リッツ」

 王城を抜けた所で声を掛けられて振り返ると、そこにラヴィが立っていた。

「……迎えに来てくれたの?」

「うん。ギルが行けって」

「随分お節介じゃん、ギル」

 悪態を吐きながらラヴィを待つことなく歩き始めた。

「リッツ」

「何、ラヴィ」

「待ってくれないかな。ダグラス隊のみんなには内緒で君に渡したいものがあったんだ」

 思いも寄らぬ言葉に足を止めると、ラヴィが懐から綺麗に畳んだ紙を取り出した。

「これを君に」

「何これ?」

「僕の絵。油絵にせずに水彩で描いて良かったよ。持ち運びに便利だしね」

「絵? 何で俺に……」

 紙を開いて息を呑んだ。

 そこには戴冠式の日のエドワードがいたのだ。

 自信と叡智に満ちた瞳で真っ直ぐに前を見つめるエドワードが。

 ぽつりと頬に暖かいものがこぼれ落ちた。

 それは後から後から流れてくる。

『一緒に来い、リッツ・アルスター』

 ああそうだ。あの時の目だ。

 お前はこうやって人を救うんだよな。

 俺を……救ってくれたんだよな……。

「リッツ……」

 心配そうなラヴィの声に我に返った。慌てて涙を拭うと、垂れてきた鼻を啜る。

 ダグラス隊に心配を掛けてはいけない。これからはリッツも彼らの一員だ。いつまでも子供でなんていられないのだから。

「ごめん、ラヴィ。行こうぜ」

 振り返らずにリッツは早足に歩き出した。

「待ってよ、リッツ! ……あっ!」

 不意にラヴィが声を上げた。

「何だよ?」

「雪だ……」

 空を見上げると、闇の中からひらり、ひらりと一欠片ずつ雪片が舞い降りてきていた。

 先程の強い風が、雪雲を呼んだんだろうか。

 雪が降る。

 一年前と同じように雪が。

「やっぱりお前は雪だよ、エド」

 暖かく包み込んでくれる。

 そして……早く寿命を終えてしまう、儚い雪だ。

「置いてくぞ、ラヴィ」

「リッツ、待ってって。全くせっかちだな」

 また垂れてきそうな鼻を啜り、リッツは足を速めた。

 雪は夜半には降り止み、そして儚く消えた。

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