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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
遼遠の彼方
168/179

<10>

 婚儀まであと二週間に迫った夕暮れ時、飲みに出かけようとしたリッツはエドワードに呼び止められた。

「出かけるぞ」

「……は?」

「明日一日休みを取った。遠乗りに付き合え」

「今から?」

「ああ。不都合があるか?」

 いつも以上に強引な物言いにリッツは眉を寄せる。

「忙しいだろ、エド」

「忙しい。目が回りそうだ」

「じゃあ休み取ったんなら寝てれば良いじゃん」

 正直にエドワードを気遣って言ったはずなのに、その視線の強さに言葉を失う。どうしてもエドワードは遠乗りに行きたいようだった。

 こうなると梃子でも動かないことなど、ここ五年の付き合いでリッツは重々承知していた。諸々忙しくて息抜きがしたいのだろう。

 それに付き合うのは確かにリッツの役目だ。

「わーったよ、付き合う」

「今日は野営するかもしれないからな。防寒の支度をしてこいよ」

「ええっ野営!? 真冬だぞ!?」

「そうだな」

「そうだなって……エド正気なの?」

「俺が度を失っているとでも?」

「うう、そう見えねえから怖いんじゃん」

 エドワードが何を考えているのか全く分からないが、こういう時には逆らわずに従うに限る。リッツは今出てきた部屋にとって返してすぐに身支度を調えた。

 身支度と行ってもリッツにはそれほど荷物はない。流石に騎士団の制服や軍服を着ていくわけにはいかないから、冬物を着込みその上に軍用コートを羽織る。一番暖かい防寒具はこれしかなかったのだ。

 そして仕上げに太めのマフラーを捲き、頭にニット帽をかぶった。耳篭は金属だから冷える。この方が良いだろう。

 リッツが出てくる頃には似たような格好をしたエドワードが既に待ち構えていた。ウールのストールを巻き付け冬用のニット帽を目深にかぶったエドワードはとても珍しい。

「何だ?」

「エドがニット帽って……」

「寒いし、この髪も隠したいし仕方ないだろう。似合わないか?」

「何でも似合うところが癪だな」

 これだから美男子は得だ。

 リッツと違って前々から計画していたらしいエドワードは大きな荷物を背負っている。食料や野営の道具が一式入っているのだろう。

「俺が荷物持つよ」

「重いぞ?」

「いいって。国王になったんだから少しは俺を利用しろよ、国王陛下」

「お前に言われるとからかわれているようにしか聞こえないな」

「ま、正直少しからかってるかな」

「……後で覚えていろよ、大臣閣下」

「それいうのかよ、大臣にしたのお前じゃん」

「普通は有り難いと思うんだがな」

「思わねえよ」

 軽口を叩きながらリッツはエドワードの荷物を担ぎ上げた。

「行くぞ」

「おう」

 先に立って歩き始めるエドワードは、王城の正面ではなく王宮の裏にある出口に向かう。流石に堂々と国王が王城から遠乗りに出ていくことも出来ないのだろう。

 王宮から出ると冷たい風が全身に吹き付けた。これはかなり寒そうだ。本当にこの寒い最中に野宿するというのだろうか。

 エドワードの横顔に視線をやると、何故かエドワードの顔に微かな緊張感があるのが分かった。リッツと遠乗りに行くというのに何を考えているのか分からない。

「本当に行くのかよ? 怒られねえかな?」

「バレたら怒られるだろうな」

「え~? エドが無茶しても怒られるの大体俺じゃん。やだよ」

「一緒に怒られてやるさ」

「誰が国王を怒れんのさ」

「ん? シャスタ、パティ、グラント、コネル、ジェイムズ?」

「全部エドより先に俺を怒る奴らじゃん」

「かもな」

 エドワードは聞く耳を持たない。これは本当に付き合うしかないようだ。

 馬に半々に荷物をくくりつけると、馬に跨がる。城門から出る門は一つしか無い。王宮や王城の人々の目はなくてもここだけは誤魔化すしかない、

 バレないかとハラハラするリッツなど意に関せず、エドワードは平然とそこを通りかかった。案の定門を守る門番がこちらを伺うようにじっと見つめてくる。

 どうするのかと黙っていると、まるで仕事帰りの政務官のような顔でエドワードは門番に頭を下げた。

「お疲れ様です」

 目深にかぶったニット帽と大きいストールで隠れた口元。それだけで本当に隠し通せるのかと思ったが、門番は訝しがることもなくあっさりと頷いた。

「うむ。ご苦労」

 呆気なく門を抜け、リッツは拍子抜けした。

「意外とバレないのな」

「当たり前だろう。この時間にこんな格好で国王が外に出て行くわけがない」

「あ、それファルディナで刺された時も言ってたよな?」

 怪我をして瀕死の重傷を負ったということにしてエドワードがグレインに里帰りをしたことをリッツは昨日のことのように覚えていた。

「人の思い込みは最大の隠れ蓑さ。ビクビクしていたらかえって分かりやすいだろう。疑ってくれといわんばかりじゃないか」

「確かにな」

 一番凄いのはこれをやってのけるエドワードの胆力じゃないのかと思ったが、また機嫌を損ねそうなので口を噤んだ。

 王城を出て、もうすぐ閉門の時間を迎える門を出た。この間、誰にも誰何されることなくあっさりと外に出ることが出来た。

 入る者には厳しくても、出る者には意外と注意を払わないのかも知れない。

 このまま行方不明になってしまっても、王宮で気がつかれるのは翌日の執務時間なのではないかとふと不謹慎なことを思う。

 王城を出てから、エドワードは馬を駆けさせて真っ直ぐにシアーズ街道を北上した。馬上では口を開くことも出来ないし、この寒さでマフラーに埋めた首を伸ばすのも億劫だったから黙ってそれについて行く。

 王城から二時間程のところでエドワードは横道にそれた。その先には明かりのとっくに消えた古い民家がある。

 どうやら目的地はそこらしい。

 民家の前で降りるとエドワードはあっさりとその民家の厩舎に入り込んで馬を繋いだ。

「なあここって……」

「空き家だ。貴族が持っていたらしい別荘なんだが手放されてな。俺が引き取った。牧場があったから、かなり広大だ」

「へぇ」

 馬を繋ぎ終わったリッツは厩舎から出て周りを見渡した。確かに広大だ。周りに民家が見当たらない。

 北側には少し大きめの林も広がっているから暖炉用の薪には困らないだろう、

 それに南に下った街道の先には、まだ光の灯っているシアーズの街が小さく見えている。

「将来的にここで国営牧場をしたいと思っているんだ」

「国営牧場? 何エド、国王になってまで畜産家にでも成るつもり?」

「馬鹿か。ここで麦と畜産の出来高を図ればその年の税収が正確に測れるだろう? グラントも良い案だと言っていたよ」

「あ、そういうこと。じゃあここを国で運営しながら農民を雇って働いて貰うって事か」

「肥料の開発や、食物の品種改良が出来ればなお良いだろう?」

「確かにな」

「王族の保養所も兼ねるつもりだ」

「ふうん。王立の農業技術研究所ってとこか」

「お前の脳みそでも分かって貰えて良かったよ」

「まった馬鹿にしやがって。腹立つなぁ~」

 いつものことだがエドワードはどうもリッツの頭の悪さを楽しんでいるとしか思えない。

 むくれて顔を上げ、その顔を見て一瞬言葉を失った。エドワードの横顔が堅く張り詰めている気がしたのだ。

 リッツと二人きりでいるというのにこんな顔をしているなんて珍しい。こんな表情、エドワードが本当は王族なのだとリッツに明かしたあの時以来だ。

「エド?」

「何だ?」

 硬い表情をさらりとしまい込んでエドワードが笑う。何故だかその表情に不安を感じた。エドワードは何かを隠している。

 それが何か分からないから怖い。

「夕食にするか? この建物の中でもいいんだが、窓が抜けてるから外と変わらないぞ?」

「え?」

 野営せずに済むことに安堵していたのにあまりの言葉に絶句する。

「内戦でここの貴族は全滅してな。それからずっと放置されてる。窓は割れているし、暖炉の煙突は詰まっているが、外よりはましかもしれん。一つを除いてな」

「一つって?」

「ああ、残された夫人と女中がこの中で自殺したらしい。まだ血の跡を掃除していない」

「ええっ!?」

「どうせ取り壊す予定だから放置してあるんだ。それでも良ければ……」

「普通、嫌だから!」

「では野営だな」

「……うう、仕方ねえな」

 渋々リッツは馬から下ろした荷物を背負う。

 林から少し離れた場所に、貴族が使っていたのか大きな木を中心とした庭園のようなものがあった。誰も世話をしなくなって時間が経っているから荒れてはいるが、森の中よりはましだろう。

 その大きな木の下に防寒用の敷物を敷いて荷物を置くと、周りに散らばっていた石を集めて簡易的な竈のようなものを作る。その中に集める薪はエドワードと二人で集めた。

 森の中で過ごすのは、山ごもりで慣れているから互いの役割も決まっていて手際は良い。

 ほんの一時間もたたないうちに全ての支度を終え、エドワードが持ってきた腸詰めや芋などを串に刺して金網に載せていた。

 以前はこれに獲物を狩る事も含まれていたからそれを考えると食材がある今は時間短縮だ。

 燃え上がる炎を見つめながら、何となく黙ってしまう。エドワードも言葉を発することなく黙って腸詰めを焼いている。

 周りから見るといつも無駄口のやりとりをしているように見えるリッツとエドワードだが、普段二人で過ごす時はそんなに話をしないこともある。ただ互いに共に時間を過ごすだけで満たされてしまう事も多いのだ。

 リッツもエドワードもそれほど賑やかな子供時代を送ってきたわけではない。だからこの沈黙の中でも互いの存在を感じ合えるだけで満足してしまうところはある。

 簡単な食事が終わり、エドワードが蒸留酒を出してきた。いつものように硝子のグラスはないから、鉄のカップで酒を注ぎ合う。

「乾杯するか?」

 カップを掲げて問うと、エドワードは肩をすくめた。

「何にだ?」

「国王陛下になったエドに」

 からかうように片目を瞑ると、エドワードは明らかに複雑そうな顔でリッツを見据えた。

「……パティと俺以上の友情を育んだリッツに」

 仕返しされてしまった。笑いながら二人で軽く杯を合わせると、グラスに口を付ける。

「安心しろって。エド以上はないよ」

「それは安心した。俺はリッツの一番の友でないと納得いかないからな」

 微かにむくれたようなエドワードが可笑しくて吹き出した。いつもは国王然として執務室にいるくせに、何故か今日のエドワードはとても幼く感じる。

「何だよそれ? 子供みたいじゃん」

「俺は意外と子供なんだよ。知らなかったか? お前に嫌われたくなくて隠し事をしたりもするしな」

「したなぁ、そういや。セクアナだったな」

 エドワードが王太子であると打ち明けられてから国王になった今迄、色々なことがあった。その全てを乗り越え、今ここに国王としてエドワードがいる。

 何だかそれが不思議な気分だった。

 もしかしたらこの大樹はティルスの大樹で、二人であの頃のまま長い長いうたた寝でもしている気分だ。

 過ぎ去った時間は長いのに、過ぎてしまえば一瞬で、その一瞬の一つ一つが妙に愛おしい。

 孤独を抱えて生きてきた百年以上の時間の中ではそんな気持ちを持った事は無かったのに。

「出会ってから五年経ったな」

 蒸留酒を両手で抱えるようにしてエドワードがそう呟く。

「うん。正確には五年と二月ぐらいかな」

「ああ。その間にお前は文字を覚えて、金の計算が出来るようになって、剣技を覚えて、女を覚えた」

「あ、最初の三つは良いけど、最後の一つを感慨深げに追加するなよ」

「お前の娼館での態度を見ていれば、追加したくもなるさ」

 苦笑しながらエドワードが片手で器用に蒸留酒をリッツにカップに注ぎ足した。

「そう?」

「ああ。女のあしらいと言い、煙草を吸う手つきといい、すっかり大人の男だったな」

「何それ、俺のこと褒めてんの? 褒めても何も出ないよ?」

「褒めたつもりはない」

「ひでえ。じゃなんだよ?」

「……いや、時間が経ったなと思ったんだ。幸せな五年だった」

 その声が持つ微かな暗さに思わずエドワードを見つめる。エドワードの目はリッツを見ていなかった。その視線の先を追うと、空が見えた。

 満天の空だ。雲一つない空には、無数の星が瞬きまるで降るようだった。

「俺はもうすぐ二十九になるが、たぶん一生の中で一番幸せな五年だったんじゃないかな」

「……エド?」

「戦乱の時間の中で、戦いに明け暮れてきたけど、それでも俺は常に幸せを噛み締めてたよ」

 嫌な予感がした。エドワードがこうしてぼんやりとしている時はろくな事がない。

 きっと彼は何かを考えている。思い悩んでいるのかもしれない。

 だがリッツにその心当たりがない。こんな事は共に過ごした時間の中で初めてだった。

 いつもエドワードが何かを思い悩む時、リッツはすぐにそれに気がつく。

 エドワード自身に隠す気がないからなのか、リッツになら気がつかれてもいいと思っているのか、エドワードの態度は分かりやすい。

 だが今回ばかりは全く分からない。

 空の星々がエドワードの目の中に映っているような気がした。それが闇に沈んでいるからなのかただ空虚だからなのか分からない。

 だがリッツは一つだけ気がついた。リッツをこの忙しい時期に遠乗りに誘ったこと、それ事態に意味があるのではないかと。

 エドワードが他に悩みを抱えていたならば、王宮で相談をしてくるだろう。だがエドワードはリッツと二人きりになれる場所を選んだ。これほど王宮から離れれば誰にも邪魔はされないだろう。

 つまりエドワードは……リッツに話さねば成らないことがあるということなのだ。

 それに心当たりはない。

 だからこそこの子供のような幼い眼差しをして遠くを見るエドワードが怖い。一体何を決め、何を考え、リッツをここに連れてきたのか全く想像が付かないからだ。

 俯いてしまったリッツが何かに気がついたと分かったのか、エドワードは自分の荷物に手を伸ばした。そこから丁寧に畳まれた大きな紙を取り出す。

「リッツに見せたいものがあるんだ」

「何だよ?」

「これ、見覚えないか?」

 エドワードが広げた紙を見て思わず声を上げる。

「これ、エネノア大陸図じゃんか!」

 海軍大将のエドモンド・マレーの部屋に張ってあったあの地図だった。エドモンドはあの地図を前にリッツに言ったのだ。

『ユリスラは小さいだろう』と。

「ああ。海軍のエドモンドに借りてきた。ジェラルドが死んでからたまに隠れて遊びに行ってたんだ。俺の世界への憧れはみな、ジェラルドを通してエドモンドから語られてたからな」

「そっか……」

 あの時は時間を掛けてみられなかったから、改めて地図をじっと見つめる。

 ユリスラ王国はこの大陸の南部中央にある。ユリスラの地図だけは革命軍としてシアーズまで攻め上ったリッツには見慣れたものだった。

 その地図の上をエドワードの指が滑る。戦略を説明する時によく見た滑らかな動きだ。

「これがリュシアナ王国連合。俺たちの西隣だ。王国がいくつか集まっているから牽制し合っているため、内戦は多いがユリスラに攻め上ってきたことは数える程もない」

「うん」

「このリュシアナの北部に、亜人種である獣人族が住むレッドヴァレーがある」

 エドワードの指がゆっくりとリュシアナ王国連合の北部へと動いた。そこには確かに『特別自治区レッドヴァレー』の文字がある。

「エド?」

「人並み外れた力を持っているらしいな。エドモンドが港で働いているのを幾度も見たと言っていた」

「なあ、エドってば」

 リッツが口を挟んでも、それを聞かずにエドワードは言葉を続ける。

「そしてユリスラの東隣がフォルヌだ。ここは血の気が多い国だから、幾度もユリスラに攻めてきている」

 ハロルド王の時代、幾度か戦乱があったことをリッツも聞いて知っている。ジェラルドやギルバートが昇進したのはその戦いがあった故だとも聞いた。

 口を挟まずにいるリッツに構わず、エドワードは言葉を続ける。

「ユリスラに比べれば技術力が高いんだ。カルのアイゼンヴァレーも大きな鉱山だが、あちらには更に大規模な鉱山があるし、その為の技術もユリスラと桁違いだそうだ。ソフィアのライターがあそこのものだろう?」

 ユリスラでは未だ火をおこすのにマッチを使う事が多い。

 だがソフィアは炎の精霊を使うためにマッチを一々擦っていられない。だから彼女が大切にしているのはフォルヌ産の高価な金属製のライターだ。

 以前ソフィアに、フォルヌ以外では作り出せないと聞いた。

「技術力は高くても、あまり農業に向いた国じゃないから、ユリスラの農業生産力が羨ましいのだろうな」

 白い指がゆっくりとフォルヌを辿っている。その指が一点で止まった。

「ここが特別自治区ロシューズ。炎の一族が住む地だと聞いた。傭兵にはおなじみの凄まじい戦士が住んでいるらしい」

 ファンが以前に『炎の一族は強いよ』と含みのある笑いを浮かべていたのを思い出す。それがどういう意味かは教えて貰えなかったが。

「フォルヌの隣はサーニア連邦。ここは厳格な法が支配する国らしいな」

 エドワードが指し示したのは、大陸で最も東に位置する国だった。ユリスラに匹敵する広さを誇るも、南部に砂漠があるらしい。エドワードがそう言いながら海岸線を指で辿る。

 エドモンドの地図には海岸線に沿った書き込みが多数されている。彼は海軍だから港町には詳しいのだ。

「たしかラヴィの出身地だったかな? 法が厳しいせいで貧しさから脱出することが困難だとシャスタがラヴィに聞いたそうだ」

「……ジェイもそこ出身だよ」

「そうか。この国の特別自治区はタシュクルというそうだ。鳥人族が住んでいるらしい。エドモンドは詳しいことは分からないとようだが」

「前にラヴィが観光地だって言ってた」

「特別自治区で観光地なんて、シーデナとえらい違いだな」

「うん」

 閉鎖的で関わりを全て断つような生活をしている自分の故郷を思う。もう二度と帰らないだろう故郷はとてつもなく遠く感じた。

「その西北にあるのがタルニエン共和国だな。ここが万年戦場を抱える傭兵の国だ」

「ダグラス隊の本拠地だね」

「そうだ。この国には蒼海族と呼ばれる亜人種がいるらしいが、特別自治区がどこにあるのか分からないらしい。全て地図に記されているわけではないんだな」

「そうだね……」

 エドワードが何をしたいのか分からない。だがリッツが遮ることを許さないそれには、何故か妙に思い詰めたものがあった。

 何を考えているのだろう。何故今これを持ち出したのだろう。それが全く分からずに戸惑うばかりだ。

「その西隣がゼウム神国だ。ここがどんな国なのか、流石にエドモンドも分からないそうだ。大陸一周の際に遠く離れて航海したそうだがな」

「そっか」

「お前の母親の故郷だ。もしかしたらお前の方が詳しいかも知れないな」

「母さんは何も話してくれなかったよ」

「……そうか」

 エドワードの指がゆっくりと地図の中央を辿った。そこにあるのはエネノア大陸中央大山脈だ。この山脈がこの大陸の中央に存在しているから、北と南が完全に別れてしまっているのである。

 だから陸路でも海路でも、この大陸を巡るにはぐるりと一周する必要がある。

 エドワードの言葉はそれを告げて途切れた。

 耳に心地よい、少し低音なエドワードの声が途切れると、途端に周りは夜の静寂に包まれてしまう。薪が火に爆ぜる音すらも大きく聞こえる程だ。

 リッツはじっとエドワードを見つめた。エドワードの視線は地図に落とされたまま全く動かない。

 そこにある思い詰めた何かが、リッツの心に漣を立てた。

 ただ何かを堪えるかのように地図を見つめ続ける友を見ていることしか出来ない。

 やがてエドワードは口を開いた。

「リッツ」

「ん?」

「……俺と離れて世界を見に行ってこい」

 一瞬、時が止まってしまったように感じた。

「え……?」

「俺から離れて旅をしてこい」

 耳の奥が詰まり、何も聞こえない。目の前に霧がかかったように全てが不確かになっていく。

「何……いってんの……?」

 今迄確かにこの手にあった未来が、突然闇に閉ざされた気がした。

「俺の夢を以前、お前にやるといったな。今がその時だと思うんだ」

 落ち着いた柔らかなエドワードの声が、リッツにとってはまるで死刑宣告だった。

 どうして……。

 喉に貼り付いたようにそれすら言葉が出てこずに、ただエドワードを見つめる。

「世界は広いんだ。ユリスラはこんなに小さい。お前はこの小さなユリスラの小さな場所しか知らない。それではあまりに詰まらないだろう?」

 詰まらない? エドワードの隣が?

 仲間達の元にいることが?

 そんなわけがない。リッツに取ってはエドワードの隣にいることが、革命軍として共に戦ってきた仲間がいるこのシアーズが全てだ。

 小さくなんてない。心の全てを占める程に大切なこの場所が小さなはずなどない。

「世界は広いんだ。地図上だけだってこんなに大きい。それを見ればきっと何かが見つかる」

 何故……。

 何故そんなことを言うのだろう。

 エドワードの口からそんな言葉を聞きたくなかった。

「エド……」

 自分の口から漏れた声がか細く震えている。そのことに自分で気がついた。

「何だ?」

 静かに答えたエドワードの声はリッツと反して落ち着いている。

「俺を捨てるの? 出て行けって言っているのか?」

「違う」

「違わないだろう!!」

 悲鳴のような叫びになってしまった。

「何かって何だよ、何が見つかるってんだよ! 巫山戯るなよ! 俺が何年生きてると思ってんの? 百年以上生きてきて、見つかったのはこの場所だけなのに!」

「そう、この場所だけなんだ。あまりに狭いだろう?」

 言葉が通じていない気がした。それが悔しくて悲しい。

 どれだけの時間を孤独に過ごしてきたのか、その中で見付けたこの場所がどれほど大切なのか、エドワードは知ってくれているはずなのに、何故こんな事を言い出したのか全く理解できない。

 もしかして、もう用済みになってしまったのだろうか……。

 不安で目の前が眩んだ。

 年を経てそれでも役に立たなければ自分が追いつめられるなんて分かっていた。でもそれは全部自分が抱えなければならない問題だと思っていた。

 なのにそれをエドワードが何故言い出した?

 知らないうちに、エドワードにそう思われる何かの罪を犯してしまったのだろうか。 

「俺、何かしたか? お前の傍にいられないようなことしでかしたのか? なあ、エドっ!」

「そうじゃないんだ、落ち着いてくれリッツ」

 落ち着いているエドワードに余計腹が立った。

 これからもずっと共に、隣にいられると思っていたというのに、何故遠ざけようとするのか、それが分からない。

 戸惑う以上に恐怖がこみ上げてきた。

「俺はもういらないのか……? 役立たずだからもういらなくなったんだろう!」

「リッツ」

「大臣に任命したのに役に立たない俺に腹を立てたのか? 俺、最初から出来ないって、そう言ってたじゃんか!」

 一緒に来いと言った。

 命ある限り、共にといってくれた。

 それを何故今になって反故にするようなことを言うのだろう。

「俺が面倒くさい? 俺、いつもお前に心配掛けちまうし、ガキだし、お前が意図したことを理解できないことがあるから、もう俺には期待してないのかよ。戦いが終わって剣だけの俺はもうお前の傍らにいる役目が終わったってのか?」

 気がつくとエドワードに掴みかかっていた。

「もうお前に俺は必要ないのかよ!」

 怒っているはずなのに口から漏れた叫びは震えていた。

 怖くて、悲しくて、やりきれなくて、この心をどこに置いていいのか分からない。

 だから目の前にいる静かな表情のエドワードに掴みかかった。防寒具を両手で掴む腕は細かく震えた。

「ずっと隣にいろっていったくせに!」

 悲鳴のような叫びになってしまった。

「リッツ」

 気がつくと掴みかかったはずのエドワードにいつの間にか抱きしめられていた。

「何だよ……こんな事で誤魔化されないからな!」

 叫んだ声が掠れていた。

「……泣くな」

 耳元でエドワードの柔らかな声が聞こえた。

「泣いてなんかっ……」

「泣くなよリッツ」

 抱きしめられた腕の力強さと、自分の頬を濡らす冷たい涙に声が詰まる。

「うっ……くっ……」

 叫びたい言葉がいつの間にか嗚咽に変わっていた。しがみつくようにエドワードのコートを握りしめる。

「何で……何で……」

 言葉が途切れ途切れで意味を成してくれない。嗚咽が喉の奥からこみ上げて言葉が紡げない。

 分かるのはエドワードの腕の中が暖かいと言うことだけだった。

「俺……俺……」

 お前は必要ない。

 この世界にお前のいる場所は無い。

 生きている意味など無い。

 お前は一族から名すら与えられない咎人だ。

 幼い頃から投げかけられてきた言葉の数々が、エドワードの声になって流れ込んでくる。

 エドワードがそんなことを言うはずなど無いのに、そんなリッツの過去を知らないはずなのに。

 名前を呼んでくれたのはエドワードなのに。

「もう……俺は……いらないの?」

 やっと口に出来た言葉はそれだけだった。

 初めて会った時に差し伸べられた手。

 真っ直ぐにこちらを見つめてきた瞳。

 揺るぎなく寄せられる信頼。

 エドワードに与えられたその全てがリッツの生きる糧だった。

 命すらも彼に託して、その全てをかけても共にいたいと思ったエドワードが自分を傍らから離そうとしている。

 革命軍の仲間からは、二人で一対の英雄と言われた。それもリッツの誇りだった。

 でもリッツにとってはエドワードに半身だと言われたことの方が何十倍も何百倍も嬉しかったのだ。

「どうして……エド……」

 こみ上げる涙を抑えられずにエドワードの肩に額を押しつけた。

「ごめんな、リッツ。俺が言葉足らずだったな」

 そう言いながらエドワードの手が優しく頭を撫でてくれる。

 出会った時から戦場に出るまでは、エドワードは子供にするように、よくリッツにそうしてくれていた。

 でもリッツがダグラス隊と共にいるようになってからは久しぶりの感覚だった。

 そうだ、こんな風にエドワードに甘えることは久しぶりだ。いつもエドワードを失う恐怖を抱え、彼に触れることすら怖くて、近くに寄れなくなってしまっていた。

 今に始まったことじゃなかった。

 いつの間にかエドワードとの距離が開いていた。そんなことにようやく気がつく。

 しかも距離を取ったのはリッツの方だった。

「リッツ。このままで良いから聞いて欲しいんだ」

 優しく抱きしめて頭を撫でながらエドワードが囁く。

「俺たちはお互いに弱いよな。俺は自分が王太子だと知った日から本当に孤独だった。お前が俺の隣に並んでくれたあの日まで、俺は心の底で誰も信用できなかったんだ」

 染みこむように言い聞かせられた。だから黙ってじっとエドワードの声を聞く。

「俺はお前がいたから息が出来た。お前がいたから俺はここまで来れた。お前がくれた五年間があったから、俺は今の俺でいられるんだ。お前には感謝している」

「……エド……」

「お前が大切だよ。自分自身よりも余程お前の方が大切だ。だから俺は……お前に幸せになって欲しいんだ」

 その声に含まれる重みにリッツは初めて気がつく。

 エドワードの声は優しくて暖かいのに、何故か微かな怯えと哀しみが含まれている。

「……俺が死ぬ時お前を殺すと約束したよな。それは俺たちの誓いだ。絶対反故にはしない。だけどリッツ、もしお前が幸せになったら……」

 言葉を切ったエドワードの腕に更に力がこもる。

「もしお前が幸せになったら、俺はお前を殺さない。だからリッツお願いだ……諦めないでくれ」

 絞り出すような声だった。

「俺だってお前を手放して普通でいられる自信なんて無い。お前が隣にいてくれるから俺は笑っていられる。ずっとこの五年そうだったもんな」

 ぽつりと、何かが頬を濡らした。それがエドワードの涙だと気がついた。

「もし世界を旅しても見つからなかったら、最後の瞬間は俺の隣にいれば良い。俺は約束を果たすよ」

『その時はそうだな、お前を殺してやる』

 それはファルディナでの約束だ。

「でもリッツ、ほんの微かな可能性でもお前が世界を見てきて、幸せになれる手がかりを見付けられる可能性が残っているなら、俺はそれを探して欲しいんだ。お前に死に向かうことだけしか考えられないまま、ここに残って欲しくない」

 苦しい、とエドワードが声に出さずに叫んでいる気がした。

 このままエドワードの隣にいれば、リッツが死しか望まないことをエドワードは分かっている。

 隠し仰せていたつもりだったのに、今殺して欲しいと望んでいたことを感付かれていた。

 それがエドワードを苦しめていた事に初めて気がついた。

「なあ頼むよ。絶対にないなんて言わないでくれ。針の先程の希望でもいいから、お前が生きたいと思う何かを探してくれ」

 ……俺にお前を殺させないでくれ。

 エドワードの心の声がそう聞こえた。

 今すぐに死にたい、殺して欲しいとリッツが望むほど彼はリッツを殺すことに恐怖していた。

 自分よりも大切だと言ってくれた友に、リッツは苦しむ事に疲れてエドワードが恐れる恐怖を押しつけていた。

 リッツの存在がエドワードを苦しめるならば……エドワードがリッツがいる事でこんなに苦しむのならば……。

 離れるべきなのだろう。

 自分の全てよりも大切な、この親友の元を。

「……エド」

「何だ」

「確認したいんだ。もし俺が何も見付けることが出来なかったら戻ってきていいんだよな?」

「ああ。もちろんだ」

 約束は違えない。それだけがリッツの救いだ。

 戻れる場所があるだけ、今迄の自分とは違うのだから。

「旅をして、それでもここに居たいと望むなら、戻ってこい。ここはお前の場所だ」

 エドワードの力強い言葉に頷く。

 強くなりたい、そう思った。

 たぶんリッツは旅をしても、世界を見ても自分が幸せになる為の何かを見付けることなど出来ないと思う。

 だから強くなろうと思った。

 共にいても殺してくれと願うだけの自分は弱すぎる。

 隣にいてもそう望まずに笑って彼を支えるような、そんな強い者になろう。

 エドワードが望むように、世界を巡ってみよう。もしかしたらそこにリッツの望む強さがあるかも知れない。

 彼の生が終わるその時まで、彼が苦しまずに安心して隣にいられる相棒になれるように、強くなりたい。

 強くなった時が、エドワードの元に戻れる時だ。

 顔を上げエドワード越しに星空を見上げた。

 暗い夜空を照らす星々は、たとえリッツがどこに行ったとしても同じように天上に瞬いているだろう。

 だから……きっと大丈夫だ。

 決意を固めてリッツはエドワードから離れた。

「エド、俺は……行くよ」

「リッツ」

 心を決めたのにそんなに辛そうな顔をされたらこちらも辛い。

 離れたくなんてない。

 でも弱すぎて彼の傍にいられない。

 だからエドワードが望むように離れる。

 いつか強くなって、笑ってここに戻るために。 

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