<9>
「こんな時間に済まない、ギル」
夜も更け周りが寝静まる深夜、エドワードはギルバートの屋敷を訪ねていた。連絡もせずに訪問したにもかかわらず、明かりの灯った屋敷はエドワードを受け入れてくれたのが有り難かった。
ソフィアの案内で通された応接室のソファーに座り、屋敷の主を前にエドワードは項垂れて座っていた。
戴冠式から既に二週間が経っている。それほどに決意を固めるまで時間がかかってしまったのだ。
ギルバートの屋敷は王城からそれほど離れてはいない貴族たちの屋敷が建ち並ぶ一角にある。戦いで命を落とした貴族の比較的大きな屋敷を接収して使っているのだ。
ダグラス隊の本拠地でもあるのは、彼らが共同生活をしていることからも分かる。
「俺は構わんが、こんな時間に出歩いていいのか、国王陛下?」
からかうような言葉にエドワードは唇を噛む。
「……やめてくれギル」
「わりと本気で言っているぞ? 護衛も付けずこんな時間にどうしてここに来たんだ。立場上知られたら不味いだろう?」
未だギルバートは謹慎中で有り、登城してくることはない。王太子に逆らった罪は、この国に於いてそれほどに重い。
その謹慎中の部下の元に、国王自らたったひとりで深夜に通うなど前例はない。
「だからこの時間になったんだ」
「護衛の馬鹿はどうした?」
「……リッツには聞かれたくない」
小さく呟くと、ギルバートの表情からからかいの色が消えた。
「何があった?」
心配そうな声は、今まで通りにエドワードを見守る大人の声色だった。そのことに安堵しながら口を開く。
「ギルはいつこの国を出るつもりなんだ?」
登城しないで済むこの隙に、彼はタルニエンへ帰る準備をしているのだと元ダグラス隊の弓使いであったジェイムズに聞いた。
その為娼館にいない日もあると聞き、彼がこの屋敷に帰っている日を狙って訪ねてきたのだ。
「ジェリーの代わりにお前とパトリシアの婚儀を見てから去ろうと思っている。そうすれば死の国でジェリーと再会した時の土産話になるからな」
「そうか……」
二人の婚儀が行われるのは新祭月だ。新祭月の祝い事と共にしてしまえば祝い事の予算が少なくて済むというグラントの勧めでそうなった。
それまでエドワードに残された時間はたった二週間しかない。
「早く処分を決めてくれるか?」
「……来週にはギルの任を解く命令を出すよ。待たせてごめん」
「いよいよか。コネル達はどうした?」
「ちゃんとギルの言いたいことに気がついてるさ。グラントだって分かっている。その上で留めたいとは思わないよ。コネルは申し訳ないっていってた」
『あの時、モーガン侯に行かせずに、俺が王城に行っていればモーガン侯は死なずに済んだ。何故あの時それを言わなかったのか、未だに後悔し続けているさ』
ギルバートの真意を知った後にそう呻いて頭を抱えたコネルのことを思い出す。
コネルにとってジェラルドとギルバートは心から尊敬する上司だったのだ。その双方を失うことはコネルにとってどれだけの痛手だろう。
「あいつに罪はない。俺としては予定通りの行動だからな」
「……ジェラルドが生きていたら違っていたんだろう?」
「ああ、そうだな。だがそれは仮定でしかない。あいつがいる未来はもうない」
「……そうだな」
過去は取り返せない。だから前に進むしかない。そんなことは分かっている。
「それで何をしに来たんだ、エドワード?」
改めて聞かれてエドワードは俯く。
目の前にギルバートがいて、隣にはソフィアがいる。近くにヴェラやラヴィ、ファンやエン、ジェイ、チノもいる事は分かっている。
エドワードが人払いを頼まなかったからだ。
「……エドワード?」
柔らかな口調に、エドワードはテーブルに両手を付いて頭を下げた。
「頼むギル。リッツをダグラス隊と一緒に連れて行ってくれ」
全員が息を呑む気配を感じた。彼らはリッツがどれだけエドワードを大切にしているか、エドワードとリッツの結びつきがどれだけ強いか分かっている。
だからこそ言葉も出ないのだろう。
「ちょっと、何を言ってるのよエドワード?」
ダグラス隊の中でもリッツとシャスタと親しいヴェラが口を開く。
「リッツが貴方と離れて生きていけるわけがないでしょう?」
「……」
「ねえ、シャスは分かっているの?」
責めるような声に小さく首を振る。
「……話していない」
「リッツ本人は?」
「まだ言ってない」
呟くように答えるとヴェラの表情が変わった。
「ちょっと酷いんじゃないの? リッツを捨てるの? シャスにも内緒で! シャスはエドワードとリッツを兄と慕っているのよ? リッツなんて貴方が全てじゃない! リッツを殺す気なの!?」
「やめろ、ヴェラ」
感情的なヴェラを留めたのはギルバートだった。
「やめないわよ! あの子はね、私たちにとっても可愛い弟分よ? みすみす不幸にするような事を許すわけがないでしょ」
「ヴェラ」
圧力さえ感じるようなギルバートの制止に、ヴェラはエドワードを見据えたまま口を閉じる。責められるのは分かっていたから、エドワードはそれを敢えて受け止めた。
「やはり俺一人で聞こう。皆、今日は休め」
これから話すエドワードの言葉が王としての立場から離れて行く事が分かったからか、ギルバートがそう口にした。
柔らかな口調だったが、ギルバートの言葉はダグラス隊では絶対だ。
こちらを見据え、まだ何か言いたげな視線を隠しもしないヴェラの肩を抱くようにソフィアが促し、ダグラス隊の幹部達は黙って部屋を出て行った。
残ったギルバートは蒸留酒をグラスに注いでエドワードの前に差し出す。
「とりあえず飲め。それからお前の話を聞かせろ。リッツを連れて行くかを決めるのはそれからだ」
頷くとグラスを受け取り、エドワードは蒸留酒を一口飲んで口を湿らせてから口を開いた。
「ギル、俺はリッツを殺してしまうかも知れない」
エドワードの言葉にギルバートが黙ったまま眉を上げる。不信感を持たせてしまったかも知れないが、事実だった。
前に酔ったリッツがエドワードに言ってきたことを全て話した。誰かに話を出来る事がこれほどありがたいと思った事はない。
ギルバートはただ黙って蒸留酒を傾けながら話を聞いてくれた。
ジェラルドがいなくなり、リッツが思い詰めるようになってから、自分の内心を話したのが初めてだと気がついた。
婚儀の準備に追われるパトリシアやシャスタには話すことが出来なかったのだ。
話が終わる頃にはギルバートが数杯目の蒸留酒を口にしていた。エドワードのグラスは最初の一杯すら空いていない。
「……なるほどな。お前はリッツを縛りたくないのか」
呟きにも似た確認に頷く。
「あいつは精霊の迷い森と、ティルスしか知らない。各国に亜人種がいる事は知識として知っているけど、まるでそれを実在のこととは思っていない。俺はあいつがもっと世界を見れば幸せになる方法が見つかるんじゃないかと思うんだ」
世界を知り、そして世界の中に自分の幸福を見付けてくれたら。
それをエドワードは願っていた。
狭い世界しか知らずにエドワードに殺されるためだけに生きるなんて、そんな希望のない人生を送らせたくなんてない。
「お前は一人になるぞ?」
子を思う親のように優しく諭されて苦笑する。
「俺は結婚するんだよ、ギル。一人にならないさ。それにシャスタもコネルもグラントもいる。ジェイムズだって残ってくれる。大丈夫さ」
そう、大丈夫だ。
エドワードはそう決意していた。
戴冠式後にリッツがいなくても自分は立っていられる、生きていけると自分で信じるまでに二週間もかかってしまった。
「だがエドワード……」
なおも言いつのろうとするギルバートの顔を見つめる。
「なんだい、ギル?」
「本当に友を必要としているのは、リッツではなくお前の方だろう?」
ギルバートの言葉に再び俯く。ギルバートはエドワードの弱さに気がついていたのだ。そのことに驚くと共に安堵した。
「よく分かるな」
「ティルスでのお前らを見ていると分かるさ。あいつを手放して壊れるのはお前だろう?」
今まで内面深くまで入り込んでくることをしなかったギルバートが、初めてエドワードに踏み込んできたのを感じた。
今までのように誤魔化すことも出来る。でもエドワードはギルバートにリッツを託すと決めた。だから正直に全てを打ち明けることにする。
「ギルの想像通りだ。本当に弱いのは、俺なんだよギル」
口にするだけで胸が痛い。
「エドワード……」
「リッツがいないと駄目なのは、俺の方なんだ」
誰にも言えなかった。リッツ自身にすらもだ。
リッツが自分自身の存在に苦しむのを知っていたから、弱さを彼に完全にさらけ出すことが出来なかった。
顔を覆いながら、小さく隠していた心を開いた。ジェラルドにもパトリシアにも、リッツにも言えなかった本心をさらけ出していく。
「自分が王の血を引くと知った日からずっと、本当に誰かを信用したことなんて無かった。分かるかいギル。普通の農家の跡取り息子だと思っていたら、突然お前はうちの子では無いと親に突きつけられるんだ」
「エドワード……」
「呆然としている間に勝手に話が進んでいって、いつの間にか俺はティルスを出てグレインのモーガン邸に住むことになっていた。追い出されたような気持ちで、正直アルバートとローレンを恨んだ時もある」
これからもここが家だと思っていいのだと実家を出る時に言われた。でもそれすらエドワードは信じられなかった。
「モーガン邸に行って、俺が王の血を引くこと、その為に学ぶべき事があるからここへ置かれていると分かった。国家のためと言われて俺が嫌だと駄々をこねることなんて出来ると思うか?」
「……お前は真面目すぎるからな」
「真面目じゃない。臆病なんだ。駄々をこねても許される程愛されている自信が、家を追われた俺にはもうなかった。俺に残された希望は、彼らが望むように生き、彼らに捨てられないように努力すること、それだけだった」
思えば幼い頃からふとしたことで両親と距離を感じることがあった。王の血を引いていると聞いた時、彼らが距離を取っていたのではないかとようやく気がつき納得がいったものだった。
「ジェリーは露骨にそれを出す男ではないだろう?」
「もちろんそうだ。ジェラルドは本当の親のようだったよ。アルバート以上に父のように接してくれた。なのに俺はそんなジェラルドさえ疑っていたことがあるんだ。幼いパティだって疑った」
「何をだ?」
「もし俺が王の血を引いていなかったらこんな風に信用されただろうか、こんな風に手を差し伸べてくれただろうかって」
もしエドワードが万が一間違いで王の血を引いていなかったら、実家のように追い出されるのではないかと思っていたのだ。
「いつも俺は……不安だったんだ」
ローレンとアルバートはエドワードが国王の子だから育てていただけなのかも知れない。
ルイーズの親友だったからローレンはエドワードを育てたのであって、エドワード自身を愛してくれたわけではないのではないか。
だから十二の年にエドワードをジェラルドに預け、エディからエドと愛称を変え、他人に戻ったのではないのか。
それはエドワードの中に根強い不安感として残った。周りを見渡してみても、エドワードという個人を愛してくれる人などいないような気がした。
その上、国王を目指す為に、特別に親しい人間を作ることが望ましくないと知ってしまったのだ。
誰もエドワード自身を望まない。皆が望むのは王の血、それだけだ。
それがエドワードの心を追いつめた。だがそれでもエドワードは静かに微笑み、王太子としての学びを積み重ねていく。
もう誰にも捨てられたくなかったからだ。その為に理想の王太子を演じ続けねばならなかったのだ。
誰か、誰でもないエドワードを信頼し、愛してくれないだろうか。国王の子ではなく、ただ一人の人間としてのエドワードを信頼し、愛してくれないか。
エドワードはいつも、そう叫ぶ自分の心を、夜の街を行き交う人々をただ眺めることで宥めてきた。人混みに紛れていれば、特殊な自分が普通の人間として生きている錯覚をすることが出来た。
普通の自分を想像するために人混みにただ足を運んだ。通りを過ぎていく人々をぼんやりと眺めながらただ街で時間を過ごした。
そう……エドワードはただ寂しかったのだ。孤独だったのだ。
そんな孤独を抱えて十二年。
孤独を心の底に沈めて諦めという仮面をかぶり、何の問題もないよく出来た人間を演じることに慣れきった頃、リッツに出会った。
初めて出会った時、リッツはエドワードをじっと見つめていた。その瞳に期待や希望はなく、ただガラス玉のように空虚で胸を突かれた。
その瞳を見て自分と同じだと思った。孤独に震え、自分の生を恐れるその姿に自分を見た。
こいつなら……リッツなら自分を理解してくれると直感で理解した。
『生きる気はあるか?』
もしも彼が頷いたなら、救われる気がした。リッツはその問いかけに微かに頷いた。
『ならば命尽きるその時まで、生きてみないか? 俺と共に』
『あんたと一緒に?』
『そうだ。俺が生きる場所を与えてやる』
だから俺と一緒に生きてみないか? お前とならこの孤独を分かり合える気がするんだ。
でもそんな弱い部分なんて見せるわけにないかなかった。彼が孤独と不安を抱えていると分かったから、不安にさせないように笑って見せた。
自信に満ちて見えるように朗らかに手を差し伸べてみた。この手を取ってくれと願ったのは、リッツじゃない。
エドワードだったのだ。
だからあの時エドワードはリッツを助けたんじゃない、自分を救うためにこの手を差し伸べたのだ。
今なら分かる。
エドワードは孤独から救われたかった。誰かから無条件に信頼され、自分も無条件に信頼したかった。王の血なんて関係なく、一人の人として信じ合える相手が欲しかったのだ。
そしてリッツはエドワードの手を取ってくれた。
『……俺の命、貸してやるよ』
血の気が引いて少し冷たい手を握った時、どれほど嬉しかっただろう。
ようやく息が吸えると思った。
共に暮らすようになってなお、リッツはエドワードが何者かを詮索したりしなかった。ただティルスで友として隣で笑っていてくれた。
何者でもないエドワードの手を取り、無条件に信頼し、笑顔で友として隣にいてくれた。
だから怖くなった。自分が何者かを打ち明けた時、彼と自分の関係が全て崩壊するのではないかと疑ってしまったのだ。
親に手を離されたあの日を思うと、中々彼に打ち明けることが出来ない。
共に一年を暮らし、ようやく決意して自分が戦いの中に身を投じようとしていることを話した時、エドワードが王の血を引くと知らないのに、友だから一緒に行くと笑っていってくれた。
それどころか『馬鹿じゃねえの?』と笑い、エドワードの不安を吹き飛ばしてくれたのだ。
そんなリッツを見て、ようやくエドワードは自分が王の血を引く立場であることを打ち明けることが出来た。
それでもリッツは変わらず友としていてくれた。エドワードが国王の血を引くことなど、リッツに取ってたいした問題ではなかったのだ。
周りの人々のように態度を変えることをせず、騎士団に配属されてもなお、グレインで普通の友として馬鹿なことにも、くだらないことにも付き合ってくれた。
それがどれほど救われることだったか、リッツは知らないだろう。
リッツがいたから、ジェラルドやパトリシアの愛情を信じることが出来るようになった。
ローレンやアルバートとは距離を中々縮められなかったが、彼らが親として愛してくれていたことを理解できるようにもなった。
人々の中にいながらも笑顔で孤独を飼い慣らしていたエドワードは、孤独を捨てることが出来た。
リッツがいたからだ。
だからエドワードは……リッツに依存してしまった。そしてリッツを逃れられない立場に縛り付けてしまった。
それがどれほど彼を傷つけるのか分かっていたはずだ。でも分からない振りをした。
実際に気がついた時には血の気が引いた。
だから……。
「だからギル。リッツを自由にしてやりたいんだ。もっと広い世界を見て、俺以外にもあいつを大切に思う人がいることを感じ取って欲しいんだ」
「エドワード……」
「俺はあいつに幸せを貰った。孤独じゃないことがこれほど暖かいなんてあいつがいなければ気がつかなかった。あいつを信頼し、仲間を信頼して愛することが出来たからパティと想い合うことが出来た。もう十分にリッツから幸せを貰ったんだ」
そんなことにリッツは気がついていなかっただろう。いつもエドワードに縋っているのは自分だと思っているに違いない。
でも違うのだ。それをエドワードだけが分かっていた。
「俺はあいつがいるから幸せになれるのに、あいつは俺がいると不幸になる」
「……エドワード……」
「そんなのは嫌だ。嫌なんだよっ! 俺はあいつを不幸にしたくないんだ!」
最近見る夢を思い出す。
エドワードは夢の中で色々な方法で大切な友を殺してしまう。
首を絞めた感触、短剣で斬りつけた感触、毒を飲ませる罪悪感……。
目が覚めると全身に冷や汗を掻いている。
夢の中で殺される友は、必ず幸せそうにエドワードを見て笑うのだ。そしてうっとりとエドワードに告げるのである。
『ありがとう』と。
「……たぶん俺はリッツを殺してしまう。俺が死ぬその時まで待たずに、きっとあいつをこの手で殺める。あいつが壊れていくのを俺は見ていられない」
あの夢の通りに。
だからエドワードは決めたのだ。
「だからギル、リッツを頼む。あいつに広い世界を見せて欲しい。傭兵としてダグラス隊と共に行くのならばあいつは断れないはずだ」
エドワードは深々とギルバートに頭を下げた。
「国王としてじゃない。一人の男としてギルに友を託す。お願いだ」
じっと頭を下げたままいると、ギルバートが深く溜息をついた。
「分かった。リッツは預かろう」
「……ありがとう、ギル」
「本当にいいんだな? あいつが世界を見るといってもあいつも弱い。もしかしたらあいつは一度お前から離れれば、二度と戻らないかも知れない」
リッツはきっと世界を知るためにエドワードの元を離れることを素直に受け止められないだろう。
エドワードの願いで旅に出すのに、きっとリッツは自分の責任だと自分を責める。そうなればリッツが簡単には自分の元に戻れないだろう事など分かっている。
それでもこのままエドワードの傍で壊れていくよりも、たった少しの可能性であってもリッツが幸福を見付けられるかも知れないことに賭けた方がいい。
「もとより覚悟の上だ」
「……そうか」
「俺からリッツに話をする。だからギルバート、リッツを頼む。俺にとって……たったひとりの友だ。俺の命よりも大切な奴なんだ」
正しい選択なのか分からない。でもエドワードにはそれしか選択肢がなかった。
世界を見て来て欲しい。そして世界を知り沢山のことを知って欲しい。その上で戻って来てくれるなら、どれほど嬉しいだろう。
この手を離すというエドワードの選択が、願わくば彼の幸せになるように。
「頼む、ギル」
ギルバートに深く頭を下げてエドワードは応接室を出た。ギルバートはただ黙って頷いただけで、エドワードを引き留めなかった。
それが優しさだと分かっていたから有り難い。
「エドワード、お祝いを渡そうと思ってたんだけど」
屋敷を出かかった時にふと呼び止められ、振り返るとラヴィが立っていた。
「お祝い……?」
「そう。戴冠式の後、バルコニーで民衆に挨拶したよね。あの時の絵を描いたんだ。リッツと一緒に時折眺めてくれると嬉しいよ」
満面の笑みで差し出された包みをみて、エドワードは言葉を失う。共に絵を見ることなんてもうないのだと分かったからだ。
「ラヴィ」
「なんだい?」
「……リッツはギルに託す。だからこれからもリッツを面倒見てくれると嬉しい」
「……エドワード?」
「ごめん。リッツと一緒には見られない」
「それってリッツが傭兵になるってことかい?」
「ああ」
本当は傭兵になんて成って欲しくない。でもダグラス隊に託すと言うことはそういうことだ。それでもたったひとりでこの国を出ろと言うよりもリッツに取っては決意を固めやすいだろう。
つい俯くと、目の前に絵を包んであった布が落ちた。
「ラヴィ?」
目を上げるとラヴィが絵にナイフを突き立てたところだった。
「! ラヴィ、何をするんだ!」
止める間もなくラヴィは絵をナイフで二つに裂く。
「ラヴィ!」
「エドワード、これを君に」
差し出されたのは大臣の正装をし、微かに俯きがちに、だが幸せそうな笑みを浮かべるリッツの姿を描いたものだった。
「……これ……」
「エドワードの分だよ」
「……凄いな……リッツ、こんな顔をしてたんだな」
小さく呟きながらその絵を見つめる。自分は前を見ていて知らなかった。
「君に持っていて欲しいんだ」
「何故俺に……?」
顔を上げると切なげなラヴィの顔があった。ラヴィはこの絵の半分をエドワードに見せることなく、落ちた布で優しくくるんでいる。
これがリッツならば、きっとあちら側に描かれているのはエドワードだ。
「忘れないで欲しいから。僕の決断の意味を今君が知ることは出来ないと思う。だけれどきっとこれを持っている事に意味がある日が来るから」
「……その半分をどうするんだい?」
そこにある自分の顔も見てみたい。どんな顔で民衆に手を振ったのだろう。
そう思ったがラヴィはそれを見せてくれなかった。
代わりに微かに寂しげな顔で笑う。
「エドは知らなくていい」
その絵の片方がどうなったのかをエドワードが知るのは、大分先の未来のことだった。




