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真冬の高く澄んだ空の元、国民が待ち望んでいたエドワードの戴冠式が行われることとなった。
王国歴一五三七年一二月一日。
護衛の近衛兵達に守られたエドワードは、玉座の間の大扉の前に立っていた。普段からは考えられない程の緊張感に満ちた空気に、微かに身震いする。
この日を境に全てが変わる。それだけは分かっている。
だがエドワード自身はその変化をそれほど感じているわけではない。今と立場が変わってもやるべき事は同じだからだ。
だが周りの人々は変わらざるを得ないだろう。それが国王という立場なのだから。
エドワードはそっと大扉に触れてみる。そこに彫り込まれているのは、ユリスラ王国建国神話だった。
全てを見守る女神エネノア、この国の守護精霊王といわれる光の精霊使い、そして初代国王と精霊族の青年。
この戴冠式を前に、エドワードは王城の奥にあり、儀式の時にしか使われないという、光の精霊王の神殿へ出向いた。王になることを光の精霊王に報告する為である。
その時にもこの建国神話の彫刻を目にしている。
不思議なものだな、とエドワードは思う。元々ジェラルドはリッツがグレインにやってくるまで建国神話をなぞって王位を目指そうなどと夢にも思っていなかっただろうし、エドワードも勿論そうだった。
だが実際に精霊族であるリッツが現れて、こうして建国神話をなぞってここまで来た。
建国神話に詳しく書かれてはいないが、この精霊族は精霊使いだったらしいという伝承だけは残っている。リッツと建国神話の精霊族は、この一点だけは異なっていた。
小さく息を吐き出し、エドワードはふと自分の左側を見た。
いつもなら一歩後ろにリッツが控えているのだが、今日は誰もいない。戴冠の為の道を歩けるのはエドワード一人なのだ。
戴冠式において重要な役割を担って貰うため、リッツは既に中に控えているだろう。
再び扉を見つめて感慨にふける。
この扉の中には各自治領主を始め、ユリスラ王国のこれからの歴史を積み重ねていくであろう人々がすでに集っている事をエドワードは知っている。
内戦後であり、前国王からの王権の委譲でも無いために国外の招待客はいない。現在の国家の状況に合わせて戴冠式は最小限でとエドワードが望んだためである。
でも、エドワードが一番望んだ人たちがいない。
父として師として接してくれたジェラルド、親友の師として、そして二人をただ一人立場を超えた大人として見守ってくれたギルバートだ。
二人とも大切だったのにもう遠い。王になることはこうして失っていくことなのかも知れない。
「殿下、ご用意はよろしいでしょうか」
憂いに沈みそうになっていると、近衛部隊長代理が尋ねてきた。その顔をエドワードはよく知っている。近衛兵の半数はグレイン騎士団がつとめているからだ。
「……形式とはいえ中々面倒だな、マルヴィル」
溜息交じりに愚痴をこぼすと、マルヴィルは昔と違って臣下の顔で苦笑した。ここにも失いつつある存在がある。
「面倒がられますな。形式が最も重要である式なのですから」
「分かっているんだがな」
小さく息をつくと、マルヴィルに笑われてしまった。
「この期に及んで躊躇いにならないでください」
「躊躇ってはいないさ」
ただ自らの歩む道が未だ不確かであることを思い、足が止まってしまったのだ。
これで全てが終わるのか。いや、ここからが始まりなのか。
大きな重圧は今も感じている。おそらくそれは国王となっても変わらない重圧なのだろう。
それでもやはり王太子と国王では重みが違う。
それでもここで歩みを止めることはしない。
「行こう」
小さく告げると、扉の両側にいた兵士達が大扉を開いた。
途端に玉座の間から流れ込んできたのは、玉座の間の奥に誂えられた高い窓からの光と、明るく輝く人々のあまりに静かな希望の気配だった。
顔を真っ直ぐに上げ玉座を見やると、正面の壁に大きくユリスラ王国を象徴するユニコーンの旗が掲げられている。
いななく真っ白なユニコーンの背景の色は青と緑。その二色を分けるのは、金に縁取られた真っ赤なライン。
青は王都シアーズ。海の近くに住まう王族の色。
緑はシーデナの森。森に住まう精霊族の色。
赤は建国に際し、共に流した血の色。
遠い昔から伝わる伝承に基づいて作られた王国の旗だ。
建国神話になぞらえて戦乱を戦ってきたエドワードにとってこの国旗は感慨深く、同時に酷く胸を揺さぶられる。
青の王族はエドワード、緑の精霊族はリッツ。
共に血を流して取り戻した玉座。
国民にとって新たなる伝説となる自分とリッツを思う。
伝説になろうとか、英雄になりたいと思ったことは無い。ただこの国の人々を救いたいと思っただけだ。
だがこうして建国神話を表す国旗を前にすれば、その伝説をなぞる英雄であることを嫌と言うほど噛み締めてしまう。
エドワードは未だ一人前ではないという想いがある。いつまで経ってもリッツと合わせて一対の英雄でしかないのかもしれないが、王になればそんなことも言っていられない。
共に玉座の間へと進んだ近衛兵が、その場で膝を突いた。
彼らはこの道を進むことはできない。
ここからは一人だ。
軋みながら大扉が閉じられ、玉座の間に溢れていた微かなざわめきを綺麗に打ち払った。緊張感に満ちた静けさの中で、視線が全て集中したのが分かる。
その視線の熱さ、熱量はこの静けさとはまるで逆だった。それだけ期待されていると言うことだろう。
顔を上げ、エドワードは真っ直ぐに玉座を見た。そこに大臣の礼服を着た友が立っている。
建国神話の旗の下に、王冠を持った精霊族が立つなんて、あまりにもお誂え過ぎてつい綻びそうになる口元を引き締めた。
王冠を誰がエドワードに戴冠するのかとの話が出た瞬間、全員一致で『リッツしかいないだろう』と、本人が反論する間もなく決まってしまった。
本来ならばこの国の光の精霊神殿の光の神官長の役割であるのだが、建国神話によると初代国王に王冠を授けたのは精霊族の青年だったという。
精霊族として誠の王としてエドワードを選んだのはリッツなのだからと皆に説得されては、リッツも頷くしか無かったようだ。
扉から玉座まで真っ直ぐに敷かれた真新しい赤い絨毯を踏みしめてエドワードはゆっくりと静かに、自分を待つリッツの元へと進む。
今朝まで普通にやりとりをしていたリッツの緊張感に満ちた顔がおかしくて、もしこれが戴冠式ではなかったなら、エドワードはリッツをからかってしまうだろう。
前に進むにつれて見知った顔が並ぶ。
査察部長であるグレタ、諜報部長ハウエル、近衛部隊長ジェイムズ、王国軍総司令官コネル、宰相秘書官見習いにして義弟シャスタ、王国宰相グラント。そしてパトリシア。
皆ここまで共に歩んできた大切な仲間だ。
やがてエドワードは玉座の前で足を止めた。
玉座はここから数段上った壇上にある。
リッツが王冠を掲げて静かにその前に立っている。普段から十センチほど背の高いリッツを段の下から見上げた。
目が合った。
互いに妙に気恥ずかしく、ついつい顔がにやけてしまうのだが、宰相として玉座の一段下に立っているグラントの咳払いで目を見合わせて気合いを入れ直す。
形式は形式に過ぎないが重要だ。それをエドワードもリッツもよく肝に銘じている。
エドワードはリッツの前に軽く膝をついた。
本来国王が大臣の前に膝を折ることなどあり得ない。だがリッツは精霊族だった。
エドワードが名乗りを上げるよりも前に国民に誠の王を探すためにやってきたと宣言している。
つまりエドワードを誠の王に選んだのはリッツなのだ。だからこの瞬間だけ、エドワードは自分を選んだ精霊族の前に膝を折るのだ。
頭上でリッツが小さく息を吸うのが分かった。緊張しているのか、自分がこの役割を果たすのに不相応だと思っているのか、それは分からない。
「我が選びし誠の王エドワードよ」
リッツが良く通る声でそういった。リッツの声は低くも高くもなく、とても聞き取りやすい。
静まりかえった玉座の間に、リッツの穏やかながら張り詰めた、だが耳に心地のいい声が響く。
「光に仕える精霊族として汝に祝福を与える。我らの盟友である人の王よ。精霊の源たる自然を愛し、生きとし生けるものを愛し、国民を己が子として慈しめ。我らは汝の求める光と共に王としての使命を全うすることを望み、共にこの国に在る盟友として汝を見守り続けるだろう」
『ええ~、俺こんな偉そうなこと言えねえよ』
戴冠の為の台詞を渡された時、リッツはそう言ってごねた。
だが精霊族の英雄として相応しい言葉を選んだグラントに睨まれて、子供のようにむくれて黙ったのを覚えている。
そんな彼にエドワードは言ったのだ。
『悪いな。俺のために格好付けてくれ』
『分かったよ、従いますとも誠の王』
その時の苦笑が妙に老成していて胸が痛んだ。今もあの時のように内心は辛いのだろうか。それとも演技と割り切ったのだろうか。
「我の選びし誠の王エドワードよ。汝に精霊族である我、リッツ・アルスターは王冠を授け、ユリスラ王国を統べる者として敬意と親愛を贈る」
そう言うとリッツは、玉座のある壇上から一歩一歩確かな足取りで降りてきた。
その足音が重く感じた。
誰もが息を詰めたように口を開かない。耳が痛いほどに静かだ。
これが静謐という物なのだろうか。
段を降りきったリッツが、跪いたままのエドワードの前に立ち、両手で王冠を捧げ持った。
顔を上げることはできないから、リッツの顔を見ることはできない。だから気になった。
リッツは今、どんな顔をしているのだろう。
エドワードはパトリシアとリッツが互いの思いを話し合ったあの夜を思い出していた。
あの後エドワードと共に酒を飲んだリッツは、未だかつて見たことが無い程に酔った。
目の前にあったワインのボトルが空になり、リッツが自室から持ち込んだ蒸留酒のボトルもほぼ空になっていたのを覚えている。
酒とつまみが散乱したテーブルに突っ伏したリッツは、今までに見たことの無いような赤い顔をして、ぼんやりと視点の定まらぬ目で酒瓶を眺めながら、ふと独り言のように呟いたのだ。
「俺、愛されててもいいんだな」
聞き逃してしまう程に微かな呟きだったが、それは重くエドワードの耳に届いた。
「いいに決まっているだろう」
なるべく重く聞こえないように、努めて軽く答える。だがリッツは酔いで微かに潤む瞳でこちらを見上げると、苦痛を堪えるような顔をしながら再び口を開いた。
「そうなのかな。俺はずっと消えて無くなった方がいいと思ってたのに」
「そんなわけはないだろう?」
「何で?」
「何でって……」
「俺なんて生きてていい奴じゃ無いのに」
まじまじと見つめたリッツの表情は恐ろしいほどに無表情だった。普段はこんな風に自分のことを話す男では無い。
だとしたらやはりかなり酔っているのだろう。もしかしたら明日になれば今日のことなど何も覚えていないかもしれない。
それならばとエドワードは今まで聞けなかったことを初めて口に出した。
「なあリッツ。お前は俺に何を隠しているんだ? シーデナの森でお前はいったいどう生きていた?」
普段のリッツならここで笑って誤魔化してしまうだろう。だがリッツはテーブルに頬を付けたままぼんやりと答える。
「シーデナの俺?」
「ああ。お前の子供時代は見た。無表情で傷だらけで、俺から見ても辛そうだったよ」
ジェイドに闇の精霊をけしかけられ、心の中で子供に戻っていたリッツを思い出す。今のように笑うことなど考えられない顔をしていた。
黙ってテーブルに額を擦り付けていたリッツは、やがて小さく呟いた。
「生きてたというか死んでなかっただけだった」
ダークブラウンの瞳の奥が、緩やかな闇に沈んでいく。ここから先はエドワードが踏み込んでこなかった部分だとすぐに気がつく。
「俺、お前に名前呼ばれんのすげえ嬉しいんだ。まるで本当の名前みたいで」
「……何を言ってるんだ? お前の名前はリッツだろう?」
「……うん。まあそうなんだけど、今まで親にしか呼んで貰ったこと無くてさ」
「何故……」
エドワードの呟きはリッツの耳には入らなかったようだった。そのままリッツは話を続ける。
「名前を呼ばれるだけで、ここにいてもいいんだって言われてる気がした。お前がさ、一緒に来いって名前呼んでくれただろ? だからすげえ嬉しくて」
目はそのまま闇を抱えているくせに、まるで蕩けるような幸せな笑みを浮かべたリッツに胸が詰まった。
それは出会ったときの話だ。
確かにエドワードはリッツをその名で呼び、手を伸ばした。それがリッツにこれほどの喜びを与えていたなんて今まで気がつかなかった。
名前を呼ぶ。そんな当たり前のことが何故こんなにリッツを喜ばせたのだろう。一緒に生きろと言ったことだけで何故こんなに彼は幸福を感じたのだろう。
出会った時は疑問に思わなかったのに、今更それに気がついて愕然とする。
エドワードはリッツを、まだ何も知らなかった。
「ここにいていいって言ってくれて、ここが俺のいる場所だって言ってくれたから、俺は息が吸えたんだ。お前の隣は今まで生きてきた中で一番息が吸いやすくて、俺って言う形の無い生物が初めて人として形を取れたような気がした」
リッツの指が意味も無く蒸留酒のラベルをたどる。
その指をじっと見つめながらも、エドワードは次に掛ける言葉を見つけられずにいた。
そんなエドワードに気がつくことも無く、リッツは言葉を吐き出し続ける。
「お前の隣にいたから、ローレンやシャスタやアルバートを好きになれたんだと思う。そうじゃなかったらきっと俺は他人を受け入れることなんてできなかったよ。他人はみんな怖い。みんなきっと俺が嫌いだから」
「そんなことないだろう?」
「そうかもしんないけど、俺はそう感じちまうんだ。でもエドが大丈夫だって言うからみんなが好きになった。信じていいんだって素直に思えた」
「……そんな……」
もしエドワードが周りを猜疑の目で見ていたら、リッツは誰も信用しなかったとでも言うのか。
そんな馬鹿なことがあるか?
「それにパティに恋することもできなかった。みんなを信じて良いって分かってたから好きになれたんだと思う」
リッツの関係は全てエドワードを通して築かれていたとでも言うのだろうか。リッツはリッツとして仲間との関係を作り上げていったのでは無いのか。
人懐こく、みんなから愛されているというのに、そんなことにも彼は気がついていないのか。
リッツの口から零れ出る言葉に含まれるその重みに、エドワードは何も言えずに黙り込むしか無い。
「エドは俺を一番大切な友だって言ってくれるだろう? 自分の半身とまで言ってくれた。この俺をだよ? 生きることを誰にも望まれなかった俺をこんなに大切にしてくれる人がこの世界にいるなんて、ほんの少しでも考えたこと無かった」
グラスの縁をなぞる自分の指を眺めながらリッツは独り言のようにただ呟き続ける。
「お前の両親だっていただろう?」
「うん。でもさ、愛されてるけどその分苦しめてた。俺はいない方が良かったんだよ、きっと」
見つめたまま言葉も無いエドワードのことなど目に入ってはいないのだろう。
「それに初めて恋をしたパティがさ、信用してくれてるって言ってくれた。俺みたいな奴をだよ? 友達としてはエドよりも信用してくれてるって。もうさ、それだけで十分だよな。俺は幸せだよ」
本当に幸せそうに笑顔を浮かべたリッツに、少しだけ安堵した。
パトリシアを奪ってしまったのは他ならぬ自分だ。憎まれても仕方がないと思っていたが、リッツは憎まずにいてくれたし、パトリシアはリッツを大切な友だと思ってくれた。
それだけでも有り難い。
「お前が幸せなら俺も嬉しいよ」
「へへ。そう?」
「ああ」
孤独を一人抱えるリッツが幸せを感じてくれているなら、このまま共に相棒として生きていけるならばそれでいい。
こうして共に未来を過ごしていけるならば、彼の抱える孤独を癒していけるのでは、とそう思った。
だからこそ次の一言に言葉を失う。
「死にたいなぁ」
「……え……?」
「今死ねたら最高に幸せだ」
うっとりと陶酔したような表情で死を語ったリッツは、エドワードを真っ直ぐに見上げてきた。
闇色に染まった瞳にぞくりと背筋が震えた。
今幸せだと言ったその口で死を望む言葉を口にするのだ? 何故こんなにも幸せそうに絶望しているのだろう。
彼の幸せとは何なのだ?
「なあエド」
「何だ?」
「今さ、殺してくれって言ったら殺してくれる?」
何故そんなに幸せそうに問いかけてくるのだろう。問いかけられたエドワードは息が詰まるほどに苦しいというのに。
「何故お前を殺す必要がある?」
問いかけたエドワードの声の低さに、おそらく酔っているリッツは気がついていない。だからか、彼はへらりといつものように軽く笑った。
「はは。やっぱ駄目だよなぁ~」
「駄目に決まっているだろう。お前は俺が死ぬまで生きると言ったのに、何故今すぐに死にたがる?」
「ん~」
呻くようにうなりながらリッツは手で黒髪をかき回す。
「戦いが終わって、これからは安定して国家が進んでいくだろ。その中で俺はどうやって生きていったらいいのかなって」
「……ティルスにいた時みたいに過ごせないか?」
平和ではいられないのだろうか。だがリッツの言葉はエドワードの想像とは少し違っていた。
「だって、もう俺の力は必要ないだろ?」
「そんなわけがないだろう」
これから重圧を背負うエドワードと共にいて、友として政治に左右されることなく傍で支えて欲しい。エドワードは素直にそう思っていた。
なのにリッツは違ったのか。
「だってさ、これからはシャスタ達みたいに国の政治の中核を担うやつらが中心になっていって、戦力しか持たない俺は無用の長物になっていくじゃん?」
「統治者としては確かに政治が中心となる。だがお前は俺の友だろう?」
「ん。そうだよ、俺はエドの友だ。でもさ、不安なんだよ。お前の役に立たなくなった俺をお前はいつまで必要としてくれんの?」
「リッツ」
役に立つ、立たないで彼を見た事などなかった。エドワードにとっては心を預けられる唯一の友だったから必要としていたのだ。
リッツもそうなのだろう。でも何故それが不安なのか戸惑う。エドワードの戸惑いに気がつくことなく、酔ったリッツは言葉を続けた。
「お前は年を重ねても、俺と年齢差がどんどん開いても変わらず友として時を過ごしていけるといってくれた。お前がそうしてくれることを俺は分かっているんだ。だけど俺は俺が信じられない。そんな風に大切にして貰える奴じゃ無いのに、お前に変わらずにいて貰えるような気がしない」
「リッツ……」
「大臣職に就いても俺はおっさんの代わりにはなれない。きっとどこまで行っても名前だけの立場で、きっとみんなのお荷物になっていくんだと思う。友としての自分が信じられないなら、俺、せめて役に立つ男でありたいと思うのに、俺は役立たずなんだ」
以前にエドワードの役に立ちたいと無茶をしたことを思い出す。
そんなことをしなくても友としていてくれればいいと言ったのにリッツは全くそれを信じられなかったのか。
役に立たなければいけないと、強迫観念に囚われていたというのか。
そんなリッツの不安に初めて気がつき、胸が詰まった。ここまで意固地になってしまったリッツに、どうしたら良いのか分からない。
「役に立たなくたってさ、俺が行く場所なんてお前の隣以外どこにもないから俺はずっとこの場所に居続けるよ。そうなったらきっと、俺はまた息をするのが辛くなる」
「何故だ?」
「俺は同情されたいんじゃないし、庇護される対象でもない。俺はお前にとって大切な存在で有り続けたい」
「……リッツ」
「今はお前の相棒でいられる。だから今死ねたら最高にいいんじゃ無いかって思ったんだ」
テーブルに置かれていたワインボトルが転がった。それを手にしてリッツの伏せた顔を覗き込む。相変わらず口元は笑うように綻んでいるのに目が闇に沈んでいた。
「なあリッツ」
「ん?」
「俺の隣に居続けるのはそんなに辛いのか?」
そんなにお前を追いつめるようなことをしたのか? そう聞きたいのに聞けずに言葉をぼかす。酔っているリッツはエドワードの本心を探ることなどせずに小さく笑った。
「辛くない。お前の隣は本当に息がしやすい。お前の隣は心地が良いよ。だけどそれは俺の甘えでしか無いんじゃ無いかな」
違うリッツ。俺の甘えだ。そう言いたかったのに言葉を挟む隙をリッツは与えてくれない。
「もっと役に立つ俺にならないといけないのに、そうなれる自分が見えない。所詮俺は役立たずだ」
「何故役に立たねばならないんだ? お前は友として俺の隣にいればいいと言っているのに」
分かってくれ、信じてくれ。
そう願いを込めて再び口にした。だがエドワードの言葉を聞いてリッツがふと真顔になる。
その闇色の瞳が微かにエドワードを見上げた。
「俺が友としてお前の横にいられる時間は何年なのかな?」
思いも寄らない返しだった。
「……何年でもいられるだろう?」
「そうなのかな? 例えば十年後、国王としての務めを立派に果たすお前の横に何もできない俺がいたとして、それは友と言えるのか?」
「リッツ……」
「二十年後、三十年後、俺がお前の隣にいたとして、お前にとって友ってだけの役立たずだったら、それは友なのかな? それこそ俺はお前の犬でしか無くならないか?」
そう言われてはただ隣にいてくれとは言えなかった。言うことを封じられてしまった。
「大臣職として学べばいいんじゃないのか? お前は一年で文字を読み書きできるようになったし、同じく一年で剣士として成長したんだから、可能だろう?」
ローレンが言うように、真面目に諭すようにそう口にしてみた。リッツは自嘲の笑みを浮かべて首を振る。
「それをするには一番大事な部分が俺には足りてないよ。俺は国家を守りたいんじゃ無くて俺の大切な人を守りたいだけなんだ」
「でもお前はセクアナで……」
「うん。セクアナの女の子みたいに何も持たない人を助けたいとは思うよ。でも俺、駄目なんだ。俺という存在を自分で認められない俺が、どうして国家のために身を削って働くことができる?」
「お前は優しいから……」
「俺が優しいのは、エドが大切にしたいと願った人にだけだって言ったじゃん」
「……」
エドワードの価値観がリッツの全てなのか。リッツ自身の思う価値観はないのだろうか。
「知ってるエド? 俺さ大臣にって回ってくる書類を読んでも、全く理解できていないんだ。理解できない書類が人の命を左右しているんだ。こんなに怖いことは無いだろ?」
『書類仕事苦手なんだよな~』
気楽な調子でそう言っていたリッツの言葉の裏にあった意味を初めて知った。
彼は文字を読むことやその意味を理解するのが苦手だ。人間社会を分かっていないから社会制度など全く分からないだろう。
書類が面倒なだけかと思っていたが、恐怖を感じていたとは夢にも思っていなかった。分からぬ書類を処理することで人の命運を左右することを、人に関わることを恐れるリッツがこなす事はどれだけ怖かっただろう。
エドワードとグラントは、リッツにも出来る書類だけを回しているつもりだったが、それすら彼は読み取れていなかったのだ。
「そんなことはこれからどんどん増えていくよ。俺には出来ないこと、怖いことが積み上がっていくし、役に立たなくてもエドは優しいだろうけど年を取るし、俺はこのままの姿でいる。みんなの中で俺はきっと取り残される」
どうしたらいいのか分からずに再びエドワードは黙り込んだ。
「だからさ、精霊族の英雄としての役割が終わったのが俺の一番いい死に時なんだよ。それって今じゃねえの?」
「リッツ……」
リッツが顔を上げてじっとエドワードを見つめた。闇色をしているくせに妙に澄んだ瞳がまるでガラス玉のように感情を悟らせない。
そんな彼に何を言ったらいいのだろう。
「新建国宣言は成った。なあエド、もう殺してくれてもいいんじゃねえの? お前と俺の年がかけ離れ、役立たずの俺が壊れていく前にお前の手で俺を殺してくれるのが一番綺麗な終わり方じゃ無いのか?」
「お前を……殺す……?」
「もしかしたら初代の国王と共に戦った精霊族もそうやって消えたのかもな。だから姿を消したんだ。ほら、綺麗な終わり方じゃん? 俺らも伝説をなぞるなら、それでいいんじゃねえの?」
何も答えることができなかった。リッツを大臣職に就けたのは確かにジェラルドに変わる立場に座る人物がおらず、国民が納得する人物を考えたときリッツしかいなかったからだ。
そしてもう一つの目的はユリスラ王国内に何の権利も持たないリッツに、この国に関わる権利を与えることだったのだ。
エドワードの役に立ちたいと常にもがいてきたリッツに、今更ながらエドワードは間違ったことをしたと気がつく。
大臣職はジェラルドにこそ相応しかった。だが人の世界に関わってまだ五年にしか成らないリッツには重荷過ぎた。
そのせいでリッツは途方に暮れ、恐怖に怯えた。リッツにとっては理解できぬ事が、更に彼の立ち位置を見失わせた。
リッツに与えるべきだったのはエドワードの身辺警護を司る近衛兵長の仕事だったのかもしれない。
だが世間は英雄の片割れであるリッツをそのような立場に置くことを許さないだろう。
最善の策だと思った。だが友を追い詰めただけだった。それに初めて気がついた。
リッツは見かけよりも真面目な男だ。だからエドワードやグラント、コネルに押しつけられたと思っても、どれほどに自分の無力をかみ締めてもそれを投げ出すことができない。
その結果がこれだった。
リッツは本来自由で在るべき精霊族なのだ。なのに彼は年を経て孤独に陥ってしまうだろう自分を生かすために、エドワードの隣に居続けなくては成らないと思い込んでいる。
エドワードの隣にいるために彼は与えられる仕事をこなすことしかできず、しかもそれは理解不能な人間社会の頂点に立つ恐怖の塊でしかなかった。
エドワードは自分でこの道を行くことを選んだ。でもリッツが選んだのは国家を背負うことでは無く、エドワードという友を助けることだった。
それだけを彼は望んでいたはずなのに、彼の意思とは関係なく立場を押しつけているのは他ならぬエドワードだ。
リッツを死へと向かわせているのは、ずっと友として隣にいて欲しいと望んだエドワードだった。
エドワードが精霊族の村とグレインと戦争しか知らないリッツを、頑丈な鎖で自分へと縛り付けている。
今のリッツにはエドワードの隣という世界しか存在していない。それ故に全ての生殺与奪の権利をエドワードに託すことでしか生きていけない。
本当は世界は広いはずなのに。
亜人種だってまだ沢山いるし、長命種だっているはずだ。彼と共に時間を生きられる存在だっているはずなのだ。
それなのにエドワードは自分の孤独を埋めるためだけに大切な友を、立場という鎖でユリスラ王国のシアーズの、この王城に縛り付けてしまった。
以前にエドワードは世界を見ることが夢だとリッツに言ったことがある。もし望むならばその夢をお前にやるとも言った。
その約束を果たすべきだった。リッツを立場という鎖で縛ったりしてはいけなかった。
広い世界を見て、幸せを見つけて欲しいはずの友を、何故縛ってしまったのだろう。
彼が長い寿命を生き、それ故に精神を壊していくだろう事など最初から承知していた。その上でそう提案したはずなのに、いつの間にかエドワードはリッツを手放すことを怖れていた。
自らの重圧に負け、孤独に負け、友を自分が死を迎えるまで永遠に縛ろうとしていた。
リッツが今死にたいと望むのはエドワードのせいだ。
エドワードがそう思わせてしまった。
「リッツ」
声を掛けたが、リッツは答えない。
見るとリッツはテーブルに突っ伏して眠っていた。目を閉じてしまえばあの闇の底のような苦悩は無く、年相応の幼い寝顔をしていて胸が詰まる。
年を取らない彼を、このまま自分の勝手で壊していいのか?
もしエドワードが今の状況を守ろうとするならば、リッツはこのままの姿で隣にいてくれるだろう。闇や影を顔に出すことも無く、ただ笑って隣にいてくれるのだろう。
酒に酔い、自我を失わなければ口に出せないような死への誘惑を抱えたまま、エドワードが死ぬまで隣にいるのだろう。
心を壊して、死への冀求を深めて、孤独に震えながらずっと……。
「なあリッツ。俺は間違っていたのか?」
すっかり深く眠り込んでしまったリッツの髪をそっと撫でる。少し堅い黒髪にそっと指を絡めてその体温を感じていると、涙が零れそうになった。
失えないと思っているのに、このまま共に過ごしていけば、自分の手でこの男を殺さねばならないのだと理解したのだ。
彼が今も殺して欲しいと願っているのは、エドワードのせいだ。
「なあ答えろよ、相棒」
深く眠っているのか、リッツは身じろぎひとつしない。その暖かさを指先に感じられるから、苦しかった。
もし彼が望むようにこの手で彼を殺してしまえば、二度とこの温度を感じられなくなるのだ。
それに自分が耐えられるとは思えない。
「たとえ何十年経っても、俺にはお前は殺せない。お前は俺の唯一無二の友だ。この手でお前を失うなんて考えられない……」
幸せになって欲しいのに。何故この手はリッツを苦しめるだけなのだろう。どうしていいか分からず、何を思えばいいか分からず、そして決断することもできない。
溜息をつくとエドワードはリッツを乱暴に叩き起こして自分のベッドに放り込み、自分もその隣に身を投げ出した。
隣で完全に眠ってしまった友を見ながら、エドワードはただ自分の罪について考え続けた。
あの日から度々エドワードは悪夢を見るようになった。
リッツを殺す悪夢を見ては飛び起きるのだ。
夢の中で幸福そうにこの手に掛かるリッツの血の暖かさまで感じられる夢に恐怖を覚えつつ、誰にも何も言えずに、ただ眠れぬ幾度の夜を越えてきた。
失う恐怖と、殺す恐怖。
今のままでは確実にやってくる未来がそこにあった。
ふと自分の前に影が掛かった。
視線をあげるとそこにリッツが立っていてその姿に我に返る。
ああそうだ。
今はまだ戴冠式の最中だった。
跪くエドワードの前に、リッツが王冠を捧げ持って身をかがめる。
再び頭を垂れたエドワードの耳に、リッツの囁きに近い声が聞こえた。
「これでお前の望みが叶ったな」
……望みか…。
俺の本当の望みをきっとお前は知らない。
だが国王になりこの国を救うのはエドワードの大義で有り、幼い頃から持ってきた希望だった。
この道を貫くことができたのは、目の前にいるこの男のお陰だった。
命を賭けて共に覇道を歩いてくれた。折れそうになる心を支え、くじけそうな悲しみを共に負ってくれたのはリッツだった。
そんなお前に、俺は何を返せるのだろう。
ふわりとリッツの手が頭に触れたと同時に、頭に重圧を感じた。王冠が自らの頭上にあると分かる。
これがこの国の民を背負うための重圧だ。
重いな、と思う。
望んでこれを背負うのだから、友にまで重荷を背負わせることは無い。
共に国民を背負ってくれる仲間達が沢山いる。でもリッツにそれを押しつける必要は無い。
全てを抱えよう。
この王冠の重みと共に、全てを。
そう思った途端に、解決策が見えた気がした。
エドワードの頭の上へと王冠を乗せたリッツは、決められたとおりに静かに口を開く。
「我、精霊族のリッツ・アルスターの名において、ここにユリスラ王国新国王、エドワードの戴冠を宣言する」
高らかなリッツの宣言に、玉座の間がワッと沸きかえった。新国王を湛える声が沸き上がり、教会の鐘が一斉に町中に響き渡る。
鐘の音が新国王の誕生を、国中に伝えるのだ。
ゆっくりと起ち上がり、エドワードはリッツを見つめ合った。
あの酔ったときの闇を綺麗に隠し通したリッツが楽しげに笑う。
「やっと呼べるな、エドワード国王陛下」
「重い名だな」
エドワードも笑みを返す。
それから定められた通りにリッツが降りてきた段を上り、玉座の前に立った。
王国初代から幾多の国王を見守ってきた赤い布張りの玉座は何を思うのだろう。
そんな詮無きことを思ったが、すぐに打ち消して緩やかに玉座に座った。
一層高くなる人々の歓声に、エドワードはゆっくりと手を上げて答えた。
ここに最も平穏であるとされるエドワード国王の統治が始まる。




