<7>
何でこんな事になっているんだろう。
リッツは目の前でワイングラスを傾けるパトリシアを見つめながら小さく息をつく。
戴冠式とそれに続くエドワードとパトリシアの婚儀の準備に追われる王宮に何となく居心地の悪さを感じて脱出してきた筈なのに、気がつくと目の前にとうの花嫁たるパトリシアがいる。
しかもここは王宮ではなく、平民ばかりがたむろしている、一般的な街の居酒屋なのである。
これから王妃になろうという人が寄りにも寄って何故、こんな街中の居酒屋で国王で夫になる男の友人と飲んでいるのだろう。
「何でさっきから黙りこくっているのよ」
不機嫌そうにアメジストの瞳を向けてきたパトリシアにリッツは溜息をついて頭を掻く。
「俺さ、一人で飲む気でいたんだけど?」
「それなら私一人増えたところで問題ないでしょ」
「王妃になろうって奴が、こんな所にいていいのかよ?」
「あら現役大臣にそんなこと言われるいわれは、これっぽっちもないわね」
一々正論ごもっともである。
リッツは自分の立場を知られぬように身分を隠すように耳篭を付けてニット帽をかぶっている。当然大臣として高級士官クラブで飲むことも出来るのだが、堅苦しくて苦手だった。
だから大臣という立場になっても平然と安居酒屋で酒を飲むのだ。
だがパトリシアという人が、リッツが飲むような居酒屋に一人で来たことなど、今まで一度もない。そこには何らかの意図があるのだろうということだけは分かる。
そもそも彼女が何の意味も無くリッツと時間を過ごすとは思えない。一体何の理由があってここに居るのだろう。
その理由が分からないから、無碍に追い返すことも出来ずにいた。
「婚約者放っておいて、他の男と酒飲んでるとか、大丈夫なのかよ?」
目の前に置かれた琥珀色の蒸留酒を手に隣のパトリシアを見る。その横顔はいつもと同じく凜としてりりしく綺麗だ。
ふとその目がこちらを見上げた。
「婚約者の親友と飲んでいるから問題ないんじゃない?」
信頼しているという表情だった。
確かに信頼されている事だけはよく分かっている。そもそもリッツがエドワードを裏切るようなことをするはずがないのだ。
「男はみんな狼だぞ?」
一応、その気は無くても警告のような言葉を吐いておく。
「あら知らないの? 狼は一夫一婦制でとても誠実なのよ。自分を狼に例えるなんて、狼に悪いでしょ」
「……俺、狼以下かよ」
「むやみに親友の婚約者に手を出す男ではないって信用はしてるわ」
「あっそ」
お手上げだ。元々リッツはパトリシアに勝てたためしがない。
しばし黙って互いにグラスを傾ける。蒸留酒をストレートで口にしているリッツとは違い、パトリシアはグレイン産のワインをなみなみと注いだグラスを手にしている。
この気詰まりな時間をやり過ごしたくて、ふと胸元のポケットを探る。だがそれに手を触れる前に気がついた。リッツが煙草を吸うことをパトリシアは許してくれていない。
流石に居酒屋で自分よりも一回り程小柄なパトリシアに説教されている姿を晒すのはごめんなので諦めた。
グラスの蒸留酒を呷りながら、しばし気詰まりな時間を過ごした後で、パトリシアがようやく口を開いた。
「ねえ、本当におじさまは出て行くの?」
グラスに残ったワインを眺めながら、リッツを見ることなく掛けられたパトリシアの声は、未だなかったように沈んでいる。
「……」
何と言ったらいいのか分からずにしばし黙ると、パトリシアも返事を促すことなくリッツの返事を待っている。
「エドに聞いた?」
「ええ」
「そっか」
パトリシアはギルバートと子供の頃から親しくしていた。パトリシアが生まれた頃から時折ギルバートはジェラルドの家に入り浸っていたからだ。
ジェラルドを失い、続いてギルバートまで王都を離れるのは寂しいのだろう。
「エドにどこまで聞いてるの?」
「全部よ。昔話から離れる理由まで」
「じゃあなんで俺に聞くの?」
全部聞いているのならばそれでいいではないか。そう思ったのにパトリシアは微かに微笑んだ。
「でも信じられなくて」
「エドを?」
「違うわ。あまりに全てが早く変わっていくことが信じられないの」
パトリシアの溜息交じりの声に、リッツは小さく頷く。
「そうだね」
リッツも同じ事を思う日もあった。
ここ一年で全ての事が以上に早く進み、全てが目まぐるしく変わっていく。自分のことだけを考えても本当にせわしない。
戦場の英雄に祭り上げられ、大臣職を拝命し、暗殺者をだまし討ちにし、ルーイビルを殲滅した。
戦歴や功績を考えれば、確かに革命軍に貢献していると言えるのだろう。
だが抱えるどうしようもない心は、あの頃から何か変わったのだろうか。少しでも成長できているのだろうか。
グラスを掲げながらその中を揺らめく琥珀色をじっと見つめる。
エドワードがいくら自分を肯定してくれても未だに自分の寿命の恐怖を乗り越えることが出来ず、彼が将来自分を一人にせずに殺してくれるのだと言うことだけをよすがに過ごす自分は、未だ未来を手探りで探す迷い子だ。
それなのにギルバートがこの国を去ってしまえば、この国の軍事最高職である大臣だ。もう誰かに縋って助けをこうことなど出来なくなる。
エドワードに縋ることは出来ない。
彼は国王になる。そしてパトリシアという伴侶を得る。彼の心の重荷を少しでも背負うのが自分の役割ならばリッツのこの心はどうなるのだろう。
今までのようにどうしようもない孤独を娼館の女性に癒して貰い、友の前で笑うことしか出来ないのだろうか。
グラスに揺れる酒のように心はいつも揺らいでいる。気がついたら自分の心だけがここに止まっていて、変わりゆく景色が幻みたいだ。
不意に椅子が倒れる音と同時に怒鳴り声が響いた。
「貴様! 図に乗ってるんじゃねぇ!」
視線を向けると二人の男がテーブルを挟んで睨み合っていた。男たちにはそれぞれ連れがいて、その彼らが男たちを押さえ付けている。
「図に乗っているのはお前達じゃないか!」
「何だと!?」
「殿下への忠誠が薄い傭兵上がりのくせに軍の中枢を占めたつもりか!」
軍人同士の諍いだ。ふと周囲に目をやると、一般の市民が皆恐怖を浮かべて身を固くしているのが分かった。
「……何してんだ」
ついぽつりと呟いてしまった。隣のパトリシアも困惑した顔で騒ぎを見ている。
「巫山戯るな! 俺たちがどれだけの事をしてきたと思ってるんだ!」
今にも掴みかかりそうな男たちを後ろの男たちが羽交い締めにしていた。
「俺たちは常に最前線で身体張ってんだよ!」
「同じ戦場だ、最前線など関係ない!」
「お前らは先陣を切ったことなどないだろう!」
「お前らこそ、軍の規律の中で戦う事など知らんだろうが!」
『俺たち遊撃隊は勝ちすぎた。戦場が遠のけば行き場のない欲求から、更に軋轢が深まるだろう』
ギルバートの言葉が甦る。これが彼が気に掛ける事態なのかとようやく気がつく。
戦力が少ない革命軍は傭兵上がりで戦力の高い遊撃隊を常に危険な場所に投入してきた。その中でギルバート率いる遊撃隊は常に多大なる戦果を上げてきたのだ。
リッツのその中の一人であったが、一般の兵士から見ればそれは特別扱いに他ならなかったのかも知れない。
やはりギルバートは正しい。
戦いが終わり戦場が縮小した今、遊撃隊と正規軍の間に横たわる溝は深く、このままでは軍の統制が取れなくなってしまう。
「よさないか!」
「落ち着け! 互いに王国軍人だろうが!」
遊撃隊、正規軍兵士、共に仲間達が押さえている。今はこの程度の小競り合いで済むかも知れないが、いずれこれが隊と隊の争いになってしまったらこの程度では済まないだろう。
「うるせぇ! 遊撃隊員は特別な部隊だ!」
「我らはみな王太子殿下の軍だ! 特別などない!」
怒鳴り声を見かねて、リッツは席を立った。騒ぐ彼らはリッツに未だ気がついていない。彼らの間に立つと、リッツは静かに帽子を取って声を掛けた。
「そこまでだ」
唐突な乱入者に男たちの殺気が一斉にこちらを向くが、次の瞬間に呆気にとられたように双方が口を噤む。
息を呑む酒場の人々の中で、兵士たちの言葉は妙によく響いた。
「……大臣閣下……」
双方ともリッツの傍で戦ったことがあるようで、すぐにリッツが誰だか理解して跪いた。ここでそれをされてしまうととてつもなく居心地が悪い。そもそもリッツは跪かれるほど出来た人格者などではないのだから。
溜息交じりにリッツは立つように命じる。
「俺は仕事上がりなんだよ。プライベートで飲んでんの。頼むからお客に迷惑を掛けるような揉め事は勘弁してくれ」
遊撃隊員にはギルバートの弟子として、そして自分たちの指揮官として知られ、王国軍の正式軍人には王太子の片腕として知られるリッツの言葉に逆らえる者など、王国軍にいない。
「ですが閣下……」
「王国軍は王国の人々のためにある。国民に迷惑を掛けるなんてあり得ねえだろう?」
肩をすくめておどけるようにそう言うと、男たちは互いの顔を見合わせた後、深々と頭を下げて店を出て行った。
リッツたちのやりとりが聞こえていたのか、店の中の人々のリッツを見る目が妙な緊張感を持っている。大臣がいる。ここは自分たちも跪くべきなのか。失礼のないように出て行くべきなのか。
彼らの目には一様に混乱と困惑があって、これでは落ち着いて飲めない。
「……出ましょ」
肩をすくめてパトリシアがリッツに並んだ。会計はどうやら騒動の最中にパトリシアが済ませてくれたようだった。
手にはパトリシアの防寒具だけではなく、リッツが身につけている厚手のコートとマフラーがあった。
パトリシアはこの状況ではもうここで飲んでいられないと気がついたのだろう。
それにパトリシアが王太子の婚約者だと気がつかれたら更に騒ぎが拡大してしまう。ここを出て行く他の選択肢はなかった。
「うん」
促されるように店の外に出ると、手にしていた防寒具を身につけてからニット帽をかぶり直して未だ賑わう街を歩き出す。パトリシアもコートを着込み、暖かそうな大きなストールを巻き付けてリッツの隣を歩く。
二人ともグレインにいた時の私服を身につけているから、まじまじと見なければ王太子の婚約者と精霊族の戦士には見えないだろう。
小さく溜息をつくと息が白く曇る。
グレイン程ではないとはいえ、真冬のシアーズも寒い。今年は未だ雪が降っていないが、もうすぐに雪が降るだろう。
どこへ行くともなく、自然と足は王宮へと向かった。これ以上街で飲む気がしなかったからだ。
かといって気詰まりな士官クラブで飲む気も無い。あそこに行けばコネルやウォルター、ハウエルがいる事は分かっているからだ。
今夜はただ、静かに普通に飲みたかったのに。
しばらく黙って歩いていると、パトリシアが口を開いた。
「遊撃隊と正規軍の不仲は、騎兵隊の中でも噂になっているわ」
「……うん」
「目にしたのは初めてだけど」
「俺も」
同じ革命軍の中にあったのに、あれほどの溝が出来ているなんて知識で知ってはいても感じることはなかった。
実際に目にしてしまえばその溝は思った以上に深い。ギルバートの懸念はもっともだった。黙ったまま歩いていると、パトリシアが足を止めた。
「おじさまは遊撃隊員の中から望む者を傭兵としてシュジュンに連れて行くつもりなのね」
「うん」
戦場があるところへ。戦う事でしか満たせない心を満たせる者たちの住まう地へ。
傭兵は確かに傭兵でいられるところに戻るほかないだろう。この地が平穏ならば無敵を誇った彼らは無用の長物だ。
「おじさまが考え抜いたことなら、きっと私たちが口を出すことではないのね」
「そうだね。それにギルはもう一人で芝居をはじめちゃったからね。今更引っ込めることなんて出来ないさ」
「そうね」
傭兵には忠誠心はない。有るのは戦いへの欲求と誇りと金銭欲だ。
前にギルバートが自分を棚に上げてそんなことを言っていた。
その時のリッツは『ギルなら金より女だろ?』と冗談を混ぜっ返すことしか出来なかったのだが、ここに来てその言葉の重みがよく分かった。
王に絶対の忠誠を誓える者しか正規軍は務まらない。階級に厳しい軍と、実力主義の傭兵では大事な事が全く違うのだ。
パトリシアを促して黙ったまましばらく歩を進めていると、不意にパトリシアが呟いた。
「ねえリッツ見て。綺麗な星空ね」
パトリシアが指さしたのは、海の方角だった。いつの間にか歓楽街を抜けて、戦い以後空き家が多くなった静かな貴族の邸宅密集地帯を歩いていたことに気がつく。
「……本当だ。綺麗だな」
しばし足を止めてそちらを見つめる。
目の前にある貴族の邸宅は空き家のようで明かりが付いていない。そのせいか星が見えるのだ。
「もっといっぱい星が見えるところがあるといいけれどね。ここはどこも人が多くて空が遠いわ」
白い吐息と共に吐き出された声はかすかに寂しげだった。グレインの事を思い出しているのかも知れない。
彼女はエドワードと一緒になることでグレインから切り離されてしまったのだ。覚悟の上であるとは言え、結婚してしまえばもうグレインに戻ることもないだろう。
見せてあげたいな、星空。
そう思った時に思い出した場所があった。王宮のあのエドワードの秘密の場所だ。前にパトリシアから来た手紙を見せて貰ったあそこは、海と空しか見えない崖の上にある。
「パティ、良いところがあるんだ」
「いいところ?」
「うん。空と海しか見えないところ!」
パトリシアの手を取った。手袋越しのその手を掴むと、リッツは足早に王宮へと歩き出す。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
「遅いよパティ。最近外出してないから体力落ちてんじゃないの?」
「いったわね! 私がそんなに軟弱なわけがないでしょ!」
以前のように互いに文句を言いながら早足で坂道を登る。
「王城の中にそんな場所があるの? まさか王宮の奥の山を登るわけじゃないわよね?」
「登るわけないじゃん寒いのに」
「じゃあどこに行くのよ?」
「だからいいところだってば」
「貴方の良いところは信じられないわよ!」
文句を言いながらもパトリシアは共に着いてきた。警備兵に挨拶をして王城を抜けて、途中で見回りの兵士からランプを一つ拝借する。
「どこに行くのよ?」
「いいところだってば!」
誰もいないのを確認して王城を抜け王宮と王城の境目の隠し通路を通るとあの場所に出た。
冬の下草は堅く、海から吹き付ける風は冷たい。目の前の草地の急な坂を登り切ると、目の前に星空が広がった。
海の方へ目を向けると遮るものの何も無い星空と、闇を飲み込んだかのような海だけが視界いっぱいに広がる。
「……凄い……」
崖の上に立ち、パトリシアが目を見開く。
「だろ? 凄いだろ?」
「ええ。こんな場所があるのね」
その楽しげな様子は、綺麗なアメジストの瞳の中に星空が反射して瞬くようだ。
「エドの秘密の場所。仕事に疲れた時、偶にここに来るんだって」
パトリシアと同じ方を見ながらそう告げると、途端にパトリシアは表情を陰らせた。
「……私が知ってしまっていいのかしら?」
不安げな顔に首を傾げる。
「いいっしょ、パティなら」
「そうなの? 貴方とエディの秘密じゃないの?」
まただ。パトリシアはどうしてもリッツとエドワードの間に割り込むことに罪悪感を感じるらしい。
「だったらパティの場所でもあるじゃん。俺とエドが知ってたらパティも知ってて当たり前だもん」
「そう……」
「そうだよ。何遠慮してんの。パティらしくないじゃん」
「何よ、人を図々しい人みたいに言って!」
「え? 違うの?」
おどけて言うとパトリシアは吹き出した。
「本当に失礼ねリッツは!」
そういうとパトリシアはその場に腰を下ろした。寒くないのかと思ったが、しばらくここに居るつもりならば自分も付き合うしかないかとリッツも腰を据える。
「二人だけって久しぶりね」
「うん。オスト以来だ」
「ええ」
エールの村に滞在し、オストの伯爵襲来事件が起こった数週間以来、二人で過ごすのは本当に久しぶりだった。
あの後彼女はアンティルに滞在し、再会してすぐにジェラルドが命を落としてグレインへ帰った。
彼女がシアーズに戻ってきてからはエドワードとパトリシアの時間の邪魔をしたくなくて出かけることが多くなっていたからリッツは敢えてパトリシアに関わりを持つことを避けたのだ。
「リッツ、私を避けてたでしょ」
気付かれていたのか。だがそれを認める気にはなれず敢えて素っ気なく呟く。
「……そんなことねえよ」
「嘘ばっかり」
それ以降言葉が出ずに、二人でしばらく星空と海を眺めた。
冷たく海から吹く風が髪を揺らす。寒くないのだろうかと見つめたパトリシアの横顔は今まで見た中で一番綺麗で息を呑む。
いつの間にか彼女は少女から女性へと変わっていた。エドワードとの関係が兄妹から婚約者に変わったように。
視線を逸らすとリッツは海を見つめた。闇の中で白く砕ける波だけが見える。潮騒の音がまるで麦畑を揺らす風の音のようだった。
しばらくしてパトリシアがようやく口を開いた。
「……リッツ」
「ん?」
「ありがとう」
「何の御礼だよ?」
「私一度もリッツに言っていなかったから」
「……改まって何言ってるんだよ」
あまりに丁寧で優しい御礼にどうしたら良いのか分からなくなり、リッツはぶっきらぼうに答えていた。
だがそんなリッツにもパトリシアは今まで見た事のないような穏やかな微笑みを返してくれた。
「私を好きになってくれてありがとう」
思いも寄らない言葉だった。
「……何言ってんだよ。迷惑だったろ」
「正直最初はね。でもリッツが私を好きになってくれたから、私はエディを好きだと実感できたの。私が女として、エディを愛してもいいのだと思わせてくれたのはリッツだわ」
「……そう」
切なく胸が痛んだ。
失恋したとはいえ、リッツの中にはまだパトリシアへの想いは残っている。それと同時にエドワードと彼女が結ばれた事を喜ぶ自分もいる。
どちらの思いが強いのかといわれれば、当然の如くエドワードとパトリシアが結ばれたことを喜ぶ心の方が格段に強い。
愛すること、想い合うことを恐れて身を縮める自分などよりも、大切な人が共に手を取り合うことの幸せの方が断然上だ。
「エディの役に立とうと必死になって、自分の気持ちにすら気がつかないでいた私を、リッツだけが可愛いと言ってくれたでしょ。あの時に私、女だったんだって思い出した気がする」
『この軟派者! 女だからと言ってからかわないでよね!』
救急箱と共に飛んできた怒鳴り声を思い出してつい口元が緩む。パトリシアもそれを想いだしたのか、小さく吹き出した。
「……ちゃんと可愛かったじゃん」
「ありがとう」
「何だよ、素直すぎて気持ち悪いな」
つい悪態を吐くと、パトリシアが笑った。
「今日ぐらい素直に聞きなさいよ」
「んだよ?」
「たぶん婚儀の前にこんな風に時間を持てるのは今日が最後だから」
「……そっか」
これから戴冠式、婚儀と大きな式典が続く。
そうなれば王妃となるパトリシアとエドワードは目も回る程忙しくなり、のんびりと時を過ごすことなど出来なくなるだろう。
全ての式典が終われば時間が出来るとは言え、そうなればエドワードとパトリシアは王と王妃となり、リッツは大臣職になる。
今までの距離とは違い、二人と一人に別れてしまう。夫婦とその友。関係は変わらないと言っても、きっと変わらざるを得なくなるのだろう。
今までのようにエドワードと飲み歩くことも、気楽に遊ぶことも、パトリシアとこのように二人で過ごせる時間もなくなる。
そして二人は親になり、更に大人になっていくのだろう。
年を取らないリッツを置いて。
小さく息をついたパトリシアの白い吐息は、潮風ですぐに消えてしまう。
「ねえリッツ。私たちかなり喧嘩したわね」
こちらを見て顔を上げたパトリシアと目が合った。息を吐き出しながら微かに視線を逸らす。
「したな」
「最初は私が薬箱を投げつけたりして」
「あれな。すげえ痛かったんだぞ?」
「ふふ。ごめんね。その後はどちらがエディの役に立つかで喧嘩したわね」
「ああ、ティルスでな」
「そう! 今考えると馬鹿みたいね」
「だな。アーケル草原でも喧嘩したし」
「リッツがエディに私の気持ちを話したからよ?」
「うん。その後グレインに帰るのにも喧嘩した」
「エールの村でも喧嘩したわね」
「したな」
数え上げればきりがない。
エドワードとの思い出は尽きぬ程有るが、パトリシアとの思い出も溢れる程あった。
「でもリッツ、四年あったのに、ついに私に告白してこなかったわね」
「……何度も好きだって言ったじゃん」
いつも逃げられるように彼女にその言葉をぶつけてきた。彼女の気持ちを知っていたから、正面切って好きだなんて言えなかった。
「言い逃げばかりじゃない。私が答えられない時にいうのって告白って言う?」
痛いところを付かれて一瞬押し黙ったが、諦めて小さく呟く。
「答え分かってんのに何で聞かねえとならねえんだよ?」
「正面から答えられない告白って何よ?」
「それは……」
「確かに私の答えは分かってたでしょうけど。ちゃんと振らせてくれないと困っちゃうじゃない」
「……うるせえな。元々ふられてんだから、せめて格好付けさせろよ」
「格好ね」
「おう」
むくれてリッツは膝を抱えて顔を膝に伏せた。このままのこの話が終わって欲しいと思ったが、パトリシアはやめる気がないようだった。
しばらく考え込んでいたらしいパトリシアが口を開いた。
「じゃあ私も勝手に返事するわ」
「へ?」
「恋愛として貴方を好きになれなくてごめんなさい。貴方は私に似すぎているわ。愛するよりも、愛されたい弱さの持ち主よ。愛されたいと望む者同士で愛し合うことはきっと何も生まない」
「……」
言葉も無くリッツは強く膝を抱え直す。その通りだからだ。
愛してくれるのか、愛されていいのかを問いかけてしまうようなリッツとパトリシアの愛し方では、互いに幸せになどなれない。
きっと互いに愛情を確かめ合うことに疲弊しきってしまうだろう。
その点エドワードはパトリシアを愛したら、パトリシアにためらいなく手を伸ばし、求められる愛情を与えることが出来る男だった。
それはリッツがエドワードに絆を求める時に返される無償の想いと同じだ。
子供のように愛されたい、愛して欲しいと望むだけではこの手はどこにも届かない。それをリッツは知っていた。
自分がこの手を伸ばさねば、自分で掴まなければそれは手に入らない。自らが愛し、相手を慈しむことが出来ねば、求め続けるだけでは愛情など成立しない。
それはただの依存に過ぎない。
でもリッツは手を伸ばすのが怖かった。そして愛することも怖かった。
だから彼女に告白することなど出来なかったし、答えを聞くことも出来なかったのだ。
「私の我が儘を聞いてくれる、リッツ」
「俺が聞けることなら」
「私はね、友達として貴方が一番好きよ。恋愛を抜いて言えば、エディよりもリッツを信頼しているわ」
「……パティ……」
顔を上げて見たパトリシアは、真っ直ぐに星空を眺めていた。アメジストの瞳は星空を映しているようだった。
「前は貴方とエディの信頼をどちらが得るかを争ったわね。でも今度は私、エディと競うわ」
「何を?」
「どちらが貴方の一番の友かをよ」
こちらを向いた表情はただ穏やかで優しかった。本当にリッツを大切に思ってくれていることがよく分かった。
恋愛として彼女と共に過ごすことはもう決してない。それが心の奥底まで静かに染み渡った。
でも彼女はエドワードと同じようにただ何者でもないリッツを大切な人として想ってくれるのだと分かる。
愛を求め合うのではない。
パトリシアは友情という形であってもリッツに与える側に回ってくれた。求めるだけしか出来ないリッツを包み込んでくれた。
十分だ、と思った。
誰よりも大切な友。
エドワードとパトリシアの二人に与えられた一番の存在という言葉だけで本当に幸せだ。それだけでこの二人をずっと想っていける。
「まず手始めに答えを聞いてもいいかしら?」
冗談めかして問われて、リッツは一瞬だけ目を閉じ、変わりゆく関係の中で大切なことだけは変わらないことを確認した。
それから小さく息をつくと笑顔を浮かべた。
「ごめん、エドだわ」
「そうよね。分かってた」
楽しそうに笑ったパトリシアを、リッツは腕を伸ばしてそのまま引き寄せた。
「パティ」
腕に力を込めて彼女の細い身体をしっかりと胸の中に抱き込む。
細身とは言え大柄なリッツに対して、女性にしては武人としてしっかりした体型のパトリシアなのに胸の中にすっぽりと収まってしまう。
こんなに華奢なのに、強い人だと思う。
「リッツ」
するとパトリシアもしっかりとリッツを抱きしめ返し、頬に優しく口づけてくれた。リッツもパトリシアの額に口づける。
友としての親愛のキス。
ただ大切な人に贈るそれだけの口づけ。
そこに今まで心の中で蹲っていた恋愛感情はもうなかった。
気がついたのだ。
リッツが持っていた恋愛感情は、子供の感情だった。愛されたいくせに彼女に愛して貰うことを考えられなかった。
そこにあるのはただのリッツの独りよがりの、恋愛に憧れる感情でしかない。本当の恋愛はそんな独りよがりで相手に感情をぶつけるだけの物ではない。
慈しみ合う事なのだと気づき得なかった。
たぶん彼女はそれを知っていた。知っていたからリッツの幼稚な独占欲めいた子供の恋愛感情を受け入れなかった。
そしてその感情は彼女がエドワードに最初抱いていた感情と同じだったのだ。
でも彼女はその独りよがりの感情を、互いを慈しむ感情へと昇華させることが出来た。
愛情を与えてくれるエドワードがいたから。
だから彼女をただ祝福したい。
愛されたいともがくだけではなく、苦しむエドワードに愛を差し出せるように本当の愛情を手にした彼女を。
「……結婚おめでとう、パトリシア」
「ありがとう、リッツ」
微笑んだパトリシアはリッツをもう一度しっかりと抱きしめてからその腕をゆるく解いて立ち上がった。
「そろそろ交替の時間だから戻るわ」
「……交替?」
「ええ」
パトリシアが視線を向けた場所はこの場所へと繋がる建物の影だった。
そこに一人佇む人影がある。
「……エド……」
そうだ。そもそもパトリシアがリッツの行き付けの居酒屋を知っているわけがない。
彼女があそこに来たのは、誰かが送ってきたということで、それをするのはエドワードしかいない。
「二人で話したいといったら、時間をくれたの」
「そっか。じゃあもうエドの所に戻るんだね」
「いいえ。貴方の時間を貰ったのよ」
そういうとパトリシアは手を振るエドワードに向かって歩き出す。
「ほら、呼んでるわよ?」
振り返りながら言われて見ると、確かにエドワードはこちらにも手を振っている。慌てて立ち上がり、パトリシアの後を追った。
「お待たせしました。貴方の最愛の人を返すわ」
笑みを浮かべて肩をすくめて報告したパトリシアを、優しく抱きしめて口づけたエドワードが笑う。
「……だからリッツは友だと言っているだろう」
「あら火のないところに煙は立たないのよ?」
「パティ」
「私は自分の部屋に帰るから、室内で飲んだら良いわ。冷え切ったもの」
身体を震わせてパトリシアはリッツを振り返った。
「リッツも冷えてるでしょ?」
「当たり前だろ。寒いもん」
「ほうら。じゃあ、またね」
振り返りもせずにヒラヒラと手を振ってパトリシアは建物の中へと帰っていき、エドワードはリッツの元へとやってくる。
「部屋にワインを置いてあるんだ。一緒に飲まないか?」
「……仕方ねえな。寄ってやるよ」
リッツは小さく笑ってエドワードに差し出された拳に拳をぶつけた。




