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長かった燎原の覇者シリーズも、この巻でいよいよ最終巻となります。
2人の主人公の心の成長と葛藤の旅にお付き合いいただき誠にありがとうございました。
戦乱と2人の旅の結末がどうなるのか、最期まで見届けていただけるとありがたいです。
それでは燎原の覇者最終巻「遼遠の彼方」スタートです!
矢は風を切り、小気味のいい音を立てて的に突き立った。張り詰めていた空気が微かに緩んだのを感じて、シャスタは息を吐く。
薄闇の中で数少ないランプに照らされた的に目をこらして見てみると、矢が立った場所は中央から少し外れているようだ。
狙ったのは中心だったのに。
「まあまあね」
腕を組んでそれを眺めていたベネットが笑みを浮かべる。
「中央にはなかなか当たりませんけど……」
的に歩み寄って確認すると、思った以上に的からずれている。中央まで五センチはあるだろうか。制止している対象物に対してもこれほどずれてしまうのでは、人相手にしたときどうなるのか分からない。
ただシャスタが練習を始めたときに比べれば格段に上手くなっていることだけは間違いない。
「でもまあ、半年前よりマシになったわ」
ここまで指導してくれたベネットがそうからかい口調で言いながら短弓を構える。
真っ直ぐに伸びた背筋、美しい姿勢で放たれた弓矢は、シャスタの目の前で乾いた音を立てて綺麗に的の中心に突き立つ。
ベネットは幾度でも間違いなく的の中央を打ち抜く。まるでそこに矢が突き立つことがあらかじめ決められているようだ。
「お見事です」
「まあね。これでも元はダグラス隊の弓使いよ?」
華麗に片目を瞑って微笑んだベネットは、近くに立てかけてあった大弓を手にした。これが本当のベネットの得物だ。
使者としてシーデナから来た時は荷物の中に分解して隠されていたようで、シャスタの練習を見てくれる傍ら毎日微調整に余念が無い。
明るく輝いていた瞳が、弓を構えた瞬間に戦う者としての鋭い目つきに変わる。次の瞬間には矢は的に突き立つのではなく、的自体を破壊した。
落ちた的を手にとって眺めると、中央を打ち抜かれて四散している事が分かる。
ついつい溜息が漏れた。
「……凄いな」
ベネットといいラヴィといいジェイといい、本当に凄まじく強い。それに比べたら自分のなんと無力なことか。リッツの言う通りに戦闘職を諦めて本当に良かった。
だが戦乱の迫る今は自分の力のなさが情けない。
「さあさあ、露骨にがっかりしていないで上に行きましょ。そろそろお昼休みよ」
力強く叩かれた肩が熱い。こんな姿をしていても、ベネットは力強い男性だ。
「はい」
先に立つベネットを追いながらシャスタは階段を上る。扉を開けると一瞬にして眩いばかりの光とざわめきに包まれた。
「あら、練習は終わり?」
尋ねてきたヴェラに頷く。
「はい。お昼御飯作りますね」
「宜しくね」
忙しく出て行ったヴェラの手にした盆には包帯が幾巻か乗せられている。補充なのか急患が出たから必要なのか分からないが、今日は忙しそうだ。
小さく空いた隣室へと続く窓から覗くと、血塗れの男が喚いているのが見える。どうやら喧嘩があったようだ。
「あらあら、今日も大繁盛ね」
呆れたように良いながらベネットが調理場に入っていった。慌てて後を追う。
「それなら簡単な物を作りますよ」
「いいわねぇ。パスタにしましょ」
並んで支度をはじめると、先ほどまでの喧騒が徐々に収まってきたのが分かった。どうやら先程の患者が大人しくなったらしい。
「やれやれねぇ。こんな所に病院なんて作るから」
言葉のように呆れてはいないようで、楽しげにベネットがいう。シャスタは苦笑した。
「済みません。ここが一番安くて一番便利そうだったので」
「まあねぇ」
小さく息をついたベネットが窓の外に目をやる。窓の外にあるのは急拵えで作られた、あのルーイビルの壁だ。
この建物はルーイビルを取り囲む柵のすぐ内側に建っているのである。
漂ってくるガーリックの香りと香辛料の香りに空腹感が刺激されながら、大鍋に人数分のパスタを放り込む。
「でもまさかシャスがこの歓楽街に建物を借りるとは思わなかったわ。ヴェラと一緒に行って懲りたんじゃなかったの?」
「ええ。それは……。でもここの人たちにも医療は必要でしょうし、それに……」
「……戦闘になったら軍人がいなくなるから街を占拠しやすい?」
「はい」
現在彼らがいるところは、街の片隅に作られた、あの荒くれ者達が集まった街の歓楽街である。以前シャスタはそこへヴェラと共に侵入を果たし、この街の現状を知ったのだ。
それを知った上でヴェラに頼んでこの街の片隅にあった老朽化した建物を買って貰った。どんな手を使ったか知らないが、ヴェラはほんの数日でこの建物の権利を手にしたのだ。
その後これもまたどうやって呼び寄せたのか知らないがダグラス隊の医者エンがやってきて、ここにモグリの医院を開業したのである。
この建物はルーイビルの街を囲う柵のすぐ内側に経っており、建物の上に大きな脚立を掛ければ柵の外を見ることが出来る位置にある。
これほど自分たちに適した立地の場所はそうそうない。
つまりルーイビルの柵の外に展開するであろう、現王国軍と旧王国・ルーイビル合同軍の戦場を覗き見することが出来るのだ。
急拵えのルーイビルの柵には欠陥がある。見張り台があまりにも少ないのだ。だがそれはこちらからすれば利点である。
ラヴィいわく『正統なる王家の血を引く貴族が、下賤な血を引く王太子に負けるわけがないのだから正面決戦で相手を絶滅させようって腹さ』ということらしかった。
つまりここの領主は非常に自意識が高く、見張りを立てて籠城という作戦は取らないと予測される。そのため見張りに必要なのは敵がやってきたことを確認するためだけなのだ。
それを聞いたからシャスタはこの歓楽街に建物を手に入れた。だが何もしなくては怪しまれるため、呼び寄せたエンに診療所を開設して貰った。
この建物の地下が先程の弓の練習場になっていて、空いている上部の階は、賃貸を装いシャスタ達が居住している。
エンは堂々と闇医者を名乗っている。高い金を巻き上げて患者を診ているため評判は最悪だが、腕は良いから客は引きも切らない。
その大半がシアーズで革命軍との正面決戦に敗れた貴族たちだ。ここまで逃げてきたものの居場所が無い貴族はこの歓楽街に住み着いていた。
助手に扮したヴェラはそんな彼らから現在のルーイビル軍の状況を巧みに引き出し、戦略を立てる為に使う。
貴族でいられない憎しみをエドワードのせいにし、自らの権力にしがみつく彼らを見るのは複雑だった。
この情報は何らかの手段によってこの街の外にいる諜報部に引き継がれ、ギルバートやリッツに届き、代わりに彼らの情報がこちらに届くのだ。
食事が出来た合図のベルを鳴らすと、この建物に待機している面々が集まってきた。
もう馴染みになった顔ばかりだ。
槍使いで画家を演じるラヴィ。
医療助手を務めるヴェラ。
闇医者を演じる医者のエン。
それに調理を担当していたシャスタとベネットである。ジェイはルーイビルの部隊に潜入しており、ここにはいない。ごくたまに怪我をした振りをして情報を届けに来てくれるのだ。
これに毎回幾人かのダグラス隊の戦闘員が混ざるのだが、今日は珍しく幹部とシャスタだけだった。
「あら美味しそ。ペペロンチーノ?」
最初に現れたヴェラが楽しげに席に着く。
「ええ。簡単で済みません。弓の練習に熱中してしまって」
「あらいいのよ。いつもありがとうね、シャス。王国次期宰相様なのに」
「……またそういうことを。僕が宰相になるなんてあり得ません」
全員が揃ったところで食事が始まる。元々陽気な傭兵達なので情報交換も賑やかだ。だが今日は少し違った。
最初に口を開いたのはベネットだった。
「全軍シアーズを発ったらしいわ」
フォークを持つ手が止まる。それが何を意味しているのか分かっているからシャスタは動けなくなったのだ。
「じゃあ戦端が開かれるのはいつになるかな?」
のんびりと日常会話のようにラヴィがベネットを見返す。彼らにとって戦場は日常で有り、シャスタのように緊張感を覚えるようなことではないのだろう。
「そうね。こちらさんの出方次第よ」
「準備だけは怠らずにしておいたほうがいいな」
「ええ。後でジェイにも伝えて置いて」
「了解。後で少し街に絵を描きに行ってくるよ」
ラヴィが絵を描きに行くと、何気なくジェイが現れる。絵のことを話しているような顔で二人は情報交換をするようだ。
「うちの構成は?」
「指揮官はリッツ、副官がギルね。作戦参謀に王国軍総司令部のドノヴァン少将がいるわ。それにソフィアを含む精霊使い部隊と、遊撃隊。それからリッツの護衛でもある騎兵隊ね。シャスにはなじみ深いでしょ?」
騎兵隊でリッツの護衛を務めるのは、元グレイン騎士団第三隊である。つまりサリーの父であるマルヴィルが来るのだ。
「作戦案は?」
パスタを飲み込んでから再びラヴィが口を開く。この場の責任者は王国軍で役職に就いているベネットである。最も戦闘経験の多いラヴィはその補佐だ。
「逆籠城作戦。これ一択ね」
その作戦はシャスタも詳細を聞いていた。その為にこの建物の裏側では作業が進んでいるのだ。戦闘になればそれを活用する。
「わしは戦闘にでんぞ」
小柄な身体でパスタを勢いよく口にしていたエンがいつも通りに宣言した。彼はいつも戦闘中は行方不明になるのだ。そして戦いの後にどこからともなく現れて治療するのだと聞いている。
ベネット曰く、隠密の専門家らしい。
「私もエンと同じね。私も非戦闘職だもの」
笑顔でそういったヴェラに苦笑する。確かに戦闘職ではないが暗殺技術では一番だというのに非戦闘員はないだろう。
そんなシャスタの複雑な思いが透けて見えていたのか、ヴェラが微かに色気を滲ませて目を細める。
「なによぉ、言いたいことがあるの?」
「ないです」
そういえばまだシャスタはこの建物を手に入れて貰うためのヴェラのお願いを聞いていない。何を言われるのか分からないのが今更ながらに怖い。
視線を逸らしてパスタを口に運ぶと隣に座っていたベネットが吹き出した。
「ヴェ~ラ。あんまり純粋な少年を虐めないの」
「失礼ね。可愛がっているのに」
姉妹がじゃれあっているように二人が笑う。これでベネットが男だなんて不思議だ。
「はいはい。シャスと私は予定通りにするわ。ラヴィは?」
「隙を見てギルたちに合流するよ。そちらの方が役に立ちそうだしね」
「了解。じゃあまだまだ情報収集お願いね」
話を終え、今後の予定を決めた頃には、皿は空になっていた。
現王国軍がシアーズを発ったというのなら、今までのどことなく穏やかな日々が終わりを告げる。これから忙しくなるのだろう。
シャスタは今まで以上に弓の稽古をしなければ成らないし、作戦のための情報収集も盛んになるに違いない。
芽生えた緊張感にシャスタは息をついた。頭のどこかが締め付けられて、熱くなっている。
この街を戦場にはさせない。
その為に出来ることを、ここに居る全員とルーイビル軍に潜むダグラス隊だけで全てしておかねばならないのだ。
とりあえず今できることは食卓の片付けだろう。
「そうだ、エン。私午後診療お休みするから」
立ち上がり掛けていたシャスタの耳にヴェラの声が聞こえた。顔を向けると皿を片付けながらヴェラがエンに笑顔で頼み込んでいる。エンはヴェラとは正反対に呆れたように息をついている。
「なんじゃい。じゃあわしも休みだ。お前さんがいないんじゃ情報収集にならんだろう」
「そうね。じゃあ病院がお休み」
「もっとゆっくり食事をすれば良かったな」
いつもの如く愚痴をこぼすエンにベネットが笑った。
「じゃあ私がコーヒーを入れてあげるわよ」
「おお。すまんなベネット」
「いいのよ。私も飲みたいもの。ラヴィは?」
「僕も頂くよ。その後に少し写生に行ってこよう」
「は~い」
ヴェラの手から食器を受け取ったベネットが調理場に姿を消す。
「じゃあ支度しましょ、シャス」
あまりに唐突な言葉にシャスタは戸惑う。
「ヴェラさん?」
「この間の約束を果たして貰うってことよ。このまま戦闘に突入したら無視されそうだもの」
「え?」
この建物を買った礼のことだ。
「何よ、忘れているとでも思った?」
「いえ」
「とぼけるつもりだった?」
「……僕は約束を違えません」
本音を言えば忘れていて欲しかった。何を要求されるか全く想像が付かないから怖いのだ。シャスタが出来そうなことなどたかが知れている。
戸惑うばかりのシャスタを前にしつつも、ヴェラは満面の笑みを浮かべた。
「じゃ、デートしましょ」
「は?」
「デートするわよ?」
思いも掛けない言葉だった。もっと凄いことを要求されるのかと思っていたから少々拍子抜けだ。
「……僕と、ヴェラさんが?」
「そうよ。断らないわよね?」
「でもデートって……」
正直に言えばサリーともまともに付き合っていないシャスタにはデートと言われても何をして良いのか見当が付かないのだ。
「嫌なの? この建物買ったのだ~れ?」
断れるわけなどない。出来ることはなんでもする約束だったのだから。
「ヴェラさんです」
「はい。よくできました」
最初から断ることなどできるはずもなかった。ベネットが嬉々として残った家事仕事を全部引き受けてくれて、食事から一時間も経たないうちにシャスタは外に放り出されてしまった。
かろうじて手にしたのは自分の財布と鞄ぐらいだ。
「デートって……」
未だ納得がいかずに一人呟いてみる。
「お待たせ」
声を掛けられて振り返ると、ヴェラが立っていた。その意外な服装に戸惑う。
「ヴェラさん?」
いつもはふわふわとレースの入った服を好み、まるで人形のような可愛らしさと大人の妖艶さを醸し出すヴェラなのに、そこにいたのはシャスタと同年代の少女が身につける質素なワンピースのヴェラだったのだ。
若作りといえば若作りなのだろうが、ヴェラは実年齢が不肖だから全く違和感がない。おそらくこれなら十六歳のシャスタと同じ年でも通じるだろう。
「なによぉ、似合わない?」
子供っぽく軽く身をかがめて頬を膨らませるヴェラの肩で菫色のリボンが跳ねる。いつもはほとんど束ねずにいる銀糸のような細く癖のある柔らかな髪は緩やかな三つ編みに編まれて後ろに垂らされていたのだ。
「びっくりしました」
「若作りで?」
「違います、その……」
戸惑うと言葉が出てこない。普通の少女めいたヴェラは本当に可愛らしくていつもとの違いに何と言ったらいいのか分からなかったのだ。
こんな時に義兄であるエドワードだったらとてもスマートに女性を褒めるのだろうが、やはりそういうことには向いていないとしみじみ実感する。
「まあいいわ。嫌な驚き方じゃないし」
シャスタの戸惑いからそう察してくれたらしいヴェラが機嫌を直したのか明るく笑う。
「さあ、ルールを決めましょ。まず一つ、今日はデートだから私を呼び捨てにすること」
「……でも」
ダグラス隊の毒使いを呼び捨て? あまりにも恐れ多い。だがシャスタの顔を見て察したヴェラはいつもの暗殺者ばりの笑みを浮かべた。
「建物を得るために抱かれた男との閨の性行為を全部聞きたい?」
「……」
「老人だったわよ? 枯れ木みたいだったけど性欲だけは若者並みで……」
「分かりました! 呼び捨てですね!」
やはりその手段であの建物を手に入れたのか。予想はしていたけれど、やはり申し訳ない。自分にできることはなんでもすると誓ったのだからそれをしなければ約束不履行になる。
「……ごめんなさい。ええっとヴェラ」
「うふふ。宜しくね、シャス。そして二つ目は、同い年として扱うこと!」
いつもとは違い、無邪気に笑うヴェラに目を瞠る。これも作戦でいつものように男の好みに合わせた物なのだろうか。
「……同い年……」
まさかの無謀な言葉に押し黙る。シャスタの礼儀基準でそれは失礼に当たる。
ふと冷たい手の平がシャスタの指に触れた。顔を見るとヴェラが少し寂しげに笑みを浮かべている。
「やっぱり嫌よね。実年齢が三十近い女なんて」
それがあまりに真に迫っていて、シャスタは焦った。作戦だろうとなかろうと今日はデートをすると約束したのだから、シャスタだって役割をやりきるべきだろう。
触れた指先でしっかりとヴェラの手を握り込む。
「シャス?」
「行きますよ、ヴェラ」
「その三、敬語も禁止」
「うっ……行くよ、ヴェラ」
「はい」
何だか変な感じだ。ヴェラと行動することは多いのに、初めて一緒に出かけているような気になってきた。
ふと横を見るとシャスタより少し低い位置に彼女の顔があった。こんなに小さかっただろうか、とふと思う。
暗殺者と対決した時の彼女は大きく見えたのに。
繋いだ手も思いの外小さくて驚いた。この小さな手で人の命運を弄んできたというのだろうか。
「シャス?」
考えていたら自然と足が遅くなっていたらしく、怪訝そうに見られた。駄目だ。今日はデートをしているのだから。
「なんでもないです」
「敬語」
「……なんでもないよ」
二人で歓楽街から出て、街へと向かった。この街の中心には大きな公園があることをシャスタは知っていたし、デートと言えば公園ぐらいしか思いつかなかったのだ。
これで本当にいいのかシャスタには分からないが、繋いだヴェラの手は温かくて小さな事は忘れてもいい気がした。
二人で過ごす時間はいつもと違ってただただ優しかった。ヴェラはいつものように年上としてシャスタを導くことを一切しなかったし、シャスタもヴェラを暗殺者として頼ることもなかった。
ただ二人で手を繋いで過ごすこの時間は不思議に穏やかだったのだ。
公園では寛ぐ人々が少なからずいて、これから戦乱が起こるなど信じられないほど平穏だった。その中でたわいも無い事を話ながら歩くのは楽しかった。
ヴェラとは普通の話をしたことなどなかったと思い知らされる。
公園沿いのカフェで二人でケーキを食べ、好きな花や食べ物の話をし、故郷の話をする。そんな普通の時間を持てるとは思わなかった。
楽しげな横顔を、シャスタは幾度も眺めた。
最初は演技かと思った。
シャスタに何でもして貰うと言ったが、シャスタ程度が出来ることなど限られているから、デートという形にして約束を履行した振りをしてくれるのかと思ったのだ。
でも違った。彼女は本当にこの時間を楽しんでいるのだ。それが分かるぐらいにはヴェラを分かっているつもりだ。
「ねえシャス! 綺麗な花ね」
秋の小さな花を付ける花木を前に、スカートの裾を翻してヴェラが笑う。
「うん」
「私、こんな風にのんびり散歩するのは初めて」
「そうなんだ」
「ええ。貴方と一緒だから楽しいのかもしれないわ、シャス」
「……僕と……」
自分が堅物で生真面目で詰まらない男であることは、宰相秘書官室で聞く嫌みのような言葉や政務部へ行く時に耳にする陰口で知っている。
なのにこんなシャスタといるのが楽しいとヴェラは言う。それが不思議でそれ以上に嬉しかった。
政務部にいる時の自分は少し無理をしているのかも知れないと気がつき、ふと足を止める。
「シャス」
無邪気に手招きされてシャスタが足を速めて隣に並びヴェラとしっかりと手を繋ぎ合う。
ヴェラは一体どうして暗殺者になっただろう。何故普通に生きられなかったのだろう。
笑顔を、手の温もりを感じる度にそんなことを思った。
公園にいる時、少し洒落た雑貨屋を眺めている時、ふとした瞬間に穏やかな笑顔の中に微かによぎる哀しみを感じ取ったのだ。
「ねえヴェラ」
すっかり呼び捨てることに違和感がなくなった頃、シャスタはそういってヴェラを呼び止めた。
「君のことがもっと知りたいって言ったらどうする?」
「……顔に出てたから知ってるわ」
「ごめん。隠し事が苦手で……」
「いいの。そうよね。話したことなかったわね」
ヴェラが噴水を眺められるベンチにシャスタを誘った。二人で腰を下ろして噴水を見上げる。
水が未だ微かに残っていた夕陽を照らして最後の輝きを放つ。それがいかにも寂しげでまるでヴェラの笑みのようだと思う。
ベンチに座ってもヴェラは口を開かなかった。シャスタもかける言葉を持たずにただ黙ったまま彼女の手を握っていた。
やがて完全に日が落ち、濃紺に染まった空が夕闇を静かに連れてきた。
光がなくなって初めてヴェラが口を開く。
「私とソフィアは孤児なの。この容姿から推測すると、リュシアナ人じゃないかってギルが言ってた。でも私たちがいたのはシアーズの貧困街だったの。おそらくユリスラに来たリュシアナ人が産み落としたんだろうって」
小さく息をついたヴェラが微かに微笑む。今まではしゃいでいて見えなかった微かな大人の顔が覗いた。
「この容姿、今は武器になっているけど、幼かった頃は過酷だったわ。無許可の娼館で客を初めて取った時、まだ十歳になっていなかったもの」
息を呑んだ。
十歳になる前に娼館で客を取った。それ意味することを理解して息を詰める。あまりに想像外だがその壮絶な彼女の悲劇に言葉も無い。
「幼女趣味で、その上優秀な暗殺者を探していた男がいてね。私は娼館からその男に買われたの。正直に言うと助かったって思ったわよ。だってこれからはその男だけでいいんだもの。でも甘かった」
そこでヴェラは毎日少しづつ毒を摂取することで彼女を抱いた相手を死に至らしめられるようにと身体を作り替えられていく。
その為に男に慣らされていく身体と、壊れていく心。でも生きる術が他になかった。
「ソフィアさんは……」
「ソフィアは精霊使いだったから自分の力を使って貧困街でのし上がろうとしてたけど、私たちはあまりに無力だったからどうにもならなくてね」
「逃げられなかったんですか?」
「……どこに逃げたらいいの? 男を喜ばせること以外能がない私が」
「っ……」
彼女を救おうと必死になるソフィアもその術を持っていなかった。姉妹は時折会って互いの生存を確認する意外に何も出来なかった。
「いつの間にか菫の乙女といわれる暗殺者になってた。でも大人をいいように扱い、命をこの手で握れることはそれほど悪くないと思っていたわ」
「そんな……」
「ううん、嘘ね。復讐していたんだわ。私を堕とした大人の男たちへね」
ヴェラはいつもいとも簡単に自分の身体を使って任務をこなす。楽しげに、時に世界をあざ笑うように。その裏に抱えた想いが痛ましい。
「現に今も特に苦痛じゃない。私の手の平で滑稽に踊る男を見るのは楽しい」
だけど、と彼女は言葉を切った。
「愛されたいと……思った事はあるわ」
彼女の表情が夕闇に暗く染まっていく気がした。この闇の中にかき消えるようにその一言はただ小さく聞こえた。
そっと力を込めて握った彼女の指は体温を失ったかのように冷たい。
「そんな頃ね。ギルを殺せといわれたの。革命派が軍で力を持ち始めた頃だったらしいわ。流石にモーガン侯を殺すことは出来なかったから彼の盟友たるギルを狙ったんでしょうね」
それが今から十年程前だった。
「当然私はそれを実行するつもりだったし、実行できると思ってた。でも出来なかったのよ。ギルはその日もう一人女を買っていたから」
そのもう一人の女は……ソフィアだった。精霊使いとして用心棒的な仕事をしていた彼女は、娼婦の振りをしてギルバートに近づいたのだという。
それは久しぶりの姉妹の再会だった。
「でもね、姉さんったら全く娼婦っぽくなくて、すぐにギルにバレてしまったんですって。でも私たちの事を聞いてギルが一計を案じてくれたの」
そこでギルが提案したのは、ソフィアとヴェラの姉妹を自分の愛人として囲うことだったそうだ。今でこそ傭兵であるギルバートだが、当時は男爵家の跡取り息子としての地位と、軍での地位を持っていた。だから彼女たちを愛人だと囲っても問題になることは無かった。
利用できる物は何でも利用するギルバートらしく、貴族の立場を利用したのだ。そこでヴェラは自分を飼っていた男の手を離れ、ギルバートの元に残った。
「ソフィアは革命派のために働いたのよ。主にお手紙運びだけど。だからモーガン侯とも顔見知りでね」
暗殺者菫色の乙女はこうして社交界から姿を消した。その痕跡を消すことに協力したのはジェラルドだったそうだ。
「それならそこから幸せになれる機会が……」
小さく口を挟むと、ヴェラが寂しげに笑った。
「長年身体を武器に使ってきたからね。私は男がいないといられなかった。ギルはそれを分かって自分を持て余す私を抱いてくれたわ」
「あ……」
ギルバートの愛人だと前にも聞いた。そういうことだったのだ。
「でもただ庇護されているのは嫌だった。私たち姉妹を救ってくれたギルに恩を返したかったの」
そして彼女はまた男の間を行き来するようになった。それは主に情報を集める為であったり、相手を再起不能にするためであったりもした。
だがそれは苦痛ではなかったのだという。
今度は強制されたのではなく、自ら望んで自分を大切にしてくれる人々のためだったから。
「傭兵になってからもこの身体を使ってきたわ。でも不思議と嫌悪を感じなくなってた。道具ではなく、人として必要とされることは大きいものね」
長い話だった。
夜がすっかり二人を包み込み、影に隠れたようなこのベンチは同じように闇に沈んだままだ。オイル灯はあちらこちらにあるというのに、ここには明かりが届かない。
まるでヴェラの心に触れられないシャスタのようだと、ふと自らを省みた。彼女に手を伸ばすことが出来ない。
「……私、一度ちゃんと恋がしたかった」
闇の中に溶け込むようにかすかな声が囁く。
「でも出来ないから、シャスが何でもいうことを聞くって聞いて、普通のデートがしたかった。私になかった時間が欲しかった」
こちらを見つめた菫色の瞳は優しく眇められていて、哀しみの中に微かな幸せの色が浮かんでいた。
「でも本当はシャスに聞いて貰いたかったのかもね。……シャスだけは私を叱ってくれるから。普通の女性として扱ってくれるから……」
ベンチから立ち上がったヴェラが、空を見上げながら大きく息をつく。満天の空にヴェラの白い横顔がまるで幻想のように浮かび上がって見える。
「お話、おしまい。さ、帰りましょ」
敢えていつものヴェラの口調でそういったのは、話してしまった過去の重さをシャスタに背負わせないためだろう。
それを思うと切なさに胸が絞られるようになった。
「シャス?」
戸惑ったようなヴェラの声で、自分が彼女を抱きしめていたことを知った。
「同情してくれるの?」
いつもの悪戯な表情で笑うヴェラが痛ましくて、更に力を込めて強く抱きしめる。
「……恋、すれば良いじゃないですか」
気がつけばヴェラにそう言っていた。
「何をもう死ぬようなことを言ってるんですか。ギルバートさんが一緒にいるんだからそう簡単に死なないでしょう? 恋、すれば良いじゃないですか」
元は暗殺者でも、諜報担当でも、それでも心は自由でいていいのに。この人は何故こんな風に考えているのだろう。
そう思うと辛い。
「恋か……」
呟くようにそういってヴェラは微かに笑う。
「シャスと?」
「僕は無理です。許嫁がいますから」
「知ってる」
「僕の母ぐらいの年齢だって言ってたじゃ無いですか」
「ふふ。もう少し若いわよ」
口ではいつものように言いながら、ヴェラがシャスタの肩口に額を付けた。華奢な彼女の身体をしっかりと抱き直すと、その銀の髪に顔を埋める。
香水の香りなのだろうか。いつもとは違う微かに甘い花の香りがした。
ただ黙っているだけで互いの鼓動が重なっていくようで動くことが出来なかった。
「……普通に生まれたかったな」
やがて彼女がそう呟いた。
「普通って何ですか?」
「……何かしらね。貴方は普通?」
「普通じゃ有りませんよ。兄だと思っていた人は王太子だし、突然精霊族の兄が出来るし、宰相の助手を務めているし」
「あは、本当ね。普通じゃないわ」
顔も上げずにそういった彼女の頭を優しく撫でた。
他の人とこの人がどんな関係を作っているのかシャスタはよく分からない。それでもこの人がこうして甘えられるのはシャスタだけなのだと分かった。
何をしたわけでもない。
シャスタはただ彼女が毒で死のうとした時に生かした。死を望んだ彼女を無理矢理に生に繋ぎ止めた。それだけだった。
でもそれ故に彼女はシャスタにだけ甘えられるようになった。それが少し誇らしい。
銀の髪に指を絡めるように頭を撫で、華奢な腰を抱いていると、ヴェラが顔を上げた。夜の闇を映す菫色の瞳は、あの暗殺者と決闘した時と同じようにただ普通の女性としてシャスタを見上げている。
微かに吐息を感じた時、彼女の望んでいることが分かった。だから彼女の望むようにその薄い唇を優しく塞ぐ。
戸惑ったように微かに目を見開いたヴェラの瞳がゆっくりと閉じられるのを確認してから自分も瞳を閉じる。
ただ慈しむだけの軽く啄むような口づけを幾度か繰り返し、もう一度抱きしめて頭を撫でる。
「シャス、浮気よ」
からかうように言いたかったのだろう。だがヴェラの声は微かに掠れていた。まるで泣き出す直前のように。
「……浮気ですね。でもこうしたかったんですから仕方ないです」
たとえこれが浮気だとしても、たとえ許されないかも知れなくても、それでもヴェラがこれから笑えるならそれでもいいと思った。
彼女はシャスタが母を失った哀しみを初めて受け止めてくれた人だったから、そしてずっと見てくれた人だったから。
「私と恋してくれるの?」
「……出来ません。たぶん恋じゃないんです」
それだけは分かっていた。この想いは恋にならない。かといって同情でもない。置き換えるのだとしたら愛情なのだろうと思う。
「貴方に幸せになって欲しいから……だからこれは僕の祈りです」
貴方が幸せになれますように。
自分は沢山の人と関わって幸せに生きてきた。だから少しだけでも彼女の幸せを祈りたかった。彼女が求めるなら、シャスタという人の思いを分けたかったのだ。
しばらく腕の中でじっとしていたヴェラはやがていつもの表情で腕から離れた。シャスタの両腕をしっかりと握って悪戯な笑顔でこちらを見上げてくる。
「ついでに抱いてくれない?」
冗談めかしているくせに本気なのだろう。だがヴェラもシャスタもこれ以上踏み込んではいけない境界が分かっていた。
これ以上踏み込めば、恋ではなくても互いを求めずにはいられなくなる。それはきっと傷つけ合うことにしかならない。
「絶対に駄目です。そこまで浮気したくないです」
きっぱりと告げると、ヴェラは吹き出した。
「堅物ねぇ」
「どうとでも言ってください。僕には許嫁がいますし、彼女を愛していますから」
「ケチね」
ふくれ面をしてヴェラはきびすを返す。
「ありがと。聞いてくれて嬉しかった」
闇に紛れてしまう呼気のように微かな声だったが、シャスタはそれをちゃんと拾った。
「僕も話してくれて嬉しかったです」
ヴェラはシャスタを助けてくれた。二度も救われた。だから少しでも彼女の為になれればそれでいい。
たとえ彼女と恋が出来なくとも、抱くことが出来なくても、そこにある確かな形のない愛情があることには変わりがない。
「夕飯食べて帰りましょ」
「そうですね。お腹空きました」
「ふふ。私も。ところで敬語」
「あ……」
「あとデート、終わってないわよ?」
満面の笑みを浮かべてヴェラが手を差し出した。その手をしっかりと握り指を絡め合う。
改めて繋いだ手は、もう冷たくはなかった。




