<16>
「能なし共めが!」
怒声と共に飛んできたワイングラスが男の額に直撃し、床で粉々に砕け散った。その破片が低頭する男の頬を薄く裂く。
「申し訳ありませんファルコナー公! ですが王太子の周りを固めます護衛が……」
「言い分けを聞く耳なぞもたん! お前達はいつになったらあの下賤な偽王太子を死の国へと引きずり下ろせるのだ!」
「申し訳ありません!」
床に頭をこすりつけるように男は平伏する。
王太子暗殺のため、精霊族で大臣であり、王太子の愛人であるリッツ・アルスターを懐柔し王太子共々暗殺する計画は、完璧であると思われた。
実際に半年もの時間を掛けてじっくりと確実に進められた計画だったというのに、それは土壇場で覆ってしまった。
全ては王太子と大臣自らが仕組んだ罠だったのだ。まさかあれほど完璧に、あの二人に欺かれてしまうとは思わなかった。
半年間に及び、目の前で見せられた大臣と他の幹部の不仲。公の目を気にせずに我が儘をいい、王太子を翻弄している大臣。
そんな自分の愛人を大切にするが故、部下達から反発を受けそうな王太子。
それが全てあの夜にひっくり返った。
半年だぞ。と男は思う。
半年もの間よくも欺き続けたものだ。
普通なら半年も不仲な振りをしていれば色々な物が瓦解しそうな物だが、あの王太子と大臣、そして革命軍から行動を共にする幹部達はやりきった。
あの暗殺事件以後、政務部、軍部の全員を前にして暗殺者の大量捕縛と、それに伴う軍と政務部の改変を発表した王太子の横に立つ大臣は、あの自治領主会議の前までとは全く違う人物のようだった。
周りを嘲笑しつつ見下ろすような表情は一切無く、王太子を見る目も臣下として当たり前のものだった。
普通に幹部達と会話を交わして笑い合い、からかわれてはむくれるその姿は、まるで別人だ。
特に不仲だと思われていた宰相グラント・サウスフォードとの関係だけを見ても、厳しい祖父と孫のようにほほえましいほどだった。
見事だと、男は舌を巻いた。これほど見事に騙されてしまえば、もうどうすることもできないではないか。
現在のシアーズにはもう打つ手が何も無い。
半年も準備期間があったせいで、暗殺を考え命じてきた貴族の力を結集してしまった。そのせいで、もう王都にほとんどファルコナーの手駒が残っていない。
それは同じように王座を狙うランディアのバーンスタイン公爵も同じだろう。彼らの手駒も同じようにあの暗殺計画で全て失われている。
それどころかあの事件で恐れをなした貴族たちがみな、ルーイビルとの付き合いを断ってきた。ランディアでも同じ事が起きているようだ。
貴族たちは気がついたのだ。
貴族制度が無くなった今、貴族という立場にしがみつくよりもエドワード王太子の作る新たな秩序に乗った方が自らに利があると言うことを。
そもそも彼らは貴族特別給付金の支給を止められている。賃金を得たければ王国への忠義を誓い、働くしかないのである。
生活が成り立たなくなっているのに、それでも時代を逆行した貴族社会復活の夢をとる。その無謀に全てが賭けられる人間などいない。
もうエドワード王太子の政治が執り行われるようになってから半年以上が経っているのだ。何が得かなど自明の理になりつつある。
男は荒れ狂うファルコナーの怒鳴り声を平伏して聞きながら、ふと自分の立場の哀れさに気がついた。
何故、シアーズの立場を捨てて報告に来てしまったのだろう。あのままシアーズで平穏な日々を選ぶことも出来たはずなのに。
それにこうして怒鳴り散らしているファルコナーは、決して自分で動こうとしない。そのくせ全ての責任を部下達に着せては断罪している。
向こうは王太子自らが側近と共に敵を排除しているというのに。
羨ましい。
妬ましい。
王都にいて、のうのうと王太子に服従している貴族たちが。
同じように貴族の世を謳歌していて、今も安定して暮らしているなど、卑怯ではないか。
自分はこんな風に貴族制度故に未だ縛られて暴力を受け続けているなど、不公平だ。
シアーズにいればよかった。
いや、でもそれは無理だ。平民上がりの妻が、ファルコナーの妻の女中頭である以上。
「お前に最後の機会をやろう。これを持って行くがよい」
ファルコナーの合図で、近くにいた侍従がこちらへと丁寧に木箱を差し出した。
「これは……?」
「開いて見よ」
言われるままに男はそれを開く。中にあったのはガラス瓶の中の透明な液体に揺れている、赤ん坊の握り拳ほどの赤い宝石だった。
「これは?」
「敵国であるフォルヌ王国より手に入れた紅火石だ。そこに満ちている液体はきわめて揮発性の高い油だそうだ」
「紅火石」
水の中で輝く真っ赤な宝石は美しかった。
「そのガラス瓶を王太子に投げつけ、火を放て」
顔を上げてファルコナーを見上げると、その目は残忍に輝いていた。
「あの下賤な王太子も、さぞかし美しく燃えるであろう」
嬉々とした笑みを浮かべたファルコナーに、男は恐る恐る尋ねる。
「それは……その……投げつけるとは……」
「至近距離まで近づかねば無理であろうな。この私から親書という形で偽王太子に便りを書く。お前はそれを使者として王城に届け、あの男、エドワードに近づき、この紅火石を使って始末せよ」
男は息を呑んだ。それは男にとっての死を意味していたからだ。
「そんな……ファルコナー公……」
絶句する男の前でファルコナーは、残虐な笑みを浮かべる。
「嫌か? それならば別の者に頼むことにするが、そうなるとお前の妻と娘が心配にはならぬか?」
ぞくりと背筋を寒気が這い上った。
「兵士の囲いに放り込んでもいいだろうな。あの者たちほどの器量ならば、男たちに引く手あまたであろう」
卑怯な……。
平民上がりの妻がそこに領主によって放り込まれるというのは、男たちに好きなようにしていい餌として与えると言うことだ。
男は唇を噛む。
戻らねばよかった。報告者の役割など引き受けず、暗殺者達の中に入り、一緒に処刑されればよかった。
こんな事になるならいっそ……。
男の脳裏に大臣の姿が浮かんだ。あの高級クラブでつまらなそうな顔をし、王太子との関係を妄想させるような色気を振りまくあの大臣を。
あの場に幾度か自分はいた。
だからきっともう自分が暗殺者達に関わっていた人物だと知られている。
シアーズに戻っても追われるだけだろう。
行く場所がない。
「どうした? やるのか、やらないのか。選択肢は二つしか無いぞ?」
せせら笑うかのようなファルコナーの言葉に、男は唇を噛みしめる。二択などではない。選択肢はすでに自身の手には残されてはいないのだ。
しばらくしてから顔を上げた。
「やらせていただきます。ですから妻と娘は……」
「分かっておる。頼んだぞ、クロフォード伯爵」
「……はっ」
男……クロフォードは、恭しく頭を下げ、紅火石を手に立ち上がった。
やるしかないのならば……いっそ歴史に名を残す暗殺者になってやる。
この身の置き場がないのならば、おそらく希代の王となるだろう王太子を志半ばにして殺した男として名を残してやる。
王太子エドワード・バルディア、大臣リッツ・アルスター。
自分を騙した代償は大きい。
その身をもって代償を受け取るがいい。
妻と娘の安全を狂気で買い取ったクロフォードは暗い欲望に沈んでいった。
王国歴十月三日。
その日、ルーイビルから立派な使者の一団がシアーズを訪れた。名目はファルコナーからの親書を王太子エドワードに手渡すためである。
追い返すことも検討されたが、王太子として以前に使者を送っている手前、これを受け入れることを是と決断したのはエドワードだった。
リッツは反対の立場だったが、エドワードがそう決めたならそれに従うのが常だったため、何も言わずに従うことにした。
友とはいえ、政治的な駆け引きにリッツは口を挟むことなど出来ないし、それをする必要があるとも思えない。
正式な使者を迎えるのに選ばれたのは当然の如く玉座の間だった。
リッツとしては玉座の間にはいい印象がないから、あまり入りたくはないのだが、これも王太子としては仕方が無いらしい。
全員がいつものように揃い、使者を迎える段になって、リッツは緊張感に手に汗を握りつつ、エドワードの横に控えていた。
この使者がかなりきな臭いことは諜報部からの報告で分かっているからだ。
しかもこの使者は、あの暗殺事件まで王都の政務部にいたのである。
リッツのエドワードとは反対の隣にはパトリシアが近衛部隊の制服を身につけ、白銀の杖を片手に立っている。
パトリシアもこの使者に警戒して、いつでも精霊魔法を使えるように集中しているのだ。
使者達が玉座の間に現れ、エドワードの前に跪く。
「ルーイビル自治領主、ファルコナー公爵より親書をお持ち致しました」
丁寧な口調、そして差し出した親書。
それを受け取るためにリッツが足を踏み出した。何かを仕掛けてくるならもっとも身軽な者が動くべきだという、ギルバートの指示だった。
軽くかがむようにして跪いたままの男の手から親書を受け取ろうとするが、親書が動かない。
見ると親書を男が強く握っている。
「……放してくれないと受け取れないんだが?」
できる限り穏やかに言葉を掛けると、男が顔を上げた。じっと見つめてくるその顔に、もう一度繰り返す。
「放して貰えないと……」
「大臣閣下、あなたは演技がお上手だ」
リッツの言葉を遮るように、男が口を開く。見ると男は目を見開いていた。その目は赤く血走っている。
「な……」
その中にある闇に、ぞくりと背筋が冷たくなる。
「本当に本当に演技がお上手だ。あなたの本当は何なのですか?」
「何のことだ?」
血走った男の目を見つめたまま問いかける。
「信じておりましたよ、あなたが王太子殿下の愛人だと」
「……何?」
男の顔がふとあの高級倶楽部を思い出させた。
そうだ。この男は、あそこにいた。
「あなたの色気を前に色々想像もさせて頂きました。この綺麗な精霊族が、男の腕の中でどんな風に乱れるのかと。それはそれは扇情的な姿であろう、とね」
男が囁くように熱っぽくそういった。
「何を……」
「あれだけの妖艶な様を見せつけられて、情欲に溺れるあなたの姿態を、想像せずにいられましょうか? 一度お相手願いたかったものです」
頬が羞恥心で一気に熱くなる。
分かっていたはずだった。男たちの中で自分はどのように思われているのかを。その貴族たちの間でどんな扱いを受けていたのかも。
それを承知で、彼らを信じ込ませるために演技をしていた。
だがあれから一月が経ち、あの演技を知る人間も忘れかけている頃に投げかけられた強烈な物言いに言葉も無い。
「なんで……」
「光を纏ったように眩いあの王太子殿下が、どんな顔をしてこの男を抱くのだろうかと想像するのも楽しかった……」
男が楽しげに息を詰める。
……こいつ、笑っている。
「下賤の者である偽王太子と、美しい精霊族が男同士で、どのようにいやらしく睦み合うんだろう」
「やめろ……」
「交錯し、絡み合うその痴態は、どれ程いやらしいのだろうと想像すると、堪らなく身体が疼いたものです」
「やめてくれ……」
ぐいっと引っ張られて親書をまだ掴んでいたことを思い出す。
微かによろけると、男の顔が目の前に来た。
「なのに、演技だったのですね」
囁くように告げたその目の中に、男の狂気を見た。
「本当に演技がお上手だ。すっかり騙されました」
瞳が闇を通り越して虚無のようだった。闇が深いと何も映らないのだろうか。
それが怖い。
「私たちも甘かった。屋敷で眠るあなたを実際に犯してみれば、男を知っているかどうかで一目瞭然だったのに。みんなあなたを犯したがっていたのに、全く意気地の無いことだ」
「!」
あの連中の妄想の中で自分がどんな扱いを受けていたかを改めて知り吐き気がした。
「本当に私たちの詰めが甘かった。私にはとてもあのように完璧な演技は出来ません」
次の瞬間だった。
目の前をガラスの瓶が横切ったのだ。
「リッツ!」
羞恥心と気持ちの悪さで動揺していたリッツは、エドワードの声で我に返る。
一瞬見た男が楽しげに笑っている。
これは罠だ。
わざとらしくリッツに囁きかけるように言葉を紡ぎ、リッツを動揺させ、後手に回らせるための……。「てめえ!」
振り返るとそれはリッツとエドワード、丁度中間に落ちて粉々に砕け中身を撒き散らしている。
「何だ、これ……」
液体と、真っ赤な宝石……?
液体からは強い油の香りがする。
リッツは一瞬で判断し、エドワードの方へ駆ける。
「みんな伏せろ!」
後方に立っている仲間達に向かって怒鳴る。全員がしゃがみ込むのが視界の端に入る。
「伏せろ、エド!」
だがエドワードは椅子に座っていた。
これでは間に合わない。
リッツの叫びと同時に、男もどこかたがが外れたような叫び声を上げる。
「我らを騙し、愚弄した罪はその身をもって償え!」
「貴様!」
「死ね、死んでしまえ!」
男の叫び声と共に、炎がそこへ投げ込まれる。
「くっ!」
せめて炎から一瞬だけでもエドワードを守れればいい。
パトリシアがいれば風で炎をそらせる。
そう判断してリッツはエドワードの正面で炎に向かって両手を広げて立つ。
「リッツ!」
エドワードの叫び声と同時に、すさまじい爆風が起きた。
「くっ!」
両腕で顔と頭を庇ったが、巨大な炎を巻き上がり、目の前が真っ赤に染まる。
熱い。すさまじい熱さだ。
爆発が玉座の間を包み込み、呆気なく身体が吹き飛ばされた。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁっ!」
次の瞬間、仕掛けたはずの男が何故か絶叫した。炎は容赦なく使者を飲み込んだのだ。
叩き付けられた背中が息が出来ぬほどに痛い。
それに熱くて苦しい。
このまま死ぬのだろうか。
そう思った時、ふと懐かしい声が聞こえた気がした。
『また炎で死にかけるつもりなの?』
ローレン……?
『何度も同じ事を繰り返さないの』
そんなこと言ったって不可抗力じゃないか。
そう思ったところで意識が途切れた。
どれだけ意識を失っていたのか、リッツは自分の頬を強く叩く感触と名前を呼ぶ声で目を開けた。
目の前にエドワードの顔がある。
「……エド、無事?」
抱き起こされながら尋ねると、大きく溜息をつかれた。
「お前が叫んだおかげで、何とかみんな無事だ」
言われて見渡すと、床のあちこちに皆が座り込んでいる。全員大きな怪我はないようだ。
「よかっ……」
「よくないわよ」
後ろから白銀の杖で殴られた。
「いたっ! 何すんだよパティ!」
「あのねぇ、私にいつでも風の防壁を出せるようにしとけって言いながら、なんであそこでエディを庇うの?」
「……あ」
自分の迂闊な行動に絶句する。
そうだった。相手が何を仕掛けてくるか分からないから、パトリシアにいつも風の防壁を出せるようにお願いしていたのだ。
だからリッツはあれが炎だと分かった瞬間、エドワードの元まで全速力で戻らねばならなかった。
「ごめん……」
「邪魔だから私が前に出たわよ!」
見ればパトリシアは煤だらけだ。美しい亜麻色の髪も炎に炙られたのかあちらこちらが縮れている。
動揺していたせいで冷静な判断力を失っていた自分に反省する。
「ごめん」
「まったく馬鹿なんだから。どこか痛いところは?」
「痛いところ?」
立ち上がろうとしたが、全身が痛くて力が入らない。
「すっげぇ身体痛いんだけど……」
「それはそうだろう。お前、思いっきり吹っ飛んで、階段に叩き付けられてから、壇上まで転がったんだからな」
「え……?」
どうやら一人でとんでもない状態になっていたようだ。
「まあルーイビルご一行に比べたらましだ」
エドワードの言葉にルーイビルの使者達がいたところを見て絶句した。そこには真っ黒に焦げた死体が幾つも転がっていたのだ。
「……これって……」
あまりの惨状に言葉を失ったリッツに、淡々とパトリシアが答えてくれる。
「風の防壁でこちらを守ったから、爆発の炎と風がみんなあちらへ行ったのよ」
「……そっか」
「すごい威力だったわ。誰も逃げられないまま焼け死んでた。きっとあれだけの威力があると彼らは知らなかったわね」
自業自得……というのだろうか。
それとも彼らも仕組まれた上で殺されたのか。
「殿下」
煤に汚れながらコネルが歩み寄って来る。
「なんだい、コネル」
「これはもう放って置く段階じゃありませんね」
「確かにな」
小さく頷くとエドワードは立ち上がった。リッツは一人では座ってもいられずにその場に転がる。転がりながらも二人を見上げた。
「……じゃあさ、仕掛けるの?」
「ああ。そういうことになるだろうな。これをルーイビルの宣戦布告とみなす」
エドワードは振り返った。そこにいるのはギルバートだ。
「ギルバート、リッツを指揮官としてルーイビル攻略に行ってくれるか?」
「了解した。指揮官殿、よろしく頼む」
いつもの笑みを浮かべてギルバートが手を差し伸べてくれる。その手を握り返して笑う。
「うん。ギルがいるなら心強いよ」
「とりあえずその怪我を治せ。作戦会議はそれからだ」
「はーい」
返事をしたものの、身体が重くて目を閉じる。
「リッツ? おい、しっかりしろ」
エドワードの呼びかけに返事をしようと思ったのに声が出ない。
何故だかみんなの声が徐々に遠のいていく。これはかなり打撃を受けているようだ。
薄れゆく意識の中で、リッツは遠くで笑うローレンを見た気がした。
その笑顔に語りかける。
ねえローレン、三度目は炎にやられたりしないから安心してよ。
もし次炎に包まれることがあったら絶対に俺が勝つから。
王国歴一五三六年一〇月二五日、リッツ・アルスター大臣率いるルーイビル討伐部隊がシアーズを発った。
これよりルーイビル自治領主ファルコナー公爵討伐戦が始まる。




