<15>
翌日、自治領主会議は終了したものの、各自治領区がたてた市は今日の夜まで続いている。自治領主たちものんびりと今日一日を楽しむ予定にしているようだ。
目を覚ましたエドワードは、すでに日が高い所にあることに気がついて驚いた。ずいぶんと長いこと眠ってしまったらしい。
やれやれと溜息をつきつつ、隣で寝息を立てているリッツを眺める。
結局エドワードの寝室は壊滅状態で、夜中ではどうすることもできなかった。その上事件の事後処理で、気がつけば窓の外がうっすら明るくなっている始末だったのだ。
ここ一週間の目白押しの予定と、最後の最後の暗殺者撲滅作戦に疲れ切っていたエドワードは同じように疲れ切っている隣室のリッツの部屋に転がり込んだ。
その後の記憶は本当にない。どうやら二人でグレイン騎士団の制服のままベッドに転がり込んでそのまま眠ってしまったようだ。
ベッドから出ると、大きく伸びをする。皺だらけの制服は所々血が飛んだ汚れがある。よく見るとリッツのベッドは二人の制服の汚れでかなり汚れていた。
こちらのベッドも今日は大掃除だなと思うと、つい吹き出した。
いくら疲れていたからと言って、いい年をしてこんな風に同じベッドで寝ているから周りから誤解を受けてしまうのだと思うと可笑しかったのだ。
幼い頃から友人がいるというのは、きっと人間が成長するために必要なことなのだろう。共に大人になることで距離の取り方を覚え、お互いの位置を確立する。
大人になってから出会い、しかも他に友を持たずにお互いを唯一の存在だと認識してしまうと、どうも距離の取り方が分からなくなる。
シャワーでも浴びてくるかと様子見を兼ねて自室に戻るも、未だ壊れたベッドを直したり、床を泡立てて洗う人々でごった返していて居場所がない。
エドワードは仕方なしに自分の私服を抱えてリッツの部屋に再び避難する。
ベッドを見るとリッツは未だ全く起きる様子がない。よほど疲れているのだろう。
それとも他に何かあるのか。
昨夜のリッツを思い出して不安になる。
『エド、俺まだ、壊れてないよね?』
その瞳の暗さにぞくりとした。まるで闇のように暗い目をしていた。その目に見覚えがあったのだ。
そう、エドワードが金の粉になって砕けるという幻覚を見て心を壊しかけたあの時だ。
疲れ切ってリッツの部屋に転がり込んだつもりだったが、もしかしたらそんな目をしたリッツを放っておけなくて共に過ごしたのかもしれない。
シャワーを勝手に拝借して私服に着替えて出てくると、リッツがベッドに身を起こして目を擦っていた。着ている制服は皺と汚れで酷い状態だ。
「おはようリッツ。シャワーでも浴びてきたらどうだ?」
髪を拭きながらいうと、寝ぼけ眼のリッツが首を傾げた。
「エド? 何してんの?」
「俺の部屋は工事中だ」
「あ、そっか。王太子が召使いがいっぱいいる中で全裸って訳にはいかないもんな」
「……お前は俺をどこまで変態にするつもりだ。お前の愛人説を否定するだけで手一杯だぞ」
「はは。そりゃそうだね」
未だぼんやりしたままのリッツを蹴り出すように風呂場に追いやると、ベッドのシーツと掛布を剥がして回る。一人暮らしが長かったから家事を苦に感じないのだ。
それを抱えて隣室へ行き、未だ大掃除中の侍従達に手渡して替えを持ってくるようにと、食事をリッツの部屋に二人分運んで貰うこと命じると、また妙な顔をされた。
ここ数ヶ月で擦り込まれたリッツがエドワードの愛人説は、どうやらこんな人々にまで信じられているようだ。
撤回して回るは骨だろう。
リッツが身支度を調え、運ばれた食事を全て平らげた後、二人でシアーズの一般庶民と同じ格好に変装して街に出た。
日暮れ間近の時間になってしまったが、久しぶりの外出に心が浮き立つ。
向かったのはもちろん、闘技場で開催されている各自治領区の市場だ。
いつもは人気の無い闘技場は、入口から賑わっていた。ここでスチュワートによる虐殺が幾度も行われていた頃から、まだ一年も経っていないのだと思うと不思議な気がする。
賑やかな入口から、人はいるものの薄暗い通路を経て中に入ると、一気に華やいだ空気に包まれた。
「わぁ……すっげぇ」
隣のリッツが感嘆の声を上げる。
「本当だな」
頷きながらもエドワードは周りを見渡した。闘技場の中心はもちろん、客席の至る所まで色とりどりの市が立っていた。
布の屋根を掛けたところもあれば、山盛りに商品を積み上げたところもあるし、沢山の机と椅子が並んだ飲食店のような場所もある。
よくよく見ると様々な店は区画ごとに色分けされているようだ。どうやら各自治領主に一色ずつ割り振られているらしい。
「エド、ここ全部の自治領区が店だしてるの?」
リッツの問いかけに首を振る。
「いや。ランディアとルーイビルはもちろんいないし、未だ復興に苦しむセクアナも辞退している。アンティルも小規模のはずだ」
「ふうん。じゃあ一番大きい区画は?」
「決まっているだろう。我らがグレインさ」
傾き掛けてきた陽の中でランプの明かりが祭のように賑やかに闘技場を包み込んでいく。
あちらこちらの区画を眺めつつ歩くのは楽しい。同じユリスラ王国という国にありながら、彼らが売り込む物は全く違うのだ。
オフェリルはワインと中心としたラインナップでどちらかと言えば畜産関係の商品も多い。
アイゼンヴァレーは当然のように貴金属商品が主力だ。
サラディオにはリュシアナとの交易で手に入れたらしい珍しい岩塩なども並んでいるし、ファルディナは家具が所狭しと置かれている。
一通り見て歩き、すっかり陽が傾ききったところで、どちらからともなく、グレインの区画に向かう。目に付いたのは大量の野菜が積み上がった店だった。
「おおっ! さすがユリスラの食料庫」
隣のリッツが感嘆の声を上げた。前にローレンにそう習った事を覚えていたのだろう。その中からトマトを一つ取り上げて、リッツが近くにいた店主に声を掛ける。
「おじさん、一個頂戴」
「はいよ」
支払をするリッツの横で、エドワードは山と積まれた野菜達を眺める。ティルスは農業の村だったから見た事のある種類ばかりだ。
「旨そうだな」
支払を終えたリッツがトマトにかぶりついている姿に笑うと、店主も笑った。
「旨いに決まってるさ。これはね、グレインのティルスで取れた野菜だよ。ティルス、知ってる? 王太子殿下の出身地」
思わず隣にいたリッツと顔を見合わせる。二人ともこの男に見覚えはない。ということは新しくなったティルス村の住民なのだろう。
「知ってるよ。いいところだね」
笑みを浮かべて口にしたのに、心が痛んだ。
出身地であるし、ふるさとであるが、もう戻れない場所。それを思い出すと、懐かしさで胸が締め付けられるようだ。
そんなエドワードの気持ちを知るよしもなく、男は言葉を続ける。
「これが終わったら麦の刈り込み作業さ。一面の麦畑はそれは見事なんだよ。是非見て欲しいね」
「……見たいな」
笑顔で答えながらも、気がつくと男に手を振って店から離れていた。
グレインの区画には懐かしいものが溢れている。
北部の乳製品も、移民に作られたワインも、グレインの街でよく食べた名物料理も、全てが懐かしかった。
この胸の痛みは郷愁というのだろうか。この年にしてそんな思いを初めて知った。
突然がっちりと肩を抱かれてよろめく。
「何だよ、リッツ」
「ひでぇ顔してるぜ、エド」
リッツがこちらに向かって自分の眉間を指し示してみせる。反射的に眉間に手をやると皺が寄っていることに気がついた。
「ああ、本当だ」
「変装してるのに、そんなすごい顔してたら目だって仕方ないよ」
「……確かにな」
リッツに正論を言われては笑うしかない。グレイン料理の店に入り、ブラウンシチューとライ麦パン、チーズとワインを注文して、軽めの夕食をとる。
彼らは明日にはこれを全てかたづけて故郷に帰っていく。懐かしいグレイン料理に触れられるのは今日が最後だ。
市場の中にあるにしてはかなり上等の部類の料理を食べながらワイングラスを傾けていると、二人のテーブルに許可も得ずに女性が座った。
「また二人で悪巧み?」
弾かれたように顔を上げると、そこには私服に着替えたパトリシアがいた。
「パティ!」
「何でここに?」
二人で声を上げると、パトリシアは呆れた顔でエドワードとリッツを交互に見つめる。
「何でって、貴方たちが来てるって報告を受けたから来たんじゃない」
「え? 報告?」
「あのねぇ、グレインの市に来て、しかもティルスの市場に寄って、誰にも気がつかれずにいられるって本気で思ってるの?」
呆れ果てたというような顔で笑ったパトリシアが軽く手を上げて誰かに手を振る。
振り返って見ると、そこには見覚えが確かにあるティルスの子供達がいた。ローレンの学校に通っていた子供達だ。
駆け寄ってきた子供達は、迷い無くリッツとエドワードに抱きつく。
「わぁ、ローレン先生のうちのエド兄ちゃんだ!」
「リッツ兄ちゃん、どこ行ってたのさ! 木登り教えてくれる約束だったのにさ」
「おう、ごめん、忙しくてさ」
子供達に群がられたリッツが苦笑している。リッツはティルスにいる時、暇があれば子供達と遊んでいたのだ。
「パティ、これって……」
「ティルスの子供達には、貴方たちが何者か話していないわ。二人とも気にするから、せめて大きくなるまで黙っていようって、みんなと約束したのよ」
「みんな?」
「ええ。みんな」
わいわいと賑やかに子供達が集まり、周りにはティルスの大人達が集まってきた。
「みんな、今日はエドワード・セロシアとリッツに会うの、久々でしょ? 存分に構ってあげてね」
晴れ晴れとそう言い切ったパトリシアに、大人達が笑う。
エドワード・バルディアではなく、エドワード・セロシア。それは王太子ではなく、一人のグレイン出身の青年として扱ってくれるということだった。
「エドワード、今年のドライトマト旨く出来たぞ!お前よく干したそばから勝手につまんでたよな。ほら、喰えよ」
篭を突きだしてきたのは近所に住んでいた陽気な農夫だった。
「ありがとう。貰っちゃったら盗み食いする楽しみ無くなるな」
笑顔で言いながらドライトマトに手を伸ばす。
「旨いね。さすがおじさんだ。袋いっぱいくれる?リッツがオリーブオイル漬けにしてくれるから」
「ええ~っ? 俺がやんのかよ」
「俺は料理苦手だしな」
「ちぇ~、仕方ないな。おじさん、ガーリックも付けてね」
「おう、付けてやる。相変わらずお前は使われてるな、リッツ」
立場が変われど変わらぬリッツとのやりとりに、人垣が笑いで包まれた。
「次はこれ、食べとくれ。プラムケーキ!」
次々に差し出されるティルスの農産物と、人々の笑顔に、涙が出そうになる。
もう帰れないと思っていたが、彼らは離れていてもそこにいる。故郷は遠くにあってもなくなるわけではないのだ。
人々の食べてくれ攻撃が引いていくと、テーブルには大量の料理と三人だけが残された。この村の人々はいつも最後は気を遣ってこうして三人を放って置いてくれる。
「疲れた、エディ?」
笑みを浮かべながらパトリシアに尋ねられて小さく首を振る。
「……嬉しかったよ。俺はまだティルスのエドワード・セロシアでもいられるんだなって……」
小さく息をつくと、まだ商売に精を出すグレインの人々を眺める。
人は逞しい。戦乱で焼き討ちに遭い、一から始めなければならなかったティルスの村人も、こうして笑顔で歩んでいる。
だからこそエドワードも、いつまでもジェラルドのいない空虚さに胸を痛めて暮らしていられない。ジェラルドの愛したグレインを、自分を愛してくれるティルスの人々のためにも、この国を安定させる。それがエドワードのやるべき事だ。
暗殺者を一網打尽にした今、これから長く続く国家の安定という戦いは、静かで根気強くあらねばならないだろう。
それでも今晩のティルスの人々との触れあいで、少しだけ強くなれる気がする。
王太子としてそこはもう戻れない場所だったとしても、郷愁の想いは持ち続けてもいい。故郷はあるのだと信じていてもいい。
それが分かっただけでも少し力強い。
ふと視線を感じて振り返ると、横に座ったリッツだった。リッツはエドワードの肩を叩くと笑いかけてくる。
「俺、子供達と遊んでくる」
「? リッツ?」
「木登りは出来なくても、かくれんぼぐらいはできんだろ」
唐突な言葉に困惑していると、リッツは近くにあったジャガイモのソテーを一気に頬張ってから立ち上がった。
「リッツ、どこいくのよ? ねえ、私まだ昨日の作戦とやらの概要を聞いてないわよ?」
パトリシアも不審な顔でリッツを見上げる。だがリッツはジャガイモを飲み込み、麦酒を一息で煽るとこちらを見た。
「エドの寝室の掃除、もう終わってるよ、きっと」
「……お前は何を……?」
「俺と愛人だって話を払拭するのに丁度いいんじゃない?」
リッツの言わんとしていることが分かって愕然とする。リッツはエドワードに今晩パトリシアを部屋に誘ったらどうだといっているのだ。
「ば、馬鹿言うな!」
思わず怒鳴ったエドワードに、パトリシアがきょとんと目を丸くする。
「エディとリッツ、愛人関係だったの?」
「違うっ!」
「え? じゃあ何? 愛人って?」
「それは作戦上……」
「作戦で愛人やってたの?」
「そ、それは仕方なく……」
「まあ貴方たちならそう見えなくもないけど……」
「パティ!」
必死で否定するとリッツに吹き出された。パトリシアにだけは誤解して欲しくないというエドワードの感情が透けて見えてしまったのだろう。
「パティ」
座ったままのパトリシアの背後に立ったリッツが、後ろからパトリシアを抱きしめた。
「なっ! 何するのよリッツ!」
悲鳴のような声で叫んだパトリシアの耳元に、リッツが囁く。声は途切れ途切れにしか聞こえなかったが、口の動きと合わせてリッツが何を言ったのか分かった。
「大好き。お邪魔虫は消えるからエドと幸せになってね」
弾むように軽くリッツはパトリシアの頬にキスをすると、あっさりとパトリシアから離れた。
それからエドワードとパトリシア二人の間に立ち、首に両腕を回してくる。触れあいそうな程近くにパトリシアの顔がある。
お互いの目を見たら、動けなくなった。パトリシアの目がうっすらと赤みを帯び、恥ずかしそうに頬を染めていたからだ。
ふつふつとこみ上げてくる愛おしさと、先ほどリッツがした事への軽い嫉妬で、頭のどこかが熱く熱を帯びているようだ。
目が離せなくなった二人の頭上から、リッツがからかうような声を掛けてきた。
「いい大人がいつまでうじうじしてんだよ。子供じゃないんだから、ちゃんと大人として恋愛しなよね」
そう言い切ったリッツがあっさりとこの場を離れていく。
「リッツ!」
「ここはエドの奢りって事で許す。じゃ、いい夜を」
リッツの姿が人混みに紛れて消えてしまう。子供と遊ぶと言っていたのに、おそらく行き場所は違うだろう。
「……気を遣って……」
呟きながらパトリシアに視線を戻すと、パトリシアも微かに寂しげに微笑んでいた。
「リッツ、どこに行くのかしら」
「……さあ。俺にも踏み込めない領域が今のあいつにはあるんだ」
「そう」
しばらく二人で黙り込む。
ちゃんと話すのはよく考えてみればジェラルドの遺体をグレインに連れて帰ったあの日以来だ。
「あの、エディ」
「なんだい?」
「……あなたに返事をしなきゃってずっと考えてた。もしかしたらエディはあの時、同情でいってくれたのかもしれないって思ったら怖かったけど、でも」
俯きがちだった顔を上げ、パトリシアがこちらを見つめてくる。そのアメジストの瞳は、今まで見たどんな宝石より綺麗だと思う。
「エディ。私はあなたを愛してます。兄ように慕ったこともあったけれど、私にはあなたは常に私の憧れ、愛する人です」
無造作に結った亜麻色の髪に彩られたパトリシアの白い顔がみるみる赤く染まっていく。
「あなたは戦乱の王太子だっていったけど、そんなあなただから愛したの。私は他の誰でもない、農民であり、騎士団員であり、王太子であるエドワードという人がどうしようもないぐらいに好きなんです」
「……パトリシア……」
「アリシアにはもう戻らないかもしれないと話してあるわ。エディ……」
一瞬俯いたパトリシアが、真っ直ぐにこちらを見据える。
「私を……貰っていただけますか?」
堅い口調とこちらを見据える目は、まるで決闘を申し込んでいるようで可笑しかった。でもそんなパトリシアが愛おしくて胸が痛い。
「パティ」
「はい」
「苦労するかもしれないから考えろと、もう俺は言えない」
「はい……」
「この先の人生、たぶん苦労させるけど、伴侶として共にいてくれ」
「いいの?」
「もちろんいいに決まってる。パティ、君と今後の人生を共にしたい」
パトリシアの表情が歪んだ。それは子供の頃に見慣れた、泣き出す直前の表情だ。席を立ち、エドワードはパトリシアを抱きしめた。
「ずっと一緒にいたのに気がつくのが遅くてごめん。長く待たせて悪かった。パティ……愛してる」
「……私も愛してるわ、エディ」
周りのざわめきがまるで祝福のようだと思う。沢山のランプが吊されているはずの市場の景色が、幻想的に優しく揺れて滲んでいる。
「いつ、グレインに帰る予定なんだい?」
抱き合ったまま尋ねると、パトリシアは小さく笑う。
「帰らないわ。エディがそう言ったのよ?」
「そうだった。じゃあ今晩は帰るのかい?」
今日は共にいたい。気持ちを込めて尋ねる。
「……帰らないわ。あなたが望むなら」
最後は消え去るほどに小さな声だったが、エドワードはパトリシアをしっかりと抱きしめた。
「帰さない」
「うん」
一つの関係が終わり、次の関係が始まる。
失うことが多い戦乱の世で得られる最上の愛情に、エドワードは大きく息をつき目を閉じた。




