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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
不軌の権謀
152/179

<12>

オフェリルの面談が思った以上に短くなり、最後の自治領区まで少しの間 が空いた。意図したわけではないが、しばしの休憩だ。

 それを言い渡すと、階下の人々の間でも雑談が始まり、玉座の間が賑わう。

 この時間を利用してグラントは政務部宰相参与を呼び寄せ、先ほどまでの自治領区からでた陳情を部署ごとに割り振り始めている。

 宰相参与とは、宰相室直属の補佐官だ。参与一名、補佐官が二名いて、この下に宰相秘書官室がある。この数ヶ月でグラントがそう整備したのだ。

 この枠組みの中に入っていないのがシャスタで、名目は宰相直属の秘書官扱いになっている。その特別な位置は、誰から見ても後の宰相候補者である。

 エドワードの義弟であるシャスタを暗殺や様々な人々の思惑から守るための特別待遇であることは確かだが、それ以上にグラントはシャスタを直弟子として目をかけているのだ。

 ふと周りを見ればコネルは熱心に隣に立つジョゼフ・ウォルターと打ち合わせをしているし、カークランドもこの自治領主会議の実行部署の担当官たちと話し込んでいる。

 忙しそうな彼らから目をそらすと、エドワードはため息をついた。

 権限が王国一大きくなったのに、できることが格段に少なくなって気がするのは何故だろう。妙に息苦しい気がしてならない。

 そんなエドワードに気がついたのは、やはり人の目がある中で他の人々と表だって交流できない役割を演じるリッツだった。

 リッツは最近貫いている馴れ馴れしい態度でエドワードの椅子の肘掛けに腰掛けて、エドワードの肩に手を掛け、囁きかけてくる。

 端から見て怪しげな行動だが、話しかけてきたことは至ってまともだった。

「次はグレインだよな。パティが来るのかな」

 行動が今まで通り怪しげな愛人なのに、言葉が不安いっぱいの普段のリッツなのが可笑しい。だがリッツの演技を崩すことはできないから、こちらも耳元に囁き返すていで答える。

「どうかな。アルバートっていう可能性もある」

「アルバートでも会いたいけど……」

 言いよどんだリッツの言葉の続きは、やはりパトリシアに会いたい、だろう。エドワードも勿論同じ気持ちだ。

「だけどなリッツ。会えば俺は答えを聞かずにいられなくなる。俺とパティの答えがでてしまえば、またお前を苦しめる事に……」

 言い掛けると、リッツに至近距離から軽く睨まれた。微かに周りの人々が息を呑む。リッツがエドワードに何かを仕掛けているようにみえるのだろう。

 だがリッツの言葉は行動とは違った。

「何でまたそういうこと言うんだよ。この間、俺の結論はでた。エドはもうそれに囚われなくていい」

「だが……」

 いくらリッツに説得されようと、この罪悪感はしこりのようにエドワードの中に残り続けるだろう。リッツはそれすらも申し訳なく思っているようだった。

「その罪悪感、間違いだから」

「間違い?」

「そ。告白しあって両思いなのに遠慮されても、俺はどうしようもないよ。両思いの二人の間で俺にどうしろと?」

 もっともな言葉だ。エドワードだって当事者ではなかったらそういうだろう。だがエドワードにとってパトリシアとリッツ、どちらも人生に置いて得難い存在でありすぎる。

「……頭では分かっているがな」

「感情がついて行かないってやつ? 珍しいじゃん、エドにしては」

「俺はいつもお前とパティでは感情的に失敗するが?」

「ん~、まあ確かに」

 リッツがこちらに絡みながら、人々から見えないところで苦笑する。リッツをかばって刺されたり、戦場でなりふり構わずパトリシアを抱きしめたり、この二人に関して冷静でいられた試しがない。

「もしパティが来たら、俺にかまうなよ。そうしてくんないと俺、パティにお邪魔虫扱いされて余計嫌われちゃうじゃん」

 冗談めかした言葉にまじめに答えを返そうと思ったら、不意にリッツは周りを威圧するような視線を周囲に向けた。

 それから妙に色気を増した声で周囲にも聞こえるように声を大きくし、微笑みながら告げる。

「エドは俺に甘過ぎだよ?」

 急に普段演じている愛人口調に戻る。訝しげにリッツの目を見ると、エドワードに指し示すように視線が軽く移動した。

 その先にはこちらを見つめながら聞き耳を立てる人物がいた。その人物に見覚えがあった。以前リッツが教えてくれた、ファルコナー侯爵寄りのイライアス男爵だ。

 すぐに視線を戻したリッツが、頬にキスをする振りをしつつ、至極まじめな声で囁く。

「期間中、絶対警戒を怠らないでくれよな」

「リッツ……?」

「予定は未定っていうだろ。油断大敵だ」

 それだけ言うとエドワードから離れたリッツは、微かに見下すような目でコネルや周りを見渡す。

 それを黙って受け止め返す仲間たちの中で、微かにコネルが吹き出し掛けているのが分かった。

 リッツはコネルと折り合いが悪いと思っているが、おそらくリッツを理解しているのはコネルではないか思う。

 逆にコネルを一番理解していないのがリッツだろう。昔に比べれば広がったかもしれないが、リッツの視野は狭く、思いこむと頑固で融通が利かない。

 苦笑しつつ正面に目をやると、警備兵が担当官に耳打ちをしているのに気がついた。グレインがやってきたのだろう。

 先ほどまでとは全く違う緊張感を感じて、エドワードは小さく息をつく。

「グレイン使節団のお着きです」

 扉の前に立つ担当官の声で、再び玉座の間に静けさが戻ってくる。エドワードは顔を上げて扉の正面を見つめた。

 扉の向こうから現れたのは見慣れた姿だった。なのに久々に見たその表情も姿も、言葉にならないほど美しく輝いて見える。

「パティ……」

 口から漏れたその名にリッツが小さく身動きするのが分かった。

 リッツがエドワードの愛人を演じていることをパトリシアは知らない。だからリッツはパトリシアを前にしても動くことすらできないのだ。

 パトリシアに変な誤解をされたくない。未だ恋心が捨てきれないリッツがそう思うのは当然だ。

 そうでなくとも、今のこの強さと凛と顔を上げた意志の強そう瞳のパトリシアが眩しすぎて動けないかもしれない。

 少なくともエドワードはその表情に囚われたように動けなかった。

 パトリシアはいつもの騎士団の制服ではなく、自治領主代理として他の自治領主に出かけるときの、品のいいドレス姿をしていた。

 だが娘らしさを強調した今までの明るい色ではなく、グレインの森を思わせるような深い緑のドレスだった。

 その後ろに付き従うようにアルバートとオドネルの姿がある。彼らの更に後ろには、モーガン邸につとめる事務官たちの姿と、パトリシアの護衛を務める騎士団の姿があった。

 エドワードの前にたどり着いたパトリシアは、ドレスの裾を軽く持ち上げて片膝を付き、頭を垂れた。臣下としての態度にまた胸が痛む。

「グレイン自治領主代理パトリシア・モーガンでございます」

「……おかえり」

 形通りの挨拶をと思っていたのに、ついそう声をかけていた。そんなことに自分で驚く。リッツが言った通り、どうやらパトリシアの前で冷静にはいられないようだ。

 そんなエドワードの動揺に気がついたのか、パトリシアは顔を上げて穏やかに微笑む。

「ただいま戻りました、殿下」

 その笑みに胸が痛んだ。ほんの数ヶ月の間に、パトリシアからは少女っぽさが綺麗になくなり、大人の女性の落ち着きがにじみ出ている。

 手紙で立ち直っていたのは知っている。だがどれほどの悲しみや苦しみを乗り越えた末にこの落ち着きを取り戻したのかと思うと、言葉が出てこない。

 不意に浮かんだのは、この玉座の間で残るといったジェラルドの顔だった。父とも師ともいえる人物の最後の笑顔と、涙を流しながらリッツを責めるパトリシアの顔が、交互に浮かんでは消えていく。

「殿下」

 冷静なグラントの声で我に返る。

「ああ、済まない」

 小さくグラントに詫びてから、正面を見つめる。

「遠くグレインよりよく来てくれた。モーガン候の葬儀に出られず申し訳なかった」

 正直な気持ちを告げると、パトリシアは首を振った。

「殿下のお気持ちだけで十分でございます。我が父も殿下にお心を掛けていただけるだけで女神の国で満足していることでしょう」

「……そうか」

 あれだけ世話になりながら、何もできない自分が歯がゆいが、この場にいるとはそういうことなのだと理解はしている。

 パトリシアはこんなに近くにいるのに、遙か遠くに感じた。階段数段がまるで深い谷のようだ。

 ふとリッツを見上げると、リッツはただ静かな目でパトリシアを見ていた。作戦上、彼女を巻き込むことができないからあえて関わらないのだろう。

 だが微かに上気した頬から、パトリシアに抱きつきたいぐらいにうれしいのだと察する。

「グレインからの要望はあるだろうか? 貴自治領区はこの内戦において最も私を助けてくれた。望むことがあれば遠慮なく言ってくれ」

 パトリシアを見つめたまま告げると、パトリシアは真っ直ぐにこちらを見つめた。

「お心使い、ありがとうございます。では遠慮なく我が自治領区の要望を申し上げます」

 顔を上げたパトリシアは、笑みを浮かべた。

「先ほどタウンゼント候から要望があったと思いますが、女性自治領主の在任を認められましたね」

「ああ」

 まさか、彼女が自治領主になるというのだろうか。確かに彼女ならグレインを良い方向に引っ張っていけることだろう。だがそれは同時に、エドワードの願いが叶えられないことになる。

 自治領主をこの王宮にとどめ、妻にと望むことなどできないからだ。

 言葉もなくパトリシアの次の言葉を待つ。

「本来であれば娘である私が自治領主を継ぐのが道理でありましょう。ですが私の身はもう王国に捧げると決めておりますので、我が義理の母アリシア・モーガンを自治領主として認めて頂きたいのです」

「アリシアが……自治領主に?」

 黙っていたリッツが驚きの声を上げた。それに動じることもなく、パトリシアがまじめに頷いた。

「その通りですわ、大臣閣下。次期自治領主であるウイリアム・モーガンの母、アリシアがウイリアムが成人するまでの間、自治領主を務めさせていただきます」

「……そっか。アリシア、自治領主になるんだ……」

 リッツの小さな呟きには、深い感慨が込められていた。リッツにはジェラルドの愛人から正妻になったアリシアは、どう見えていたのだろうとふと思う。

 美しい憧れの歌姫であったアリシアが、自治領区を背負って立つことを彼はどう思うのだろう。

 最近避けられているようでなかなか話ができないリッツに、それを聞いてみたかった。

 リッツからはずれたパトリシアの視線がこちらを向き直った。

「女性自治領主就任に際して、自治領主に継ぐ副自治領主の地位を臨時で創設し、副自治領主としてアルバート・セロシアをその任につけることを認めて頂きたいのです。それが我がグレインの望みです」

 一歩後ろに控えていたアルバートがパトリシアに並んで膝を付く。その顔が真っ直ぐにこちらを見た。

「アルバート・セロシアでございます、殿下」

 かつて父と呼んだ人が、臣下として膝を付く。その光景に胸が締め付けられるような孤独感が沸き上がった。

 分かっていたし、自分の立場を知ってからは父とは呼べず名前を呼ぶようにしていた。

 だが実際に臣下となる育ての父の姿を見ると苦しかった。

 ジェラルドは父のような人。あくまでもそうであればと願った人だった。

 だがアルバートは違う。自分の立場を知るまでは父として育てられ、甘え、尊敬してきた人だった。

 柔らかく肩を掴まれ、耳元に暖かな吐息がかかった。

「エド」

 演技など関係ない、いつもの柔らかなリッツの声で我に返る。そうだ。いくら衝撃を受けたとしても、ここで惚けている場合ではない。

 肩に乗ったままのリッツの手の甲を、大丈夫だと示すように軽く叩くと、パトリシアとアルバートに向き合う。

 自分決めたことに後込みはできない。進むしかないのだ。

「アリシア・モーガンの自治領主就任と、副自治領主の臨時創設及び、アルバート・セロシアの就任を認める」

「感謝いたします、殿下」

「他に要望があれば聞こう」

 笑みを浮かべながら尋ねると、パトリシアも微笑み返してくれた。

「エリクソンが一刻も早く騎兵隊に復帰したがっております。長期休暇を頂きましたが、我らグレイン騎士団の騎兵隊復帰をお願いいたします」

 ドレスに身を包んでいるのに、その表情は騎士団長さながらだった。自治領主代理という形で戻ってきたが、彼女はもう自治領区に関わらないつもりなのだろう。

 エドワードの願いを、受け入れてくれるのだろうか。

「内戦において多大な武勲を立ててきた部隊だ、勿論歓迎する。装備と精神が整い次第、騎兵隊の復帰を許可する」

「ありがとうございます。殿下」

 顔を上げたパトリシアと目があう。微笑みかけると彼女は眩しそうに微かに目を細めた。

 気持ちが通じていると、このままここに残ってくれると信じていいだろうか。

 他の自治領区と同じようにグレイン自治領区が退出した後、カークランドの一言で軍部、政務部それぞれの部署長が玉座の間を後にしていく。

 最後に残ったのはいつもの面々だった。

「殿下、こっそり少々お時間をいただけますでしょうか?」

 カークランドに尋ねられて頷く。

「勿論いいに決まってる。どうしたんだ?」

「この場所をもっとしっかり見せてほしいと言う者がおりますので」

 カークランドが警備兵に目配せすると、意外な人物が玉座の間に入ってきた。扉の向こうから現れたのはアルバートだった。

 扉が閉ざされ、幹部しか残っていないのを確認したリッツが駆け出す。

「アルバート!」

 抱きついたリッツに、アルバートがかしこまった声で答える。

「お元気そうで何よりです、大臣閣下」

「やだよ、やめてよ!」

 むくれたリッツにアルバートが笑った。

「リッツ。立派になったな」

「何だよ何だよ! 来るんなら来るって言ってくれれば良かったのに! 言ってくんないからシャスタもいないんだぞ!」

「知っているよ。気にかけてくれてありがとう。私とシャスタは大丈夫だ」

 静かに微笑むアルバートの視線がこちらを捉えた。その瞳をそらさずに見つめ返す。

「アルバート……」

「久しぶりだね、エド」

 エドワードが回りに視線を配ると、ギルバートを始め全員が笑みを浮かべて玉座の間を出て行く。三人だけにしてくれるようだった。

 仲間の心遣いが本当にありがたい。

 広々とした玉座の間に三人だけが残される。陽はとうに傾き、窓の外は夕暮れだ。灯されたシャンデリアの明かりだけがこの空間を賑々しく照らしている。

「どうしてここに? 王都は嫌いだって……」

 子供の頃にふとしたきっかけで聞いたアルバートの一言を思い出して尋ねる。あの時はまだ自分がアルバートの実子だと思っていた。

「覚えていたんだね」

「……父親のことだから、当たり前だろ」

「そうか……」

 アルバートは嬉しそうに、微かなほほえみを浮かべた。

「父親と呼んでくれるか」

「……父親だろう、アルバートは」

「ありがとう」

 寂しげな微笑みだ。

 やめてくれ、そうやって本当は違うのだと思い知らせないでくれ。そう思ったが、口には出せそうにない。

 きっとアルバート本人がそれに気がついていないからだ。アルバートは、そういう所に不器用な男なのだ。

「王都はルイーズが捕らえられていた街だから辛かったんだ。私も、ローレンもね。それにグレイグを自殺させた人のいる街でもあったから」

 アルバートが口にした三人はもう、この世にいない。だからこそアルバートがここにいるのだと分かる。

 アルバートは、大切な友と、恋人と、妻をすべて亡くしてしまったのだ。手の届かぬところで。

「この玉座の間に入れることが滅多にないから来たかった。ここはジェラルド様とグレイグの最後の場所だからね。パトリシア様が私の無理を聞いてくださったんだ」

 エドワードは言葉を失い立ち尽くした。

「アルバート、ローレンを殺したのはグレイグなんだ。知ってたよね?」

 不意に掛けられたリッツの重い問いにアルバートは長い吐息を吐き出してから頷いた。

「知っていたよ」

「それでもグレイグの死を惜しんで悲しめるの?」

 とてもエドワードでは聞けないことを、リッツは正直に口に出した。

 しばし黙り込んだアルバートは、二人の顔を見つめてから静かに口を開く。

「シャスタには決して言わないでほしいんだが、お前たちには聞いて貰おう。奇しくもエド、リッツ、パトリシア様は、私たちと同じような関係を築いてしまったからな」

「同じような?」

 リッツの問いかけに、アルバートは寂しげに微笑む。

「私が愛していたのは、生涯ルイーズただ一人だった」

 初めて聞く真実に身動きが出来なくなった。リッツも傍らで息を詰めている。

「そしてローレンが愛していたのも、グレイグただ一人だった。私とローレンは生涯親友同士だったんだ。私たちは互いの愛する人を思いながら夫婦として生きてきた」

 言葉にならなかった。心から愛し合っている仲のいい夫婦だと思っていたのに、二人の関係は違っていた。

 確かに二人の実子であるシャスタには言えない。

「ローレンを殺したのが、記憶を失っていたグレイグだと知っても私はグレイグを憎めなかった。ローレンがあれだけ愛した人だ。記憶を失って人を殺めた事を知っても、彼女はグレイグを愛し、許しただろうと分かっていたからね。ローレンが許した人を、何故私が憎めるんだい?」

 小さく息を付いたアルバートの目に嘘はなかった。心からそう信じているのだ。

「じゃあシャスタは? シャスタは何なんだよ?」

 エドワードが口に出せないことをリッツが再び尋ねる。問われたアルバートが小さく笑った。

「私たちはどうしてもエドより先に死んでしまうだろう。その時私とローレン二人の心を継いでエドを見守ってくれる兄弟を作ろうと二人で決めたんだ」

「そんな……」

 リッツが絶句して立ち尽くしている。そんなリッツの肩を、アルバートは優しく叩く。

「グレイグが記憶を取り戻したと知った時、グレイグに会いたいと思った。切実に会いたかった。だがグレイグは私に会いたくはなかっただろう。彼は誇り高い男だった。堕ちた自分を見せたくなかっただろうからね」

 アルバートは床を見つめ、何かを探しながらゆっくりと移動していく。やがて彼が座り込んだのは、真新しい無数の傷が刻まれた場所だった。落としても落としきれない血が、その傷にはしみこんでいる。

 そこはジェラルドとグレイグが命を落とした場所だ。

「いっそ憎めれば良かったが、憎むことなどできない。エド、お前にならこの気持ちが分かるだろう?」

 床をゆっくりと撫でながらアルバートが呟き、弱々しい微笑みを見せた。その弱気さにまた怯む。

 そう、たぶんアルバートのこの感情をエドワードは理解できる。ローレンとパトリシアを入れ替え、グレイグとリッツを入れ替えたなら、パトリシアはリッツを許すだろうし、エドワードもリッツを憎めない。

 だからアルバートは三人の関係を似ていると称したのだ。

 言葉を掛けることすらできないで立ち尽くしているエドワードに変わって、口を開いたのはリッツだった。

 リッツは座り込んだままのアルバートの隣に同じように座り込み、アルバートを見つめる。

「あのさアルバート」

 呼びかけたままリッツはしばし黙り込んだ。それから小さく息を吸い、顔を上げる。その表情はいつものリッツではなかった。

 少し疲れた顔に、皮肉そうな笑みを浮かべている。その表情を見てはっとしたのはアルバートの方だった。

 リッツがいつもとは違う、低く柔らかな声で話し出す。

「ティルスでの日々は俺の宝物だった。それなのに俺はその日々を自らの手で壊した。こんな俺がもう一度アルに会うことなど許されないだろうし、お前が許しはしないだろう」

 そういうとリッツは言葉を切る。そして続けていいかと問いかけるように、上目遣いにアルバートを見上げた。アルバートは小さく頷く。

「憎まれていて当然だし、俺を憎まずにいられるわけがない。だからせめてお前たちの子供が幸せになるように、シャスタとエドワードのために、俺は力を尽くす。それで許されるとは思っていないが、せめてもの罪滅ぼしだと思ってほしい」

 そこでリッツは口を閉じた。アルバートの表情から、リッツがグレイグを真似たことが分かる。以前にギルバートから、リッツは身近で見た人を模写できるのだと聞いた。

 リッツはいったいどこでグレイグと会ったのだろう。エドワードですら言葉を交わしていないグレイグから、リッツはこれだけの重い話を聞き出したというのか。

 戸惑うエドワードの前で、リッツはアルバートの顔を見つめている。

「グレイグはアルバートのことずっと大好きだったと思うよ。だから会えなかったんだ。合わす顔なかったんだよ」

 そういいながらリッツはゆっくりと床の傷を撫でる。

「だから今さ、アルバートがグレイグを憎んでいないって聞いて、喜んでるよ、きっと」

 床に手をついたアルバートが嗚咽を漏らした。涙が血の染みこんだ床の傷に吸い込まれていく。

「……父さん……」

 久しぶりにそう名を呼んでいた。だがアルバートの答えはない。がらんと広い玉座の間に、アルバートの嗚咽だけが響いている。

 そのあまりに悲壮な声に、エドワードは何も言えなかった。

 音も立てずに静かに立ち上がったリッツに肩を叩かれた。その顔を見ると、リッツは小さく頷く。アルバートを一人にしてあげようという、リッツなりの心遣いだろう。

 今のエドワードには何も出来ないことぐらい、自分でも分かっていた。だからリッツの選択は正しい。

 ましてや愛する女性とそれを奪った男の子供である自分にできることなどあるのか、それすらも考えることが出来ない。

 静かに玉座の間を出るべく、扉の前で振り返ったエドワードの耳に、絞り出すような低いアルバートの言葉が聞こえた。

「馬鹿野郎、俺がお前を許さないわけないだろう、グレイグ」

 冷静で穏やかで職務に忠実で、休みの日はよき父親だったアルバートの本当の姿を、初めて見た気がした。

「グレイグ……」

 アルバートの苦悩に満ちた声を背に、リッツとエドワードは玉座の間を後にした。

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