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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
不軌の権謀
146/179

<6>

 国王と王妃の荘厳とも言える葬儀が終わった。

 純白のローブに身を包んだ大神官を先頭に、光を意味する白い神官服に身を包んだ神官達の厳かな列が続く。彼らの口からは澄んだ祈りの言葉が唱えられ、花びらを捲く人々もその祈りを唱える。

 その後には服は白いがひときわ華やかに人々が続く。聖歌隊の歌声に、神殿音楽隊の音楽。舞い散る花びら。街は祈りに包まれた。

 神官達は国王と王妃だけではなく、内戦で命を落とした人々への祈りも捧げた。もちろんこれはエドワードが頼んだことだ。

 平和への祈りを込めた祝祭は、シアーズばかりではなく周辺の街からも祈りのためにやってくる人々で大変に賑わった。

 この祝祭で意外に活躍したのはリッツだった。リッツは光の使いである精霊族である。そのため祝祭の行列に狩り出されたのである。

 光と闇の合いの子であるリッツからすれば迷惑千万だろうが、仕方なしにこなしてくれた。仕方無しでも様になるリッツには笑いしか出ない。

 エドワードがやったことはほんの僅かで、自分で言い出したのにお飾りだなと思わざるを得ない。リッツ曰く、いつも忙しいからこのぐらいサボっておけばいいとのことだったから、ありがたくそうさせて貰う。

 だがこれにより、エドワードの母は側室ではなく正式にこの国の王妃となった。

 死んでから王妃になっても仕方ないだろうし、グレタに聞く母の印象からも王妃になったことを喜ぶ人ではないような気がする。

「次は戴冠式ですな」

 とグラントがもっともらしく言うのだが、それをいつにするかは全く未定だ。今はとにかく少しでも国家を安定させねばならない。 

 祈りの祝祭が終わると、エドワードは書類作業に追われることとなった。仕事はどこまででも追ってくる。

 この夜も政務部からあがってくる書類と、軍部から回ってくる書類を交互に片づけていると、不意に肩が重くなった。

 頬に触れるその感触でそれが何かを理解する。

 いつの間にか部屋にいたらしいリッツの頭だ。

 リッツからは嗅ぎ慣れない香りがする。これは何の香りだろう。オレンジだろうか? それとも何かのハーブだろうか。ずいぶんといい香りの香水だ。

 本人が香水を好まない事は知っているから、やむを得ずに付けているのだろう。

 エドワードに分かることと言えば、リッツが香水の香りをさせてくるときは、大概疲れ切っていると言うことぐらいだ。おそらく暗殺絡みの話に関わっているのだろう。

「リッツ、重たい」

 文句を言ったのに返事がない。どうやらいつも以上に疲れて返事をするのも面倒なようだ。

「俺も肩が凝ってるんだ。頭をどけろ」

 重ねて文句を言ったが帰ってきたのは沈黙だ。

「……やだ」

 しばらくしてから言葉と同時に後ろから抱きしめられた。背が大きく力も強いリッツだから、それをされると動けなくなる。

「おいリッツ、重い、苦しい、離れろ」

「だから、やだって言ってるじゃん」

 文句を言っても聞き入れる気は無いようで、乗せた頭と腕に更に力が入るだけだった。まるでリッツを拾った当初に戻ってしまったような行動と言動にため息をつく。

「何があった?」

 軽く水を向けて見るも、返事が返ってこない。かろうじて腕は動くから、仕方なくため息を再びついて書類をそのまま読み続ける。

 このところの多忙を分かってくれているようで、グラントから届く書類のほとんどがエドワードの裁可を求める物ではなく報告書なのだ。

 しばらくそうして書類を読み続けていると、リッツがぼそりと呟いた。

「別に何もないし」

 微かな香水の香りの間から匂う、きつい酒の香り混じりの返事に苦笑する。酔っているようだ。

「何もなくてこの醜態か?」

「……だって」

「まるで俺が拾ったときみたいだな。俺はあの頃のお前は可愛いと思ってるからいいがな」

『エド、見てみて! これ、エドの名前! これ俺の名前!』

 あの頃のリッツが一瞬頭をよぎった。思えば遠くに来たなと思う。

 からかい口調で言うとリッツはすぐさま肩から頭をのけてくれた。可愛いはリッツに取って気味の悪い言葉だそうで、そうしてからかうとすぐに離れることは当時学習済みだ。

 ようやく振り返って見ると髪は妙にサラサラと流れるほどによく梳かれているし、服装も高級でいつもよりもかなり男前に仕上がっている。口を開かなければかなりの美形で通りそうだ。

 だがそれ以上に気になるのは顔だった。何故か異常にげっそりとやつれているのだ。

「ひどい顔だな」

 苦笑しながら言うと、むくれた声が戻ってくる。

「……お前だって眼の下ひでえ隈だし」

「はは。お互い様か」

 フラフラしながらリッツがソファーに崩れ落ちる。このところお互いに休みなしだ。

「また窓からきたのか?」

「うん。だって扉鍵閉まってるじゃん」

 最近暗殺者対策で鍵を掛けるようになった。そのせいでリッツは危険きわまりない窓からの出入りを普通にするようになってしまった。

 エドワードに鍵を開けて貰うという手間を掛けさせたくないらしい。

「ノックをして開けてもらうという人として当然の手段があるが?」

「え~、めんどくさい」

「お前という奴は。落ちたらどうする、酔っ払い」

「落ちねぇもん」

 相変わらずだ。

 ざっと眺めてみると後は明日処理しても問題がない書類ばかりだった。書類を横に積み上げると、エドワードは書類を整えて立ち上がった。

 これほど書類がたまるのには訳がある。実はここ数年の政治経済関係の書類がことごとく紛失しているのだ。グラントによると提出するそばから前国王と王を名乗っていたスチュワートによって捨てられてしまった可能性が高いのだという。

 円滑な国家運営のためには、記録を残すことが必須である。その記録が数年分欠けているのならば数年分を埋めるべく精密な書類を作らねばならない。

 それがグラントの信条だった。そのせいで終わらない仕事を王宮の自室に持ちこんで処理していたのである。

「今日は早かったじゃないか」

「まあね。今日は打ち合わせメインだし」  

 やる気があるのかないのか分からぬ口調でリッツは着ていたスーツを脱ぎ捨てる。

「……ハウエルに怒られるぞ」

「怒るならハウエルがアイロン掛ければいいんだ」

「全くお前は。侍従にちゃんと頼めよ」

「へいへい」

 ベストとシャツという姿になったリッツの洒落たタイはもうすでにスーツと同じ目に遭っており、シャツのボタンはだらしなく外されている。

 リッツは暗殺者たちを一網打尽にするための罠をせっせと敷設している。エドワードが聞いているのはその概要ぐらいで、実際のリッツがどこで何をしているのかはよく分からない。

 リッツが話したがらないからだ。

 分かることはといえば、最近その罠のためにこの高価そうな格好で夜に出歩くことがとても多くなったことと、香水の香りがすること、酒量が増えたことだけだ。

 今までのように仕事終わりに二人でカードをしたり、チェスをしながら飲む事や、こっそり城下で遊ぶ事も出来なくなっていた。

 ふとだらしなくソファーに寝そべるリッツの口元に微かに残る紅色が目に入った。その鮮やかな赤は、この空間に妙に浮いて見える。

「口紅がついてるぞ」

「あ……ほんと?」

 慌てて拭うリッツに苦笑する。

「今日は遊んできたのか?」

「違うって。その……」

 一瞬言いよどんだリッツが、ふと小さな息をもらしてから、大人びた笑みを浮かべた。

「色々あるんだよ」

 あまり耳にしない吐息混じりの低音の返事に、それ以上尋ねるきっかけを失う。

「そうか」

「うん」

 言葉の接ぎ穂を失い黙ると開け放した窓から柔らかな風が吹き込んできて、薄手のカーテンを優しく揺らした。

 春はもう深く、風は尖った冷たさを帯びてはいない。心地よい季節だ。

 ふと胸ポケットに忍ばせたまま封を切っていない書状を思い出す。

 宛先は何の肩書きもなく、エドワードとリッツの連名。差出人はこちらも肩書きなどないパトリシア。

 それはジェラルドの葬儀の正式な謝辞と、グレインの現在状況を知らせる、グレイン自治領主代理としての書状と共に送られてきた。

 肩書きを排除したパトリシアから二人に向けて書かれた私信だ。

 なのに開ける勇気がなく、リッツに伝えることも出来てはいなかった。

 怖かったのだ。彼女からの手紙に何が記されているのかを知るのが。別離の手紙であるかもしれないそれが。

 自分がこんなに臆病だとは思わなかった。

パトリシアは許してくれたのだろうか。ジェラルドを救えなかった二人を。臣下としてかしずき悲しみを押し殺した強く気高い彼女は、グレインに帰る一瞬だけいつもの彼女として微笑んでくれた。

 自分とリッツはその笑顔に縋った。いつかきっとあの笑顔で戻ってきてくれると信じた。

 いや、信じたかった。

 だからこそ怖くて封書を開けられなかった。

「起きてるか、リッツ」

「当然」

「酔い醒ましに散歩に行かないか?」

 提案すると思い切り怪訝な顔をされたが、リッツはノロノロと立ち上がった。

「中庭はまた変な奴が潜んでるかもしれないぜ?」

「そうだな」

 返事をしつつ、ランプを手にする。一緒に持って行くのは、ソフィアに貰った手のひらサイズの隣国のライターだ。

「じゃあどこを散歩するんだよ?」

「いい場所を見つけた。多分、誰も知らない」

 振り返らずに部屋を抜け出た。

 夜中の王宮は静かだ。警備の兵士たちの気配はするが、元々人が少ないこの王宮にこの時間歩いている人間は皆無と言っていいだろう。

 リッツは文句も言わず、欠伸をかみ殺しながら以前のような無駄口すら叩くことなく黙って付いてきている。

 以前のように馬鹿話をしてくれてもいいのに、最近のリッツは妙に静かだ。

 王宮と王城の境目をすり抜ける。あちらこちら老朽化している王城の中にある、人ひとりが通れるか分からない通路を見つけたのは最近だ。

 遙か昔に王城と王宮を繋ぐ際に出来てしまった隙間を適当につないだものが崩れたのだろう。

 先日何の気なしにその隙間に入り込み、外に通じていることが分かった。エドワードが体を屈めてようやく通れる通路だ。リッツはさらに窮屈だろう。

「ここ通るの?」

「ああ」

「よく入ろうと思ったな?」

「お前がかまってくれなくて暇だったからな」

「……馬鹿抜かせ。忙しいのはエドだろ」

 小さく文句をいいつつ、リッツはその探検を楽しんでいるようだった。

 大人一人がギリギリで歩けるぐらいの隙間は、古い土の臭いがした。崩れた煉瓦が土に返っているのかもしれない。

 かなりの距離を進んだところで、鼻先に空気の動きを感じる。ここまで来ればもうすぐだ。

 壁が唐突に途切れて圧迫感が消え去り、薄明るい月の光が射す。

 その途端目の前に現れるのは、急峻な上り坂になった草地で強い風に一斉に揺れる草とそのさざめきだ。

「ここって、崖の上?」

「ああ。城から丁度死角になっている」

「死角?」

 リッツが見上げたのと同じ方を見上げる。あの細い通路は気付かぬうちに下っているらしく、この出口はかなり城の低いところに繋がっているのだ。たぶん城の地下に当たるほどの高さだろう。

 ここから見上げる王城は、闇夜に浮かぶ巨大な構造物だ。かなり上まで窓はなく、石積みの壁が築かれている。

「城から見たらどう見えんの?」

「この向きは三階まで窓がないんだ。だから見ても海しか見えないさ」

「へぇ……」

「本当に誰も知らない場所だよ」

 急斜面になっている草地を上っていくと、目の前が突然拓ける。足下にある少し平らになった草原以外、見渡す限り何も無い。

 ただひたすらに広い漆黒の海と暗い夜空が眼下全てを支配するように広がっているのだ。

 そこに立つと打ち寄せる波の音と、風に揺れる草の音、強い潮の香りに包まれる。

「どうだ?」

 ランプに灯をともして振り返ると、リッツが以前のごとく驚きに目を丸くしていた。

 こんな表情を見るのは久しぶりだ。

「すげえ。よく見つけたな」

 心底感心する友に肩をすくめる。

「誰かさんが忙しくて、護衛なしでは街に出してもらえないから城内を探検するよりないだろう?」

「じゃあ俺のおかげ?」

 おどける友の後頭部を軽くはたいて苦笑する。まあ確かにその通りではある。

 海の方を向いて座り込み、ランプを二人の間に置いた。黙ったまま海を見つめて潮騒の音に耳を傾ける。

 リッツは草の上にその大きな体を横たえて伸びをしている。こんなに大きかっただろうかとふと思った。

 たった数年前は背が高いだけで特に大きいと感じたことがなかったのに、ギルバートに並ぶ剣士となった今はとても大きく感じる。

 不思議なものだ。身長は十数センチほどしか違わないはずなのに、どうしてこうも大きく見えるのだろう。

 護る者と守られる者の立場が逆転してしまったからだろうか。

「何?」

「いや、大きくなったなと思ってさ」

 正直に答えるとリッツは以前のように頬を膨らましてむくれた。

「ガキ扱いするなよな」

「悪い悪い」

「悪いと思ってないくせに」

「はは」

 その通りだから笑ってごまかす。むしろ子供っぽくて安心した。

 再び沈黙が二人の間に降りた。だがその沈黙は互いの距離を分かった心地のいいものだ。 

 はるか崖下から聞こえる潮の砕ける音は、何故だか気持ちを静まらせ、懐かしい気持ちにさせられる。

 不思議だ。海辺で育ったわけでもないのに。

「で、何、エド?」

 静けさに浸っていた耳に、いつものように率直なリッツの問いかけが届いた。

「何って?」

「俺に何か言いたいことがあるんじゃねえの?」

 寝転がったままこちらをじっと見つめるリッツの真剣な表情に、言葉が詰まる。エドワードがリッツの考えを読めるのだからその逆も当然ある。

 だがそれをすぐに認めてしまうのは何となくしゃくだったから笑みを浮かべてリッツを見返した。

「何故そう思ったんだ?」

「だって明らかに俺の酔いを覚まそうとしてたじゃん。そうじゃなかったらこんな時間に部屋からふらふら出かけないだろ」

 正論だ。

 何もなければあの後エドワードも、寝酒に蒸留酒を飲んでリッツとしばらく雑談してから眠っている。

「お前もちゃんと考えるようになったんだな」

 溜息交じりにしみじみと告げると、リッツはあからさまにむくれる。

「何で今日は俺をそんなに子供扱いするんだよ、エドは」

「そうか?」

「そうだよ」

 言われてみるとそうかもしれない。

「悪い。そんなつもりじゃなかった」

 小さく告げると、自分の中に微かな澱となって降り積もっていた感情に気が付く。

 そうか、自分は寂しいのだ。

 ジェラルドの死、パトリシアの不在、シャスタの不在、そしてリッツの隠密行動。今まで当たり前に側にあったものが、気が付くと手の届かぬほど遠くにある。

 せめて今手が届く場所にいるリッツだけでも、一番近かったときのリッツでいて欲しいと願ったせいで、妙に子供扱いをしてしまったようだ。

「駄目だな、俺は」

 深々とため息を付くと、エドワードも倒れるように草地に寝転がった。

 空を見上げると満天の星が輝いている。

 耳に響くのは潮騒のみ。

 ここはなんて静かなのだろう。

 眼を閉じると、潮騒がまるで麦畑のさざめきに聞こえてきた。ティルスの村の収穫間際に聞こえる懐かしい音だ。

 そうか。波の音が懐かしいんじゃなくて、麦穂の揺れるあの音が懐かしかったんだ。そう思いながらあの光景を思い出してみる。

 秋特有の高くどこまでも澄んだ青空に、風で一斉に揺れる黄金色の麦の海。

 帰りたくてももう帰れない、故郷の風景だ。

 グレインのエドワード・セロシアだったなら故郷のグレイン自治領区ティルスに帰れることもあっただろう。だが王太子となり、国王となるこの身にそれは許されないのだと分かっている。

 不意に頭を撫でられて我に返った。目を開けると心配そうな顔をしたリッツが顔をのぞき込みながら頭を撫でてくれている。

「……何してるんだ?」

 とっさに言葉が出ずにようやく口から出た言葉がこれだった。まさかリッツに頭を撫でられる日が来るとは想像もしていなかったのだ。

 その手をぴたりと止め、リッツはおどけたように両手を挙げる。

「え? 俺はこうされるの好きだからいいかなって」

 何のてらいもなく、極々自然にリッツはそういった。その顔は本当に依然と変わらない。子供扱いするなといいながら、人を子供扱いするんだなと思うと可笑しくなった。

 そもそもリッツの頭を撫でてしまうのは、以前のエドワードの癖だ。確かにリッツを子供扱いしてしていた。

 でもリッツからしてみれば、落ち込んだ人を励ますのに、これはとてもいいことだという認識があるのだろう。

「嫌ならもうやんねぇけど……」

 怒られたと思ったのか、リッツがむくれて小さく呟く。それが子供っぽくてつい吹き出した。

「嫌なわけがないだろう」

「本当か?」

「当然だ。ありがとう」

「……うん」

 安心したようにエドワードの隣に座り込んだリッツは、大きな身体で膝を抱えて海を見ている。励まそうとしたリッツを落ち込ませるなんて、今日は本当に自分らしくない。 

 小さく息を付くと、エドワードは腹をくくった。

 寂しがって怖がって、それでも先に進むためにはしなければならないことがある。

「リッツ」

「ん?」

「パティから手紙が来た」

 いいながら様子を伺うと、リッツが瞬時に体を強ばらせた。エドワードと同じように恐怖に駆られたのだろうか。

「そう。お前宛に?」

 微かに緊張感を伴った声に首を振る。

「いや、俺たち宛だ」

「そっか」

 握りしめたリッツの拳が微かに震えている。

「もう読んだの?」

「いや。俺たち宛だから二人で読もうと思って開けてもいない」

「そうなんだ」

 リッツも怖いのだろう。

 この手紙がパトリシアからの別れを告げるものではないのだろうかと。

 戦いがいったん幕を引き、グレインはもう自治領主を中心にやっていける。それは確かだ。戦乱の種はルーイビルにあってもグレインにはない。

 だからパトリシアがここに戻ってこない限り、彼女と自分たちを繋ぐものがなくなってしまう。

 彼女は自治領主代理だ。彼女が責任を負うのはグレインの領民たちに対してだけでいい。

 それにグレインからエドワードが切り離されたとき、同時にグレインから引き剥がされた者がいる。

 グレインへの権利を失ってしまった者。

 リッツだ。

 リッツのこの国での立場は極めてあやふやだ。精霊族にはこの国の法が本来は通用しないし、国家の要職に就いた記録もない。

 今は大臣職を例外的に無理矢理拝命させているが、その大きな理由がリッツを王国という仕組みにつなぎ止める為なのだ。

 リッツに特別な国民証書を発行するために、リッツを国の重役に就けた。これがリッツを特別自治区の亜人種であると同時に、ユリスラ国民とする、グラントが考えた特例措置の一部だ。

 だからエドワード同様に、リッツはグレインに何の行動も起こすことはできない。パトリシアのために働きかけることができないのだ。

 パトリシアとエドワード達の絆を結べる手段を持っているのはパトリシアのみ。エドワードとリッツはただ彼女が帰ると信じて待つしかない。

 しばしの沈黙の後、リッツが口を開いた。

「俺、臆病だからさ、パティがどんな選択したかを知らずにいれば、幸せに暮らしてるって好きに解釈して平気でいられるよ」

 観念的で妙に気にかかる言葉だ。

「パティの今を知らなかったら、俺の勝手な想像で幸せだろうって思えるしさ」

 何故そんなに遠巻きにしなくてはいけないのだろう。関わりたくないのだろうか。エドワードの気がかりも知らずにリッツの言葉は続く。

「答えがここにあるっておもったら怖いな。もしかしたら帰らないって言うのかもしれないし……」

「そうだな」

「俺、駄目だな」

 ため息混じりの言葉にエドワードは苦笑した。駄目なのはお互い様だ。全く、これではパトリシアにまた、似たもの同士扱いされてしまう。

「俺は読みたいと思うが、お前は聞く覚悟ができたか?」

「……うん。手紙があって見ないのは絶対無理」

「同じく」

 体を起こして座ると、しまい込んでいた封書を取り出して、エドワードはそれを月明かりにかざす。見慣れたパトリシアの文字だ。

 ペーパーナイフも何もないから慎重に端を切る。

 手紙を出すために軽く封筒を振ると、何かが膝の上に落ちてきた。

 つまみ上げるとそれは、モーガン邸の庭を毎年春に彩る黄色い花の枝だった。

 その名前をエドワードは知らない。

 物心つく前からそこにあったから、名前を聞いたこともなかった。でもその花が咲いたらグレインも春だと感じたものだった。

「ミモザの枝だ」

 不意に隣に座ったリッツが言った。

「おっさんの家の庭に大きな木があったよな」

「ミモザ……」

「うん。シーデナの森に無くて珍しかったから前にパティに聞いたんだ。パティが生まれた記念におっさんが取り寄せて植えたんだって」

 そんなこと、知らなかった。

 リッツは知っていたのに。

「死んだ母親が一番好きだった花だから、パティも一番好きな花なんだって」

 微かに胸が痛んだ。

 これは……嫉妬だろうか。

 パトリシアのことを知っているリッツに嫉妬しているのだろうか。

 馬鹿な。リッツは大切な親友なのに。

「毎年満開になったら、おっさんと二人で母親を思い出しながら見ることに決めてたって言ってた」

 延びてきたリッツの手が、そっとミモザの枝をつまみ上げる。その手つきの優しさに息を呑む。

「今年もパティはミモザの下に立ったんだな」

 リッツの前髪が風に軽く巻き上げられ、その表情をエドワードの目の前に晒した。限りなく柔らかく優しい表情をしていた。

 こんな顔もするのかと、初めて友のもう一つの内面を知ったような気がした。友も、想い人もまだ知らないことがこんなにあるのか。

「母親とおっさんのことを思い出してたのかな」

 そうだ、パトリシアは自分にとって大切な人であるだけでなく、リッツにとっても初恋の人でもあるのだ。

 そんなリッツを知りながらパトリシアを想う自分は、随分と傲慢だろうか。 

 微かに眼を細めて、リッツが柔らかな声で言葉を続けた。

「春になるとそこだけ明るい光が灯るみたいで、夕闇の中でもほんのりと暖かくてホッとするっていってたよ」

 お前はそれをパトリシアと一緒に見たのか?

 夕闇の中で。

 夕闇に沈むモーガン邸の庭で、ミモザの木を見上げるジェラルドとパトリシアの姿が浮かび、一瞬でジェラルドがリッツの姿に変わった。

 それはとても幸せそうな二人の姿で、胸が痛い。

「そうか」

 ようやく口に出したのは、そんな小さな相槌だけだった。

 だがリッツは気がついていないらしく、ミモザの枝を指先でクルクルと回しながら。微かな笑みを浮かべている。

「一人でいる時も春はミモザを見ていたら、不思議と寂しくなかったって」

 ふと子供の頃のパトリシアを思いだした。記憶の中で、ミモザの木の下に佇むその姿が浮かび上がった。

 どうしたのかと声をかけると、パトリシアはただほほえみ、何でもないと答えたのだ。

 あの時、エドワードは彼女の視線の先を辿らなかった。食事だから呼んできて欲しいと頼んだ養父アルバートのことを考えていた。

 あの時も彼女はミモザの木を眺めていたのだろうか。あの頃、王国軍の総指揮官として遠くシアーズの地にいたジェラルドを思って。

 何故リッツのように自分は足を止めて一緒に見上げなかったのだろう。その花のことを何故聞かなかったのだろう。

 何年彼女と一緒に居た?

 何故、彼女を何も知らないのだろう。

 それなのにたった数年共にいたリッツは、そんな風に何気ない会話が出来る関係をパトリシアと築いていたのだ。

 喧嘩友達だ、エドワードを巡るライバルだなどとふざけたことをいいながら、二人は信頼関係を築いていた。

 それにも気がつかなかった。

 では自分はどうだ?

 パトリシアとそんな話をしたことなど、自分の身分が分かってから一度でもあっただろうか。

「エド?」

 不思議そうに呼びかけられて我に返る。目の前にはいつも通りの顔をしたリッツがいた。

 そのことに罪悪感と軽い嫉妬が同時にわき上がってつい俯いて唇を噛んだ。

 リッツはこんな風に嫉妬をしたりしないのだろうか。同じ女性を愛してしまったというのに、あっさりとそれを譲るなんて。

 お前は大丈夫なのか?

 こんな想いを抱えて、嫉妬や羨望を抱えたりしないのか?

 俺を妬ましく思ったりしないのか?

 でもそれを聞くことはまだ出来ない。パトリシアの想いに誰より先に気が付き、身を引いたのは他ならぬリッツだからだ。

 もしこの話を蒸し返しても、エドワードはパトリシアを手放すことも、リッツを手放すこともできない。

 だからエドワードは今まで、何も聞かずいつも通りに過ごしてきた。

 例え羨望に似た想いを持っていたとしても。

 小さく息をついてから、訝しげに首を傾げるリッツに笑いかける。

 どちらも失えないのならば、蒸し返すな。

「すまない、少しぼんやりしていた」

「疲れてるんじゃねぇの? 明日にする?」

「大丈夫だ。読むよ」

 小さく息を吐くと、エドワードは手紙を広げた。

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